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2009年4月16日 (木)

謀略戦

この関ヶ原が、何故天下分け目の戦場になったのか。Cimg7672

それは中山道と伊勢街道、それに北国街道の交差する交通の要衝だったからだ。

西へも東へも、必ずここを通らねばならない。

家康は、佐和山城を抜いて一気に大阪に向かうとのデマ情報を流した。Cimg7678

三成は、そのデマで関ヶ原に誘い出されたのだと言う説がある。

さて、それはどうであろうか?

西軍は寄せ集めだ。Cimg7683

大垣城内では篭城派の小西行長、夜襲を主張する島津義弘など、

およそ衆議一決などは不可能だった。

そんな中で、三成は断固として関ヶ原決戦に向けて動く。Cimg7684

秀吉の官僚であった三成は、近江佐和山の16万石でしかない。

その小身代の三成には、家康ほどの威命はなく作戦の力しか頼るものは無かった。

恐らく彼は、烏合の衆を一本化するには、Cimg7685

戦場の渦中に飛び込ませる他ないと考えたのだろう。

そして彼の意図は、ほぼ成功するかに思われた。

小早川が裏切る接所まで、東軍を敗走寸前まで追い詰めたのだ。Cimg7686

その愚鈍な小早川さえ、戦況を見て裏切りを止めようとしたほどだった。

業を煮やした家康の鉄砲が、その秀秋の迷いを縮み上がらせた。

家康の策謀が、三成の作戦を破ったと言える。Cimg7687

結果として敗れたのは三成だが、直江兼続との盟約にしても、

三成は諸葛孔明を思わせる策士ではなかったか。

この関ヶ原の野には、無数の人々の思いが沈み込んでいる。

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