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2010年9月 6日 (月)

イルクーツクの歴史と街

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人口60万のイルクーツクは、シベリア西部の政治産業の中心地だ。

もともとは、ブリャート人の攻撃に備える守備隊駐屯地として、

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1652年、イルクート川の河口、

アンガラ川の岸辺にコサック部隊が作った砦の街だ。

その砦跡には、今はこの地で最も古いスパースカヤ教会が建っている。

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19世紀になるとロマノフ王朝は、

発見された金の採掘のために、この地に囚人を大量に送り込んだ。

その後、デカブリストと呼ばれる反乱貴族の流刑地になって、

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シベリアのパリと呼ばれるような発展を遂げていく。

しかし一方、ロシアの殺人の首都と別称されたように、

毎日どこかで人が殺されたと言う。

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その当時は、プロの首絞め強盗が暗躍する怖い街だったようだ。

悲劇はなおも続いた。

1917年の社会主義革命による戦乱だ。

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一旦はボルシェビキが政権を握るのだが、

シベリアの独立を主張する白軍の攻勢によって革命党は倒れてしまう。

この内戦は1920年にボルシェビキの全権掌握まで続くのだ。

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イルクーツクは、長さ600kmものバイカル湖の淵に位置している。

だからサンクトペテルスブルク方面に行くには、

必然的にこの地を通過することになる。

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と言う訳で、茶や絹、磁気、金やクロテンの毛皮、マンモスの牙など、

様々な物資のロシアと中国の通商路になっていた。

ところで、日本人で最初にこの地に暮したのは大黒屋光太夫だ。

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カムチャツカ半島に漂着(1782)した一行は、

1783年、エカテリーナⅡ世から帰国許可を得るために、

シベリアの大地をはるばるとこの地までやって来たのだ。

17人だった一行は、このとき既に5人になっていた。

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光太夫が奇跡的に帰国できたのは1795年のことだった。

この街は、囚人が流れ込んできたり、

金鉱脈を探し当てた農民が一夜にして大富豪になったり、

アメリカの西部開拓と何所か似ているではないか。

通りに面した建物には、豪華さと素朴さが混じり合っている。

たがそこここに、ソ連時代の残照と共に陽気な野蛮さも滲み出ている。

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コメント

明治四十一年六月、シベリアに落ちてきた隕石の被害にまつわる話を小説に書いていますので、イルクーツク界隈のことをかくにんしてます。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2017年3月 6日 (月) 08時44分

明治時代のイルクーツク界隈はどのような様子だったのか・・・。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2017年3月 9日 (木) 03時29分

残念ながら、お役に立てそうな情報を持ち合わせていません。イルクーツクの日本領事館に照会してみるのは、如何でしょうか。
                山草人

投稿: 山草人 | 2017年3月 9日 (木) 19時14分

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