子供達の未来
今日は保育園の子供達が沢山我が家にやってきた。
私は今日のためにほぼ半月がかりで畑を準備してきた。
畑を鍬一本で耕して、堆肥と肥料を施してマルチする。
ともあれ、子供達は畝に並んで一人4本の蔓を挿した。
やがてこの蔓に芋が稔り、9月初旬には掘り取りにやってくる。
作業が終わると子供達は、私のブドウ見物である。
ブドウはまだまだ青いが、一生懸命に膨らみつつあるところだ。
そう、この子達よりも少し大きくて、小学高学年と言ったところかな。
然して芋の収穫まで、熟れたブドウを残しておかねばなるまい。
小さな子供達はジッとしてはいない。
土をいじったり、ダンゴ虫を捕まえたり、或いは泣き出す子だっている。
勿論いろんな性格の子供がいるんだろうが、未だ顔を見てもわからない。
それが小学3年位になると、面構えと言うか、顔に性格が浮かび上がってくる。
短気な子は短気な、呑気な子はのほほんとした顔になる。
そんな具合にずっと子供達を見てきて、
成長の階段を少しずつ登りながら、次々と脱皮していく子供達。
彼らに職が無いなんてことの無いように、
国のやることは「子供手当」なんかじゃない。
必要なのは子供を見守る毎日の視線なのだ。
私は今、保育園・幼稚園、小中高生の親父の様な気分でいる。
だから彼らのために、出来る限りのことをしようと思っている。
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コメント
育てると言う行為は、人生の基礎的な行為だと私は、思います。
食べ物も生き物も子孫や会社や後輩や同僚や縁ある友達も「育てる」ってキーワードに当てはまる。
その事が楽しい。嬉しい。
それが、生き甲斐だったら素晴らしい人生だとも思う。
子供を見ると自分の鏡だったり、人の子供なら親が想像出来たり、地域の子供は、地域の宝物。
兄貴も子供達の心に残ったら素晴らしいですね。いや既に素晴らしいです。
投稿: ひろ | 2012年6月 8日 (金) 20時57分