個食と子供たち
辞書にも、この言葉〔孤食も〕がちゃんと乗っている時代だ。
それ程に「一人でご飯を食べる」ことが多くなったのだろうし、
家族がテーブルを囲んでいたとしても、TVに夢中で食するなら事は個食と同じだ。
個食は就業形態の多様化などによって増えたんだろうが、
食べ物を家族みんなで分け合う必要が無くなったこともあるだろう。
私の子供の頃は、やたら腹が空いていたんだけど、
学校から帰って食べられるものと言やぁサツマ芋程度だった。
こっそりお櫃からご飯をつまみ食いなぞしようものなら、お袋にこっ酷く叱られた。
そのお袋が、自分の食べる分をコソッと私に分けてくれたりした。
今では考えられないけど、兎に角限られた食事をみんなで分け合って食べていた。
だが時は移って、世はまさに飽食の時代である。
飽食だけではなく、コンビニで何でも売っているし、それにチンだけで調理も要らない。
それにしても、共に食事和するのが煩わしいとは如何したことだろう。
アメリカのファミリーって言葉には、共に食事する人って意味があるらしい。
そう言えば、西部劇には焚き火を囲んで食事しながらそんな言葉を使っていたっけ。
パキスタンの山岳地帯は近年では物騒な所だが、
スリー・カップス・オブ・ティーと言って、
「一杯目はよそ者。2杯目は客、三杯目は家族」として扱われるのだそうだ。
貧しい生活の中で、三度もお茶に招くなんてことは余程のことなのだ。
食料と水がこの上なく大切な所で、それを分かち合うのは友愛の最高の印になる。
いやいや、辺境のイスラムの地に限らず、
親しくなった恋人同士が二人の呼吸を合わせるには、先ずは一緒に食事することだろう。
職場の仲間が誘い合って居酒屋で一杯やるのも含めて、
人は一緒に飲食することでお互いの波長を合わせて行くのである。
個食は食料が貴重ではなくなったことの裏返しであり、人が一人でも生きられる環境になったて事なんだろう。
豊かさの産物には違いないが、それは利己を可能にしても本当の豊かさではあるまい。
家族を忌避して一人で食う飯が、果たして幸運を導き寄せるだろうか?
答えは、考えるまでも無かろう。
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