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2015年2月16日 (月)

つれづれなるままに

富士山がすっぽりと雪の衣を着て、その圧倒的な存在感を見せ付けている。

何時の時代の人々もこの山を見上げて、何がしかの感動を受けてきた。

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幕末の横井小楠は「男児の境涯 寄せて芙蓉の第一峰にあり」と書き残したし、

万葉にも「田子の浦ゆ 打ちい出てみれば真白にぞ富士の高根に雪は降りける」とある。

さらに平安時代の「更級日記」には、「富士の山は、この国也」と記した後に、

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「山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。」と

書き残していて、この頃には盛んに噴火していたのである。

それは兎も角、私の富士山を見る目も、以前と随分変わってきたなぁと感じている。

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かつて仕事で行き来していた頃には「あぁ、今日は綺麗だ。」程度の感想でしかなかった。

富士山にアクティブに挑戦した時期には、何度も登山競争に参加した。

それで既に二十数回は登頂してきたし、裾野でキャンプしたことも随分あった。

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そうして今は、私自身のモチベーションも変わって、富士を見る心の構えも違ってきた。

何と言おうか、何処かでゆったりと終日眺めていたいような気分なのだ。

何かに特段に追い立てられることはないし、自由に出来る時間だって作り出せる。

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成果や生産性ばかり追いかけてきた頃とは違って、

美しいものを美しいと感じるゆとりが少しは生まれたのかも知れない。

ゆとりと言えば、予定の無い時には何時だって山の中を走っている。

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同じ道を淡々と登ったり下ったりと、思えば全く単調で退屈な作業の繰り返しだ。

そいつを飽くことも無く、もう数十年も続けているんだから、私も根気強い。

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そうして最近思うのは、その単調な営みの中からこそ「ゆとり」が生まれるってことだ。

富士を見上げるゆとりもしかり。

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この時代、世界中の残虐なニュースや事件が殺到するように降ってくる。

そんな余りにも多くの刺激を振り切って淡々と生きることが出来るとすれば、

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それは自分の身体をひたすら淡々と歩ませることだ。

一昨日は、孫娘のチョコ工房と化した台所を愉快に淡々と眺めていた。

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