ぼっち
人間ってのは一人じゃ生きられないけど、元来が孤独だと思っている。
どんなに親しい間柄だって、自分の心の中にある何ほどかは共有できないだろうし、
そもそもがそれぞれ別の個体なんである。
生れてこの方、育った環境はみんな違うし、死んで行くのだって一人だろう。
思えば、私は子供の頃から何時も一人「ぼっち」だった。
時に子犬がじゃれる様に無邪気に騒ぐこともあったが、
自分の世界をはみ出すことは無かった。
「ぼっち」を生きるのは、実は楽じゃない。
それで近頃は、やたら周囲に同調する付和雷同が流行っているらしい。
自分の考えや意見を言うのは馬鹿馬鹿しいことで、周りに合わせときゃ楽って訳だ。
近年、ポピュリズムや衆愚に流れるのは、そんな風潮のなせる業だ。
自治会の会合などでも、大きな声で主張するもっともらしい意見が反対もなくまかり通る。
長いものには巻かれろっ、どっちみち自分にゃさして関係ないんだからとなる。
大勢の中でまっこうから「それは違う」とは言い難いもので、要するに流されていく。
かつてこの国が無謀な戦争に突入していく過程は、まさに衆愚の骨頂ではなかったか。
軍部の専横に誰もが巻かれて、何時の間にか誰もが反対も出来なくなっていったんだ。
だからして私は、「ぼっち」ってのはとても大切にしたいと思っている。
浜名湖の土を掬い取って富士山を作ったと言う巨人「だいだらぼっち」の伝説がある。
礫島が口から飛ばした梅干しの種だとか、姫街道の途中に足跡なんてのもあったりする。
姫街道を走りながら「ぼっち」って、そういうことかも知れないって思っていた。
奇想天外な伝説は、一人ぼっちが成し遂げる何かをし指してるんじゃないかってね。
走るってことは基本的に一人だし、そういう意味じゃ「ぼっち」に適しているのかな。
いやいや、皆で走るのはもっと楽しいけどね。
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