衣体
このところ夜が長い為かどうか、ちょくちょく夢を見る。
夢の中では、実に色々な場面に自分が遭遇しているのだが、
翌日にはその中身をすっかり忘れてしまっている。
只、夢を見たってことはハッキリ覚えていて、
あの夢は最近の出来事との関連だろうなぁ~と、ぼんやり認識している。
ところが昨夜は自分の現役時代の夢で、当時の見知った人がかなり大勢登場した。
自分の転勤や出会いみたいなストーリー?で、しかも自分の定年が2年ばかり伸びていた。
まぁ夢の事だから肝心の所はぼやけてるんだけど、登場人物も含めちょっとリアルだった。
しかしながら過去の夢を見るってことは心の老化かしらって、少し心配になった。
それに夢ってものは、何処かで自意識と繋がってるんじゃなかろうか。
少し過去を思い浮かべれば、走馬灯のように幾つものドラマが浮かび上がってくる。
これまで多くの人との出会いや様々な出来事があって、
その自意識も少しずつ成長と言うか、変化を遂げて来たんだと気付く。
夢は、そのほんの切れ端に過ぎないのだ。
ともあれ、この長い歳月の間に「自分」も随分と変わったと改めて思ったのである。
毎日の暮らしは綿々と続いているから、自分の変化なんてのは普通は気付かない。
それに若い頃は、「自分」なんてことを悠長に考える余裕なんて無かったからね。
更に言うなら、餓鬼の頃には自分で自分の「えたい」が分からなかった。
それが、もう古希に近い歳で過去の夢など見たりすると、
「あぁ、俺ももうそんな歳かぁって」改めて私自身の変化を思うのである。
本を読んでも感じ方は昔と確かに違うし、読もうとする本の傾向も変わった。
当然ながら出来事への感じ方も、物事への対処だって格段に違ってきている。
これが老成?なのかも知れないが、自分の「えたい」が知れたって事だろう。
因みに「えたい」とは、僧侶の衣姿のことを指す「衣体」が語源だ。
僧侶は身に着ける衣の色で宗派とか格式が分かるのだが、それが分かったってこと。
とは言え、私自身の衣体の下にある愚図で小心な自分はちっとも変っちゃいない。
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