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2006年11月22日 (水)

新渡戸稲造

 日本の近世における最初の国際人は、新渡戸稲造の他にはいない。

 稲造は、盛岡藩の藩士(勘定奉行)の七番目の末っ子として生まれている。

 ペリー来航から、10年ほど後のことだ。

 その稲造が、フィラディルフィアでメリー婦人と結婚したのは、明治24年のことである。

 当時のことであり、日本の世論が、奇異の眼で見たことは想像に難くない。Cimg2370

 やがて日本に倫理(宗教)教育のないことを咎められた彼は、「武士道」を著してアメリカで出版する。

 その武士道は、日本人の心として、世界中に大きな反響呼び起こす。

 稲造、38歳の時の事だ。

 大正9年、国際連盟が結成されると、稲造は初代事務次長に就任する。

 しかし「願わくは われは太平洋の橋とならん」との彼の思いは、時代の暗雲が掻き消す結果となっていく。

 だが彼は、外交官としても法学者、ジャーナリスト、それに教育者としても大変な活躍をしたのです。

 あっ、それから彼は、日本で最初の農学博士として、農政の原点を語った人でもありました。

 「農は万年を寿ぐ亀の如く 商工は千歳を祝う鶴に類す。即ち農は一定地にありて、堅くかつ永く守り、商工は広くかつ高く翔って、その勢力を示すものなり。故にこの両者は相俟って、初めて完全なる経済の発展を見るべく・・・」とは、彼の言葉だ。

 彼は最晩、下田市に地蔵を建立している。

 初代総領事タウンゼント・ハリスに使え、不遇の生涯を送ったあの「お吉」の地蔵である。

 昭和8年、地蔵の建立を指示したその足で、日米関係修復の交渉に向かったまま、彼は帰らぬ人となった。 Cimg2372

 新渡戸家の父祖の地(花巻)に記念館がある。

その庭に、もみじが物言うかのように見事に色付いていた。

 今、日本人に最も必要なものは、武士道を思い起こすことだとの声が聞こえてくる。

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