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2009年12月23日 (水)

プチャーチンの足跡

ハバロフスクでお世話になった、あの佐藤副領事が来静した。Cimg9506

それで伊豆に行くことになり、

ロシアに縁の有る戸田の造船博物館を訪ねた。

この戸田は、日本で始めて本格的な大型帆船が造られた所だ。

1854年、ニコライ一世の命でプチャーチンが下田にやってきた。Cimg9524

幕府との日露和親条約の締結交渉のためであった。

その交渉が始まって間もなく、安政の大地震が起こった。

そして、津波で乗艦のディアナ号が大破してしまう。

この修理に戸田へ向かうのだが、これが風で流されて富士沖で沈没。Cimg9526

助けられたロシア人586名は、戸田の寺で暮すことを余儀なくされる。

幕府は、止む無く「大船建造禁止令」を解禁し、

この地で彼らの帰還用の船をつくることにした。Cimg9527

それで地元の船大工とロシア人が協力し、

100tのスクーナー船が造られたのだ。

1855年には、日露和親条約の締結にこぎつけ、

プチャーチンは、この戸田号でアムール川を遡って帰国した。

実は、この造船などを指揮したのが、Cimg9528

韮山代官の江川太郎左衛門だった。

プチャーチン提督は、1853年9月に長崎に到着していた。

ペリーの来航が6月だから三ヶ月遅れだ。

彼は、大西洋を南下して喜望峰を回り、半年掛かりでやってきたのだ。

後のバルチック艦隊の航路と同じだ。Cimg9529

長崎では交渉を拒否され、一旦沿海州に帰って、

再び下田にやって来てこの災難にあったのだ。

結果として彼らは、

洋式帆船の建造技術をこの国に残すことになったのだ。

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