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2011年3月 1日 (火)

足摺のジョン・マン

明治維新前後のこの国にも、龍馬にも大きな影響を与えた男だ。

中浜万次郎は親父に早く死なれ、

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一家を背負って14歳でカツオ舟に乗り組んだ。

その初漁で嵐にあって沖ノ鳥島に漂着する。

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鳥島ではアホウドリを食べるなど半年ものサバイバルで生き残る。

そこに運よく、米国の捕鯨船ジョン号が通りかかって救助される。

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その時、ジョン号のホイットフィールド船長が、この少年を見込んでしまう。

「オヤ、この子は」と見込むだけの冴えがあったのだろう。

万次郎は、彼の庇護の元で日本人としては初めて、

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語学ばかりか西洋の数学や航海・造船など高度な教育を受ける。

しかしその万次郎は、やはり何としても生まれ故郷に帰りたかった。

金を貯めて帰国を試みるのだが、なにせ鎖国の国なのだ。

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それでも一大決心の末、1851年に琉球に上陸する。

25歳になっていた万次郎だが、

それから1年10ヶ月にもわたる執拗な取調べが続く。

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それでも彼の計算は正しかった。

仮に故郷の土佐に上陸していたら、直ちに刑殺されていただろう。

ともかくそんな折、時代の流れが彼を必要とするようになる。

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1853年のペリー来航以降、時代は風雲急を告げ始めていた。

その風雲の中で、万次郎は幕府の直参旗本として活躍を始める。

単に欧米の先進技術を伝えたのみならず、

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通商条約調印のため咸臨丸で渡米した折には、実質的な館長だったろう。

維新後は開成学校(東大の前身)の教授として活躍し、71歳で生涯を閉じている。

足摺岬の中浜という小さな寒村で生まれ育ち、

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遭難という試練をビッグチャンスに変えたのは彼自身だ。

時代の幸運に恵まれたとは言え、まさに波乱万丈の数奇な運命だろう。

足摺岬にはあの燈台まで椿の道が続いている。

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そのトンネルを潜り抜けると、

丸い地球を見晴るかすように太平洋が広がっている。

中浜万次郎は、この太平洋のような広がりの中で生きたのだ。

その海を遠く見通すかのように、ジョン・万次郎の像が巨立している。

今日の、平成維新とか開国の言葉が、何と軽いことかとしみじみ思う。

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