人間の純度
多くの人々が、その人なりの人生をそれなりに生きている。
歴史を辿るまでも無いが、黒田如水あり直江兼続、石田三成、荒木村重と、人様々なのである。
それぞれの職場や企業、地域だって似たような様相が厳然としてある。
時として私自身、そんな厳然とした競争社会に良くぞ生きているな~と思うことがある。
私に関しては、「年甲斐も無く、青臭いことをいまだに言ったり書いたりしている」と言われる。
事実そうなのだからしょうがないが、「私は小利口には生きられない」とずっと思って生きてきた。
軽蔑されようがどうだろうが、打算や駆け引きで生きたくはないのだ。
多くの場合、人は損得の秤で行動している。
不思議なもので、その度合いが人によって異なる。
或いは、そのやり方が巧妙であったりする。
今の私には、そういうものがみんな見えるようになっている。
見透かした上で、口を利くようになっている。
自分でも不思議なものだと思うが、ある悟りがそうさせるのかもしれない。
人間が、純な気持ちで生きるなんてまったく難しいことだ。
だけど、そんな心を失って打算で生き始めたら、たちまちにして見透かさせる人間になる。
そこの所が難しいね。
金属だって、純度を限りなく上げていくと性質が変わってしまう。
例えば鉄だって、不純物を一切無くすと硫酸にだって溶けなくなる。
銅も高純度では、一切の電気抵抗もなくなるのだそうだ。
せっかくの人生だから、そんな孤高の生き方ができないものかな~。
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