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2011年4月15日 (金)

戦国武将と妙心寺

広さは甲子園の8倍ほど、境内には46もの子院塔頭があって、

その広大な寺域に佳麗な七堂伽藍が整然と並んでいる。

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それぞれの庭などを見て歩けば、とても一日で見られるかどうか。

とは言ってもこの日、門を開けていたのは5寺ほどだった。

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その寺々の多くが戦国大名の寄進によるものだ。

その為もあって、この広大な寺域には様々な歴史上の人物の墓がある。

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開山堂の西北には3歳で夭逝した秀吉の子、棄君の墓がある。

それに本能寺で殺された織田信長と信忠墓も開山堂の東側にあるのだ。

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その他、武田信玄などの墓もあって、この寺の戦国期の深い関わりが知れる。

この日案内されたのは、法堂と浴室だけだった。

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法堂の天上には可能探幽の雲龍図があって、

八方睨みの龍で何処から見ても睨まれている。

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浴室は他の寺院と同じだが、明智光秀ゆかりの浴室だ。

光秀は本能寺で信長を討ったその足で、妙心寺に立ち寄って多額の寄進をしている。

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その金で浴室が作られ、以後明智風呂と呼ばれたらしい。

堀尾吉晴や山内一豊、滝川一益やら、

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塔頭寺の来歴そのものが歴史なのだが、

この寺を巡って起こった歴史上の事件が紫衣事件だ。

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朝廷の権限を押さえ込もうと躍起だった徳川幕府が、

天皇の勅許した妙心寺の紫の袈裟を差し止めた事件だ。

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たかが衣の色だが、これに抗議した沢庵禅師などが流罪にされている。

時は流れて戦前の昭和、水上勉は妙心寺経営の花園中学に通っていた。

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戦時色が色濃くこの禅寺をも覆っていた。

妙心寺の石畳の両側は松並木だが、ここで鉄砲を担いで石畳に伏せ、

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紫外線を想定した教練を強いられたと書き残している。

人の世は、かつ消えかつ結びて 泡沫の如しか?

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徒然草の「およそ鐘のこえは・・・」の妙心寺鐘のリンとしたこえが、

そう言って響いているように聞こえた。

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