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2009年10月 3日 (土)

江戸期の船頭

千石船の船頭だった、大黒屋光太夫について書きたい。Cimg8729

江戸時代後期、田沼意次の治政下の事だ。

光太夫は、伊勢亀山の回船、神昌丸の船頭である。

天明2年・1783年1月、15名の船員と共に白子港を江戸に向けて出港。

ときに光太夫は、32歳であった。Cimg8722

次の晩、駿河湾沖の大しけで帆も舵も失ってしまう。

それから8ケ月もの間、太平洋をさ迷った。

この間、積荷の米のお陰で14名が生き残った。

やがて、アリューシャン列島の孤島、アムチトカ島に漂着。Cimg9035

先住民族アウレトとロシア人狩猟団が住む孤島だった。

この島での4年間に、極寒と壊血病のために6名の仲間を失う。

彼がロシア人と共に船を作って、この孤島を脱出したのが1987年の夏だった。

やっとのことで、カムチャツカに辿り着く。Cimg9034

翌年9月、オホーツクからシベリアを横断してイルクーツクに向かう。

その時、彼らは既に6名になっていた。

イルクーツクで博物学者キリール・ラスクマンと知り合う。

彼の助けが大きかった。Cimg9003

1791年の5月に、女帝エカテリーナ二世に拝謁するのだ。

光太夫は、この女帝に破格の厚遇を受ける。

やがて9月、女帝から日本人漂民送還の勅令が出されるに至る。

そして光太夫が江戸に着いたのは、二年後の1793年8月のことだった。

無事帰着出来たのは、光太夫と磯吉の二人だけだ。Cimg8902

その後光太夫は江戸に暮し、78歳で病没する。

彼が死んでから25年後、ペリーが浦賀に来航する。

光太夫は漂泊の10年間、希望を失うことなく毎日日記を書いていた。

その日記が、ロシア事情を日本に伝え、

艱難の遍歴を人々に知らせる役割を果たす。

人の一生と言うものは、それそのものが大変なドラマなのだ。

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