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2010年9月30日 (木)

ウランウデの夜

9月初旬のこの時期、シベリアの夜は長い。

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21時でもまだ明るい。

政府庁舎前のロシア型広場の前は、若者達で溢れていた。

レーニンの大きな顔の前では、Cimg1569

アーティストが次々にパフォーマンスしている。

小気味の良いテンポの曲が流れ、私もついステップを踏んでいる。

隣のカップルは仲良く抱き合っている。Cimg1554

若さと、そして自由とでこの広場は開放感に溢れている。

レーニンの共産主義は、ここまで進化?したのだ。

そして広場は、人種のるつぼでもあった。Cimg1546

モンゴル系、朝鮮系、中国系、

スラブ系と様々な人種が入り混じっている。

多民族国家ロシアを否応無く認めなくてはならない。Cimg1474

その中で私達日本人に最も近いのが、ブリャート人だ。

あの日本人学校の生徒達だって、

「コンニチワ」と話しかけられた時には、隣家の娘かと思ったほどだ。 Cimg1412

途端に嬉しくなって、

「日本語をもっと勉強しなさい」などと説教していた。

非日常の連続だった今回の旅も終りだ。Cimg1411

観光旅行では味わえない良い体験をしてきたと言える。

この点、ご苦労された石川団長に感謝しなければならない。

ともあれ私達は、サングリアで乾杯をしてCimg1338

今回の旅の成功を祝したのだ。

随分長くに渡ったが、

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この辺でロシア報告を終えることにしよう!

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2010年9月29日 (水)

ベゾブラゾフ

ロシアの南下政策と、この日本の国の歴史について考えている。

西郷隆盛の征韓論は、

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ロシアの南下政策を多分に意識してのことだった。

ロシアのこの政策は、

ベゾブラゾフと言う夢想家とアレクセーエフ総督が主導した。

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ベゾブラゾフは、ロシア皇帝ニコライ二世に取り入るため、

「陛下、極東は陛下のものでございます。朝鮮半島まで併呑すれば、

ロシアは史上空前の世界帝国になります」と吹き込んだ。

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ニコライ二世は、稀代の詐欺師であるベラブラゾフの口車に乗ってしまう。

そうして、この法螺吹き男を侍従にしたのだ。

さらにその法螺を実現させるために、

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巨費を投じて東亜工業会社という侵略会社を作らせた。

同時に、ベラブラゾフの意のままに動くアレクセーエフに

極東の全権を付与したのだ。

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それでバイカル湖以東の広大な地域の行政・軍事・外交の全権を、

この二人が握ってしまうことになる。

彼らは旅順を要塞化しつつ朝鮮半島を脅かしていく。

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これに恐怖した時の日本政府は、やがて日露戦争に突き進んでいく。

しかし、日本人は旅順の203高地の攻略だけでも、

十数万の戦死者を出している。

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ツァーリー体制下だったとは言え、

半気違いのような人物と貴族の坊ちゃんが、日露戦争を引き起こし、

日露双方に天文学的な戦死者と悲劇を生み出したのだ。

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歴史と言うものは誠に馬鹿馬鹿しいが、

私達はそこから逃げることは出来ない。

バイカル湖の湖畔でそんな事を思っていたのだが、

今回の尖閣の不始末と中露の握手はまさに茶番でしかない。

中国の領土を最も侵略しているのはロシアではないのか。

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2010年9月28日 (火)

シベリア鉄道とバイカル

ウラジオストークからシベリア鉄道で3.800km。

その地点にバイカル湖が広がっている。

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この巨大で世界最深の湖の存在の故に、

鉄道の敷設は困難を極めたと伝わる。

1898年には、大型船舶に電車を積んで対岸に運んだ。

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ところが冬には湖が凍結して使えない。

そこで、冬季にはその氷の上に鉄道が敷設された。

バイカル湖が凍りつく度に、対岸まで50kmもの線路をつくるのだ。

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全く想像を絶する話だが、本当の話だ。

そうしてバイカル迂回線が何とか完成したのは1904年のことだ。

それも日本軍と戦って勝つために、突貫工事が進められたと言う。

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逆に日本は、この鉄道の完成前に決着を付けようと開戦を急いだ。

この湖と日本の歴史が濃密に繫がっていたのだ。

そもそもモンゴル語のsiberは、きれいなとか純粋なと言う意味だ。

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それにタタール語のsibirは、眠れる土地を意味している。

その極寒のシベリアに、帝政ロシアは厄介者を全て追いやった。

厄介者とは、犯罪者や浮浪者、反乱貴族、

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それに旧ロシア正教者などだ。

ウランウデの郊外に旧教信者の村があった。

そのタルバガタイ村では、今日でも旧教の教会を中心に、

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過去の迫害の歴史を背負って生活していた。

一時はポーランドに追われ、さらにこのシベリアの地に追われてきたのだ。

彼らは「先祖は、この地で豊かさを手に入れたのだ」と言った。

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しかし見渡しても、荒涼とした風景ばかりで何が豊かなのかどうか?

或いは、信教の自由を豊かと表現したのかどうか?

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2010年9月27日 (月)

天竜路を走る

昨日は、あの夏の暑さが嘘のような天気になった。

天高く秋晴れて、なおかつ涼しい風が吹いていた。

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西鹿島駅8;00のスタートには、

家を朝6:00には出なくっちゃならない。

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浜松駅から西鹿島線にはみんなが乗り合わせてきて、

電車の中での朝食やら、早くもスタートモードである。

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今回は福島県の磐梯や滋賀県からの参加者もある。

涼風の中を一団になって熊水車の里に向かう。

途中の岩水寺では彼岸花が一面に咲いている。

そう! 今年の炎暑の故か、彼岸花の盛りも遅れているのだ。Cimg1792

栗のイガが転がっていたりして、

にわかに秋の風情を添えた林間の道を快いテンポで走っていく。

傍らには阿多胡川の清流が音を立てて流れ、Cimg1793

汚れの無い水が岩をぬって流れている。

マラニックならではの自然なテンポで歩を進める。

11:30には水車の里に到着。Cimg1796

ビールと蕎麦で一息つくが、休んでいると寒いくらいだ。

と、この頃から空には雲が広がり始めた。Cimg1798

水車の里から4kmも登ると、

その後は10kmほどの下り坂が続く。Cimg1799

このマラニックは、この下り坂で元気を回復できるのだ。

ともあれ2時間ほどで山里に下りることが出来る。Cimg1801

その後は天竜川に沿って走り、舟下りの乗船場が48kmのゴールだ。

昨年よりも随分と早い14;58には到着となった。

そして、このマラニックにはオマケがあるCimg1802

ゴール地点から小船で天竜を下り、それから宴会が待っているのだ。

舟では雨に降られたが、

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とにかく朝早くから夜まで十分に楽しむことが出来た。

皆さん、楽しく充実した一日を有り難う。

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2010年9月26日 (日)

ブリャート民族村

ウランウデから車で2時間も走ると、もうそこは田舎と言う他ない。

村は、2~20戸が寄り集まって集落を作っている。

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そんな村の一つ、デシャトニボ村を訪れた。

寒風を防ぐために木をびっしり埋め込んで、

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その柵の中にログハウスのような家がある。

その村はずれの一軒で昼食をいただいた。

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暖炉で調理し、その横や上がベッドになっている。

だが、木組みだけのこの小屋で零下40度もの冬を過ごすのだ。

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ともあれそのお宅で、美味しい郷土料理とウオッカを頂いた。

少し酔いが回った頃、庭に出ろと言う。

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草原を前にした庭には、

チロル風の衣装の元気な叔母ちゃん達が待っていた。

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村の祭り好き女性グループと言った感じだ。

だが彼女達は、アコーディオンを奏で実に良い声で歌う。

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我々の中から花嫁と婿を選び、民族衣装に着替えさせる。

それは婚礼の儀式へと演舞が盛り上がっていく。

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古くから伝わるその踊りとメロディーは、

私の胸にも郷愁をふるわすように素直に染みとおってくる。

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「てやぁ~、実に楽しい」それが率直な印象だ。

こんな田舎に来て、叔母ちゃんたちの歓待で十分楽しんだ。

人は不思議なもので、

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言葉は通じなくても音楽で十分意思疎通できるのだ。

趣味と実益を兼ねた彼女達の芸は、絶妙と言うべきだろう。

村の並木は、もう既に紅葉の盛りに入っていた。

やがてこの村も、厳寒の中に閉ざされるのだろう。

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2010年9月25日 (土)

ティーロードの街で

さてこのウランウデは、その昔ティーロードの重要な拠点だった。

交易商人たちが居を構え、

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茶を始とした東西の物資が頻繁に行き交った。

街のあちこちに、その痕跡が今日まで残されている。

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私達が訪れた市立民俗博物館も元交易商人の邸宅だった。

博物館は、天上天下唯我独尊の仏像など、仏教関係の展示だった。

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だが、お茶に関る品物は別に収蔵されていると後で聞かされた。

ところで私は、何処の街に行っても基本的に毎朝走っている。

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この街に来てアレクセイは、「危険だ。ホテルの周りにしておけ」と言う。

先日のすり騒ぎで懲りたのだろう。

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私のこの街の印象は、イルクーツクよりすっと良かった。

それで忠告も無視して、一時間半くらいは毎朝の探訪を続けた。

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ウデ川の畔やかつての交易商店の並ぶ通りなど、

通勤バスを待つ人々の視線をよそに、

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あちらこちらと、この街の臭いを嗅いで回ったのだ。

モニュメントや広告看板、掃除人の仕事ぶり、通勤者の服装、

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路面電車にバス代わりのワゴン車など。

そして乞食の様子などで大抵のことが分かってくる。

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汗をタップリかいた頃、あのレーニンの所に帰ってくるのだ。

広場は、昨夜の若者達の賑わいがウソのように静まり返っている。

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そしてレーニンは、この朝も怜悧な表情で東方を見つめていた。

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2010年9月24日 (金)

ゲルでのひと時

茶会が終わって、マネージメント協会の皆さんが、

郊外のゲル(中国読みでパオ)に招待してくださった。

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フェルトの天幕に覆われたゲルの中は意外に広い。

かつてのブリャート人の生活の場が、レストランとして再現されている。

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その一角に陣取って、日ブ交流について相互に意見を交わした。

文化交流というものは、気長に考えるべきものだろう。

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今回は茶文化に拘っての訪問だが、100人やそこらに懸命に説明して、

お茶を飲んでもらったからって、そりゃあ高が知れている。

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多分、人と人の交流が最も重要なものだろう。

そして言葉が通じなくても、何がしかの文化が関係性を高めてくれる。

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今回のセレモニーだって点でしかない。

それを細くても線にしていくことで信頼関係が構築できるのだ。

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ゲルでは、民族衣装で着飾った皆さんの踊りや歌が続く。

悠久の草原ではさぞかしの思いが涌く。

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文化とは、その地でこそ味わい感じられるものなのだ。

それにしても、彼女らには不思議なほど濃密な親近感を感じる。

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それは彼女らも私達に対して同じなのだ。

外務省の文化交流予算は、あの事業仕分けで大幅に減らされた。

文化交流を「無駄」と判定した仕分け人の程が知れるだろう。

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私達の今回の試みは基本的にボランティアである。

でもそれは、何時の日かこの日本の国に益するものだと思う。

ブリャートの人口は160万人に過ぎない。

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だがゲルでのひと時は、

その交流を細く永く続けることこそ咸陽だと得心させてくれた。

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2010年9月23日 (木)

ブリャートの人々

この共和国の人口の8割はブリャート人だ。

そしてロシア人は1割くらいだろうか。

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そもそもブリャート人とは、モンゴルの高原に住まずに、

シベリアの低湿地で遊牧していたモンゴル人のことだ。

早くからロシア人と接触して、ロシア的な感覚を見に付けてきた。

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言語もモンゴル語だったのだが、今ではロシア語を使っている。

ロシア革命の際にも、彼らはモンゴルの社会主義化に大きく関ったらしい。

それは清朝滅亡後のモンゴル民族独立のためでもあった。

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ともあれそのブリャートで、日本語を学ぶ学生が多いのは何故なのか。

それは彼らが持つ民族的な嗅覚の故かもしれない。

コサックがやってきた時には、彼らに兄弟(ブリャート)と呼ばせ、

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社会主義革命では逸早くそいつを取り入れる。

レーニンの頭像の受入もその延長線上のことだろう。

してみると、彼らが日本語を学ぼうとするのも幾分合点がいく。

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高原のモンゴル人よりも、フレキシビリティーに富んでいると言うことだ。

ブリャートの産業は、圧倒的に牧畜に依存している。

当然のことながら、モスクワとの格差は開いていくことになる。

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それで近年は航空産業を取り入れている。

特に軍事用ヘリの生産ではかなりのウエイトを占めるらしい。

それから石炭やレアアースなどの埋蔵資源がこの国を救っている。

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ともあれ私達を迎えてくれた書生達は、

そうした経済面でのパイオニアでもあった。

実はこのマネジメント協会の女性達は、

昨年の3月と11月に日本に来ている。

目的は、経営問題に関するセミナーへの参加だった。

見かけは叔母さん然としているが、言動は極めて明瞭だ。

そういう点で、明らかにブリャート人なのだ。

英才教育中だという娘のダァーリャの顔を見ながら、そんな事を考えた。

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2010年9月22日 (水)

ブリャート余聞

ブリャートとは、ロシア語で兄弟を意味している。

バイカルもアンガラもモンゴル語なのに、

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人種の呼び方だけがロシア語なのだ。

ブリャート人は、

もともとこのバイカル湖周辺の広い地帯の遊牧の民だった。

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その彼らを名付けたのは、そこにやってきたコサック達だったろうか? 

彼らが先住民の彼らを「兄弟」と呼んだのかどうか。

一種の民俗共和的な雰囲気だったかも知れない。

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ところで話は変わるが、

このブリャートの地を日本軍が占領したことがある。

1917年のロシア革命の混乱に乗じて、

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この地を奪おうとしたのだろう。

1919年の事だが、

結局何の得るものも無く、多くの犠牲者と国際的非難を残して引き上げた。

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そうして、当時はその事実さえ極秘にしていた。

目的も曖昧な暴挙だったのだが、

国の権力と言うものは暴走させれば何でもやってのけるのだ。

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さて時代を現代に戻そう。

ウランウデの近くのクラスノカメンスクと言う所に刑務所がある。

そこにミハイル・ホドルコフスキーが収監されている。

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彼は、ほんの最近までロシア最大の石油王(ユコス社長)だった。

自由経済になってからの時代の寵児しだ。

彼はプーチンの野党に資金援助したり、

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アメリカの石油資本と仲良くなったり、

とにかく多分に野心的な活動をしていた。

それが当時のプーチン大統領の逆鱗に触れることになる。

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ユコスは破産させられ、国営企業として接収されてしまうのだ。

大富豪だったボドルコフスキーは、

横領と脱税で逮捕されて一夜にしてシベリア送りである。

彼の資産は2兆円近くも有ったらしいのだが、

今では極寒の刑務所で日給100円で働かされている。

何ともロシア的なドラマではないか!

その監獄が、このウランウデの近くらしいのだ。、

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2010年9月21日 (火)

100kmの旅路

初秋とは言え丹後はまだ暑い。

朝まだ暗い午前4時30分、久美浜に向かって走り始める。

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日本海の沖には点々とイカ漁の火が浮かんでいる。

この時期、私の練習量は極めて少ない。

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暑さに加えて何かと行事が重なっているからだ。

それで100kmを走りきるには、気力しかないと覚悟はしてきた。

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やはり足は、思うようなスピードを出してはくれない。

それでも爽やかな浜風が頬を撫ぜていく。

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「いい気持ちだ」殊更そう思い続けている。

小一時間も走ると、夜が明け始める。

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青い海に島々の緑が浮かび、小天橋立が美しく広がる。

私はその湾を縁取るように走っていく。

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「よしよし、良い風が吹いてくるぞ」そう思い続けている。

しかし100kmの旅は、いつ何が起こるのか知れたものではない

だから歩かずに、ゆっくりでもひたすら前に向かって走る。Cimg1765

ペースの遅い分、ほとんどイーブンペースを維持している。

網野を通過して、Cimg1770

50km地点の丹後味わいの里では15分の貯金しかない。

でも幸いに、空に雲が広がり始めている。

「良し、これで完走できるぞ」と碇高原をめざす。Cimg1769

決して歩くまいと心を決めて、15km続く坂道を登っていく。

頂上の関門まで9.6km地点で、2時間20分を残していた。

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何とか間に合うだろう。

関門まで2.8km地点で、

エイドのサポーターが「あと30分だから・・!!」と力を込める。

今日始めて、弱気の虫が顔を出す。

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「出来るところまで行こう・・関門にかかりゃ、もう走らなくて済む・・」

この弱気の虫を「馬鹿言え、頂上からはもう下りだぞ」と吹き消す。

私は、必死の形相で走っている。

あと1kmの表示が現れた。その時、時計は4分を残すのみだった。Cimg1755

瞬間「あぁ~」と思いつつ、猛烈なスピードで走っていた。Cimg1779_2

だが私の200mほど先に、制止する係員と収容バスが見えた。

私の100kmの旅は、74kmで中断を余儀なくされてしまったのだ。Cimg1780_2

バスを降りてから「静かの里」の湯を出ると、Cimg1766

ロビーでウルトラ癒しのコンサートを開いていた。

ほんの先程までの激しい葛藤と、このヴァイオリンの奏でる静けさと自分。Cimg1753

赤とんぼの曲が、私の胸を静かに震わせている。

この100kmは、人生の一つのドラマなのだ。

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2010年9月20日 (月)

おらが敬老祭

今日は敬老の日である。

60年ほど前、小さな山間の町で始まったこの行事は、

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国民の祝日となって全国に広まった。

当時は、55歳以上が敬老の対象者だった。

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しかし今77歳以上となったが、それでも増え続けている。

長寿高齢化成熟社会なのだが、行方知れずはその社会のひずみだ。

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実は私の地区では、先週のうちに前倒しで敬老祭を開催した。

自治会の役員で実行委員会を作って準備してきた。

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75歳以上183名で、そのうち95人が出席して下さった。

簡単な式典の後は、様々な芸能で十分楽しむ一時をつくった。

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それで今回も「長寿・元気は地域の文化」をスローガンに掲げたのだ。

元気な長寿を地域で作って生きたいと言うほどの意味だ。

やはり長寿は。元気であってこその価値がある。

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そのためには、先ず体を動かすことだ。

散歩でもグランドゴルフでも、とにかく継続してやることだ。

二つ目は、人と話しをしなくっちゃならない。

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話をすることで心の健康が保たれる。

家の中に話し相手がいなけりゃ、是非着くの交流サロンに参加して欲しい。

三つ目は、生き甲斐を自分で作っていくこと。

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人は一人では生きられない。

人のため地域の為に一肌脱ごうと言う心がけを持ちましょう。

子供の見守りで、朝の「お早う」の声掛だってよい。

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人は、人のために生きてこそ価値があると思うのです。

式典の冒頭、僭越だがそんな挨拶をさせていただいた。

それから今年から催事を「敬老祭」とした。

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式典じゃなくて、地域の老若男女が一緒に長寿を祝いたい。

そんなことで、子供の出演者など総勢250人が参加してくれた。

高齢者行方不明事件はさることながら、

まずは失われたコミュニティーを取り戻すことが肝要なのだ。

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2010年9月19日 (日)

ウランウデの茶会

私達はこのウランウデで、2回の日本茶セレモニーを開催した。

いずれも参加者は、

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前述のマネージメント協会の皆さんが募ってくれたのだが、

この2回とも若い人達を中心に、それぞれ60人ほどが集まった。

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又、日ブ友好協会の会長さんも付きっ切りでお世話してくださった。

実は若い人たちの大半は、日本語学校の生徒さんなのだ。

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そんな訳で、とにかく日本に対する関心度は高い。

彼女らは、ロビーで私を見かけると「コンニチワ~」と話しかけてきた。

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とは言え、日本語は殆ど通じなくて、英語でならそこそこと言うところだ。

しかし、ここで若い女性、

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しかも日本人そっくりの学生と話すのは正直嬉しい。

と言次第で、私達一同もかなり熱が入ったのだろうか。

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ティーセレモニーは、温かな雰囲気のうちに終わった。

いや、終わってからも折り紙やら記念撮影やらと、

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その余韻が何時までも続いたのだ。

顔が同じと言うこともあるが、彼らの日本に対する憧れは本物だ。

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日本の文化に対する関心も高い。

そこに、この日本緑茶の入っていく余地がありそうだ。

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ロシア人男性の平均寿命は、61歳でしかない。

肉とウオッカを大量に摂取するからだ。

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経営者協会の女性達は、

緑茶がビジネスチャンスの一つになるとも考えているようだ。

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しかし、食習慣という文化を変えるには、

長い時間が必要なことも承知していた。

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ところで、マネジメント協会長のリューダさんは、

毎日私達に付きっ切りでお世話してくださった。

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彼女も経営者である以上、何かと繁多なはずなのだ。

その彼女に、ブリャート(モンゴル)人の「人の良さ」を実感した。

もともと彼らは遊牧の民だった。

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家族がポツンと草原のゲルで未や馬と暮していた訳だ。

外来者がくれば、何を置いてもその客をもてなしたと言う。

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そんなかつての習慣が、彼女の血液の中に流れているに違いないのだ。

こんなことは、ロシア(スラブ)人に決して出来ることではない。

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2010年9月18日 (土)

ダッツァンへ

ウランウデから車で30分ほど行った草原のはずれに、

チベット仏教のロシア総本山がある。

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大学と修道院も兼ねていて、

この国における歴史の中断を回復しようと懸命な様子だ。

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ラマ教は、社会主義革命によって、

キリスト教以上に壊滅的被害を受けた。

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1930年当時、

1500人余の僧侶が射殺若しくは流刑され、

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ソ連内の全ての寺院がことごとく破壊されてしまった。

生き残ったラマ僧は

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隠れキリシタンのような生活を余儀なくされるのだが、

1945年になって、驚いたことにスターリンが仏教を公認したのだ。

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それからこの地を選んで、

チベット仏教の再建が少し筒始まる。

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だから本山と言っても、その歴史はほんの30年程でしかない。

ダライラマを教主とする事も含めて、全てはチベットと同じだ。

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信者は、この本山を右回りに一周してお参りする。

そのところどころに、例の回転するドラムがあって、

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それを回しながら歩く。

人間には、外からの誘惑と内なる誘惑に苦しむと言う。

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外からの誘惑はラマ僧への帰依で逃れられるが、

内なるものは自分自身でしか修正できない。

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その自分を修正するために、

あのサークルを回すのだと説明してくれた。

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お参りの参道には、小銭が無数に振り撒かれている。

私達はそれをふんずけて歩く訳で、

貧乏性の私なぞは目が潰れるかと心配してしまった。

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その落ちている金は、

本当に困った人だけが拾っても良いのだそうだ。

境内には仏教大学もあって、150人ほどが学んでいるらしい。

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2010年9月17日 (金)

レーニンの眼光

ウランウデとは、赤(ウラン)いウデ川の街と言う意味だ。

ちなみにモンゴルの首都ウランバートルは、「赤い勇士」になる。

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いずれもソ連時代に付けられた名称で、

今では赤とは何の関係も無い。

ただ街の名と同様に、社会主義時代の残照はあちこちに残っている。

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政府庁舎の真ん前に、巨大なレーニンの頭部像がある。

実はこの像は、

かつてモントリオールだったかの万国博覧会を飾ったものだ。

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既に社会主義の失敗が明らかになりつつあった時期だ。

博覧会が終わって引き取り手を探したのだが、

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当然ながら容易にはそれが見つからなかった。

そんな折、このブリャートの政府が

「恐れながら私目が・・」とモスクワに申し出た。

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中央にゴマをすったのだが、流石に国民には不評だったようだ。

それはともかく、広場は今では市民の憩いの場だ。

9月1日は、「教育の日」でこの国の祝日である。

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広場には親子や若者のグループ、カップルなどが集まっていた。

レーニンの顔を隠すように舞台が作られて、

歌やトークショウやらが続いていた。

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それを立ったまま参加して楽しんでいる。

私も時々「ダァー、ダァー」と合いの手を入れて楽しませてもらった。

みんな陽気である。

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イルクーツクのレーニンは右手を上げて立つ銅像だった。

それを市民は「多分、タクシーを止めてるんだろ!

だけど誰も止まってくんないんで、何時までも上げてんだ!」と言っていた。

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かつての社会主義の英雄レーニンも哀れなものだが、

それにしても、ただのモニュメントにしては目立ちすぎるのだ。

だが一面、モンゴルの人々にとっては、

レーニンは救いの神だったのかも知れない。

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清朝崩壊前後の混乱期には、

中華民国の軍隊に陵辱され続けていたからだ。

中国服を着る様に強制され、略奪や強姦が常習的に行われた。

その中国のくびきから逃れるには、ロシアに頼る他なかったのだ。

時代は移り、今ここではそんなことを誰も気にしていないかのようだ。

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2010年9月16日 (木)

人種のるつぼ

ウランウデのホテルに着くと、5人の女性が私達を待っていた。

リューダさんやリューバさん達、ウランウデ経営者協会の皆さんだ。

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レストランやスポーツショップ、ボウリング場など経営している。

彼女達は、私達にいきなり空色のハダックを掛けてくれた。

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ハダックは、大切な客を迎える儀礼だと言う。

そしてその夜は、彼女達のグループとの交流食事会になった。

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大学の教授など、この国では総じて女性が活躍している。

伺うと、女性の就業率は男と同様90%以上で経営者も多いとか。

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それに大抵は、ご主人とは違った職業に就いているのだそうだ。

私達のホテル(バイカルプラザ)は、

政府庁舎の直ぐ隣に位置していた。

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大理石造りの豪華なものだが、かなり歴史を経ていてる。

ともあれ、ホテルの前は広大な広場である。

ロシア的空間を思わせる広場なのだが、

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ダンスを練習するグループなど大勢の市民がたむろしている。

私がその中に紛れ込んでも、何の違和感も感じない。

それは人々の顔がアジア顔だし、

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ブリャートが日本人と似た民族だからだ。

勿論モンゴル顔、朝鮮顔、中国人顔、そしてロシア人の顔がある。

そんな色々な顔が、何の違和感も無く一つの広場で談笑している。

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フッと「人種のるつぼ」だと思った。

そう言えば、ロシアは100以上もの民族からなる多民族国家だ。

スラブ系、アジア系、ヨーロッパ系などが、

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歴史の所産として交じり合っている。

殊にこのブリャートではアジアが色濃くて、

そのアジアもモンゴル・朝鮮・中国と雑多だ。

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「その人々の中に、私は立っている」と思うと、

私も地球の一員と言うか、不可思議な感慨が涌いてきた。

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2010年9月15日 (水)

ブリャート共和国の空

イルクーツクからバイカル湖に沿ってウランウデまでは、

600kmほどの道のりである。

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そしてウランウデは、ブリャート共和国の首都だ。

この600kmの道のりは、相当にスリルに満ちたものになった。

シベリアのことだから道路は山なりに続いている。

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黒の背広で固めた男前のドライバーが、その腕前を誇るかのように、

片道一車線の道を時速120kmの快速で飛ばすのである。

否、飛ぶと言う表現の方が当たっているだろう。

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舗装は日本の高速のように決して平じゃない。

起伏の頂上を過ぎる瞬間には、スゥ~ッと体が空を飛ぶ。

そして又、真っ逆さまに思える下り坂を滑降して行く。

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しかもその最中に、反対車線に出て前の車を次々と追い越すのだ。

それは正に、ジェットコースターさながらであった。

車は、トヨタである。

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そのトヨタであることだけが、心を安らげる材料にはなった。

だがそのスリルも、数時間続くと次第に慣れてしまうから不思議だ。

やっと体が慣れた頃、前面の景色がガラッと一変する。

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あのシベリアのタイガ(針葉樹)から、

空が広がって牧野の平原になるのだ。

牛や未、そして馬が放牧されている。

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柵も人影もまったくなくて牛が道を横切っていく。

果たして、牛の所有者が判別できるのかどうか心配になる。

そう! ブリャート共和国はロシアの自治区だが、

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十二分にモンゴルなのだ。

モンゴルの首都ウランバートルからウランウデまで、

北に600kmに過ぎないのだ。

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シベリア鉄道の沿線にあるのだが、

ハバロフスクまでは列車で二日半の距離だ。

如何にせん、航空便の無いのがこの街のネックのようである。

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それで今、飛行場の再整備が進みつつあるようだ。

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2010年9月14日 (火)

タリツィの明治村

イルクーツクからバイカルに沿って47kmほど北上すると、

昔の開拓時代のシベリアを再現したミュージアムがある。

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もちろん、すべからく木造建築である。

水舎小屋やら農家の数々、要塞、小学校や教会、

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先住民族のブリャートの村や墓地まで再現されている。

ロシア人にとって、シベリアはかけがえの無い土地だと言う。

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そのシベリアに、ロシア人が進出していく歴史の博物館でもある。

厳寒を防ぐ術がなくては生きていけない土地なのだ。

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彼らはブリャート人らと戦いつつシベリアを制覇していった。

私達の通訳のセルゲイはロシア人だ。

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そうして彼は「何の問題も無い」と言った。

「ブリャートは、もつぱら牧畜をやっていた。」

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「ロシア人は、小麦のような農業や狩猟をやったのだ。」

「お互いに上手く棲み分けができていたから、何の問題も無いのだ」と。

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しかし彼らから土地を奪い、クロテンを税として取立て、

様々に圧迫してきたのがシベリアの歴史だ。

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ちなみにブリャートは日本人と瓜二つだ。

中国人や朝鮮人とも違う、私達に酷似した民俗だ。

彼らの中に紛れ込む限り、誰も外国人と思わないだろう。

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学説のように、日本人のルーツはこの地域なのかもしれない。

バイカルを見下ろす丘のこの博物館は、正にシベリアの条件化にある。

だが、半径500kmの範囲内に200万人も住んではいない。

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だから施設の内容とは裏腹に、観光施設としては決して恵まれてはいない。

寒く広大なシベリアの地は、様々な民族の盛衰の場でもある。

そしてタイガ(針葉樹林帯)は、際限もなく奥地へと続いていた。

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2010年9月13日 (月)

バイカルの湖底

バイカル湖は、最大水深1670mと世界で最も深い湖である。

それに面積だって、3万1千平方キロメートルと、

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静岡県が4つもすっぽり収まる広さだ。

水深が深いのは、

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地殻が潜り込む二つのプレートの間に位置しているからだ。

この湖には330の小河川が流れ込んでいて、

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アンガラ川からエニセイ川を経て北極海に繫がっている。

かつて(1992年)この湖を一周するのに73日間を要したと言う。

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つまり湖岸には、切り立った崖や谷が続いているからだ。

それに冬には氷点下50度にもなって、厚さ4mもの氷が張る。

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日露戦争当時は、その氷の上に線路を走らせて兵隊を戦線に送った。

冬になると湖はトラックの走る道になる。

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だが、突然ひび割れが出来たりして、

トラックやブルドーザーが中に落ち込むこともあるのだとか。

それで湖の底では、

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一世紀も前に落ち込んだラクダの隊商と遭遇できるとか?

それはともあれ、この湖には無限の資源が眠っている。

特にハイドロメタンは、エネルギー源として注目されている。

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それで先頃、プーチン首相も潜水艦ミールでこの湖底に潜っている。

実は私達も、潜水艦でこの1600mを体験したのだ。

もちろん、バイカル湖沼博物館での疑似体験ではある。

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透明度は高いのだが、50mも潜るともう暗闇の世界になる。

バイカル湖には、淡水アザラシがすんでいる。

このアザラシ、北極海から川を遡ってきたのかどうか?

ミズウミノチョウザメ沖には、も生息していて、

大きいものでは230kgもある。

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そんなのには9kgほどもキャビアを抱えているらしいのだ。

が、何と言ってもオームリの湖だ。

干物やら燻製やらとして年間5千トンが漁獲されている。

そいつを沿道のあちこちで売っている。

どんな生活をしているのか、売り子は娘さんか婆さんだ。

彼らを見ながら、ふとこの地位派の原住民ナナイ族の生活を思った。

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2010年9月12日 (日)

バイカルの畔

バイカルの水は、アンガラ川からエニセイ川へと下って北極海に注ぐ。

冷たくて、今でも十分透明度が高いのだが、

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ロシア人は、一昔前はもっと綺麗だったと言う。

パルプ工場が出来て水を汚したらしいのだ。

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それで、ここにしか棲息しない淡水イルカも随分と減ったし、

オームリと呼ばれるニシンの仲間も漁獲が減っているらしい。

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もう夏も終わりだが、湖畔には日光浴を兼ねた人々が出ている。

裸になっても、水が冷たいから泳ぐことは出来ないのだ。

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湖と言っても、640kmに渡って北東から南西に広がっている。

バルト海と同じほどの広さがあるのだ。

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50kmほど先の対岸がかすんで見えるのだが、

丁度、弘前から函館を眺めるような気分だ。

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塩気がないからベタベタしないのが違うところだろう。

この湖の主な魚は、深さ200mくらい?に棲むオームリだ。

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サケの仲間で大抵は干物にして食べる。

私達も湖岸で食べてみたのだが、これが驚くほど美味だ。

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私が水産会社なら、輸入を試みるところだ。

イルクーツク側の湖岸には、リゾート施設も僅かにできている。

しかし、余りに広大で人口が少ないためか、ほとんど未開発のままだ。

地球上の淡水の5/1はこの湖にあると言われるのだから、

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余り開発しないほうが良いのかもしれない。

僅かにアルカリ性を帯びた透明な水が、

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何処までも限りなく青色に輝いて続いていた。

確かに、ただただ冷たい美しさが広がっている。

かつてスターリンに抑留された日本人は、

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この湖まで来て、これは日本海だと糠喜びさせられた。

「日本に返してやる」と、騙して抑留してきたからだ。

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2010年9月11日 (土)

リストビアンカの日本人墓地

戦後、少なくとも64万人の日本人がロシアに抑留された。

過酷なシベリア開発に酷使され、

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そして、その不幸な人々の2割は帰国することが叶わなかった。

このイルクーツク周辺にも81箇所の収容所があった。

そうして分かっているだけで、

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33箇所の日本人墓地に約6,000人が眠っている。

バイカル湖畔のリストビアンカ墓地には、60人の名が刻まれていた。

墓は村の中程まで入った山の中腹にあって、

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墓地から湖面は見えない。

私達は、ここでは無言であった。

菊の花を手向け、緑茶を周辺に敷き詰めていった。

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おそらく、お茶なぞ飲むことは出来なかったろう。

そしてお茶のカップにはお湯を注ぎ入れた。

線香を手向ける傍らでは、松元上人の敬虔な読経が流れる。

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そばの墓標には「友よ、安らかに眠れ」とある。

安らかに眠れる筈などあるものか・・・・と思う。

やがて、誰からともなく歌い始めた。

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「♪兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

・・・夢は今も巡りて、忘れ難き故郷・・♪

如何にいます父母・・・・」

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生前の彼らも、小さな声で口ずさんでいたのではないか。

私の目にも涙が溢れ、歌声はその涙にかすれていく。

冬には経過50度にもなるこの地で、

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彼らは故郷を希求しながら死んでいったのに違いない。

そうしてロシアは、未だにその謝罪どころか、事実すら認めていない。

国際法などまったく無視したやり口だったのだが・・・。

バイカル湖の岸には、日本海と同じような波が寄せては返していた。

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2010年9月10日 (金)

SAYAN京都の茶会

前述のように、ホテルの隣にレストラン「京都」がある。

私達は、この日本庭園風レストランを会場にお茶の会を開催した。

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お茶の会と言っても、あの茶道ではない。

このイルクーツクは、

茶や磁気のいにしえの交易通商路上に位置している。

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遠く中国の雲南などから東ヨーロッパにお茶が運ばれた通路だ。

歴史は移り変わって、今日ではここでは紅茶が飲まれているだけだ。

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望むらくはこの地でも緑茶を飲んで欲しい。

できれば、それは日本茶であるべきだ。

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何故なら、ロシアの国民病である糖尿病や肥満が緑茶で防げるからだ。

ロシア人の平均寿命は60歳前後でしかない。

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そいつを日本人同様10年以上延ばせるかも知れないのだ。

と言う訳で、NPO法人日本食茶の会とハバロフスク領事館の協働で、

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このシベリアの各地に茶と日本文化を広めるのが今回の趣旨なのだ。

先ず最初の会場のイルクーツクでは、

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日本に関心を寄せる人々をこの「京都」に招待してセミナーを開いた。

講師は、静岡県からお茶大使を任命されている石川美知子さんだ。

石川さんは日本食茶の会の会長で、

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お茶を丸ごと食べることを提唱している。

このセミナーには、カップルを中心に80人ほどが集まった。

煎茶に始まってほうじ茶、抹茶パテラから食べる茶へと続く。

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その合間には、日本の菓子やクレイプを提供する。

だから彼らも、決して退屈するなんてことはない。

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それに日本そのものに対する強い関心を抱いている様子だ。

もちろん、この10月の「世界お茶まつり2010」のPRも抜かりない。

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ロシア語のパンフ「緑茶の健康パワー」も熱心に読まれていた。

しこうして私達も、この日本語の通じない「京都」で、

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昼下がりの2時間近くを、彼らと共に満喫することが出来たのである。

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2010年9月 9日 (木)

悪しき習慣

通訳のセルゲイが「それは、悪しき習慣なんです」と声を大きくした。

私か「何故ロシアじゃ、釣銭を出さないんだ?」と聞いたからだ。

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ロシアでは、コンビニとスーパーマーケットの他は、殆ど釣銭を出さない。

街の売店でコーラとジュースを買おうと100ルーブル出した。

表示価格の合計は90ルーブルだ。

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ちょうど無いのかと言われて、無いと言うと小さなマッチ一個を渡された。

バイカル湖畔の売店で60ルーブルの缶ビールに100ルーブル渡すと、

釣りを出さずに40ルーブルのコーラをよこした。

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市立の博物館でもしかりである。

釣りを出さないくせに、30ルーブルの写真機使用量を別に徴収するのだ。

信じ難いことだが、銀行ですら同様なことが起こるのだそうだ。

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つまり「売ってやっているんだから、

釣りが欲しけりゃ、出す店を探したらどう」と言うことらしい。

大多数の支払いがそんな具合なのだ。

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それに「どの店でも、前の晩に売上げは小銭も含め全部銀行に持っていく。

だから、釣銭は無いのだ」と言う。

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そんな馬鹿なと言いたいが、そんな状況が一日中続くのだ。

恐らくは、ソ連時代の悪習が続いているのだろう。

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この国には、サービスと言う精神は未だに育ってはいないのだ。

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2010年9月 8日 (水)

スリの手管

マルクス通りから折れた一角に「12月革命事件通り」があって、

屋台店も出ていて、歩行者天国になっている。

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私達は、その広場にある食堂に入った。

行列して食材をピックアップし最後に金を払う。

当然、財布を出して何所かに収納することになる。

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私とその方とは、同じテーブルに座って食事した。

二人で食事を終えて、急いでイベント会場に向かうため店を出ようとした。

その時である。

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狭い出口で、前を歩くロシア人の肩からリュックが滑り落ちた。

その瞬間、落ちたリュックに神経が移った。

その瞬間に風が吹いた。

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3秒後、私の連れが「アッ」と声をあげた。

肩から提げていた鞄の口が開いていて、財布だけが無くなっていたのだ。

彼は「一瞬、肩が軽くなった」と言った。

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スリの集団は、その3秒の間に人混みに溶け込んでしまっていた。

私達が店に入る前から隙を伺っていたのだろうが、

虚を突いた見事な手管と言う他無かろう。

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財布には、奪われた現金と共にカード類一切が入っていた。

とにかく早くを止めなければならない。

この点、携帯電話という文明の利器は凄い。

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直ちに家族に連絡することで、すんでのところで被害を食い止めた。

その晩、ロシア警察に足を運んで何回も調書を取られることになった。

お陰で、この日の晩飯は随分遅いものになった。

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ともかく、ロシアも油断は禁物なのだ。

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2010年9月 7日 (火)

ホテルSAYENとロシア

私達は、この街で最上級のSAYANに投宿した。

プーチン首相も泊ったらしく、流石に調度も部屋も立派に作られている。

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それに隣にレストラン『京都』が併設されているように、

日本びいきの経営者が、部屋の額まで日本風にアレンジしてある。

設計デザインは、日本の中村茂雄氏だ。

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ともあれ部屋に入ると自動的に電動カーテンが開き、

大型ディスプレイには私を歓迎するメッセージがある。

バスタブもトイレも豪華そのものである。

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先ずは大満足で、三人でも寝られるような大きなベッドに体を伸ばした。

フムフム♪、ロシアも中々やるではないか。

それから先ずは風呂だと思って、湯の栓を回した。

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するとクルクルと空回りしてしまう。

水の方は出るのだが・・・暫く待っても水は一層冷たくなるばかりだ。

バイカル湖の水を引いているらしく、水温は10℃を下回っている。

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手を漬けるだけがやっとの温度である。

諦めて今度はシャワーの栓をひねった。

勿論、こちとらは裸なのである。

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ところが、このシャワーからもお湯が出ることはなかった。

震えながらフロントに、部屋を換えるか蛇口を直せと要求しが、

分かったのか分からないのか、それすら定かではない。

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2時間後に再度要求すると、痘痕のあるメイドが来て蛇口を確認していった。

それから間もなく、70歳くらいの老人がやってきた。

その男が「オッ、やっぱり壊れていたか」と言った表情で、

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何故か嬉しそうに蛇口をさすっている。

そんなおまじないの後、やおらドライバーを取り出しネジを締め付けた。

そして、おもむろに頷きながら栓を回した。

それから私を見て、「どうだ、湯が出ただろう」とニヤリとして帰っていった。

私は、彼のニヤリに明確な意図を感じた。

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多分、最初から壊してあったのだ。

彼の存在意義をホテルに認識させるには、

故障という現象がどうしても必要なのだから。

ともあれ私は凍えるような体験と共に、

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この国のアンバランスな発展の断面を見る思いがした。

そう言えばロシアの経済規模はオランダと同程度で、

超大国のイメージとはよほど遠いのだ。

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2010年9月 6日 (月)

イルクーツクの歴史と街

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人口60万のイルクーツクは、シベリア西部の政治産業の中心地だ。

もともとは、ブリャート人の攻撃に備える守備隊駐屯地として、

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1652年、イルクート川の河口、

アンガラ川の岸辺にコサック部隊が作った砦の街だ。

その砦跡には、今はこの地で最も古いスパースカヤ教会が建っている。

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19世紀になるとロマノフ王朝は、

発見された金の採掘のために、この地に囚人を大量に送り込んだ。

その後、デカブリストと呼ばれる反乱貴族の流刑地になって、

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シベリアのパリと呼ばれるような発展を遂げていく。

しかし一方、ロシアの殺人の首都と別称されたように、

毎日どこかで人が殺されたと言う。

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その当時は、プロの首絞め強盗が暗躍する怖い街だったようだ。

悲劇はなおも続いた。

1917年の社会主義革命による戦乱だ。

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一旦はボルシェビキが政権を握るのだが、

シベリアの独立を主張する白軍の攻勢によって革命党は倒れてしまう。

この内戦は1920年にボルシェビキの全権掌握まで続くのだ。

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イルクーツクは、長さ600kmものバイカル湖の淵に位置している。

だからサンクトペテルスブルク方面に行くには、

必然的にこの地を通過することになる。

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と言う訳で、茶や絹、磁気、金やクロテンの毛皮、マンモスの牙など、

様々な物資のロシアと中国の通商路になっていた。

ところで、日本人で最初にこの地に暮したのは大黒屋光太夫だ。

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カムチャツカ半島に漂着(1782)した一行は、

1783年、エカテリーナⅡ世から帰国許可を得るために、

シベリアの大地をはるばるとこの地までやって来たのだ。

17人だった一行は、このとき既に5人になっていた。

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光太夫が奇跡的に帰国できたのは1795年のことだった。

この街は、囚人が流れ込んできたり、

金鉱脈を探し当てた農民が一夜にして大富豪になったり、

アメリカの西部開拓と何所か似ているではないか。

通りに面した建物には、豪華さと素朴さが混じり合っている。

たがそこここに、ソ連時代の残照と共に陽気な野蛮さも滲み出ている。

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2010年9月 5日 (日)

イルクーツクの朝

午前7時過ぎのイルクーツクは、まだ薄暗い。

それにこの朝は霧が立ち込めていた。

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だが今回も、予定どおり街に駆け出すことにした。

寒い。吐く息も白く、たちまち指先がかじかんでくる。Cimg1369

レーニン通りの温度表示を見ると4℃になっている。

それでもアンガラ川に沿って、対岸のイルクーツク駅を目指した。Cimg1309

アンガラ川は、バイカル湖から流れ出る唯一の川で水量も多い。

その川霧が街に流れてくるのだろう。Cimg1308

アンガラの川辺には、走る人たちが散見される。

昨年のハバロフスクではまったく見かけなかったら、Cimg1313

デブの多いロシアでも、健康が少しは意識され始めているのだろう。

イルクーツクの街は、かつて「シベリアのパリ」と呼ばれたらしい。Cimg1368

少々くたびれてはいるが、幾分その典雅な気品を残してはいる。

図書館はかつてシベリア総督の邸宅だった優美な建物だし、Cimg1342

マルクス通りのオペラ劇場、そしてデカブリスト達のかつての邸宅が続く。

アンガラ川の畔には、300年前に建てられたスパスカヤ教会があった。

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不恰好な戦艦のような形をしていて、今は民俗博物館になっている。

それでもタマネギ型の丸屋根と円錐形の尖塔の上には、

Cimg1634 

古い十字架が掲げられていた。

街の通りにはあちこちに彫像がそびえている。

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レーニン通りにはレーニンが立ち、宇宙飛行士ガガーリンの頭も。

それにソ連時代に一度は破壊されたアレキサンドル三世の像が目立つ。

Cimg1358

そのアレキサンドルがシベリア鉄道敷設を始めたのだが、

シベリア鉄道のイルクーツク駅までは、7km程で辿り着いた。

Cimg1346

朝の早い職場に向かう出勤者達が続いている。

その姿に、幾分のロシア的な暗さを感じるのは私の偏見だろうか。

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2010年9月 4日 (土)

ロシアより思いを込めて

今、北京経由でバイカル湖畔のイルクーツクから帰ったばかりだ。

例によって、今回も観光旅行では経験し得ない体験をしてきた。

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今もウランウデの人々の笑顔が瞼の裏に残っていて、

少々夢見心地のままなのだが、想いは新鮮なうちに書くべきだろう。

とは言え、何から書き出すべきか?

Cimg1284

やはり順を追って、様々な出来事を含め旅程を遡ることにする。

成田を18:15に立った私達の旅は、最初からアクシデントに見舞われる。

北京には予定通り現地時間21:15に到着した。

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この巨大な北京国際空港でイルクーツクに乗り継ぐのだ。

だが、搭乗ゲートで待っていても一向に案内がない。

それに駐機場にもそれらしい機影すら見えないのだ。

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それでも出発予定時間直前になって、6時間遅れの表示が出た。

そして、僅かばかりのサンドイッチが配られた。

だがそれだけで、何の説明もない。

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止む無く私達は、このロビーで一夜を明かす他なかった。

椅子の上に横になったものの、眠ると冷たいクーラーの風で目がさめる。

そんな繰り返しと共に夜明けを迎えた。

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滑走路のかなたから太陽が昇り始める。

その明るさに周りを見渡すと、ロシア人ばかりである。

シベリア航空だから当然と言えば当然だが、

Cimg1293_2

日本人は私達9人だけであった。

ともあれ、午前8時になって漸くイルクーツクに飛び立った。

北京からモンゴルを跳び越して目的地までは3時間弱であった。

Cimg1296

11:30にはイルクーツク空港に到着できた。

だが大型機でもないのに、荷物が1時間待っても出てこない。

乗客は文句も言わずひたすら待っている。

Cimg1297

そして、小一時間も経って窓の外にバッグを積んだ車が見えた時、

その受け取り場に時ならぬ拍手が沸いたのだ。

何とも不可思議な風ではないか。

結局、この小さな空港を後にしたのは13時であった。

と言う次第で、この日はSAYANホテルに入って、程なく夕食になった。

Cimg1298

成田からこの地に丸一日を要したのだが、実は日本と時差がない。

だから午後10時近くので明るいのだ。

私達は、北京で時計を一時間遅らせ、この地で再び元に戻すことになった。

Cimg1301

この日快適だったのは、

日本の猛暑と違ってここの気温が15度と冷涼だったこと位だろう。

それにしても、この国の機構は未だにどこか変だ。

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