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2014年2月22日 (土)

知恩院と家康

京都は知恩院に来ている。

知恩院は鎌倉期に法然によって建立されたが、

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城郭と見紛うほどの今日の威容は徳川三代の帰依の賜物だ。

浄土宗が松平の宗旨と言うだけでなく、25世門主の存牛が松平一族の出身なのである。

戦国期の門主存牛は浄土宗中興の祖と言われる。

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今、知恩院は解体修復の最中だが、その三門が特別に公開されている。

幅50m高さ24mの三門は世界最大の木造の門で、二代将軍秀忠の寄進だ。

三門の楼上には宝冠釈迦如来像とその両脇に16羅漢像が祀られ、

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柱や天井には狩野派による極彩色の天女や飛竜が描かれている。

それはともかく、何故知恩院に来たのかを説明しなければならない。

実は明日、家康が京都脱出にあたって辿った道50kを走るのだ。

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事は天正10年6月2日に溯る。

あの明智光秀による本能寺の変である。

信長の招きに応じて京を訪れ、当日家康一行は堺見物に出かけていて難を逃れた。

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と言っても、光秀の袋の中に変わりは無かった。

家康は堺から信長への礼に京都に向かう途中で、茶屋四郎次郎の急報で変事を知った。

知ったが「もはや道は無い」と途方にくれてしまった。

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限られた供回りをつれているに過ぎず、正に進退窮まったのである。

それで最初に決意したのは「知恩院に入って、腹を切り織田殿と死を共に・・」だった。

だがその窮地を救ったのは、信長から派遣されていた長谷川秀一と茶屋四郎次郎だった。

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長谷川は信長の使い番の故に河内や伊賀に知己が多かった。

そのつてを使って伊勢海岸まで突っ切ろうということになった。

途中の伊賀では200人余の伊賀衆が護衛に当たったという。

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信長の伊賀征伐のとき、その落ち武者を家康の部下服部半蔵が匿った縁という。

とにかく家康は、この逃避行の成功があったれはこそ未来が開けたのだ。

因みに家康と同行していながら、不安のあまり別行動をとった穴山梅雪は、

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明智の網にかかって、家康の代わりに首にされている。

家康は、4日寝ずに山中を進んだとされるが、それでも幸運だった。

さて明日だが、私ならどの程度で走破出来るだろうか?

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