« 義捐金 | トップページ | 命山 »

2011年3月25日 (金)

自然体でありたい

時と場合の、心の置きようを考えている。

はっきり仕事と割り切れる時には、意外に対処は楽なものだ。

Cimg3396

ところが気楽なはずの自分の主張となると、

自意識過剰というか、

感情が先立って思うことがキチッと言えない事が多い。

Cimg3320

特に相手に非のある場合などは、上手くその事を伝えられない。

何かと慮ったりして、結局中途半端になる。

要するに物事にとらわれて説得下手なのだ。

Cimg3321

ある一点に感情移入してしまうと、

通電すると熱くなるニクロム線みたいなもので、

そこから先に神経が届かなくなる。

Cimg3322

感情など押し殺してさらりとやりゃ良いのに、鈍才はそれが出来ない。

思い詰めると、つい本質を見損なってしまうのだ。

ある友人が「もっとバカになったら」と言う。

Cimg3323

・・・私の本当のバカさ加減を知りもしないで無責任な言だが、

しかし一面の真実ではある。

つまり「どうでも良かろう」と醒めた姿勢になればよいのだ。

どうでも良い事は何一つ無いだろうが、

未だ若いんだから、余り熱くならずに粛々とやろうか。

肩の力を抜いて、フワッとね。

|

« 義捐金 | トップページ | 命山 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

 「相手の非」に関する考察

 山草人さんから、「相手の非」という言葉を聞いて、考え込んでしまった。
 「自分の非」はいつでも気にして、気をつけるよう努力しているつもりだが、結果がどうなのか、確認したことはない。努力するだけで「結果は是非に及ばず」と開き直っているような気もする。だから嫌な思いをさせていることも多いと思う。

 気をつけている「自分の非」というと「嘘」と「(心ならずも)人を傷つけてしまうこと」といったことである。
 若い頃特に「自分の考えを入れず風評で話して、後で間違っていることに気付いた」というのがある。つくづくと「自分はバカだな!」と情けなく思う。
 しかし、人間が出来ていないから「自分から素直に謝れない。」ときている。
 だから、「風評に躍らされないぞ!」という気分が強くなる。風説の真意を確認するから「理屈っぽい」と嫌がられる所以である。しかし「自分の考えであれば謝り易い」という性分なので、これで行くしかないと覚悟している。

 以下は風評で情けない思いをした例である。
 小学校の時代、近所のオヤジに風評により友人の悪口を言った。オヤジから「○○チャン。友達の悪口を言うもんじゃないよ。」と静かにたしなめられた。
 大学時代に食堂で隣に座った教授に「大学統合問題で大学に不正があるらしい。」と何気なく話した。その後、同じ場所で「調べたけどその事実はないよ。」と諭された。学生を信頼し調査した教授に絶句し、後で感謝した。その教授のように、コトの是非を言う以上は、根拠を確認する人間になりたいと思った。


 「相手の非」に気付いて、腹を立てたという記憶があまりない。思い出してみる。
 一つは、倫理・道徳に反することであろう。
 親友が奥さんに内緒で浮気した際には、「お前の行動は社会通念に反する、と厳しく申し渡して、奥さんに詫び」させた。 奥さんが「亭主を寝取られたというかは知らないが、ワタシャ悔しいよ。」と言って許した言葉が耳に残っている。当然に元の鞘に収まった。後に友人は「浮気相手の旦那にワビを入れた」と本人から聞いた。一対一で車の中だったそうだから、呆れながらも何事も無くて良かったと安堵した。

 もう一つは、「相手の嘘」であろう。
 私は、「嘘」について一筋縄ではいかないことを既に「嘘ばかり」でコメントしているので、繰り返すことは避けたい。
 私人としての「嘘」は、相手の「嘘」を見抜けないのも、本人の責任なのかもしれない。
 所詮は、相手は他人である。完全に制御できる訳がない。完全に制御できるのは自分だけである。
 「公人の嘘(と思われる)」の場合に、どのような形で糾弾・究明すべきかは、現在形で議論されていることと思う。少なくとも「誹謗中傷すること」は避けるべき、と考えている。論理的に議論したい、と主張するものである。そうしないと、修正を求める輪が広がらないからである。それに自分に非がある場合もあるのだ。(民主主義では多数決で是非がきまるから断定できない)

 考えた末に結局、山草人さんが言う「特に相手に非のある場合などは、上手くその事を伝えられない。何かと慮ったりして、結局中途半端になる。」という内容(イメージ)が理解できないで困っている。
 私が理解できないだけで、他の人には簡単に理解できることなのであろうか?!

投稿: 米山 | 2011年3月28日 (月) 10時09分

私達は、大抵が自分は冷静で理性で律しているのだと思っています。

 しかし実際には、感情の動物でしかないのではないでしょうか。目の前の人が自分と同じ体温では無いことに気づいた時、なす術も無くおろおろとしてしまうのです。

 人はみんな同じではないのです。当然分かっていると思っていだことが、まったく理解されない別世界に住む人々だとしたら、それはもう何を言っても始まらないのです。
 理屈で解決できる世界は、実は幸せな世界なんでしょうね。
              山草人

投稿: 山草人 | 2011年3月28日 (月) 20時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 自然体でありたい:

« 義捐金 | トップページ | 命山 »