手探りの希望
何が辛いって、先行きに希望が見えないことが一番だろうか。
どんなに苦しくったって、行く先に希望がありゃどおってことはない。
この国では毎年3万人以上の人が自殺している。
みんな絶望の末のことに違いない。
しかし、希望ってそもそも何だろう?
少し前までは、社会の進歩とか経済の成長をみんな信じていた。
だから金ができたらアレを買おうとか、何所かに出かけようとか、
今日よりも明日が良くなるって事が希望じゃなかったか。
そうしてその希望が、社会全体を押し上げてきた。
ところがバブル崩壊を機に国の未来が信じられなくなって、
この国全体が閉塞感で覆われるようになった。
つまり、かつての希望の類が希望でなくなっちゃつた。
そして、新たな希望が見出せないことが閉塞感の源だろう。
もちろん「最少不幸社会」なんてのが希望であるはずもない。
それじゃ何に希望を託せば良いのか?
それは物でも肩書きでもなくて、
これからの時代の生き方そのものではなかろうか。
かつて武士にはその理想の生き方があったし、
町人にも町人なりの生きる文化があった。
何も栄耀栄華が希望ってことではなかったはずだ。
「一人の努力が、みんなの為になる」
今必要なのは、その「為」が生き甲斐になるような文化ではないか。
是非「如何に生きるか」って言うことに、希望を見出そう!
それとも、あなたの希望の中味って何でしょうか?
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コメント
自殺者は先進国一番を維持し続ける日本だ。確かに今の政治経済動向に希望は見いだせないが、国民全員が希望を持たないかと言えばそうでもない。以前に自殺直前の3人の人と関わりを持った事がある。
3人の共通点は、他人への憎しみがあり、運命は変えられないと信じていた。
彼らは生まれてきた意味を探さない。 希望がないから死を選ぶ。病気だと言えば解決付くようだが、命を奪うのだから殺人者だ!
死を覚悟した時、生まれて来た意味を探すべき!親や知人、先祖との関わりに感謝を覚えるべき。生き方や生きがい、希望が見えて来ないなんて愚か者。 愛がない。
ボランティアだって自分の為…という喜び。人の為だと思うと偽りになる。
感謝の気持ちで、限られた命を自分の為に生きる。
希望はそこから生まれるのではないかと私は思う…。
投稿: ひろ | 2011年1月27日 (木) 12時56分
はて、武士の覚悟の自死と今日の絶望の自殺とでは、まったく別物ではなかろうか。武士も特攻隊も、何がしかの責任とか使命感を背負って、自らを死へと誘った。
しかし、自分が生きることに絶望しての自死は、救いようがない。人間は、人によって生かされていることがあって、何も自分の為だけに生きている訳でもない。
偽善でも何でもなく、伊達直人でなくても人の為に生きることが出来ると思う。これからの時代は、多くの人がそう自覚出来るような場面を作ることが必要だ。
ここに参加すれば、あなたの存在が自覚できるんですよって、そんなシーンだよね。そいつを社会的に作ることだと思う。
偽善でもなんでもなくて、人は人の為に生きているんだ。だって、好きな人のためなら、何だって出来ちゃうでしょ。
山草人
投稿: | 2011年1月27日 (木) 19時56分
朝早く名古屋の大学へと向かう我が家の子ども達は、将来に不安と期待を感じつつ元気に家を出る。交通事故に気を付けて行ってこいよ…と送りだす。
お前たちは、お父さんの宝物、先に死なす訳には行かない。…以前より自殺は犯罪であると教えて来た私…
…自殺志願のうつ病者は励ますと余計に死を選ぶ。生きたくとも生きられない若い命もある。
目の前の試練は神が与えたチャンスと捉え生きて欲しい。 変えるれる事は変えて行く勇気を…
変えられない事は受け入れる心の穏やかさを…
そして両者を見極める英知を持って欲しいと我が子に願うのです。
行ってらっしゃい。私の宝物達…。
投稿: ひろ | 2011年1月28日 (金) 06時59分
自殺=殺人だと言葉にするのは、大切の子供を守るためです。
うつ病は、真面目で、優しい人間が成り易い病。例え病に成っても死を選んでは、行けないと言う、私なりの思いからです。
死をイケない事だと知っている人は、病気に成っても死を選らばないと信じている私ですからです。
悲惨なニュースを聞く度に、子供達の前で口にする私がいます。
ぶじわらさんなら大切な子供に何と説きますか?
私の友人、父親の自殺の後、別の悩みで自殺を選んだものが居ます。
生きる事は、死覚悟していくものですが、自然と受け入れて行く事が望ましいと思います。
死から他人を救おうなどと言う気持はありませんが、大切な肉親は、守りたいです。
それが私の考える親の務めです。
自分を大切にするように、愛するものを大切にする。野生なのか文化なのか分りませんが、私の心には、『守』とか『育てる』とかが、人生の希望なのです。
ふじわら様を考えを責めるものでもありません。
この先の見えない不安定な社会でも生き抜く努力・力・楽天的に力を身に付けて欲しいと子供達に願うのです。
投稿: ひろ | 2011年1月29日 (土) 00時36分
ふじわらさま、確かにイジメと考えるアプローチは、頷けます。
私の場合、小学生の時、母親から『目には目、歯に歯は』と、やられたら必ずやり返せと教えられましたので、子供の頃から自己防衛は、出来て居たかも・・・。
ニワトリは、人間に対しては、憶病な生き物ですが、仲間同士では、弱いとみなすと戦い殺すのですね。
殺さないにしても人間にも当てはまりますね。
人間関係にも自分自身の生き方にも勇気と自信を持って、生きたいものですね。
一度の人生を悩み死に終わらせては、親不孝ですからね。
ふじわらさま、読み難い文に、わざわざレスポンス頂きありがとうございました。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
投稿: ひろ | 2011年1月29日 (土) 21時20分
難しい課題を避けて通る世相の中にあって、敢えて取り組む皆様に敬意を表します。
お蔭様で、「自殺」という非日常的な課題に対する自分の考えを整理する機会を与えて頂いたことに感謝します。
私の考えは、「ひろ」さんと「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんの間にあるのではないでしょうか。
まず、このような課題は、「人(人格)の多様性」に密接な関係をもっているので、自分の考えを絶対として相手に押し付けることは無理と思います。
そのような前提で、同じ土俵で議論する際に、「ひろ」さんが投稿された「27日の主張する目的・範囲」と「28日の体験談」は、議論のあるべき姿として、貴重と考えました。
「ひろ」さんが主張される「若い世代が自殺することを防止するのが親の世代の任務」というご意見には大賛成です。特に、「小中学生のいじめによる自殺」は大人達共通の責任として、国家的に無条件でその防止に全力を傾けるべきでしょう。
ところでその方法ですが、「子どもに自殺は犯罪だからダメという方法」を否定するものではありません。しかし、強過ぎると両刃の刃になるようで心配です。子どもが成長した際に、「親友が自殺する恐れを見た時、『犯罪だから止めろ』で済む」でしょうか。私は、友人に寄り添って打開策を講じる子どもであって欲しいのです。また、「親友の縁者が自殺した際に、『友人を犯罪者の縁者』と扱う」のにも賛成できません。この要因だけではないでしょうが「犯罪者という言葉が遺族を苦しめ、二次災難を招いている」ようで心配です。
「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんに共感するところがあります。それは、「熟年以後、特に還暦後の人達(自分)には、『死に方を選択する権利』が与えられて良い」ように思っているからです。(これは「延命治療を拒否するホスピス制度」を拡張すれば自然に到着する概念ではないでしょうか。)
「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんの主張を補強する事例を思い起こしています。一つは、「落日燃ゆ」に描かれた、広田弘毅元首相が極東裁判で絞首刑に処せられた後に、「ご母堂が食を断って自死」していること。一つは須原一秀という哲学者が「満足に満たされた生活における『自死』が存在するという自説を証明する」目的で、65歳にして「完全な形で自死に至った」という事実です。私は、「(己を主張しようとする)人間の尊厳」の表れとしてこの二名の行為に敬服し、心の奥底に留めたいのです。
「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんは、「自殺」という側面を「いわゆる武士道」の「潔さ」で強調されているように思います。
私は、上記二例については「潔さ」を感じとっていますが、「武士道」には無条件では同意できません。
というのは、森鴎外の「安倍一族」に描かれているように、「切腹が潔さの表現」とは言い切れないようです。「家」や「恥」そして「世間体」といった、ある意味では、「いじめ」の要因が大きかったのではないでしょうか。その上で、逆説の日本史で井沢元彦は主張する、「祟りを回避する鎮魂の意味」で「武士道」や「潔さ」という美語を献上する、悪しき日本文化が花開いた典型に思えてならないのです。
「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんが、稀有な自説を更に補強・発展させて、社会共通の概念に高めて頂くことを祈念して止みません。
今回、このように難しい問題を提起したり切り口を提言・例示する場としては、ブログが有効であると分かりました。しかし、より深く議論・検討するには、やはり「膝詰めで議論する必要」を痛感しています。勧進元の山草人さんのご尽力に期待しています。
投稿: 米山 | 2011年1月30日 (日) 14時07分
米山様、素晴らしいレスポンス嬉しくなります。山草人様のこのブログを、私なりに学びの場と考えます。。山草人様と同じく、先の見えない未来に、問題視し、問いかけてくれるブログ題に今までコメントが無かったのが不思議にも思えました。
私のレスポンスに更に皆さんがコメントして頂いた事が、不勉強な私にとって何より嬉しいです。いつかお会いして、お言葉を聞きたいです。
投稿: ひろ | 2011年1月30日 (日) 19時55分
色々と難しい哲学になってきましたね。正直勧進元としては、空中を飛び交う思いに戸惑っています。
どこかに集まっていただいて、夜通し議論してもよいですね。ただし、私の議論は如何に死ぬべきかではなくて、如何に生きるべきかなのです。
駄目だ駄目だではなくて、どんな時代にも希望と言うものは創られてきたのです。それは宗教であったり、政治であったりしますが、今この時代にその希望創造が余りにプアーなのだと思うのです。景気が希望であった時代は去り、新しい生きる哲学こそが必要で、それが「人の為に生きる」ことだと思うのです。
自死はそれ自体認められてしかるべきものと思いますが、それ以前に「絶望」を無くす事こそ肝要じゃありませんか。
山草人
投稿: 山草人 | 2011年1月30日 (日) 21時52分
ふじしろ乃たかひさ様、名前を間違えて居りました。大変失礼致しました。
私は、肉親の三人の別れから死を学びました。
・・・私の祖父との別れは、・・・50年間続けた弓道の矢が的に当たらず、更には弓が引ききれ無くなった90歳の年に、断食をして死んで行きました。母親とお見舞いに行きましたが、元気に私の母親に人生の喜びを説く祖父でした。
父との別れは、癌によるものでした。
日に何度も下血を繰り返し、痛みを堪えて幾晩も眠れない夜を共にしました。
でも弱音を吐かない父でした。
最後は、痛みが酷いので、モルヒネで眠りにつきました。
母との別れは、多臓器不全でした。
付き添う私は、『僕が側に居てあげるから安心して、もう眠りな~』と体や顔を触ってあげると、早く苦しそうな呼吸を止めました。私を見つめ頷きながら、目をつむりました。安らかな別れでした。
今年50歳になる私も二度ほど癌だと言われ、覚悟した時があります。
その時に浮かんで来て、困ったのは子供達の悲しむ顔です。
自分との肉体の別れも悲しいと子供の頃より思いました。
子供の頃、母は、言いました。
『死を恐れては行けないよ。生きる事も死ぬ事も一度しかないから勇気を持ちなさい。』と・・・。
医者から成人する事は、出来ないと言われたひ弱な私を成人させてくれた母です。
やんちゃな子供の頃何度も何度も『私があなたにあげた大切な体です。大切に使いなさい。あなたは、私の宝物・・・。』
耳にタコが出来るほど聞きました。
父や母が掛けてくれた言葉が私を成長させてくれました。
三人の肉親の別れで、自分の体との別れを想像する自分が居ます。
だから、価値ある生き方から価値ある別れが生まれると信じる、心青い私です。
十人十色、顔も違えば、生まれ育ちも違います。色んな考えが有って当然。
いい一日、いい一年、いい一生、感謝で終れる様に、精一杯生きましょう。
投稿: ひろ | 2011年1月31日 (月) 22時39分
ひろさんへ
31日のコメントを読みますと、素晴らしいお母様で羨ましいですね!
お母様の言葉をそのまま使って、成人までの子供たちには『私(神・自然)があなたにあげた大切な体です。大切に使いなさい。あなたは、私(神・自然)の宝物・・・。』 そして、以後の成人には『死を恐れては行けないよ。生きる事も死ぬ事も一度しかないから勇気を持ちなさい。』を贈り、励ましたいものです。私は「自殺は犯罪」と言うよりも、より効果があってリスクも少ないと思いますが、いかがでしょうか。
30日のコメントの件です。喜んで頂いたとのこと、私も感謝あるのみです。「お会いしたいものです」が、勧進元の山草人さんの重荷となるのは避けたいものです。代案として、勧進元の山草人さんに私のメールアドレスをひろさんに送って頂こうと考えています。暫くは、個人的なメール交換で議論と親交を深めたいのです。
山草人さんへ
30日付の戸惑っているようなコメントについてです。 が、このように大きく議論が展開しているのは、勧進元として花開いたと、大いに喜んで宜しいのではないでしょうか?!
ということで、先ず御慶びを申し上げたい、と考えます。
ところで、皆様が一堂に会すのも難しいと思います。その前に、便法として、ひろさんと「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんに私のメールアドレスを送って頂けるようにお願いします。メールを利用して、コメントには掲載し辛い内容でも自由な議論ができそうで、期待しています。
「俗名ふじしろ乃たかひさ」さんへ
29日の「バカは絶望しません、バカを一生懸命生きよう」という言い方が、私は生来、大好きです。それは「他人に何を言われても、バカにされたからといって動じることはない、という開き直り」と同じと考えるからです。常々、私の最大の特徴・取柄は「開き直りが上手いだけ」とも思っているのです。
しかも30日に、バカの内容が、誰もが不安に思いながらも逃げている「死のイメージを確立しなければ大人になれないと、日々思い悩むバカ」ということと理解しました。高い目標にも逃げ出さないでチャレンジする勇気に、頭が下がります。
2月2日のコメントを読みますと、私と「開き直り」で類似性はあるものの、「成長過程の状況や行動様式」は随分と異なるようです。
私は生来、鈍足で運動神経が極端に劣っていましたし、暗記下手で話下手・不器用です。「喧嘩も競争も必ず負けるから(負けるのが嫌だから)何事にも競争しない」という開き直りを覚えました。勉強は他人を気にせずに、好きな方法で勉強しました。「他人を気にしなければ、知識が身につくのが嬉しくて、勉強が好きになる」というのが持論です。技術者として会社に入ってからも、他人との競争を意識したことはありません。「難しかったり、面倒だったり、手柄になりそうも無くて誰もやらないが、実際には必要な課題を自分で探して解決していく」と、競争になりません。しかも、上司から褒められこそすれ、叱られることは無いのです。競争になれば必ず負けるから、競争となれば「お先にどうぞ」(After You)と譲るだけでした。だから、皆がやりたがる課題・仕事には手を出さなかったのです。ありがたいことに、そのような仕事は他の人が競争して成し遂げてくれます。
このように話せば、「恵まれているだけ」と言われるでしょう。その通りで、無事に生きて来れたのが不思議にも思っています。(笑) ですから、29日付の「神代の時代から今日に至るまで豊かさと平和を求めてきました。この希望、願望。が今日ほどかなえられた時は無いのでわないか??」というお言葉に深く同意するものです。 しかも68歳の現在、私はさしたる仕事もしないのに、年金を頂いているのです。この無上の幸せに感謝しています。
しかし最近、社会を見渡すと悲しい場面に遭遇します。特に、年金受領者が「子ども手当を非難している」ことには、呆れ返っています。私が疑問・矛盾と感じるのは、以下の考えによるのです。
「子ども手当」3兆円をバラマキと非難していますが、「年金の税負担分」は6兆円(3年程前)と聞いた記憶があります。しかも当時、運用益が別に3兆円あったようですが、リーマンショック等では逆ザヤが出ているようです。先般、菅首相が「年金の税負担額が17兆円で、国債で賄うことが妥当か?」といったのは、運用損を加えたものと推察しています。だから私は、「年金は子ども手当以上のバラマキ」ではないか、と言いたいのです。
「親が子ども手当を大学入試資金に預金するからダメ」という意見も不思議です。3年程前に「サラリーマンの平均は定年時に2千5百万円で死ぬ時には3千5百万円だ。定年後も年金を1千万円貯め込んでいる。」という現実は何を意味しているでしょう。定年後20年生存するとすれば、毎年一人で50万円を預金していることになります。(家内に家計を全て任せているので断言できませんが、私も標準に入っていると思っています。年金話が出る都度、汗水流して働いている人々に対し、申し訳なさと情けなさで一杯になります。)
「年金は財源があるが、子ども手当には財源が決まっていない。」とのことですが、この財源というのは「過去の実績」に過ぎません。将来の財源と増減廃止は全て、国民の代表である国会で決めることができます。死刑でさえ廃止と議決すれば簡単に実行されるのです。ただ、年金減額を訴えたら、口うるさい選挙民である高年齢者の反撃に合って必ず落選するから、代議士が口にしないだけ、と言うのが実情と考えています。
日本の将来と少子化を憂うるならば「子ども手当をどうするか」を、年金世代は代議士を脅したり、屁理屈の既得権で門前払いでなく、真剣に子育て世代と年金との比較・優位性を含めて議論すべき、と訴えたいのです。
投稿: 米山 | 2011年2月 5日 (土) 09時33分
米山さん。重荷だなんてとんでもない。ひろさんのお陰で突然賑やかになって、それで戸惑っていただけです。大いに議論、結構じゃないですか。
ともあれ、ひろさん、俗名ふじしろさん、今度私にコメント下さる折には、メールアドレスを明記してください。米山さんのアドレスをお送りします。
子供手当ての件、私もこれで少子化に歯止めでも掛かれば言うことはないと思っています。しかし、借金して手当てを配るんじゃ、しゃれにも成りませんね。
そもそも有りもしない財源を有るといって幻想を拡散したことの反省から始めなければなりません。
どうすれば、この国の未来を再構築することができるかを出すね。これは正義の問題で、政争にしてはいけません。
山草人
投稿: 山草人 | 2011年2月 5日 (土) 18時31分
山草人様
2月5日のコメントが気になってなりません。山草人さんが「大いに議論、結構じゃないですか。」と言いながら、後半では自ら議論を否定しているように疑っているからです。
というのは、「政争にしてはいけません。」という言葉の主語は誰かです。
「私が政争しているわけではないし、政争をする程の発言力や権力ももっていない」のは自明ですから、主語は私ではないでしょう。
そうすると主語は首相ということになります。私が議論の対象にしたのは、政策の中身であって、政治家(政治屋)の議論の仕方ではありません。(我々の代表者がマトモに議論できないなら、我々自身で議論したい、という考えといえます。逆に言えば、彼等がマトモに議論できないのは、国民の間で議論さえできないならその代表者としては当然のこと、と開き直られることを憂慮しています。)
私が、「子ども手当問題」を提起したのは、私が大切と考えている政治社会問題について、質問の形で疑問を発したのです。そして、体験も交えた疑問に思う内容を(恥ずかしながら)開示して、皆様と(具体的な内容について)真剣に議論しようと試みたのです。
それに対する応答が、具体的な疑問点に言及することなく、議論の内容に関係ない「首相が政争としている問題なので、(我々が)議論の必要なし」と門前払いされたようで、淋しい気持ちで一杯になっています。
再度、私の「子ども手当」問題に対する山草人さんからのご意見・回答を求めたいのです。
投稿: 米山 | 2011年2月12日 (土) 11時06分
結論を言えば、何の成果も得られない子供手当ては、即座に止めるべきでしょう。
後世に借金して手当てを配って子供を育てるって、どう考えても変なのです。働いて子供を育てるのが本質ですね。それなら何故、扶養控除の増額じゃいけないのでしょうか?
わざわざ手間と費用をかけて「手当て」を配る必然性は無いと思うのです。
「政争にしてはいけない」と言うのは、子供を育むという大事を、金を配る配らない、もらえる貰えないと言う利害相克の次元に貶めて欲しくないと言う意味です。
どうすれば次代を健全に育てうるのか、そのための議論こそが必要でしょう。
今、政府のやっているのは、政党の利益誘導のための「子供」でしかありません。
誰だって、子供のために一生懸命働くのです。その一生懸命を助けるのは、金を配ることではなくて、就業の場の拡大や保育環境を整えることでしょう。
そうした本質をこそ政治は議論すべきなのです。
山草人
投稿: 山草人 | 2011年2月14日 (月) 21時27分