引っ越し先について
新しい引っ越し先が見つからない方が多いようです。
原因は分かりませんが、これまでのココログが巨大すぎるのかも知れません。
それでタイトルを「山草人の老いらく日記」に変更してみました。
URLは http://tnc03338.livedoor.blog/ で変更ありません。
幾つかの検索サイトで試しても駄目でしたが、パソコン最下段のタスクバー左端にある「ここに入力して検索」にURLを入れて検索するるとトップに出てきます。
新しい引っ越し先が見つからない方が多いようです。
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幾つかの検索サイトで試しても駄目でしたが、パソコン最下段のタスクバー左端にある「ここに入力して検索」にURLを入れて検索するるとトップに出てきます。
長らくご覧頂いたこのブログですが、とうとう許容量の10万ギガバイトになってしまいました。
この間3650日の書き込みをし、88万のアクセスを戴きました。
適当な引っ越し先が見つからず、当面livedoorに移ることにしました。
「山草人の老いらく日記」で検索をお願いします。URL http://tnc03338.livedoor.blog/
tnc03338.livedoor.blog/
少し検索し辛いようですが、根気よく探して下さい。
山草人
今日は近畿最高峰の大峰山へ、と言っても大峰という山はなく、弥山(やせん1895m)や八経ヶ岳(1915m)などの一連の山を指す。
紀伊半島中央部に連なり、近畿の背骨とも称される山塊で、熊野古道の山岳版とも言えるのでは無いかと思う。
実はこの登山道は史跡「大峰奥駈道」として世界遺産に登録されており、開設したのは何と白鳳時代(6世紀)役行者とされている。
吉野から熊野に通じる1500年来の山岳修験道であり、これまで登った幾多の山々とは雰囲気が違った。
昨夕に奈良に向かい「吉野路黒滝」で仮眠、6時には登山口の行者還トンネル西口に向かった。
最も心配したのが雨だが、五時に目覚めると非情にも仮眠テントにはシンシンと雨が降り注いでいた。
それでも気丈(楽天的)に朝食を済ませ、登山口に着くと既に駐車場は満杯状態だった。
この7月初旬は、八経ヶ岳山頂近くでしか見られないオオヤマレンゲ(天女花)の咲く時期で、それが目当てらしい。
ともあれ私達は、雨が止んでも泥濘む登山道を弥山を目指して急登(約3時間)したのである。
流石に1500年近く使われてきた修験道は、ブナやトウヒの原生林、苔むして木の根もあらわな登山道が続く。
時に小雨、霧に覆われた原生林、ほんの少しの日差しもあったが、・・・それでもこの奥駈道をしっかりと味わったのである。
そして弥山から八経ヶ岳へと向かうと、そこには果たしてオオヤマレンゲの群生が広がっていた。
花は半ばで、辺り一面にほんのりとした弥勒の香りが漂(花は蓮の花そっくり)っていた。
誰かが植えたという物でも無い(筈な)のに、自然は誠に面白い演出をするものである。
八経ヶ岳の頂上には錫杖がつきたてられていたが、熊の三千六百峰を望むことが出来る筈の眺望は霧の中だった。
先日のL♡夢街道を主催したSさんから、ブログ「ほくえんの風」の一部と、参加へのお礼の手紙が届いた。
彼自身は足の調子が悪かったこともあって、90kを17時間36分と最後尾のランナーになった。
彼は今回の90kランを、「人生二度無いのだから、この辛いレースを心底楽しんだ」と書いている。
一年間コツコツと準備を進め、そして今年も(9回目)をやり遂げたんだから、その気持もさもあらんと感じた。
平成の大合併によって大浜松市(政令市最大の面積)が生まれ、この10年で彼の暮らす佐久間はゴーストタウンになった。
南北100kの大浜松市は流石に遠く、血液が末端まで行き渡らないのである。
合併当時、浜松市中心部から続く街道を「満腹ぅ~」夢街道」と名付けたのは水窪(佐久間の隣)の人達だった。
しかし結果は惨憺たるもので、当時の決定を指弾する声(同時に、ショウガナイとの諦め)が多いのも事実だ。
そんな中で不平不満だけ言っていても始まらない、自分たちに出来ることをやろうと呼びかけたのがSさんだ。
地域を愛するからこそ、多くの人にこの北遠の地域を知ってもらいたい、そのための何かをしようと夢街道ランが始まった。
先日、「めだかの学校」で一人の音楽家(女性)と出会ったが、出身地を聞くと佐久間だという。
彼女は、あちこちの故里の歌(自分の住む所を愛する歌)を作り、尚且つライブ活動を展開している。
もしやと思ってSさんのことを話すと、面識は無いがSさんのことはよく知っているし尊敬していると言う。
彼女の知人の元教師が「あの子は子供の頃は洟垂れ小僧だったけど、今じゃ私の最も尊敬する子だ」と言っていると教えてくれた。
ともあれ、地域の現状を憂える心ある人達が、まだまだいるのである。
過疎化に特効薬は無いが、そうした一人一人の思いが何時か花を咲かすのではないかと思いたい。
郵便が来てその束を見ると、妻宛が5通に息子宛が2通あったが、私には一通も無かった。
どうも私は既に「終わった人」の様で、ひょっとしたら偶然に今日を生きているだけなのかも知れないとさえ思える。
昔のように、これと言って社会的な責任を負っている訳でも無し、何が何でも今日中にやらなきゃならない仕事も無い。
緊褌一番(今じゃ褌なんて見たことも無いが)まなじりを決して何てことも無いから、俄然パンズの紐が伸びきったような生活になる。
それで何をしているかというと、ブドウの熟れる(着色)のを、スイカの大きくなるのを、ダイコンの太るのを見守る毎日だ。
と言っても奴らにも都合があって、見守っていたからって、明日には収穫ってな訳にゃ行かない。
ともあれ私の関わらぬところで、時はドンドン流れ時代さえも移り変わっていく。
どうも私一人がツンボ桟敷に置かれているようで面白くないが、本格的にお爺になりつつある証かも知れない。
しかしながら、世の中や神さんがどうあろうと、私の精神世界は活き活きとしていなければならない。
山(走)から帰って、昨日と同様一人でインスタントラーメンを啜りながら、そうしみじみと思うのである。
いやさ只のラーメンではなく、私の育てたゴボウにインゲンを加えた具沢山のラーメンである。
そう・・・活き活きと生きるには、先ずは恋をすること、それに次の目標を持つことだろう。
小さな(レースや登山)目標は沢山計画しているが、さて問題は人生の大目標と恋人探しである。
ともあれ、歳と共にときめきは遠ざかるものらしいが、まだまだ・・・やることは山と在るのだ。
運動嫌の私が走り始めたのは40歳を過ぎた頃で、昼休みの駿府公園のお堀周り、それが最初だった。
12時を過ぎるとランパンに着替え、お堀の周りを2~3周するのが日課になって、午後の仕事にも大いに気分転換になった。
汗をかくことの爽快感を感じたのもこの昼ランで、それが延々と今日まで続いているのである。
走り始めてみるとマラソン大会に出て足試しをしたくなるのが人の常で、10kがハーフ、やがてフルになって、
気が付くと、何時しかウルトラ(100k前後)を走り続けていた。
確かにウルトラマラソンは自分を限界まで追い詰めるんだから過酷だが、その分やり遂げた後の高揚感や陶酔感は格別だ。
しかし近年、そのウルトラマラソンを制限時間(多くが14時間)内に走りきることが次第に難しくなっている。
かつてフルマラソンのベストは3時間26分で走ったし、ウルトラだって11時間台でゴールしていた。
それがどう頑張ってもフルは4時間半を切れないし、ウルトラも14時間は相当に難しくなっている。
トレーニングは怠りないのだが、歳と共に自ずと筋力(跳躍力)が衰えるものらしい。
それで昨年から、年間8レース余を走っていたウルトラ(100k)は2レース程度に減らしている。
その分、50kや70k、それにフルを走ろうと考えているのだ。
幾ら歳を取ったとしても、30年も続けてきたんだから、そんなに簡単に止める訳にはいかないのである。
畢竟、記録更新などは望むべくもないが、元気で走りきることこそが勲章ではないかと思っている。
叶うことなら、80代、90代でなおフルマラソンを時間内に完走したいものである。
梅雨空の一日、今日もぶどう棚の下を行ったり来たり、一人の老農夫として過ごした。
多分こうやって年々歳々、歳老いていくのだろうと思う。
そう・・今更ジタバタしても詮無いが、この70年もの間「よぉ~生きてきた」もんだと思わないでも無い。
決して豊かでは無い農家の長男として生まれ、懸命に働く親父とお袋を運命共同体だと感じてきた。
二人の妹の面倒を見ながら、炊事風呂焚き、それに農作業を手伝ったんだから、おしん並みの小学生だった。
中学生になって勉強を覚え、(かなり晩生だが)その気になれば人に秀でることを知った。
確か中学二年だったか、マンモス校(同級生400人余)の掲示板に掲げられた成績は上から3番目だった。
その時から、悪ガキどもの私に対する態度(いじめられっ子だった)が一変するのを感じだ。
高校を出たら親父の農業を継ぐものと思い定めていたのに、大学に進み、更に就職してサラリーマンになってしまった。
時は正に経済の高度成長期で、その成長と共に私の立場もどんどん揚がっ(昇進し)ていった。
そうしてサラリーマンを50年近く勤めたのだが、物事には終わりがあって、一昨年その全てを退いた。
それからは悠々自適の晴耕雨読と言えば聞こえは良いが、なんの唯の隠居の毎日である。
奇しくもこの70年、おおきな転換点は何度もあったが、それでも私は今ここに立っている。
呑百姓の倅が、(江戸時代ならそのまんまだが)広い世間に出てそれなりに働き、そうして今原点に帰っている。
私が選び取った何の変哲も無い人生行路だが、それはそれ、よくぞ一人で歩いてきたものだとも思う。
そして改めて思うのは、人生とは必ず一人の孤独な旅なのだと言うことだ。
「ありがとう100万回の奇跡」と言う本が話題になっている。
熊本在住の工藤房美さんの、抜け落ちる髪の毛一本一本にさえも「ありがとう」と感謝して末期癌を克服した話である。
恐らく工藤さんは、一日二千回以上も「ありがとう」と唱えたのだろうが、その想いはどれ程のものだったろうか。
私達は当たり前と思って生きているのだが、工藤さんの「有り難う」は死を現実のものにしての感謝である。
だけど現実には怒ったり泣いたり、イライラしたり愚痴ったり、そうそう感謝ばかりはしてられない。
それでも全てに感謝することが肝心で、しかも感謝しようと思うのではなく、「想う」べきなのである。
功利的に「思う」のではなく、精神(右脳)を感謝に仕向けることが「想う」だ。
私も毎日健康でいられること、元気に走られること、大きな声で「お早う」と言えることなど、ホントに有り難いと思っている。
いやいやそれだけじゃ無い、93歳になるお袋が元気なこと、細君が毎日元気で走り回っていることなどだってそうだ。
うっとうしい梅雨空が続くけど、それだって水に不自由しなくて済むし、喜んでいる作物(水稲)だって多い。
10年で100万回「有り難う」を言おうとすれば、一日300回は言わなければならない訳だが、
口で「有り難う」を言うのは案外容易いのだが、言わなくても「有り難う」が伝わるのが感謝の「想い」だ。
梅雨の合間の日差し、冬の暖かな陽だまり、恵みの雨、細君の笑顔、孫達の生長などなど須く感謝だ。
唯単に「有り難う」と口にするのでは無く、それぞれを別の言葉で表現してみようと思っている。
王侯貴族の大宮殿などを訪れると、彼らの心落ち着く場所はあったのだろうかと思ったりする。
人一人の居住環境など限られたスペースで足りてしまうし、増して書斎など狭い方が落ち着くものだ。
私も十数年前に住居を新築した際、三畳半ほどの自分の部屋(初めての書斎)を造った。
そしてこの十数年、本を読んだり居眠りをしたり、家に居るときは殆どこの部屋で過ごしている。
思えば、この小さな部屋に行き着く過程が私の人生だったのかも知れない。
私が生まれたのは茅葺き屋根の田の地の家で、物心ついてからはその縁が私の居場所だった。
縁の外には槙囲いの内側に3本の松の木があって、その松を眺めながら勉強した。
松の木の下は何時も掃き清めていたし、その私の眺める景色を少しでも麗しくしたいと思っていたようだ。
孤独で不安だったけど、今と同じような心持ちの男の子だった。
やがて親父がその三本の松の木を切って、安普請ながら二階建ての家を建て、その二階の和室が私の部屋になった。
青年期・壮年期を過ごした(六畳)部屋だが、(結婚して離れを造ったからか)実はあまり思い出が無い。
就職して間もなく沼津に転勤になって、半年ほど(2時間余かけて)通勤したが、堪らず下宿することにした。
生まれて初めての単身暮らしは、安アパートの一部屋で、予科練帰りの男や若い二人が住んでいた。
その若い二人は毎晩ヨガリ声を響かせて私を悩ませたし、その下の階にはハーフの黒人も住んでいた。
御殿場には進駐軍が沢駐留していたし、食堂に行ってもそんな敗戦後のすさみが色濃く残っていた。
窓の下に小さなドブ川が流れていて、何時も「神田川」の情景をなぞらえていたっけ。
ともあれ皆昔の話になったが、或いは「部屋は人生」かも知れないなぁ~と思う。
今夜は、ジュビロ磐田VS川崎フロンターレの観戦(応援)である。
既に降格ラインにまで落ち込んでいるジュビロ、何とか勝たせたいとの思いでくり込んだのだ。
キックオフ2時間前にスタジアムに入ったのだが、既に屋根下のフリーゾーンは満席。
仕方なく降り注ぐ雨の中で、ポンチョでの観戦となった。(雨だからって、観戦を止める人は少ないのだ)
試合は一気に佳境に入って、流石に試合巧者のフロンターレは落ち着いてポールを支配している。
どうやら一定の攻めのポジションが決まっているようで、それにフリーの選手の位置も一定している。
ジュビロにもチャンスはあったが、結局のところ3対1で負けてしまった。
どうやらリーグ最下位まで落ち込んだようで、ファンとしては何ともやるせない思いである。
しかし現実は勝負の世界であって、運ではなく結果が全て、実力が劣っているのだろう。
12番目の選手の実力は相当なものだと思う(私はついて行けない)が、ピッチ上が全てだ。
さても名波監督、勝利への妙案はありやなしや。
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