蒼龍窟を訪ねて
この世に益体も無く生きている人は多い。
私も、あるいはそうだろう。
だが幕末に、「自分こそ、無くてはならぬ人たらん」と生きた
奇特な男がいる。
誰あろう、蒼龍窟こと越後長岡の河合継之助だ。
新潟に出かけた帰りに越後長岡で途中下車し、
風雲児・継之助の駆け抜けた時代に思いをはせたのだ。
彼の一生は、幕末の長岡藩の帰趨を決めることだったと言える。
たかだか120石取りの小身代の出身でありながら、
自分こそがこの国(長岡藩)を救い得ると確信して生涯を送った。
全国の有為な先達を訪ね、世界の趨勢までも見通していた。
やがて筆頭家老に就くや苛烈な藩政改革に乗り出す。
ガトリング砲(機関銃)を始とした最先端の武装を始めとして、
藩士の給金制や商業振興など、
彼の命を懸物にして藩の近代化を急いだ。
やがて鳥羽伏見の戦いが起こり、官軍の北上が始まる。
官軍はその途上の各藩を抱き込みつつ、会津の征伐を目指した。
長岡藩は、その正面に位置していたのだ。
会津とは暦年の親交があり、加えて長岡藩は徳川の親藩でもあった。
官軍に下れば、自らその会津を攻めなくてはならない。
彼は自分の力で、何とか官軍との和平を実現させたかった。
しかし、交渉の相手は若干20数歳の軍官岩村清一郎だった。
俄然この小千谷の慈眼寺での会談は、岩村の一方的なものになった。
「問答無用」と罵倒されつつも、嘆願を繰り返す継之助。
しかし、彼は遂に官軍との戦いを決意するに至る。
若い岩村にすれば「たかが7万石程度の藩に何が出来る」と思っていたのだろう。
だが長岡藩は、軍事総督継之助の下で重武装していた。
この小千谷会談を境に凄惨な北越戦争が始まるのだ。
ともあれ時勢は、継之助にとっても苛烈であった。
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