謀略戦
それは中山道と伊勢街道、それに北国街道の交差する交通の要衝だったからだ。
西へも東へも、必ずここを通らねばならない。
家康は、佐和山城を抜いて一気に大阪に向かうとのデマ情報を流した。
三成は、そのデマで関ヶ原に誘い出されたのだと言う説がある。
さて、それはどうであろうか?
大垣城内では篭城派の小西行長、夜襲を主張する島津義弘など、
およそ衆議一決などは不可能だった。
秀吉の官僚であった三成は、近江佐和山の16万石でしかない。
その小身代の三成には、家康ほどの威命はなく作戦の力しか頼るものは無かった。
戦場の渦中に飛び込ませる他ないと考えたのだろう。
そして彼の意図は、ほぼ成功するかに思われた。
その愚鈍な小早川さえ、戦況を見て裏切りを止めようとしたほどだった。
業を煮やした家康の鉄砲が、その秀秋の迷いを縮み上がらせた。
結果として敗れたのは三成だが、直江兼続との盟約にしても、
三成は諸葛孔明を思わせる策士ではなかったか。
この関ヶ原の野には、無数の人々の思いが沈み込んでいる。
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