静岡ノスタルジア
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362段の階段だから、勿論車は通れない。
実情は、岬から海岸に降りる388mの遊歩道だ。
その階段が、34年前に「間違って」国道に指定された。
地元からの申請をろくに調べもせずに、指定してしまったらしい。
お陰で、日本唯一の階段の国道になって、今では観光名所になっている。
その国道のすぐ隣が、青函トンネル掘削の本州方基地だった所だ。
そして、その山上に東北電力の風力発電機12基が並んでいる。
が、回っているのは2基だけだった。
羽が折れて2枚になっているのが二基もある。
風が強すぎて、風力発電には不向きなのだとかで、東北電力は撤退を決めたようだ。
外ヶ浜町のはずれに、その巨大な羽が立てられていて「又、おいでください」と大書されていた。
道路特定課税も復活するようですが、よくよく調べてからやるべきでしょうね。
ところで幕末、吉田松陰が宮部鼎蔵と共にこの地を訪れている。
若き松蔭達は国防の必要性を調べるため、この僻遠の地を徒歩で訪れたのだ。
国土交通省のお役人も、先を見通す?というか、味な計らいをしたものである。
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伊賀七口から攻め込んで、動くものは全て殺したと伝わっている。
恐らく、叡山の大虐殺よりも酷いものだったのでしょう。
その伊賀に信長は大軍を送ったのですが、夜営中に異変が起こります。
方々から火の手が上がり、爆薬が破裂し草木が揺れる。
信長の軍隊は大混乱を起し、同士討ちなどで散々な逃避行となりました。
伊賀には化生が住むと恐れられ、それで大虐殺となったのです。
大阪冬の陣の後、この地に藤堂高虎が封じられます。
今日の上野城を築きました。
ところがこの城は、完成して一ヶ月もしないうちに取り壊されてしまうのです。
「高虎は、誰と戦をしようとしているのか」江戸からそんな声が聞こえてきたのです。
藤堂新七朗の家臣だった松尾芭蕉は、もちろんこの地の生まれです。
そして、剣豪と言われた荒木又衛門もこの地で生まれたのです。
鍵の辻の仇討ちも、地の利のある所を選んで待ち伏せしたのでしょうね。
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5月1日の八十八夜を前にして、茶摘の最盛期を迎えようとしている。
静岡県のお茶は、ほとんどがヤブキタだ。
同じ品種だから、今年のような気候だと一斉に収穫期を迎えてしまう。
作業が集中して、夜も眠ること無く働く事になる。
何故、ヤブキタだけになってしまったのか。
ヤブキタは、1908年杉山彦三郎翁が、藪の北側の茶園で見出した。
成長が旺盛で欠点が無い。
時あたかも高度経済成長期であり、肥料の量とともに増収するヤブキタは秀才であった。
消費生活の向上と共に、作れば売れる時代が続いた。
だから茶商は、「ヤブキタでなくてはお茶にあらず」・・・そんな商いを続けてきた。
結果として、静岡のお茶は、ヤブキタだけになってしまった。
100年もの間、一つの品種が凌駕するなどは、植物の世界では有り得ない事なのにである。
それほどに、ヤブキタは優れた品種であったのだが、
個性が強調される今日にあっては、いささか偏重・硬直化の感はぬぐえない。
静岡県立美術館の近くに、ヤブキタの源樹が残っている。
この一本の木から、挿し木技術によって、ヤブキタが全国を席巻したのだ。
はてさて、今年のお茶はどうなるだろうか。
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昨年の大晦日、女風呂に闖入して話題となったあの「なまはげ」である。
なまはげとは、「ナモミ(手足に出来る火型)を剥ぐ」から来ている。
炉端にかじりついている怠け者を戒める風俗である。
真山から降りてきたナマハゲは、大晦日の夜、里の屋敷を一軒一軒回り歩く。
そして「子供は、真面目に勉強してるか?」とか、「ウォー、親の面倒み悪りい嫁いねが?」などと問う。
ナマハゲの詰問に、亭主がひたすら家族をかばうのである。
「ナマハゲさぁ~、まんず座って酒っこ飲んでくなんしぇ」などと、
その土地ならではの問答が続くのである。
そんな習俗が、数百年にわたって続いてきたのだ。
日本海に突き出た男鹿半島。
その男鹿の五秋堂には、漢の武帝が祭られている。
男鹿に5匹の鬼がやってきて、一夜にして築いたと伝わる999段の石段もある。
ナマハゲには、そうした中国からの異邦人説や修験者説がある。
いずれにしても、この半島にも多くの大陸渡来人がやってきたのだろう。
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旅に出た。
JR北上駅で新幹線降りてから、秋田県の男鹿半島の入道崎、
津軽半島の竜飛崎、下北半島(本州最北端)の大間崎、
そして三陸海岸沿いにと東北3県の海岸を経巡った感じである。
この地を秘境にしてしまったのは、弥生以来の稲作農耕文化だろう。
この東北地方は、緯度からすればたかだか北緯40度で、
ヨーロッパで言えば地中海程度である。
然るに今、この東北地方は辺境の地になってしまっている。
その原因の一つが、米の出来るところが豊穣の地であり、
租税(米)を納められる領地とされてきたことだろう。
だから人々は、度重なる冷害と戦いながら、ひたすら米を作ってきた。
仮に、ヨーロッパのように,牧畜に大きな価値が置かれ、それを基礎にした国土経営がされていら、
この東北地方のありようも、かなり違ったものになったのではないか。
明治維新政府だって、「白河以北、一山百文」といった感覚だったのだ。
今日までも、そうした歴史的感覚がずっと続いてきた。
仮に、東北地方が独立国なら、また別の発展を遂げていたのではないか。
罪な稲作文明について、バスに揺られながら考えざるを得なかった。
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今日では、ゴムや繊維、或いは多くの工業製品が、高分子材料から出来ている。
そして、その物質の特性は、高分子の結合の仕方で決まってくる。
ゼリーのようなものは、連結が弱い為に簡単に形が変わってしまう。
ゴムの弾性は、高分子の架橋(連結)がタイトなために起こる。
ところが、連結が固定されているために、高分子が不均一に固定されていて、外部からの張力に対して弱い。
東京大学の伊藤耕三教授達の研究である。
架橋点が、融通無碍に動くスライドリングゲルなるものを発明した。
連結点が自由に動くから、張力に対しても飛躍的に強固で、
幾ら変形させても、直に同じ形に復元してしまう。
信じられないほどの復元力なのだ。
ああ・・・、物質と言うものは、目に見えないところでそうして出来ていたのかと、感覚として納得してしまった。
そして今、この新しい高分子素材が、繊維や塗料、接着などの分野に徐々に広がり始めている。
革命的な発明は、綾取りのような紐の扱いの連想から始まっている。
チョツト難しくて、ごめんなさい。
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京都の八坂神社の東側に、「いもぼう」と言う京料理の老舗がある。
この老舗の名物が、その名の通りエビイモである。
海老に似た形の里芋だ。
この芋を、魚(ほっけの干物?)と煮込んである。
独特の味わいなのだが、仮に田舎で「芋の煮付け」として出されれは、
特になんと言うことはない料理かもしれない。
それが、京都東山の一角で食すると、それなりに納得してしまうから不思議だ。
恐らく、幕末に京に上って国政を論じていた若者達も、ここでこの料理を食したのではないかと考えてしまう。
京都1200年祭があって、京都ルネサンス運動が提唱された。
京野菜の復権も、そのとき以来の動きである。
お陰で今では、賀茂茄子やエビイモ、壬生菜、聖護院大根などの忘れられていた野菜が注目されている。
がしかし、京料理に使われるエビイモの85%は、実は静岡県磐田市で生産されている。
昭和初期にこの地域で作られるようになったのだが、肥沃で透水性の良い土がこの芋に適していた。
本家の京都では都市化の影響で生産が減ってしまって、今ではこの地域が主産地と言う訳だ。
はてさて、その芋を地元でなく京都までわざわざ食べに行くのだから、
食と言うやつは面白い。
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とりわけ「美味しい」か否かは、誰にとっても重要なことだ。
だが、その美味しさとは何かとなると、途端に定かでなくなる。
本来動物は、自分に必要な養分を好み、害のあるものを避けようとする。
旨いのは、体を作る蛋白合成物質だ。
そして酸っぱさは、腐敗などを知らせるシグナルだろう。
苦味は毒を、塩辛さはミネラルを教えている。
つまり、人間だけが味を感じている訳ではないと言うことだ。
魚だって人間よりも優れた味覚センサーを持っていて、サケのように生まれた川に戻ってくる。
むしろ人間は、進化の過程でそうしたセンサーの幾つかを捨ててきたらしい。
人間は、好んで苦いビールを飲んで痺れたりしている。
現代人の、サプリ嗜好もその極端な進化なのだろうか。
静岡大学の産学交流センターで、東大の阿部啓子先生の話を伺いながら、
「蓼食う虫も、好きずき」、それは脳がコントロールしているのだと考えていた。
食育の大切さも、むべなるかなだ。
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しかるに新米の自由人としては、少々メランコリックでもある。
38年間も言いたいことも我慢して、ひたすら仕事に打ち込んできたつもりだ。
この公務員を定年になって、とりあえず些かエンプテーな毎日が続いている。
第一、長年使ってきた名刺入れが格段に薄くなった。
スーパーマーケットに行く途中に、ヤマハ発動機の本社工場がある。
その工場の傍らを歩く社員の胸を張った歩きぶりに、無意識に嫉妬している自分に気付いたりもする。
公務員を退職した身には、64歳まで年金も出ないし、失業保険だって無い。
誰だって30年以上もの経験を生かして、セカンドステージを生きようとする。
しかるに、「天下りだから、それは駄目だ」と言う。
本当にこの国にとって、それは駄目なことなのだろうか?
この国は、時に極端から極端へと振れてきた。
一部の特異な悪弊を上げて、全てを鋳型にはめてしまって良いのだろうか。
日銀総裁が、世界を飛び回ってきた経済財政の専門家でも、財務省出身だから何故駄目なのだろうか。
あの政党代表の、底の浅さが知れるだろう。
ともあれ、政治が駄目でも、株が下がっても、春は爛漫である。
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まだまだ、新米の毎日日曜日である。
そんな今日、色々と職場でお世話になった皆さんが送別会を開いてくださった。
既に過去の人を、改めて送別したいと言うのであり、それだけで有り難いのだが、
おひとりお一人から、不肖私との関わりについて思いでを語って下さった。
皆さんのそんな言葉を聴きながら、「そうだったな~」とか「そんなことを考えていたのか!」
はたまた「もうちよっと配慮すべきだったな~」などと、この40年近くが眼前に蘇ってきた。
人生は、過ぎてしまえば一瞬にしか過ぎない。
だがその一瞬には、悲喜こもごも実に多くのドラマが隠されている。
今日は、私の歩いてきた道筋の出会いの不可思議さを思い起こさせてくれた。
そうなのだ。
人生は、出会いにつきるのだと悟った。
「皆さん、ありがとう」その一言に尽きるのだ。
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その山城の地には、カモ族(出雲族)と秦氏の勢力下にあった。
その地に都を造営するに当たって、秦氏の娘を平安京造営長官の妻としたと伝わる。
その秦氏は、古代中国を統一した秦と深く関わっている。
秦は始皇帝からわずか16年で、漢に滅ぼされてしまう。
やがて朝鮮半島に新羅が勃興し、二万人余が日本列島に逃れ、太秦に定住する。
その秦氏は、ハタオリなどの優れた技能の故に、大きな勢力を持つことになる。
その秦氏の三神が、伏見の稲荷大社、それに上賀茂、下賀茂神社である。
恐らく、こうした古社は、彼らの長の城館跡なのだろう。
下賀茂神社へのアプローチは、糺の森である。
糺とは、襟を正す、誤りを正すの意味である。
桓武天皇は山城の地を都(御所)とするにあたって、下賀茂神社の地を鬼門に置き、
都の押さえとしたのではなかろうか。
下賀茂神社は葵祭りの到着であり、京都にあって最も古い神社である。
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日間賀島は、知多半島の突先にある周囲5kmほどの小さな島だ。
知多半島は、伊勢湾と三河湾の真ん中に伸びた砂洲だろうか。
この二つの湾には、多くの河川が流れ込んでいる。
今でも、マダコやフグ、ワタリカ゜ニなどの絶好の漁場になっている。
もちろん、珍しい海産物も多い。
そのためか、幾分寝坊してしまったようだ。
でも気を取り直して、朝のジョギングに出た。
数百の漁船が連なるのは、ここくらいかもしれない。
漁村らしい漁村なのだ。
道理で、愛知県の漁獲の三割は、この日間賀島を含む南知多で上げている。
漁民達の守護神でもある日間賀神社や島の入り江を巡りながら、
映画「潮騒」の場面を思い出していた。
見下ろせば、透き通る海の青さに、ここは島だと気付く。
観光と漁業の島、日間賀島。
日本に、未だこんな所があったのだ。
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これを日本六大窯と呼ぶらしい。
いずれも、焼物の産地としては平安末期から千年の歴史を持つ。
しかし、目まぐるしく移り変わる物流の中で、その歴史と伝統が通用しなくなっている。
ちなみに常滑でも、焼物の売上げは最盛期の十分の一になっている。
安価な輸入焼物やペットボトルに圧されて、かつて無い危機に瀕しているのだ。
かつて400程も数えた窯も、今では200を切るところまできた。
その危機意識の中で、常滑茶器青年会などが中心になって、急須職人プロジェクトが始まった。
時代にあった新しい急須を創り出そうと言うのだ。
それでも、とってを無くして蓋に注ぎ口の着いた「天濾」なるものを生み出した。
急須の革命である。
そもそもこれまでの急須は、収納しにくくて洗い難いという欠点がある。
これを無くすと言う発想である。
それに、茶を飲むことを楽しむ、そんな急須文化を目指したのだ。
今、7名ほどの作り手が、この新しい分野に取り組んでいる。
常滑の皆さんとの懇談でも、その熱意が伝わってきた。
さて、問われているのは私達に何が出来るかだが・・・・・
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抹茶の生産量の7割方は、この西尾で生産されている。
その栽培の歴史は古く、宇治に地形が似ていたことから始まったと伝えられる。
お茶の効能が広く知られるようになって、抹茶の需要は急増した。
蕎麦や飴、ケーキやアイスクリーム、料理など、様々な分野で使われるようになったからだ。
さぞかし西尾は繁盛しているのではないか。
確かに、抹茶の需要は5倍ほどになっていた。
だが、その生産の8割は食材用に仕向けられ、低価格を強いられる現状にあった。
本来、西尾の碾茶生産は、極端な遮光と手摘で丁寧に育てられてきた。
今でも、西尾市内の8校では、2日間を茶摘みの体験学習に当てている。
だが、バブル崩壊とペットボトル全盛のこの時代では、
手の平で温めるように育てる碾茶でも、その労力に見合った代価を得にくくなっている。
この工場では、500台の石臼が無菌室の中で回っていた。
日覆をして茶を育て、手で摘んで揉まずに乾燥する。
その葉の葉脈を抜いて、粉にする。
それが抹茶の工程である。
本多さんのお話を伺いながら、改めて食材とその価格について考えてしまった。
日本人は安い物を求めるあまり、大切な生産文化を破壊しつつあるのではないかと・・・。
この西尾でも、覆い下の中で使える乗用茶刈機導入への模索が続いていた。
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愛知県半田市で江戸復元寿司なるものを頂いた。
半田市は、山車の浜引き下ろし・潮干祭りで有名な所だ。
そんな縁もあって、町興しの一環として江戸の早すしが復元されている。
この寿司を出しているのは、山田屋ベルという店である。
酒粕で作った酢を三年寝かせて、砂糖を使わずに寿司にする。
昔の稲荷ほどの大きな寿司だ。
それを五個だから、腹一杯になる。
すし種も、塩と酢でちゃんとしめてある。
今の寿司は、鮮魚を使うけれど、冷蔵施設のない昔は当然のことだ。
もともと寿司は、当時のファーストフードで、今のハンバーガーだろうか。
今では、その大きな寿司が、二つになってイッカンとされている。
江戸時代の寿司・・・・腹が減っていたためか、結構うまかった!
蛇足だが、腹開きのアナゴが乗っていた。
これが江戸では、背開きになる。
武士の切腹を嫌ったのだと言う。
さらに蛇足だが、半田駅前の松華堂に寄ってワラビ餅を買った。
一個325円也。それにしても老舗の菓子の味は、格段に違うようだ。
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桜の花は、誠に不思議な花だと思う。
南半球には、ジャカランダという青い花をつける樹がある。
天空いっぱいに花を咲かせる樹など、桜を除いてありはしない。
花は散り、やがて青葉の初夏がやってくる。
思えば、毎年この花を見たくて生きてきたような・・・そんな気分になる。
恐らく、江戸の昔の人々も、そんな思いで生活していたのではなかろうか。
先日の駿府公園の桜も見事だった。
ハッと気がつくと、隣には中国人やブラジル人だったりする。
桜の下で語り合う。
そうしたら、世界はもっと平和になる。
福田総理と小沢代表にも、二人で花見をさせたらどうだろうか。
国民を犠牲にした馬鹿馬鹿しいことは、もう止めようということになるかも知れない。
「天下り」って何なの?
能力もキャリアもある人が、力を発揮することが、この国の損失になるの?
ネェ~、小沢さん。あなた本気でそんなこと考えているの・・・
なんてね、桜の下で話してご覧。
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ただ、少し哀愁を帯びた語感を思っていた。
彼女の名は、H・ヴァルディテルである。
薔薇の意であり、日本ではバラと呼ばれている。
そのバラちゃんと、二日間を過ごした。
アルメニアとは、一体どこにあるのか?
その地は、チグリス河の源流にあった。
そして、ノアの箱舟が洪水から逃れ漂着した所が、アララト山というアルメニアの地である。
だが、東西交通の要衝にあるこの地に、片時も安寧の時は無かった。
紀元前には、ペルシャに陵辱され、
アレキタンドル大王のインド遠征では、柳のように姿を消す。
そしてオスマントルコに支配され、その後はモンゴル帝国の属国となる。
最大の悲劇が、トルコによって引き起こされる。
民族抹殺である。
虐殺に次ぐ虐殺が続いた。
男は捕らえられ大量処刑された。
老人や女子供は、裸足で砂漠へと死の行進を強いられた。
そしてまた、アルメニアはロシアの一角に取り込められることになる。
当然のことながらユダヤと同様に、アルメニア人の国外脱出はずっと続いてきた。
そしていま、ペレストロイカと友に自立の道を歩み始めている。
人口300万人は、静岡県よりも少ない。
国土は、四国ほどの広さである。
イスラム圏の中に浮かぶキリスト教の国、それがアルメニアである。
ランちゃんの目に、エキゾチックな民族の融合があり、
アルメニアへの強い愛国心を感じることになった。
その彼女が、日本の文化に引かれている。
そして、日本とアルメニアの架け橋になろうとしている。
人の出会いは、不思議なものである。
来年の秋、私はアルメニアを訪ねようと思っている。
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常滑は、瀬戸、越前、信楽、丹波、そして備前と並ぶ日本六古窯である。
平安の昔から、やきもので千年の歴史を経ている。
その常滑に、かつてはレンガ積みの煙突が400を数えたと言う。
売り上げだって、最盛期の十分の一になっていると言う。
その常滑に隣接して、セントレアが開港している。
鉄分の多い土を捏ね、招き猫など様々な造形をする。
そうして、千年余を生きてきた町なのだ。
その土管がここでは、インテリアになっていたりする。
その常滑の小路を歩きながら、人々の生業と文化を思っていた。
常滑の焼き物も、中国の同種の焼き物に押されて、縮小の一途なのだ。
辛うじて何人かの作家が、常滑の往時を維持している。
もちろん、これからを担う若者達も、次の時代をチャンと見詰めていた。
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紀元前に中国の神農に始まって、日本には鎌倉期に永忠や栄西が伝えてからだろうか。
お茶と言う植物に出会うことで、人類の寿命は何ほど延伸したことかと思う。
が、お茶を抽出して飲む限りにおいては、その有効成分の35%ほどしか摂取できていない。
それで東南アジアなどでは、ラペソーと言って丸ごと食べている。
ならば、日本でも丸ごと食べる文化を創ろう・・・そんな運動を始めたのが食茶の会である。
NO法人「食茶の会」の理事長をされているのが、石川味知子さんだ。
大浦慶は、幕末の長崎にあって、日本茶の輸出を始めた女傑である。
彼女はその利によって、坂本竜馬に軍艦をプレゼントしたと伝えられている人だ。
石川さんは、「お茶を食べる」などと言うことに、・・・昔流に言えば貧乏くさいことに、
しかも、彼女は食の研究家であって、世界の食材に通じている。
その石川さんにお誘いを受けて、常滑と西尾を訪ねることができた。
色々な出合や発見があって、この二日間大いに楽しむことが出来た。
それでこのことは、4~5日かけて書こうと思っている。
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人間は、過去に依拠して生きる動物である。
これまでの経験を基にして、その範疇に生きるのが一般的ということだ。
3月末、「後輩に言い残すこと」をお話しする機会が与えられた。
本当は、3時間位話しても足りないのだが、貴重な時間である。
一時間少々に縮めて、そんな思いをお話させていただいた。
これまでやってきたこと。前年踏襲を疑ってみようということだ。
法律だってそうだ。
時代が推移すれば、当然改正されてしかるべきだろう。
いつの間にかその制度が、時代変革の障害になっていたりする。
例えば、卸売市場なども、ひょっとすると不要なのかもしれない。
卸売市場が無ければ、農協は量販店と契約取引に動くだろう。
もちろん取引価格には、必要なコストを織り込んでいるはずだ。
TVや車という商品に、市場が無いのと同じことだ。
生産コストに見合わない取引なら、契約しないだけのことなのだ。
それに今では、ファーマーズマーケットだってあって、
生産者は、自分の産物に値段を決めて売る事だってできる。
ところが卸売市場では、価格は他人任せでしかない。
「過去の常識を疑ってみよう」そう呼びかけたのだが、
それは、とりもなおさず現在の私の心境でもある。
これまでの惰性で、セカンドキャリアは築けるのかどうか・・・。
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法律では、従業員300人以上の企業は1.8%以上の障害者雇用が義務となっている。
でも未だに、この1.8%は達成されていない。
生産性を追求するあまり、足手まといの障害者を雇用しないのだ。
この障害者の生活をどうするのか。
税金で面倒を見るのか、はたまた社会全体で包み込むのか。
問われているのは、そのことだ。
法律は、この就業者要件(300人以上)を次第に引き下げようとしている。
企業は、特定子会社を設立して、そこに障害者を雇用するケースが多い。
その子会社の仕事をどう確保するか。
農業も含めて、軽作業がこの受け皿になろうとしている。
そして「ジョブ・コーチ」なる仕事が必要になっている。
障害者の面倒を見ながら、仕事もそれなりに仕上げるケアーマネージャーだ。
ジョブ・コーチ、これもシニア世代の仕事だろう。
障害者も、同じ人生を生きている。
彼らが生きがいを持って社会生活できるようにサポートできれば、それはそれでシニア人生も納得できるよね。
静岡県障害者雇用促進協会の総会でそんなことを考えていた。
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それで初日が肝心とばかりに、8時には家を走り出た。
小笠山山頂まで20km位だろうか。
仕事に出かける車を尻目に、少々後ろめたい気持ちがよぎる。
でも、私には日曜日なのだと納得させつつ走る。
山中には、あちこちにミヤマツツジが鮮やかである。
やはりミヤマは、山中にあってこその艶やかさなのだ。
今日は、強い北風の吹く肌寒い一日だった。
帰りは、その北風に向かって、やはり20kmを走る。
しめて、五時間のランニングである。
走りながら、これまでとこれからを思い続けていた。
それでも今日は、その多くがこれまでのことなのだ!
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