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2011年6月25日 (土)

高校調査書改ざん事件

この国に、こんなことがあってはいけないと思った。

普通の人間は、警察・検察の言うことだからと信用してしまう。

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この事件では、被告はずっと最高裁まで一貫して否認し続けていた。

否認の故に、345日間にも及ぶ拘置となった。

その間、連日ペン先を眉間に突き付けられて、検察官の書いた調書への署名を強要されたという。

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被告の全人格を否定した上での取り調べが続いたのだ。

被告は、朦朧としながらもそれでも頑張り通した。

しかし事件の筋書きはすべて出来上がっていた。

その筋書きは警察が書いたのだが、検察は調書を証言によって固める戦術をとった。

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実際に改ざんした教諭には、「校長に強要されたんだろ」と、

贈賄をしたとされた元市長には「金も渡さず、どうして改ざんしたんだ。」と言う訳だ。

元市長も45日間拘置されて(参考人だし違法)、とうとう「金を渡しました」と証言した。

その証言でこの事件は完結したのだ。

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進学の為の調査書が改ざんされたのは事実だから、

依頼者がいて改ざんした教諭がいたことは事実だ。

あるいは誰かに金が渡っていたかもしれない。

しかし冷静に考えると、校長に改ざんを強要できるほどの力があったかどうか?

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先日、元市長は「元校長には申し訳ないことをした。」

「私の弱さの故に嘘の供述をしてしまった。正しい証言をしたい。」と語ったのだ。

当然元市長は偽証罪になる訳で、覚悟の上での立派な決断だと思う。

そもそもこの事件は県教委への匿名の投書から始まった。

この高校では嘘の調査書で大学への進学をさせている。

管理者もそれを黙認しているという内容だった。

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その投書を受けて警察への告発となり、事件になっていった。

事件になる過程では、元市長に対する警察やマスコミへの悪意の投書もあった。

陰に贈賄があるのだという投書だった。

贈賄があるのなら収賄者が必要になる。

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結果として元校長はその収賄者に仕立て上げられてしまったのだ。

恐らく事実は別の所にあるのだろう。

しかし、元市長の様に「恐れながら、これが事実でした」と名乗り出るには、

自分のすべてを放棄しなければならないだろう。

彼らは、真実を墓場まで持っていこうと決意しているに違いない。

しかし、閻魔大王は彼らをはたしてどう裁くだろうか。

元校長は、この事件で彼の人生の大半を失ってしまった。

真面目に一途に生徒達のことを考えてきたからこそ疑われることにもなった。

しかし皆さん、これをこのままにしておいて良いでしょうか。

この国は、一体全体どうなってしまったんでしょうか。

元校長を支える会に参加して、今日という今日は堪忍袋の緒が切れました。

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コメント

 山草人さんのブログと藤城さんのコメントについて考えました。
 「検察による人権侵害」と「公文書偽造」です。どちらも罪という意味では一緒です。ですから両者とも正論でしょう。
 このような場合に、どちらを優先して解決すべき課題かを選択することが重要と考えています。逆にいえば、どちらの罪が重いかという議論です。

 私の考えは、「検察による人権侵害」の罪が大きいということです。
 つまり、「山草人さんの主張に諸手を挙げて賛成」することになります。

 表の理由は以下の通りです。
① 検察は人権侵害を罪とは認めず、必要悪として継続を企んでいる。
② だから、冤罪を作った検事に「罪の意識は無い」と考えられる。
③ 従って今後も、他の検事による人権侵害の再犯の恐れが高い。
④ 一方の教育者は「今迄に十分に社会的制裁」を受けている。
⑤ 従って今後は、他の教育者の「公文書偽造」の再犯の怖れが少ない。
 キリストの言葉も浮かびます。「罪なき者、このもの(娼婦)を打て!」そして私は、小川元校長を責める資格を放棄します。キリストが言う罪あるものの一人として彼の手を握り、涙する道を選びます。

 裏の理由は、別にあります。
 日本の教育に対する米山独特の現状批判があります。
 私は、「学校教育の目的は生徒が己の特性を見出して、成長し続ける基礎を作ること。そして将来の社会に役立てること。」と考えます。テストだけで個々人の才能を見極めるのは無理です。要領が良いだけの者は役に立たないものです。
 その面で、米国の大学では「教授の独自の判断で入学させる」こともあると聞いています。その代わりに、教授が徹底してその学生をフォローするというのです。
 つまり、学校長が「これはと思う生徒の成績を嵩上げしても、その後のフォローも怠らず、そして生徒が大きく成長し社会に役立つならば、教育者としての慧眼を評価すべき」という価値観が私にあります。
 私は小川元校長が、そのような判断で教育してきたことを願っています。
 今後、山草人さんによる小川元校長の支援活動を通じて、真実のご確認をお願いしたいものです。

 私は、教育問題を考える時には、常に次のホームページを読むことにしました。何度読んでも良い内容・文です。
 http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 以下は、その一部です。特に心に残ります。
 [ 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
  大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。
  多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。
  楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。  ]

投稿: 米山 | 2011年6月28日 (火) 09時38分

米山さんにご理解抱いてホッとしています。

 そもそもこの校長の監督責任を別にすれば、この事件に校長は無関係なのです。

しかるに彼は人身御供とされて、公文書偽造教唆、受託収賄で執行猶予三年、退職金もすべて没収の身なのです。

支える会にも多くの卒業生も来ていましたが、始めから何かが変なのです。

 警察が作り上げたシナリオに沿って、証拠もないのに無理やり犯人にさせられてしまったのです。冤罪とはこうして生まれるのという典型なのですね。

 誰が見ても、こりゃ変だ。真実は別のところにあると思わざるを得ません。

 しかし支える会に加わったとはいえ、この確定判決を覆すのは、証拠のない事件だけに容易ではありません。

 元市長の発言以外、現職教員があれは偽証でしたと語るには覚悟がいるからです。今度は自らの全てを失いかねないでしょう。

 彼らは、この事件が速く忘れ去られてほしいと願っているでしょうしね。

 でも真実は、一つしか無いのです。更なる悲劇を生むとしても、真実は明らかにすべきなのではないでしょうか。是非、私達は応援しなければならないのです。社会正義のために。
              山草人

 

 

投稿: 山草人 | 2011年6月28日 (火) 20時07分

 山草人さんと藤城さんのコメントについて

 私が、本件について山草人を支持するのは、もう一つ理由があります。それは「友人が一念発起で行動をしようとした場合には、若干の心配があっても、励まして元気良く旅立たせたい。」という、情が働くのです。 まして、山草人さんが「義憤を感じて」のことですから、支持するのはなお更です。

 28日付で藤城さんが「社会的制裁」という言葉が法律用語に無いから、という理由で私の意見を否定しようとするのは、筋違いと思います。
 法律用語は、「裁判等の司法界で一般的な言葉と意味が異なったり厳密な定義をすべき言葉」と理解しています。
 マスコミ等でも一般的に使われる「社会的制裁」は、誤解される恐れが少ない・無いだけと考えています。従って、このような場で議論する際に利用できるのは当然です。(この見方に自信ありますが、専門家に確認していません。宜しければご確認した上で教えてください。)

 それから世界の警察の話が出ましたが、日本の警察の実話です。15年程前に地元にある仲間内の懇親会に参加しました。そこの常連に元県警本部の上位5番以内に入っていたという傑物がユッタリと腰を下ろしていました。さすがに私が厳しい質問をすると、眼光鋭く鷹が獲物に向かうような感じになります。私が身構えると、一瞬にして穏やかになり静かに話してくれた姿が印象的でした。(そこには、地方新聞の編集長も顔を出していましたが。)
 マスコミに警察官の不祥事が報道される度に、当時の警察幹部を非難していました。「昔に比べて部下を大切にする気持が欠けている」と悲しんでいました。彼の現役時代は、「部下の不祥事に際し、再発を防止すべく指導を徹底し、可能な揉み消しを図った。」と言うのです。「若い頃の多少の過ちはあるものだ。」と言うことでしょう。私に向かってこうも言いました。「頑張って業務に励む若者を、些細なことなのに自分の責任回避で潰せるか?!」
 私はそれでもと切り返そうとしたのですが、彼の鋭い目に抑えられました。 今では彼の発言がキリストの「罪無き者この者を打て。」に通じている、と懐かしく思い返しています。
 現役時代の彼は、常に退職届を懐に忍ばせていた、とのことです。バレれば責任をとる覚悟だったと思います。
 私は、このようなモノの見方・行動を大事にしたいので、ご紹介するのです。

 28日の山草人さんのコメントにある「校長の監督責任」という一般に使われている言葉が、私は前から気に入りません。「校長は教師の管理・監督者ではない。学校という教育の場の代表者であるからして、教師と生徒の(教育責任を負う)代表者である。」と考えたいのです。要は「校長は教師の延長であって、管理・監督する者では無い」と考えます。「校長の監督責任」は付属する一部です。それは場所こそ違え、上記県警の元重鎮の発言にも表れていると思います。つまり、元重鎮は管理者だけでなく、警察官なのです。 ありていに言えば、情ある人間なのです。
 今後、山草人さんがこの冤罪事件に積極的に関与する際に、米山の視点も配慮して、事件の全体把握をしてください。

 「今日という今日は堪忍袋の緒が切れました。」という山草人さん義憤発言の今後に期待していす。適時のブログによる経過報告を心よりお願い致します。

投稿: 米山 | 2011年7月 7日 (木) 08時21分

 「京大入試投稿不処分に」(朝日新聞、7月8日)

 私の主張をサポートしてくれる記事が出ましたので、ご紹介させて頂きます。
 概要は「京都大学の入学試験中に設問がインターネットの掲示板に投稿された問題で山形家裁(矢数昌雄裁判長)は7日、偽計業務妨害の非行事件で起訴された山形県の少年(19)を不処分とすることに決定した。」ということです。
 その解説で「すでに『社会的制裁』を受けており、未成年ということを考慮すればこれ以上罪を問うことは無いと考える」とあります。
 ですから、藤城さんと論争になった「社会的制裁」の文言を使って議論することは可能と、強く主張します。

 更に、記事では「ネットカンニングの防止策を徹底するよう大学の努力」を求めて記述を終了しています。
 私には、ここで終了している社会に不満が残ります。
 「日本の入試問題。つまり、大学に入学できれば勝者というような、日本の誤った教育価値観が、このような悲劇を招いている」と思えてならないからです。米国のように、「大学は卒業することが大変で、入学できたといって誇ることでない。」が正しい教育方法ではないでしょうか。

 「高校調査書改ざん事件」も、日本の教育全体の問題解決という視点で議論・発展して欲しいのです。

投稿: 米山 | 2011年7月 8日 (金) 18時16分

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