喫茶子
何時の間にか、形式美として理解されるようになってしまった。
しかし本当の茶道は、心と心のふれ合いなのだろう。
もちろん人と人が、簡単に理解し会えるなぞと言うことは、容易なことではない。
利害や感情の対立などと言った場面の方が、はるかに多いのかもしれない。
人と人が分かり合えるきっかけを、茶道が作ってきたのだ。
その茶道が戦後の一時期、行儀作法の稽古場になってしまった。
今日、藤枝の藤栄製茶、時田鉦平社長のお話を伺いながら、
お茶の味や形、それに作法は、手段に過ぎないのだと考えさせられた。
より豊かなコミュニティーの作り手に成り得るか否かなのだと。
ペットボトルの茶は、喉の渇きを癒してくれる。
だが、これに人々の和を創り出す事を期待するのは、所詮無理なことだろう。
さすればインストラクターは、お茶を淹れる技術のインストラクターではなく、
お茶の価格低迷が続いている。
生産者は、ぎりぎりの段階まで追い詰められている。
自分の努力が、必ずしも評価されないことへの苛立ちが聞こえてくる。
だが、時間はかかっても、本当のお茶を楽しむ文化を育てるほか、特効薬は無いのだと思った。
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