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2014年8月 8日 (金)

自在の身

 「高臥閑行自在身」(高臥 閑行 自在の身)

 「池邊六見柳條新」(地辺 六たび見る 柳条の新たなるを)

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白居易の池上閑吟と題する詩の冒頭部分である。

自分は何時何処でのんびり横臥しようが、気儘に歩き回ろうが、

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全てが許される自由の身になった。そうしてこの自在の身になって、

我が家の池のふちの柳が新芽を吹くのを六度も見た。・・・と始まり、

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だが未だ達者でそれなりの働きが出来ると続く。

白居易62歳の作とされるが、

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私も定年から既にまん丸6年を経て、おおむね白居易の心境に達している。

かつての宮仕えは38年間も勤務したんだから随分長かろうと思いきや、

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今にして思えば人生のほんの一時に過ぎなかった。

あんなこんなの苦労や失敗の数々は思い出すが、それとて既に遥か昔のことになった。

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トータルで考えれば、良い上司や同僚に恵まれて、それなりに良い時を過ごしたのだろう。

そしてこの定年後の6年間は、また新たな現実の中を生きている。

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すべからく自分の選択した道だし、

身も心も達者で自分の出来ることなら、何にでも挑戦すべしと考えてきた。

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閑居して過ごすも、四囲に見聞を広げて過ごすも同じ一生であろう。

目一杯羽ばたいたとしても、それでも狭く小さな世界でしかないのだ。

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所詮は自分の歩いた目の届く範囲しか分からないのである。

それでもせめて自分の足跡を記そうと始めたのが、このブログである。

そしてモノローグは、既に三千余日となった。

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歩いてきた人生は面白くもあり、時に空虚でもある。

だからと言って逡巡していても詮無い、いかに生きたのかが人生の全てなのだから。

ともかく「高臥 閑行 自在の身」なのだと、改めて言い聞かせている。

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