身を絆す
人間とは、そもそも身勝手で我がままなものである。
毎日が忙しく、特に不自由もなく健康で暮らしている。
今日も五時前に起床して、毎日のようにブドウの収穫・出荷作業、
それに続く祭事を済ませて山に向かい、暑さの中を12k走って汗をかく。
午後は二つの懇談と会議を済ませて、今ここに座っている。
充実した良い日であったと総括すべきところだが、心中少々の悔いも残る。
それでかどうか、杜甫の詩の一節を思い浮かべている。
「細推物理須行楽」 (細かに物理を推すに 須らく行楽すべし)
「何用浮名絆此身」 (何ぞ用いん 浮名もて此の身を絆すことを)
よくよく物の道理を考えてみると、人生は何よりも生を楽しむことが肝心さ。
虚名などどうでもよいことで、自分を制約することなどなかろうに・・・という意味だろうか。
そう言えば、このところ少しばかり忙し過ぎたのかも知れない。
だがしかし、やることがあると言うことほど幸せなことはない。
小人閑居して不善をなすの道理で、自儘に過ごせば夫婦喧嘩が関の山だろう。
そこそこに自絆して、幾ばくかの社会貢献ができれば何よりだと思い直している。
さてこそ、自由が有難いのは一定の規律・拘束があったればこそだ。
猛暑が続いて、我が世短しとセミの大合唱が続いている。
「人生七十古来稀」 (人生 七十 古来稀なり)
「都非少壮時」 (すべて少壮の時に非ず)
長くもない人生をどう生きるかは人それぞれだが、精一杯燃やし尽くすが肝心だろう。
人生を楽しむとは、どれだけ苦労できるかではなかろうか。
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