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2010年7月 9日 (金)

長篠を訪れて

織田信長の鉄砲に武田勝頼の騎馬軍団が敗れたとされる、

あの設楽原決戦の長篠である。

囮となった長篠城址も今日の新城市に位置している。

城址は三輪川と豊川の合流点にあって、

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今日でも深い谷に囲まれている。

確かに籠城戦いになる城だったかもしれない。

この城は信玄の死後、家康が武田から奪還した城だ。

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天正三年、その城を勝頼は1万5千の兵で囲んだ。

籠城軍は500に過ぎず、城主は21歳の奥平貞昌だった。

勝頼の出戦を聞くと同時に、信長は5万余の軍勢を動員する。

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おそらく長篠城は、信長が勝頼を叩くための囮だったのだろう。

武田軍の長篠城総攻撃は5月14日から始まる。

そして、信長軍が設楽原に到着したのは5月18日だった。

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この5日間に、あの鳥居強右衛門の活躍悲話が生まれる。

彼は14日夜に、丸太につかまって川を下り城を脱出、

岡崎にまで来ていた信長に援軍を求める伝令となる。

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そして援軍を確認してとって返し、

16日朝には向かいの山から烽火発(援軍来るの合図)を揚げている。

当然城方にこの知らせは伝わったはずだ。

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だが彼は、武田の包囲網を掻い潜って再び城に入ろうとしたのだ。

結果は捕らえられ、城の対岸で磔にされてしまう。

その活躍が三河武士の模範として伝えられることになったのだが、

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彼をそうさせたのは、果たして自己犠牲の使命感だったのかどうか。

ともあれ信長軍は、連吾川に沿って馬防柵を築き武田軍の進撃を待った。

結果は歴史が伝える通りなのだが、

設楽原の現地は、数万の軍勢が進退したにしてはあまりにも狭い。

多分この一帯の各地で戦闘が展開されたのだろう。

設楽原の地は、復元された馬防柵がなければ古戦場とも知れない。

今は水田の広がる静かな山里である。

だが天正の昔、信長も強右衛門も、奥平貞昌、

そして勝頼も、この地で壮絶なドラマを演じたのだ。

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