« 旅ラン | トップページ | 鉱夫達の人生 »

2011年7月21日 (木)

松江城の構え

松江城は堀尾吉晴の開府以来この地のシンボルである。

如何にも実戦的で戦闘的な風貌をただよわせている。

Dscf2047

城下を巡る堀には「堀川めぐり」と称する川船が巡っている。

実は堀川吉晴は浜松城の城主だったのだから静岡とは濃厚な縁がある。

Dscf2048

関ヶ原に先立って上杉征伐に向かう途上の物語が良く知られる。

家康に従って従軍したのは息子の忠氏だった。

Dscf2049

忠氏は当時23才だった。

隣の掛川城主があの山内一豊だった。

Dscf2050

一豊は、帰趨を決める軍議に向かう朝、忠氏を誘ってあの天下分け目の会議に向かった。

一豊は、忠氏の東西どちらに味方するのか心中をしきりに探る。

Dscf2051

そして遂に忠氏は、一豊の老練な話術に乗せられて意中を話してしまうのだ。

その意中とは「東軍に味方し、家康に自分の城を譲る」と言うものだった。

Dscf2052

やがて軍議が始まって、福島正則に続いて発言したのが一豊だった。

「家康殿に命かけてお味方申す。我が城地を直ちに献上すべし!」と叫んだのだ。

Dscf2053

この一豊の発言で大勢は雪崩を打って家康側に決する。

関ヶ原戦の後、家康は一豊のこの発言を功として高知42万石を与えるのだ。

Dscf2054

当然ながら忠氏は臍を噛むことになった訳で、松江24万石に転封となる。

そして、4年後には27歳で急逝してしまうのだ。

Dscf2055

で、松江の街と城を築いたのは父親の吉晴だった。

恐らくこの城には、そんな人生の機微のような悲哀が含まれているのだろう。Dscf2056

心なしか頑なな印象を与える城なのだ。

明治になってほとんどの城郭が取り壊された中にあって、

Dscf2059

山陰で唯一残された天守だ。

旧藩士と土地の豪農の奔走で取り壊しを免れたという。

Dscf2062

堀の外側には武家屋敷が残り、明治の小泉八雲の住んだ屋敷も開放されている。

この城は、昨年で丁度築城400年になった。

Dscf2063

堀尾三代の生き様を伝える城と言えようか。

|

« 旅ラン | トップページ | 鉱夫達の人生 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 松江城の構え:

« 旅ラン | トップページ | 鉱夫達の人生 »