老年を生きる
昨日の続きである。
私達は他の生物と同じ様に、生まれて成長し、老いてやがて死んでいく。
だけど人間が他の生物と決定的に違うのは、子供の時期と老年が極めて永いことだ。
大抵の生物の一生は、基本的に生殖期で終わることになっている。
傷だらけになりながら川を遡上して産卵し、終わると同時に死んでいくサケの様なものだ。
ところが人間は、生殖能力が無くなっても、それでも延々と生き続けるのである。
定年とされる年齢を超えて30年前後も、一体全体何故生きるんだろうか?
年金や医療が大変になるとか、社会の活力が減るとか、邪魔者のように言われているが、
長寿は生産活動に余裕が出来て、人類のやっと成し遂げた到達点なんじゃないか。
生産や生殖から開放されて、生物的には一見余分と思われる期間だが、
実はこれは人間の人間らしさを実現させる重要な時期なんではないか。
思えば生活の為とは言え、長い時間ベルトコンベアの前に拘束され、声をからしたり、
営業の毎日だったり、緊張に次ぐ緊張の時間を通り過ぎて、やっと手にした安息である。
もう既に次世代は独立してそれなりの歩みをはじめている。
これを余生として死をひたすら待つのだとしたら、余りにも勿体無いというべきだろう。
かつて出来なかった趣味の世界へと足を踏み入れ、思いっきり遊ぶべきなんだ。
葡萄の様な果樹や野菜を育てる営みは、或いは自分の命のリズムを拝復する営みでもある。
ボランティアとしての子供達との交わりも、その為に生きているのだと思うことがある。
時間だってゆったりと流れるし、これこそが老年の新たな価値ではなかろうか。
そう言えばこんな感覚は、欧米の先進国では早くから実現していたような気がする。
長寿成熟社会は、老年代の充実があってこそ初めて生まれるのだと思う。
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