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2014年5月31日 (土)

竜門を越えて

春五月の最終日、今日は学園の文化祭〔東陵祭〕である。

新入生も在校生も、この行事を通じてクラスが一つになって歩み始める。

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各教室ではロボット部や美術部、文芸部、茶道部、琴曲部などがパフォーマンス。

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外では各クラスのバザールが賑やかに展開される。

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中学生はクラス対抗合唱コンクールで日頃の練習の成果を披露している。

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何れもクラスごとに揃いのTシャツを着て、みんな一生懸命である。

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体育館ではグループバンドやダンス、演劇、ボーカルグループ、

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それにジャグリングを披露した4名の中学生も中々のものだった。

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それぞれの出し物を見て回りながら、時々オヤッと思う生徒がいる。

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テキパキと光り輝いて動いているその姿が何とも頼もしい。

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人にはそれぞれ得意があって、思わぬ時にそんな才能を垣間見せてくれるのだ。

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今日の文化祭と来週の体育祭で、

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それぞれが級友のそんなお互いの個性を知ることになる。

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そして今年一年が本格的に動き出すのである。

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ところで文化祭には毎年テーマが設定されていて、今年は「東竜門」であった。

中国は黄河の上流に竜門と呼ばれる激流があり、

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その激流の下には多くの鯉が泳いでいる。

そして、その中から激流を登ることが出来た鯉は竜になると言われている。

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登竜門の謂れである。

そう!!、易きに甘んじていたら出来ることもできないだろう。

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東陵に集う若者達よ、淀みから出て竜門を越えて行け。

さすれば、明日は君達のものだ。

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2014年5月30日 (金)

気分は若者

還暦をとうに過ぎているのに、何時までたっても子供の様な気分が抜けない。

あの成人式の時にだって「これで大人になった」なんて認識は無かったろう。

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以来随分年月を経てきたから、それは流石に若くはないと自覚してはいる。

だけど、気分的には二十歳の頃とさして変わってはいないような気がするんだ。

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くよくよ悩んだり喜んだり、とてものこと人生を達観するなんて出来そうもない。

つまり、若くはないけど気分は若いまま。

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人には365日と言う物差しがあって、一年経つと何をしていても一歳年をとる。

そしうして刑法では13歳以下が子供、結婚は18歳から、酒は20歳からって決まってる。

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年金は何歳って・・・、そうした一律に年をとるシステムが「年齢」だ。

「人によって違うじゃん」って言ったとしても、多くは諦念のうちに納得させられる。

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ともあれ、人の一生は自分の居場所を創ることじゃなかろうか。

子供の時には、泣いたりクズッたりして、何とか親の関心を引き付けようとする。

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学校じゃ適当に仲間を見つけて孤立せずにと・・・今じゃラインに縛られている。

就職すれば、その存在価値が常に問われる訳だから、

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兎に角認められるために四苦八苦する。

そうして自分の居場所がどんどん拡散できれば、それは所謂出世と言う事になる。

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その折角の居場所も定年退職と同時にほぼ消えて無くなってしまう。

改めて自分の生きられる場所を探すことになるのだが、

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これが見つからないと、濡れ落ち葉とかTVの前の産業廃棄物になるのだろう。

つまりは、この社会の一員としてどんなポジションを確保するのかが人生って訳。

もちろん歳と共にどんどん環境が変わっていく。

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だけど、人間のやっていることは何歳になっても同じだ。

気分が若いままってのは、この人生を 未だ諦めてないってことの査証かな~?

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2014年5月29日 (木)

子供達がやって来て

小学校3年生が、私の葡萄園を見学にやってきた。

「6月の下旬になれば、デラウエアが食べられる。」と言ったのに、

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「勢い良く育っている葡萄を見せてください。」と先生は言う。

ともあれ、子供たちには葡萄の品種による個性について話すことにした。

私の葡萄園では現在8品種〔ピオーネ、デラ、ダークリッチ、紅バラード、サマーブラック、

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安芸クイーン、水嶺、シャインマスカット〕を育てている。

葡萄の原産は地中海で、乾燥に強く雨に弱い。

だからガラス温室で育てている訳だが、この4棟のハウス一杯に枝が生い茂っている。

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厄介なのは、ちょっと目を離すと無駄な枝を伸ばして過繁茂になってしまうことだ。

それでこの無駄な則枝を除くことが朝晩の仕事の一つになっている。

それにピオーネなどの大粒種は「摘粒」が必要になる。

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一房に数百個の実が着くのだが、これを摘粒して15粒程にして育てるからだ。

逆にデラウエアのような小粒種は、沢山の房を成らせる。

葡萄はアダムとイブの話に登場するように、実に古くからの果物だ。

だから随分多くの(数千)品種が出来ていて、その品種ごとに個性が有る。Img_1228

果実の色だって黒や褐色、青や赤があるし、大きさや形だって様々だ。

私の育てている8品種だって、枝の出方も樹勢も、葉っぱの大きさだって違うんだ。

その品種ごとの個性を生かすのが、ブドウ栽培の面白さといえる。

それにもっと言うなら、「良い所」があるからこそ淘汰されずに彼らは生き延びてきたんだ。Img_1227

私達人間だって一人ひとりみんな違う個性を持っている。

勿論欠点だってあるけど、良いところ(長所)も必ず有るだろう。

笑顔が良いとか挨拶が素晴らしいとか、お手伝いをよくするとか、

素直だとか、勿論勉強が得意って子もいるだろう。

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自分の良いところを見つけて、そいつをどんどん磨いていくことで、

この葡萄のように美味しい実を沢山つけるようになれるんじゃないか。

葡萄の稔りも子供たちの育ちもこれからなんだ。

そんなことを伝えたかったんだけどね。

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2014年5月28日 (水)

好い加減

このところ、少し気弱な感じのテーマが多くなったようだ。

だが、至って健康な毎日を送っている。

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思い返してもここ十年余り、医者にかかった記憶もないし、風邪すらひかない。

それに、若い頃に比べて体力が落ちたという実感もとんと無い。

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むしろ、若い頃よりも全体としての活動量は増加傾向にある。

特に健康法を実践している訳でもないし、食べ物に気を使うこともない。

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ランニングを含めて、気を張って日々動き回っているお陰だと思っている。

とは言え、老眼と頭髪の薄くなるのだけは如何ともし難いが、

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気持ちはむしろ楽観的になって、自分自身が良い加減になっているように感じている。

とにかくストレスを溜めないでいられるのは、朝晩植物と接しているからだ。

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この初夏に掛けては、葡萄の実が日々充実していくのを眺めるだけで嬉しくなる。

栽培している8品種がそれぞれの個性を発揮して、最大のパフォーマンスを見せている。

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そして来月中旬には、ポッと乙女が恥じらいに頬を染めるように色付き始める。

葡萄の他にも、先日からキューリの収穫・出荷が始まったし、

ホウレンソウは依然として播き続けていて、これも搭立ちする前に収穫に精を出す。

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初夏は彼らとの生き生きとしたやり取りが、実に良い加減なのである。

午後は、「コミュニティースクール推進委員会」があって、中学校に出向いた。

検討事項は、地域全体で子供たちを見守り育てることだが、

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実際にはそれが難しい時代になっている。

教育の要諦は子供に「自分への一定の信頼(自信)」を育てることだ。

地域がそのこととどう関わっていけるのか、

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毎朝の立哨も含めて、これも良い加減になっていくと良いなぁ~と思っている。

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2014年5月27日 (火)

歳月

「歳月人を待たず」と書いたのは陶淵明だったか。

正に月日の流れは、全ての事どもを飲み込んで過ぎ去っていく。

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今年だってもう5ヶ月を費消して初夏を迎えようとしているが、

歳月という言葉にはもっと永い時代を背景にした重々しさがある。

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親父が戦地から帰還して出来た子供だから、私の歳月は戦後と重なる。

簡単に表現すると、戦後の混乱の中で生まれ、高度経済成長期を生き、

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なおその後の成熟時代を謳歌していると言ってもよいだろう。

自分史なんて興味は無いが、やはり過去の上に今日が有るし、未来も出来るのだろう。

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ところがその過去も、既にぼうっと霞みかけているし過去は過去でしかない。

それに「過去」にしがみついて生きたくはないとさえ思っている。

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だから同窓会やかつての職場の会などで、昔を語り合うことは極力避けている。

しかし振り返ってみると、時代の変化と自分の生き様は密接不可分な関係にある。

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やはり人は、時代を生きるのだろう。

司馬遼太郎の「歳月」は、時代の流れと江藤新平の生涯を重ねた小説だ。

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誰だって歳月に逆らって生きることは出来ないし、逆らえば逆境にだって遭遇する。

鎖国の佐賀から迷い出て、明治維新の風に乗って司法卿〔法務大臣〕まで登り詰める。

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当然ながら必要以上の自信家だったろうし、警察権力を握り損ねて征韓論に組する。

結果として、佐賀の乱の首謀者に祭り上げられこの世を去るのだ。

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歳月というものが、江藤新平を生かし、そして殺したと言えるだろう。

ともあれ、もとより平凡な一庶民の私などにさしたる波乱がある筈ももないが、

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やはり時代の波を思わざるを得ない。

既に半世紀余を生き、歳月と呼ぶに相応しい月日を費やしてきた。

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それに、近頃歳月と言う言葉が浮かぶのは馬齢の故だけなのだろうか。

これから、どうすべぇ~と考えている。

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2014年5月26日 (月)

死に方

89歳になる母が、「もう歳だから・・・」と愚痴を言うようになった。

あそこが痛い・眠れない・もう働けないetcである。

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そのくせ毎日早足で散歩をし、自分なりの仕事を見つけてはせっせと励んでいる。

今朝も新聞を持ち出して、呆けない方法を一人で解説していた。

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そんな母の言葉を生半可で聞いているのだが、実際には感謝しきりなのである。

母のお陰で草に負けないでいられるし、何かと助けられているのだ。

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人は誰だって歳を取り、やがて死ななければならない。

その死に方だって人それぞれで、眠るがごとく死ぬ人も、のたうちまわって死ぬ人もいる。

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死ぬと言うことは同じでも、死に方は最後の最後までその人の生き方なんだと思う。

だが何時死ぬのか分からないのに、そいつを計画して生きるなんてことは出来ない。

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「俺は、あと何年生きるだろう。だから、こんな生活設計で・・」となれば良いが、

実は明日すらが保証されている訳ではないのだ。

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それでも恐らく誰もが、自分の人生は永遠に続くと思って生活している。

私だって、十年先・二十年先の自分の姿を想像することだってある。

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しかしながら、身近な人の死に接したりすると、それは只の妄想に過ぎないとも感じる。

かつては「人生50年」とされていた。

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人間は自然を管理することでこの社会を作ってきたのだけれど、

医療もその一部分であって、随分と私達を延命させてきた。

しかしながら、生死そのものをコントロールできた訳ではない。

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だからして、死までをどう生きるかは各人の覚悟如何なのだろう。

望むらくは、「もう少し生きていて欲しかった・・」と言われるうちに死にたいね。

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2014年5月25日 (日)

初夏を前に

山は、ホトトギスの声で賑やかである。

あの待ちこがれていた春は、卒業・入学や総会などと共に忙しく過ぎて行った。

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そして今年も、既に5か月が過ぎ、いよいよ夏を迎えようとしている。

私の育てている葡萄の作業も繁忙期を過ぎ、ここに来てようやく小康を迎えている。Img_1214

朝晩2時間余りを費やしてきたジベ処理も8割り方は終わった。

気の早いテ゜ラウェアなどの早生種は、棚に房を並べて着色を待つばかりになっている。

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すべからくホッと一息と言うか、「小康」の言葉と共に山を走った。

たった一人の林間の一時(3時間近い)は、無心に物思う一時でもある。

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時折サンコウチョウや鶯の声で覚醒するも、眩しい緑の中を眠ったように走っている。

思っているのは、明日のことだったり半年先のことだったりもする。

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或いは、時には子供の頃の事を思い出していたりもする。

日常の時は物凄いスピードで過ぎ去っていくのだけれど、山の中の時はゆっくり過ぎていく。

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先日、一人の走友に社会人教室の講師(講演)を依頼された。

「己の生き様を晒せ」と言う。

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否、私のシニアライフについて話をするのだが、極論するとそう言うことになる。

私の生き様などいか程の参考にもなるまいが、はてどんなアプローチをすべきか?

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などと、一人走ることで、要するに常日頃の思いが一度に溢れてくるのだ。

時間だけが流れていって、私が一つ所に止まっている感覚。

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それが山の一時だ。

濃い緑に染まって一人の小さな人間が走っていく。

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人生とは、常にそんなものなんじゃなかろうか。

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2014年5月24日 (土)

淹れ方?

電気ポット次第でお茶の味わいが変わる?

そんな研究発表があると聞いて、一体どんな研究手法なのかと興味がわいた。

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それに「ほんとかや?」と言う気持ちもあった。

正しくは「異なる電気ポットで沸かしたお湯で淹れたお茶を飲むことによる気分及び自律神経活動への影響」という演題だ。

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講師は、静岡県立大学客員研究員の陽東藍さんである。

設定は、プラチナセラミックを塗布したポットと普通のポットとの違いである。

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人間の官能の微妙な差異を果たしてどうやって計測するのかと傾聴していた。

良くは分からないが、近年ではこの分野ではかなり手法が進化しているらしい。

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POMSスコアーの変化度測定、脳波の変化測定、唾液中のCgA測定、

ストレスの掛け方もクレペクンテストなどと難しい話が続いた。

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ともかく結論は、プラチナ添加ポットの場合には水がアルカリ側に傾いて、

お茶の成分が溶け易くなり、結果としてストレス解消効果があると言うものだった。

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それがプラチナの力なのかとか、お茶や水の違いなど幾つかの疑問は残るが、

ともかく一定の効果が有りそうなのである。

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実は20年ほど前から「お茶と水研究会」と言う物好きの会に所属してきた。

お茶に合う水とはどんな水かを探る同好会だ。

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学者を含めてかなりの知識人のコミュニティーを形成していたが、

その研究手法はもっぱらベロメーター(舌によるバロメーター)だった。

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そもそも美味い不味いの感性には個人差が大きくて、決め手がない。

だからこそ、ルースな研究会がワイワイと長続きしてきたのである。

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しかしまあ、今日は目隠しをして普通のポットとプラチナを飲み比べた。

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その結果7割の人がブラチナを当ててしまった。

金属の効果かどうかは別にして、何らかの働きがあることは事実なようだ。

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2014年5月23日 (金)

自分との付き合い

人間はその字のごとく、人と人の関わりで成長もし堕落もする。

この私だって、これまで随分多くの方々との出会いに恵まれてきた。

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その様々な出会いの影響で歳と共に変わって来たのだと思う。

当然ながら他人との関わりはそれなりに緊張するし、

そのシチュエーションなりの対処も必要になる。

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それに比べ自分との付き合いは、緊張を欠いて甘くなる分大分厄介だ。

例えば、暴飲暴食したり朝寝坊なんてのもその部類かな。

自分との出会いは何時の頃からか判然としないが、かなり古い付き合いである。

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毎日付き合っているんだから全て分かっている筈だが、必ずしもそうではない。

例えば、自分の顔はあんまり見たくはない。Img_1139

髪の毛も薄くなって皺もどんどん増えているし、それに親父に似てくるのに戸惑っている。

自分の中に在る自分のイメージは紅顔の青年なのに、Img_1195

鏡に映るのは「これが今の俺か」と諦めざるを得ないような顔だからだ。

顔が変わった分、中身は成長したのかと考えても、さして代わり映えはしない。Img_1099

畑仕事をしている自分と会議などに出席している自分、或いは立哨している自分、

ブログを書く自分、仕事をしている自分、走っている自分etcは、Img_1196

それぞれ違う自分ではないかと思うことがある。

それに時々、自分が宙に浮いて何をしたいのか分からなくなる瞬間だってある。Img_0955

実は私は、そんな幾つもの顔をした自分と付き合っている。

還暦をとっくに過ぎたのに、未だに20歳や40歳の頃の自分とも同居している。

本当の自分は、我儘で怒りんぼでケチでちっぽけで、孤独で怠惰な筈なんだけど、Img_0882

それでも兎に角、そんな自分と折り合いを付けながらここまで来た。

人生は一生自分との付き合いだけど、本当はそいつが一番難しいのかも知れない。

 

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2014年5月22日 (木)

学府

昨日は、はまぼう学府教育協議会に出席した。

さても学府とは何ぞやとお思いの方が多いだろうが、小中一貫教育の単位を称している。

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中学校区を単位に9年間の統一的な教育を目指すのだと言う。

もっとも発達段階でかなり児童の身も心も変わるんで、4・3・2年制に括って指導する。

最大の狙いは、9ヶ年で英語を話すことが出来るようにするのだそうだ。

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果たして、そんな具合に上手く行くのかどうか分からないが・・・・・。

兎も角、昨日の協議会発足は、その進捗を見守りつつ検証しようと言うことだ。

協議会の後授業参観があって、最後に「幼保小中一貫教育の視点での学校マネージメント」と題して講演があった。

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講師は、鳴門教育大学の久我さんである。

久我さんの講演で最も印象に残ったのは、「学ぶことの意味」であった。

子供達は、学校で何故学ばなければならないのか。

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「それは義務でしょ」とか、寺子屋式に「教え込む」なんて意識が蔓延しているけど、

彼は「自分を成長させ、自分達の世界を広げるため」だと言う。

このベクトルが生きる力を育て、自分の夢を実現させる力になると。

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そうして教育の土俵は、自分に対する信頼(自信)が基礎にないと始まらない。

だから先ずは、子供の良い所を認めることから教育は始まる。

落ちこぼれの子供は、家庭環境などから「どうせ俺なんか・・」と自分の立脚点を失っている。

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それを立ち直らせるのは、教師達と地域の力だ。

良い所を見つけて、皆で褒めて「細やかな自信」を育てるのだ。

こいつは子供達に限らず、私達だって同じことが言える。

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誰だって、人に認められれば嬉しいものさ。

豚も煽てりゃ木に登るの例え通り、相当の事まで出来てしまう。

人は「根拠なき自信」があれば、前に向かって進むことが出来るのだ。

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講演は必ずしも一貫教育に関するものではなかったが、教育の原点が見えた。

教科を教え込むことの前に、やるべきことが有ると言うことだ。

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2014年5月21日 (水)

土地というもの

今日は、ちょっと難しい話。

かつて〔昭和40年頃まで〕、耕作する農地の広さがその農家の貧富を表していた。

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金銭収入の大部分が米の販売代金だったから、当然のことだ。

だから農家は、粟稗を食べても何とかして田を増やそうともがいていた。

それがこの列島に住む大部分の人々の永い歴史だったのだと思う。

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世界中から農産物が輸入されるようになって農地が余り、耕作放棄地が拡大している。

そんな農地を買おうとする人は無いから、農地の価格は暴落したままだ。

しかしこれは、この瑞穂の国の数千年の歴史からすればまったく稀有な事態だ。

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とは言え、人々の土地への執着が無くなった訳ではない。

現実に、隣家との境界争いなどは何処にもある話だ。

やがて人口が減って、土地なんか幾らでも有り余ると思うのだが、事はそう簡単ではない。

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これが国と国との関係になると、一昔前なら簡単に戦争に解決を求めた。

否、過去形ではなくって、尖閣列島や南沙諸島の火花は現実のものだ。

思い起こすなら、あのツインタワービル突入の9.11テロだって、

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とどのつまりはパレスチナの土地問題に行き着く。

パレスチナは、土地を持た無いユダヤ人からすれば「約束の地」だとされている。

ユダヤ人は最初は約束の地に住んでいて、そこを追い出されエジプトに渡った。

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そのエジプトで迫害され、元の地〔パレスチナ〕に帰っただけだと考えている。

そして大戦後、パレスチナ人が住んでいるその地にイスラエルを強引に建国した。

イスラエルに土地を奪われたパレスチナ人の抗争が延々と続いている根源だ。

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そしてアメリカは、そのイスラエルをずっと支援してきている。

9.11テロは、イスラエルへの矛先が支援しているアメリカに向かった結果だった。

土地を追われた人々の怨念が金本位のユダヤを生み出し、そして今も流血が続く。

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正に、土地を巡る業の深さと言えるのではないか。

今私達は、否応なく「金」本位で生きざるを得なくなっている。

だけど国土を荒廃させて、本当の豊かさなんて生まれるものではなかろう。

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2014年5月20日 (火)

つかれ

100kランから二夜明けても、体全体に重い疲労感が残っている。

どうも、完走した後のあの清々しい疲労よりも、ずぅ~と疲れた様な感じだ。

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やはり、人間は気持ちの持ち様でガラリと変わるものらしい。

そう言えば、人には二通りの生き方があるらしい。

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口癖のように毎日「あぁ~、疲れた」と溜息をついて、何時も疲れの中に浸って暮らす人。

それと、好奇心に憑かれて目標にひたすら向かっている人だ。

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この二つの「疲れ」と「憑かれ」は、まったく別物だがそれぞれ伝染するようだ。

嫌だなぁ~が口癖の集団の中にいると、自分も同じように疲れッちまう。

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駄目な事を前提にした「言い訳思考」も、どうやら癖になる生き様だ。

だけど憑かれた人達と交わっていると、何時の間にか自分も取り憑かれてくる。

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そして、憑かれた人が疲れるなんてことは決してない。

それに、疲れた人が憑かれるってこともないようだ。

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ともあれ、これまで数多くの取り憑かれた人たちに出会ってきた。

かつての仕事や経営に夢中と言う人達は勿論のこと、

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今ではサロンなどのボランティアやスポーツに夢中な人との出会いが多くなった。

彼らは一様に眼を輝かせて、あれこれと工夫を凝らしながら前向きに生きている。

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そうして大事な事は、彼らはみんな「自分の時間」を生きていることだ。

そんな取り憑かれた人達に出会って、私の人生も随分豊かになったと思っている。

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その何人かの憑かれに感染して、およそ疲れを知らずに今日まで来たからだ。

オームの様な新興宗教に取り憑かれるのは困るが、人は夢中になることが必要だ。

走るって事にも夢中になってきたが、走って疲れたと思ったことなどない。

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疲労そのものが何時も快適だからだ。

さてこそ今回の疲労を何日で解消できるか、次の8日〔高山〕に向けて考えている。

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飛騨高山100kは初めてのチャレンジだし、友との新たな出会いだって待っている。

好奇心は全てを動かす原動力だから、母親ゆずりのこの好奇心を大切にしたい。

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飛騨高山攻略のために、今からどんな準備が出来るだろうか。

それもが楽しみなのは、憑かれている査証であろうか。

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2014年5月19日 (月)

覆水を悔やむ

八ヶ岳から帰って、何か心が浦寂しい。

何時もと違うのは、あの完走メダルが無いことだけだ。

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子供の玩具にもならないメダルは山の様にあるが、今年のメダルがない。

そのことを酷く悔やんでいる。

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野辺山は標高も高いし、登り下りも半端でなく極めて過酷なコースだ。

こんな所二度と来るもんかと思いつつ、毎年通ってきた。

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そうして今年は、無理をしないように体力を温存しつつ走った。

その体力を後半に生かそうとの思いだった。

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しかし、50kを過ぎたあたりでその体力の消耗を深く感じていた。

時間はたっぷりと有ったのに、だから油断が出たのかどうか?

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苦しくって苦しくって、遂に62kの登りから遂に歩き始めていた。

仲間のK藤さんが追い付いてきて、彼に「先に行ってくれッ」と声を掛けていた。

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この時まで、しばらく歩いてきっと追いかけるつもりだった。

やがて66k地点でクリさんが追い付いてきて、次のエイドで止めると言う。

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二人で随分話しながら上り坂を歩いていた。

肩はみしれる程に痛み、足は歩くのにも難儀し始めていた。

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彼は「故障しちゃっちゃ、どうしようもない」と言った。

馬越峠に向かって上り坂は延々と続いている。

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そうして何時の間にか二人で「早く、風呂に入ろう」と言うことになっていた。

72kのエイドを目前に、それでも私は走り始めていた。

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だが足は引きつって、・・・・・・・それも言い訳か!!

一夜明け、後何年100kを走ることが出来るだろうかと考えた。

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多くのランナーが70歳を境に100kから遠ざかっている。

仮に限界が70歳だとすれば、残りは僅かしか無いではないか。

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その数少ないチャンスを、目前の苦しさに負けて放棄してしまったのである。

出来た。やればきっと出来た筈なのだ。

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それにも拘らず、ヤツの誘惑にまんまと乗ってしまったのだ。

「俺は、こんなじゃない」と思い返し、来月のリベンジを誓っている。

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2014年5月18日 (日)

百花繚ラン

夜明け前から、八ヶ岳の雪が朝日を浴びて輝いている。

どうやら雲一つ無い青空が広がりそうである。

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午前五時、山梨学園のチアリーダー達のパフォーマンスの後、スターターが登場した。

あのスケーターの安藤美紀さんである。

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ミッキー!などの声が飛ぶ中、「スケートリンクよりも寒い中、皆さん凄いですね。」と挨拶。

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とにかく2000人余のカラフルな集団が一斉にスタートする。

ウエアーが人それぞりにカラフルなだけではなく、ひれぞれの思いを胸に走っている。

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くっきりと浮き出るように鮮やかな八ヶ岳が、その私達を見守っている。

そう、こんなに綺麗な八ヶ岳は、記憶する限り始めてかもしれない。

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遠く東には、富士山がくっきりと聳えている。

かつて富士山と八ヶ岳が高さ比べをしたらしい。

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そういえば、八ヶ岳のほうが少し高いのを根に持って、

富士山のサクヤコノハナヒメが今日の八ヶ岳の姿にしてしまったと言い伝えられている。

ともあれ、私は今回もかなりゆっくりと走っている。Img_1138

リンドウのガラ道を20kほど登っていくと、今日の最高1908m地点に達する。

そこから下りかというとそうではなく、山の中を登ったり下ったりが続くのだ。

周りは未だ芽を出し始めたばかりのカラマツの林である。Img_1144

緑色のデカフォレストゼッケンを着けているために、様々な人から話しかけられる。

「これまで、どの位のタイムで走ってるんですか?」と聴いてくる。

私が「いや、色々な時があってね・・・」と答えると、Img_1146

彼はとっさに聞き方を変えて「この位のペースで間に合うんでしょうか?」と言う。

はじめから、そいつが知りたかったらしい。

40k過ぎ、突然後ろから「Kさん、走っちゃったよ!」と声がした。Img_1148

並んで顔を見て驚いた。

なんと、タケちゃんである。

実は彼は一年半前、トレランで大腿骨を骨折し一年余りの入院生活をしていた。Img_1151

おまけに骨折が治癒した途端に「血液癌」を告知されて治療中のはずだった。

多くの人が、彼は再起不能ではと噂していたその本人である。

「無理するなょ」と言うと、「いゃ~、42kまで走られればと思って・・・・」と言う。Img_1154

実はタケちゃんは、その後立派に100kを完走してしまったのだ。

完走の弁は「俺は、癌を克服したぞっ・・」って涙顔になっていた。

勿論、涙を流したのは私達仲間も同様である。Img_1155

さて私達仲間の成績だが、毎回完走組が軒並み途中リタイアとなってしまった。

そして残念ながら私も、72kで4時間30分も時間を残しながら収容バスの客となった。

直接的には脱水症状と足の関節の痙攣だが、とどのつまりは精神力だ。Img_1158_2

昨年は、この時間よりももっと遅かったのに完走できたんだから・・・・。

100kマラソンも人それぞれ百花繚ランなのである。

続きを読む "百花繚ラン"

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2014年5月17日 (土)

八ヶ岳山麓

八ヶ岳の麓、松原湖畔に来ている。

私にとっては19回目の、明日の八ヶ岳野辺山100kマラソンを走るためだ。

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今年の八ヶ岳は、例年よりも幾分多くの雪を残しながら、麓の私達を睥睨している。

辺りの山々を覆うカラマツは、芽を出してようやく緑の濃さを増そうとするところだ。

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湖畔にはカキツバタが黄色い花を咲かせ、この地の春は訪れたばかりのようだ。

もとより60年余の馬齢の故に、生まれて初めて見る景色などは稀になったが、

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この八ヶ岳山麓の初々しい春は何時見ても元気の出る気色だ。

その英気を胸いっぱい吸うために、19年間も毎年通ってきたことに思いを巡らせている。

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100kを走ろうと決意して、初めて挑戦したのがこの八ヶ岳だった。

それ以来、一年間の節目のレースとして、実にタフなこの大会に参加し続けてきた。

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色々な「物語」の生まれたそのレースを思い出しながら、八ヶ岳を見上げている。

思えばこの19年間は、私の人生の最も充実した期間ではなかったろうか。

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一年に一度このレースを走ることで、少しずつ人生を変えてきたような気がする。

そして今年もまた仲間とともに、かつてスケート場として賑わった松原湖を巡っている。

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八ヶ岳は、勿論この17年少しだに変わってはいない。

ただ、ここを訪れる人達の感じることや考えることは、そして年齢も少しずつ変わってきた。

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明早朝、スタートラインに立って思うことは、

19年前の、あのドキドキと勇んでいたそれと同じでは在り得ないだろう。

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苦闘の末に真っ暗な中を走って、門限の数秒前のゴールもあった。

二度の雷雨に打たれながら、身も心も震え上がったこともあった。

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朝から晩まで雨の中をずぅ~っと走ったこともあった。

100kの道程だから、その間の心の振れだって一様ではありえない。

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人生とて同じことで、失敗や涙を糧に明日を思うのだ。

当然ながらこの19年間、100kレースと同様に随分色々なことがあった。

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ともかく、明日のレースも懸命に挑むだけである。

どうやら明日は、好天に恵まれそうである。

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2014年5月16日 (金)

ライフ・スタイル

・・・と書いてみたが、私にそんなものが有るのかどうか?

それにスタイルと言う言葉は、あまり良く分からない言葉だ。

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単なる格好なら、かつてのダークスーツから一変して、作業着で過ごすことが多くなった。

それもこれからの季節は、女性用の短パンにTシャツ一枚と言った軽装で、Img_1070

何処に出かけるにしても、自分の格好をトンと気にしなくなっている。

そもそも、服装と貧富の差が正比例していた戦前までと違って、Img_1067

その人の格好が、その生き様を反映する時代でもないと思っている。

スタイルは表面的な格好よりも、むしろ「生きる姿勢」とか「流儀」の方が肝心だろう。Img_1045

とは言っても、宮仕えのサラリーマンのそれは、自ずと制約されたものだろう。

私だって、長いことお仕着せの判で押したような窮屈な時代を過ごしてきて、Img_1033

今はようやく極めて自由に生きている。

とは言え、その自由な時間には自分の「仕事」を目一杯詰め込んであるから、Img_1021

早朝から就寝まで空いた時間というのはほとんど無いといってよい。

朝食をとりながら新聞は読むが、TVをみることは特別な事が無い限りありえない。Img_1000

正直なところ、そんな時間は無いのだ。

特にこの時期は、明け方から葡萄の世話に追われ、朝飯の時間すら危うい始末だ。Img_0997

それに頻繁に諸々の会合があるし、体力を養うトレーニングの時間だって欠かせない。

ところで人の一生は、その一瞬一瞬に選びとっていく大小の選択の結果だ。Img_0994

例えば、今日はお茶漬けで済まそうか、それとも秋刀魚定食で・・・てな具合。

そういう選択を続けてきた結果として、今日の私の日常が出来ている。

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確かに動き回っていて、そいつを楽しんでいる節もある。

「独楽鼠のように・・・・」と揶揄されたりもするが、私の生き方そのままである。

そもそも人の生き方に形などありようも無く、その時に出来ることを精一杯やる他無い。

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肝心なのは、前に向かって進むか、それとも一つ所に留まるのかの選択だ。

人生の形に違いがあるとすれば、その選択の蓄積によって生まれるのだと思う。

そして私は、ゴールまで留まることなく走り続けるのが人生だと思っている。

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2014年5月15日 (木)

ランナーの一生

先日一人のご高齢な市民ランナーが亡くなって、葬儀に参列した。

85歳で突然亡くなったのだから、正にピンピンコロリの往生だ。

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生前の履歴を伺いながら、「あぁ、この人もランナーらしく精一杯生きた人だ」と思った。

やるべきことに真正面から挑戦して、そして暇を見つけては走ることにも関心を向けた。

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人の生き方だから色々あるだろうが、ランナーの生き方には共通点がある。

それは、物事に真摯に立ち向かうということだ。

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捻くれた人間はいないし、そういう意味でも私は前向きに生きるランナーが好きだ。

ところで、人(私)は一体何歳まで走ることが出来るのだろうか。

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古稀まで数年となった今日、先のことは先の話と思いつつも気になっているところだ。

望むらくは、体に支障が無い限り80歳になっても走り続けたいと思っている。

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それは走ることが、物事に立ち向かう気力に通じていると思うからだ。

何がしかの課題に直面して、やるべきか否かと迷う時がある。

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そんな時、大抵のランナーは走り出してから考えている。

人は、「やれば出来る」と思わない限り、困難に向かって前には進めない。

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自分との戦いを常としているランナーは、結構しつこくって我慢強さがある。

この間の知床峠に向かう登り15kの雪道だって、寒いのに嫌だなーと逡巡したら駄目さ。

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「よし!、頑張ろう」と一歩踏み出すと、そこには素晴らしい雪の景色が広がってくる。

冷たい雨と風だって、この知床を味わう要素になる。

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やがて登り詰めれば、羅臼岳がドォーンと真正面に聳えている。

そして「やぁ~ッ、登って来て良かったァ」と自分を褒めてやる。

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それに、何よりの励みは仲間の存在だ。

仲間と共にその頑張りを語らうのは、ランナーならではの楽しみだな。

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この長い人生だって同じことで、「お互い、よう頑張ったなッ」って・・・

一人のランナーの死は、自分のことでもあるような気がした。

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2014年5月14日 (水)

自然の懐

これまで随分あちこちに出かけ、そしてその地を走ったりもし、

自然の奥深さは十分知っているつもりだった。

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でも先日訪れた知床五湖は、何故かこれまでと随分異なった感慨を持った。

実は訪れるまで、富士五湖や忍野八海とさして変わるまいとさして期待していなかった。

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世界遺産に登録されてからなのかどうか、

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知床五胡に立ち入るにはレンジャーのレクチャーに加え、立ち入り許可証が必要になる。

ヒグマとの遭遇を避ける方法や通路を踏み外さない、食べ物持ち込み厳禁などのレクの後、

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ようやく足を踏み入れると、そこには雪の小道が続いていた。

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コゲラの木をつつく音が聞こえ、ドアの向こうにはいきなり自然そのものが広がっていて、

先ずはそのギャップに驚かされた。

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雪の大自然の中を歩くという異空間が、より自然に接近させてくれたのだろうか。

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ドラエモンの扉から自然の只中に出たような不思議な感じで、

泥濘を避けながら、滑りそうな雪道をゆっくりと五湖のうちの2湖に向かう。

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灌木の茂みを抜けると、そこに現れたのは白く凍った沼とその向こうに聳える羅臼岳だ。

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思わず、オォーと言う声が上がる。

これまで人を寄せ付けることなく静まっていた湖に、初めて私達が訪れたような、

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そんな静寂をすら感じてしまったのだ。

知床半島の中程に聳える羅臼岳、そこからの水がここにも湧き出しているのだろう。

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そして直ぐ下の崖の下は、もうオホーツクの海である。

湿原の周りには雪を突き抜けて熊笹が生い茂り、遠くにはエゾシカが一頭見える。

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これは果たして自然のままなのかどうか?

何処の土地だって放っておけば雑草が生え、やがて鳥が種を落として森になる。

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或いは人間が一旦は耕作し、やがて放置された自然なのかも知れない。

だが厳しい北海道最北端の自然は、秩序ある自然をゆっくりと涵養していた。

その厳かな造景に私達は感動するのではないか。

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何しろ、この地には無駄が一切感じられない。

多分、それが自然と言うものなのだろう。

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2014年5月13日 (火)

学びの場

人は学ばなければ猿になる。

と言うことで、江戸時代の武士階級に始まって、明治以降は学びが義務となる。

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私の小学一年生時代は鮮明に記憶に残っている。

担任の先生は岩城いくさんだったし、校庭正面に二宮金次郎の像があった。

何を学んだのかは覚えていないが、学芸会と水路で傘を流された記憶は鮮明だ。

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その学校も町村合併のあおりで、小学一年だけになった。

親達の後を村の交番まで蓆旗を立てたデモについていった記憶がある。

確か合併反対だったか・・・・

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どこでどんな環境で学びに入るのかは、場合によっては人の一生を左右する。

だけど義務教育と言うのは、学ぶのが義務化された感があって感心しない。

学ぶことが如何に楽しいかを教えないからだ。

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教える教師にも、「学ぶのが当然でしょ」と言う意識があるのかも知れない。

生涯学習と言う言葉があるように、人の一生は学びと共にある。

それも学ぶことが自分の人生を豊かにしてくれると言う自覚が有ればこそである。

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孫達は、学校は好きだけど勉強は嫌いだと言う。

そうさな、私だって決して勉強は好きじゃなかったな。

それでも進学とか・・・・・色々あって、勉強させられていた。

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それが果たして今役立っているかと言うと、大部分は忘れてしまったことだ。

ただ、こつこつと記憶する努力とか、難解な課題に向かう姿勢などは生きている。

明治の始め、全国各地に民間の力で学校が建てられた。

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磐田市見付に日本で最も古い校舎が残っている。

木造三階の洋館づくりで、4階部分は望楼になっている。

望楼はヨーロッパの教会の鐘を多分に意識したもので、「学校とはこういうもの」と決めてかかった節がある。

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その学びの形が、今日のお仕着せ教育に繋がっているのかも知れない。

学びとは必要から発生するもので、その意欲を引き出すことは大切だが、

どうも指導要領に従って押し付けることには問題が多いのではないか。

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多様な個性を鋳型に押し込めるために、子供達の多くの時間を費やしている。

かといって長年のこの義務教育を変えるのは容易ではないが、

もっともっと子供の個性を引き出すような、斬新なやり方があるような気がする。

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毎朝子供達の顔を見ながら、その一人ひとりの表情の変化にそんなことを思う。

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2014年5月12日 (月)

春から初夏へ

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今年の夏はエルニーニョで冷夏になるかも知れないが、このところ暑い日が続く。

北海道遠征で随分葡萄の蔓が伸びてしまって、毎日悪戦苦闘している。

伸びてしまった蔓の整理が追い付かないのだ。

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何事をやるにしても、自ずと適期と言うものがある。

昨年は11月になってから白菜を定植して、結局数百本の菜の花を見るだけで終わった。

植物は、殊に時期と言うものに正直である。

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この点人間はすこぶる保守的で、井戸の中が方が住み心地良いと感じるものらしい。

国と国の関係が根本的に変わっても、後生大事に鈍感に生きているのが日本人だ。

平和で暖かで春の様な日差しが素晴らしいからだ。

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しかしこれまでの長い世界の歴史を振り返るならば、

決して季節は同じ所に止まってはいない。

スターリンが日露戦争敗北の恨みを晴らしたように、

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どこぞの国の反日教育がどこかで暴走を始めるかも知れない。

例えば、この国では憲法改正はタブーに近いものになっている。

世界の常識からいえば、異常な(フレキシビリティーの無い)国になっている。

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そもそも何処の国の憲法も「歴史的な慣習」を憲法にしている。

そのうえ、その憲法を適宜改めることで国の安定を保っている。

しかるにこの国の様に、占領軍に作って頂いた憲法を崇め奉っている国は珍しい。

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さらに特異なのは、憲法の条文の解釈を巡っての議論を延々とやっている。

それよりも、その時々の情勢に対しどう適切に対応していくかの方が、

この国の将来にとってはるかに重要だろう。

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極論するなら今日の憲法など廃止して、聖徳太子の17条を復活すりゃ良い。

そうして変化に適時に対応できる政治をやれば良い。

周辺国だって、ピリッといい加減な言いがかりはしなくなるだろう。

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そしてその方が、国民が政治に対してもっとシャープに反応するのではないか。

この国の人々が政治に無関心なのは、憲法の有り様にも一因があると思うのだ。

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民主主義を勝手放題主義と間違えてしまっているしね。

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2014年5月11日 (日)

でっち上げと真実

今夜は、重たぁ~い話題である。

何故、この様なでっち上げが起こり得たのかと考えている。

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天竜林業高校調査書改ざん収賄冤罪事件である。

こと(事件)は、教員Gの県教委への内部告発から始まった。

平成18年10月、折しも教員採用不正事件が大きく取り上げられていた時期だ。

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調査の結果、何件かの改ざん(顕著な改ざん1件と軽微な改ざん数件)が明らかになった。

担当教諭4人に問いただすと、人は弱いもので「校長の指示で・・・」と口を濁した。

それは懲戒免職をチラつかせて、校長の指示なら処分は軽くなると示唆した結果のようだ。

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4人の歩調が揃ったことを理由に、県教委は県警に告発状を出すことになる。

当時、この学校の統廃合を巡って県教委と校長の確執が出来ていたことも告発の要素になったろう。

告発を受けた県警は、裏に何かなければ特定の1人の改ざんなど有り得ないと考えたのか?

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学校の後援会長(元市長)が、孫の進学に便宜を要請したのではないかと考えた。

元市長は任意で呼び出され、10日間にわたって取り調べられた。

一貫して否定するも、繰り返し「孫や家族が転げ落ちる」と脅かされ、遂に贈賄を認めることになる。

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そして、学校訪問や贈賄の日時も金額も、警察官と手帳を見ながら決めたと言う。

そんな一部始終が、先般の元市長の記者会見で明らかにされた。

そして「贈賄自白は虚偽だった。警察に屈服したことが慙愧に堪えない。万死に・・」とも語った。

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校長を有罪とした証言が大きく崩れた一瞬だった。

第一、裁判で元市長が要請に訪れたとされた4日とも、克明な学校の事務日誌の記録には無かったことも明らかになった。

それに事件から6年たって、ようやく何人かの当時の教員や職員が口を開き始めている。

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顕著な改ざんに関係したB教員は、進学予定大学を訪れた際には入学基準を認識していなかったことを明らかにしている。

そして教員Gは、「改ざんは入学基準のチェツクミスから始まった」との心証を語っている。

いずれにしても、元校長を被疑者として345日間拘留し、

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一貫して否定する校長を理不尽に取り調べ続けた警察の見識を疑わざるを得ない。

有罪確定から3年半の苦しい努力の末、この4月26日、ようやく再審請求に漕ぎ付けた。

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無罪へのスタートラインに立ったばかりだが、何としても真実を明らかにしてほしい。

それにしても、県教委の軽々な告発は、人災とも言える信じ難い珍事だったようだ。

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2014年5月10日 (土)

馬齢が故に

今日は午前が青少年健全育成会連合会の総会、午後は地区社協の総会である。

何れも今日的課題を背負った大切な組織だろう。

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これを一人の100歩から住民全体の一歩に繋げることが大切だ。

地区社協の総会の後、

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磐田マンドリンアンサンブルの皆さんが懐かしい曲を演奏して下さった。

和やかな雰囲気が流れ、福祉を考えるには絶好の演奏ではなかったか。

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その演奏曲の中に「高校三年生」があって、「随分、馬齢を重ねてきたな~」と思いつつ、

この間に失った物も多いけど、得たものは何だろうと考えていた。

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それでハタと得心したのが、視野が幾分か広くなったんじゃないかと言うことだ。

かつては自分の考えを声高に主張(hand  waving)していた頃があったし、

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何時だって自分の井戸の中で考えて行動していた。

時には、直面した課題を思い詰めて、地底で悶々と過ごしたこともあった。

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だけどそれだって、今思えば世界が見えていなかったに過ぎないのだ。

高校を卒業してから既に半世紀、随分長いこと人間をやってきた。

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それでも馬齢を食んだなりに、少しは世の中が見通せていることを少し嬉しく思った。

例えば、自国の利益だけを主張している中国やロシアは、未だ若いのだとさえ感じる。

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かつて囲碁に夢中になったことがある。

囲碁は陣取り合戦だけど、自分の目を囲うのでは勝利は得られない。

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相手との間合いや駆け引きの力関係で、自ずと自分の目数が出来ていくのである。

人生も同じで、自己中心的世界に生きている人は、その狭い世界にしか生きられない。

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全てを達観して自分を見ることが出来ないからだ。

物事は、少し離れた所から見た方が全体が良く見えるものだ。

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ともあれ歳の効ってのは、少しだけ客観的に自分の姿が見えることらしい。

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2014年5月 9日 (金)

海なるもの

北太平洋からオホーツクの海沿いを走りながら、ひたすら海を感じていた。

人間一個の存在なぞ、全く無であることを海の限りなき深遠さが教えている。

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やはり私たちは、この海に無限の畏怖を感じている。

とは言えルーツを辿れば、私達の生命はこの海が生み出したものだ。

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私たちの血液の塩分濃度は、太古の海のそれと同じらしい。

それに十月十日の胎内では、胎児は誰もが羊水の中で育つのだ。

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その生命の記憶が、海を恐れる気持ちと何処かで繋がっているのだろう。

それにこの日本列島に住む人々は、いずれも小舟で海を渡ってきた人々の子孫だ。

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南方の諸島から、朝鮮半島から、はたまた揚子江流域から・・・・・。

太古の人々は、当然道など無かった訳で、陸地よりもむしろ海を伝って移動していたろう。

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そして縄文人から弥生人へ、

いく度もの争いの歴史を経て今日の日本人が出来上がっている。

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この列島の主な都市が例外なく海に臨んで広がっているのも、至極当然な事なんだ。

我々の住むこの土地だって、

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その多くが自然の営みによって海が埋めたてられて出来た沖積大地だ。

海岸はその波で浸食され、地震とともに隆起を繰り返してきた。

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魚に貝、昆布に塩、遠くに行くための通路として何れも不可欠なものだ。

さてこそ、私達日本人は海の子なのである。

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一方、日本人はこの海によって一つの塊になったんだけど、その分多分に閉鎖的だ。

俗に言う島国根性で、物の考え方や行動パターンも海に囲まれた人々のものだ。

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例えば英語だって、文科省が釈迦力になったとしても容易には身に付くことはない。

この島国の日常生活に、英語など必要ないからだ。

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使わない言葉を教えたって、覚えた瞬間から忘れていく。

中国の海洋進出が著しいが、彼らは陸の経験を海でやり始めたに過ぎない。

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全て既成事実を作った方が勝ちだと考えている。

東西冷戦が終わって米国の武威が衰え、今又かつての群雄割拠が始まっている。

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自国は自分達で守り、主張する他無いのだが、国民にその意識は希薄だ。

すべては、この海の存在に起因しているのだろう。

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夕陽が、今日もその海に沈んでいく。

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2014年5月 8日 (木)

知床・納沙布の先

ロシアはウクライナの政変に乗じて、瞬く間にクリミアを自国に編入してしまった。

この編入に有無を言わせないための戦略か、尚ウクライナ東部の騒動を煽っている。

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事ほど左様に、ロシアにとって暖かな地は垂涎の的なのである。

初めて納沙布に立った翌朝、改めて歯舞・国後の姿を確認しようと納沙布に向かった。

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なにしろ納沙布から歯舞群島までの距離は3.7k~25k程しかない。

さらに野付半島から国後島までは16kしかないんだから、見えて当たり前だ。

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砂州でできた野付半島からは国後の羅臼山がくっきりと見えていた。

納沙布には、北方領土返還を祈念する大きなモニュメント「四島のかけ橋」がある。

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そしてその中心点には、赤々とトーチが燃え続けている。

もちろん多くの人々が署名し、外交交渉も繰り返されてきた。

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しかし現実には、歯舞を除く三島に16,800人余のロシア人が住み、

クリミア方式で帰属を問う住民投票をすれば、100%ロシアということになるだろう。

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そもそも、ロシアは何故この四島まで占領したのだろうか。

当時のスターリンはラジオで国民に向けて以下の演説(9月2日)をしている。

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「1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は、重苦しい思い出を残した。

この敗北はわが国に汚点を残した。日本が粉砕され、

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汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。

40年間、我々はこの日を待っていた。

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今日、日本は敗北を認め無条件降伏文書に署名した。

このことは、南樺太と千島列島がソ連邦に移り、

我がソ連邦を大洋と直接結びつける手段、

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侵略から我が国を防衛する基地として役立つようになることを意味している。」

日本がポツダム宣言を受諾し、敗戦となったのは8月15日である。

一方ソ連は、「日ソ中立条約」を一方的に破棄して8月9日に対日参戦している。

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そしてソ連が千島列島に侵攻したのは、終戦後の8月18日からだった。

彼らはウルップ島まで侵攻し、そこで一旦停止している。

だが北方四島に米軍が進駐していないことを知って、

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8月28日から9月5日にかけて再び侵攻して占領したのだ。

日本は、後のサンフランシスコ平和条約で千島列島と南樺太の権利を放棄した。

だが北方四島は厳然として放棄していないのである。

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国際法にもとずくなら不法占拠は明らかだが、この現実を変えるのは容易ではない。

人の住んでいない南の尖閣、西の竹島を巡る騒動とも合わせ、

領土問題はかくも厄介と言う他はない。納沙布に向かう途中に歯舞と言う村があった。

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歯舞島が占拠されて引き上げてきた人達が作った村だ。

ちなみに当時の四島には1万7千人余の日本人が住んでいたのである。

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2014年5月 7日 (水)

この国の東西南北

足掛け二年を費やして、遂に東西南北端を踏破した。

自分の足でその地に辿り着き、土地の空気もたっぷりと吸ってこの国を考えた。

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取り分け最北端の宗谷岬は、物思わせる岬のようだ。

間宮林蔵の見つめている樺太までは、43kの距離でしかない。

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言うまでもなく樺太が島であることを発見したのは間宮であったし、

稚内は樺太への渡航口として賑わった所だが、

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ロシア領となった今日ではかつてのその面影はない。

最終日の昨夜は、みんなで車座になって今回の走り旅を語らった

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それぞれに思いの丈は違うけど、自分の足で辿った感慨は忘れられないものだ。

私は幾つかの点で、今回の旅を総括してみている。

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一つは、北海道ではまだ冬のこの5月に訪れたことで得られたものだ。

すっごく寒かった納沙布岬への雨の中の道、雪の羅臼峠と羅臼岳、

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雪の壁の中をひたすら登って行って、その峠に至ると羅臼岳が悠然と聳えていた。

世界自然遺産の知床五湖の素晴らしさは、Img_1035

雪に覆われた知床連山と雪をぬって辿った湖、

この時期ならではのハーモニー故ではなかったか。Img_1038

この日の朝、ウトロの町に迷い出たヒグマが一頭射殺された。

そんなこんな、北海道の厳しい自然とその美しさを体全体で味わったのだ。Img_1040

寒かったし羅臼峠への坂道は大変だったけど、この経験は忘れられないものになった。

二つ目は、人と自然の作り出したこの大地の素晴らしさだ。Img_1068

一直線に地の果てまで20kも続く道路を造ったのは人間だし、

その大地を色とりどりに耕す人達がいて今日の景観が生まれている。Img_0911

57基もの風車が回る宗谷丘陵も、やはりこの地ならではのものだ。

私達が走った海岸段丘は、この地球が作り上げてきた造形そのままだ。Img_0932

三つ目は、昨日遭遇したキタキツネやエゾシカに象徴される野生だ。

鮭の俎上は勿論のこと、今日訪れた大沼にはコハクチョウが群れていた。Img_0942

漁船の周りにはセグロカモメが群れをなし、私達はその海の幸を存分に味わった。

ともあれ最南端の波照間島はもう初夏だろうが、この宗谷は未だ春を待っている。

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東西南北、この国は海洋国家として大変な広がりを持っているのだ。

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当然ながら尖閣もその一端を担っている。

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何も東京ばかりが日本ではない。

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そして、この国に住む人達全体がそのことを常に感じていたら素晴らしい。

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ミーイズムの横行する世相だが、ちっぼけな利己主義なんかよりも、

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もっともっとこの国は豊かな自然を有しているのだ。

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やはり、自分達の足で踏みしめねばなるまい。

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2014年5月 6日 (火)

最北端の地宗谷岬

夜来の雨が上がって、今回の旅で最も良い日になった。

少しでも早くと早々に朝食を済ませ、浜頓別の宿をスタートしたのは7:30である。

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北に向かい始めて少し行くと、コハクチョウで知られるクッシャロ湖2kmの表示があった。

行こうと言って気が合ったのはHさんと私だけで、皆さんはどんどん先を急いでいる。

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ままよと、Hさんとクッシャロ湖に向かう。

やがて大きな湖が現れ、ハクチョウを探すも鴨が数羽水に浮いているのみだった。

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もう既にシベリアに旅立った後なんだろうか?

ともあれ引き返して皆さんの後を追わねばならない。

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Hさんと私は4kmのハンディを背負っての追尾行である。

しかし、2人で調子を合わせて進みながら、話が弾んで何時の間にか10kを過ぎていた。

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海岸に沿った道への右折を失念していたのである。

何とか合流しようと牧場の脇を突っ切って行くが、流石に広大な平原である。

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やっとのことそれらしき道に出たが表示が一つも無く、一直線の道が地平線まで続いている。

めったに車が来ないのだが、やっと来た車を止めて、道を確認したんたんと進む。

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実は、このまっすぐな農道は10km続いているのである。

暫く走ると、遥か彼方に胡麻粒ほどの点が動いている。人だ!!

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やっと最後尾を捕まえて、Hさんと私のペースは上がっていく。

追いつく頃には、コースはオホーツクの海岸を走るように設定されている。

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砂に沈む足に苦労しながら5kほど進んだろうか。

オホーツクは存外に静かな波を打ち寄せている。Img_1032

広い広い猿払村を過ぎると、オホーツクを右に見て延々と国道238号線を進む。

オホーツクの風は冷たいけど、天も海も青く心は晴れ渡っていく。Img_1034

気が付くと私達はオホーツク海が造った海岸段丘を走っているのである。

波に洗われた岸辺が隆起して左側に聳えている。Img_1043

その形状は、波が作り上げた海岸の形そのままのように見えた。

地球は、こうやって造形されてきたのである。Img_1044

ともあれ残り20kを過ぎた辺りからは一人旅になった。

おやっ、一瞬ネコかと思ったが、キタキツネである。Img_1041

路上で2匹の狐が私の動きを伺っている。

遂に、ここで好運にもキタキツネに会うことができたのである。Img_1046

残り1.5kで段丘の上に登る。

最後の1kmを宗谷岬の先端に向けて下り降りるのである。Img_1047

宗谷海峡に突き出して、目前に日本の最北端・宗谷岬があった。

1:6時35分 66kmを走り通してこの岬にとうとう立つことが出来たのである。Img_1052

昨年の最西端、最南端に続いて、今年は最東端・最北端を全て走破したのである。

感慨というよりも、北海道のあまりの広さを思い知った今回のランだったけど、Img_1054

走りながら何故か自分の命を感じていた。

「今、俺は日本の最北端に向かって走っている。」ってことが無性に嬉しかった。Img_1055

どんなことだって、目標が出来れば人は動き出す。

今回の企画を主導してくださったHさんと、Img_1056

同行の素晴らしい仲間達に感謝しなければなるまい。

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2014年5月 5日 (月)

でっかい道

今日は移動日でオホーツク海に沿って360kは走ったろうか。

直線道路に湿原、サロマをはじめとした大きな湖が続き、北海道のでっかさを改めて知る。

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今朝はこちらに来て初めてビーカンの青空に促されるように起床。

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宿の外には、朝飯を待ってセグロカモメが群れていた。

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良く見ると丸々と太って、かなり澄ました顔のカモメたちである。

宿の出発時間になると、地元ランナーのNさんが来てずっと案内した下さることになった。

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Nさんのエスコートで早速オシンコシンの滝へ、アイヌの言葉で蝦夷松の林の意らしい。

雪解け水を集めて川から噴出すような滝で、水量もたっぷりである。

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滝を後にして今度は斜里町に向かう。

斜里町に珍しい?道があった。

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何と寸分違わず一直線に20kの道が続き、それが見通せる場所に案内して頂いたのだ。

勿論10kほどから先は霞んでいるけれど、一直線の道は地平線の彼方に消えていた。

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この斜里町には、百名山の一峰斜里岳1547mが雄雄しく聳えている。

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斜里町を後にして幾つかの湖を通過して、網走へ。

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網走では、監獄博物館ではなく網走刑務所に立ち寄った。

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あまり縁を持ちたくない場所だが、異空間として誰もが関心を持つのも事実だ。

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私達はさらに西に向かって走り続けている。

オホーツクの海は思ったよりも遥かに明るく感じられ。

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納沙布方面に比べると緑が随分濃くなっている。

ともかく今夜は、明日の最北端を目指すスタート地点浜頓別に向かっている。

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途中、興部〔オコッペ〕の道の駅に寄ったのだが、アイヌの言葉で川の集まる所の意だそうだ。

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押しなべて、この広い北海道にはアイヌ言葉が至る所に残っている。

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私達は明日、この浜頓別からオホーツク海沿いに宗谷岬を目指すのだ。

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2014年5月 4日 (日)

知床横断

羅臼の宿の朝、窓の外を覗くとシトシトと雨が降っている。

天気予報を見ると、何としたことか全国でただ一箇所知床だけが雨である。Img_0919

しかし躊躇している余裕は無い。

8時宿を出発して、16kmの急な上り坂を知床峠を目指して走り出す。Img_0925

山手は厚く霧が立ち込めている。

この知床横断道路は、10:00にならないと車の通行が出来ない。Img_0926

その遮断機の脇をすり抜けて、寒さに向かってひたすら坂を登っていく。

道の傍らは雪の壁で、どこまでも冬山が続いている。Img_0931

雪から顔を出しているのはシラカンバの木々である。

標高660mの知床峠までの16kを上りきると、Img_0936

正面には1,700mの羅臼岳が聳え、峠は連休の観光客で賑わっていた。

流石に橋って登ってくるのは私達だけで、車からその珍しい姿を撮っている。Img_0939

峠での暫しの休息の後、今度は16k程をウトロまで駆け下りる。

途中の崖にはエゾシカが草を食み、何を思うのか私たちを眺めている。

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さてこそ、ウトロの街に入ったのは12:45だった。

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ウトロ港の傍らにオロンコ岩という60mもある巨岩が聳えている。

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その岩の急な石段を登っていくと、知床連山の峰々が見渡せる絶景であった。

その崖の下をのぞくと無数のかもめの巣があった。

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全員のゴールを待って、近くの温泉で汗を流し、今度は車で知床五湖に向かった。

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知床五胡は知床連山とオホーツク海の絶景を臨める自然の地である。

世界自然遺産に登録されて以来、レンジャーの管理する所となっている。

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ヒグマ遭遇時などの注意を聞いて、2湖と1湖を40分あまり巡った。

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木製の散策路と雪の道を辿り、凍りついた湖の向こうには羅臼岳が聳えている。

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まさに自然遺産の絶景である。

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今夜は、ウトロ泊まりである。

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知床の美しさは、どこまでも底深い自然美の世界であった。

その知床半島を、私達は自分の足で踏破したのだ。

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2014年5月 3日 (土)

野付から羅臼へ

一夜明けて、外は薄日が差している。

昨日見られなかった歯舞を見ようということになって、納沙布まで50k戻った。

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昨日は霧の中だった歯舞は、直ぐ目の前にあった。

昭和20年9月、終戦から暫くしてロシアの侵攻が始まった。

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米軍のいないことが分かってスターリンは一斉に千島に侵攻を命じたのだという。

今日は、この歯舞から羅臼へ向けて300kの行程である。

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途中、風連湖の湿原を越えて、やがて野付湾に至る。

野付湾は28kに及ぶ砂州に囲まれている。

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尾岱沼から渡し舟に乗ってトドワラに渡る。

途中アザラシが顔を出したり、海鳥を眺めながら冷たい海を進む。

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トドワラは砂州の中程で、この世とも思われない死の世界である。

生い茂っていただろう椴松が海水の浸入によって枯果て、別世界を見せている。

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その砂州を渡ること一時間近く、ネイチャーセンターに着いた。

ここの正面に浮かんでいたのが、ロシアに占拠されている国後の山々だった。

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距離は16k先だが、目と鼻の先である。

この野付の砂州だって、国後があったればこその海流か作り上げたのだ。

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しばし国後の羅臼山を眺めつつ、今度は己摩周湖に向かった。

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霧の摩周湖というが、カルデラの湖は火口丘の島も含め全体を見渡すことが出来た。

そして、摩周湖からは一路知床半島の羅臼に向かう100kほどの道を走る。

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とこまでも直線の道路が続き、おまけに海に近づく従って霧が濃くなっていく。

何処までも北の台地が続いている。

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ロシアは国後で止まったが、果たして本心はこの大地であったろう。

やがて羅臼の町が近くなってふと海を見ると、何とそこには流氷が広がっていた。Img_0906

時ならぬ風で、何年かぶりに接岸した流氷だという。

一同、流氷に感激しつつ、今度は羅臼の熊の湯に向かう。

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明日走る知床峠の入り口に涌く無料の温泉である。

脱衣場こそ囲われているが、雪の中の露天風呂である。

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残念ながら混浴ではなかったけど、十分に雪見風呂で温まることが出来た。

今夜は、この羅臼の宿で泊りである。

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明日の雪の壁に挑む打ち合わせをして、今日も終わった。

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2014年5月 2日 (金)

納沙布に立つ

霧沙布の一夜が開けカーテンを開けると、深々と雨が降っている。

午後には曇りになるとの予報に、みんな元気に朝食を済ませて出発する。

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今日のスタート地点は花咲線の落石駅で、43k先の納沙布を海岸線沿いに目指すのだ。

その前に珍しい海岸があるというんで、少し寄り道する。

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砂の組成が違うのかどうか、二輪駆動の車で乗り入れても走れると言うのだ。

早速3台の車を乗り入れて、ウミネコの遊ぶ渚をしばし楽しむ。

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今朝食べた昆布があちこちに打ち上げられていて、

引き潮なら大きなホッキ貝が拾えるという。

ともあれ落石駅に着いてスタートしたのは9:20である。

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落石駅も勿論無人駅で、広大な台地を網羅するJR北海道の苦労が偲ばれる。

釧路から出ている花咲線は単線で、一両の車両が一日6往復走っている。

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それでも乗客は限られたものだろう。

花咲港にちなんだ路線のようだが、この地の特産に花咲蟹がある。

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紅の濃い小ぶりの蟹で味はすこぶる美味である。

その花咲港の近くに「車石」という巨大な天然記念物がある。

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玄武岩が海水に冷やされて固まる際、独特の形状を育てたようだ。

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みんなで少し遠回りして、この車石の景観に圧倒される。

しかし未だここは15kと少しの地点である。

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雨は一旦少し小止みになったが、この辺りから冷たい風を伴って強くなってくる。

この広い台地は一直線の同じような景色が延々と続く。

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向かい風である。

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時折牧場の馬や水辺の水芭蕉に癒されるのだが、予想以上に疲労が重なってくる。

広がる原野には熊笹が生い茂り、残雪の塊があちこちに残っている。

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その傍らを黙々と納沙布を目指して進む。

途中、私有地の採石場を通り抜けたり、海辺の冷たい風を正面に黙々と走る。

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さてこそそれでも、15時40分やっとのこと納沙布に立ったのだ。

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納沙布は、プーチンの膨張主義の故か霧が立ち込めて、国後択捉も見えない。

ただ北太平洋の荒波が岸壁に打ち寄せるのみであった。

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北方領土は日本のものと叫べど通じずである。

最東端に立ってしばし記念撮影などをしたのだが、瞬く間に手足が冷えて震えだす。

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雨と冷たい風邪で気温は2度位だろうか、ここは未だ冬なのである。

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しかし、とうとう一日中雨の中を走ったのである。

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ほうほうの体で納沙布を引き上げ、根室の一角の宿舎に入って風呂に飛び込んだ。

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痺れる手足が人心地つくまでにしばしの時間を要し、例によって皆で乾杯である。

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43k程しか走らなかったのに、予想外の疲労が残っている。

風邪向かいに冷たい雨の故であろうか?

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2014年5月 1日 (木)

最東端へ

北海道は釧路に来ている。

この連休を使って、日本の最東端と最北端に自分の足で走っていこうと言う企てである。

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昨年5月の最西端・最南端の波照間島・与那国島に続くチャレンジだ。

この呼びかけに、各地から21名の物好きランナーが集まった。

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この広々とした北の大地をトコトコ掛けて行って、最東端に立つ。

ただそれだけの事に、何ほどの意味があるかなんて考えるのはよそう。

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羽田からの便で鶴釧路空港に着くと、ひんやりと肌寒い空気〔7度〕である。

おまけにびっしりと霧が立ち込めて、霧雨が降っている。

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車で今日の宿泊地・霧多布まで120kほど走るのだが、木々は未だ冬の佇まいで、

道の脇には所々に雪の塊が残っている。

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蝦夷地にも桜の便りがあるとは言え、北海道の春は未だ始まったばかりなのだ。

釧路からは厚岸を抜け、霧多布湿原を突っ切って霧多布岬に至る。

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岬には立ったのだが、その名のとおり霧に覆われて五里霧中。

今夜はその霧多布の民宿に泊まって、明日からの英気を養うのである。

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この地の名物は牡蠣と花咲蟹である。

一昨年の小笠原、そして昨年の南の島々と、顔ぶれも懐かしい人達だ。

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そんな思い出話も含め、明日からの非日常に胸を高ぶらせている。

とにかく、明日は霧多布の先の落石から43k走って最東端の納沙布岬に足跡を記すのだ。

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