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2015年8月31日 (月)

ジュネーブにて

ジュネーブは、レマン湖の西の端にフランスに包み込まれるように位置している。

永世中立と言うこともあって、このジュネーブには国際赤十字本部や国連の欧州本部など、

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200余の国際機関の本部が置かれている国際コンベンション都市だ。

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国連の前身となった国際連合の発足したのもこの地で、今は国連人権委員会本部になっている。

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早朝、ホテルを出るとレマン湖の畔を北に向かって走り始めた。

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対岸の遥かかなたには、モンブラン(4807m)が雪に覆われた頭をのぞかせている。

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湖岸にはランナーやロードレーサーも多く、久しぶりに気持ち良く走っていた。

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人権委員会本部やWTOなどを過ぎて折り返し、今度はモンブラン橋を渡って旧市街に向かう。

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レマン湖がローヌ川へと注ぐ所にベルク橋があって、その真ん中にルソー島がある。

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18世紀の思想家ジャン・ジャツク・ルソーはこの街で生まれたのである。

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ところでスイスは、周辺諸国と異なった独特の経済を維持している。

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際立っているのは人件費がすごく高いことで、最低賃金でも45万円/月ほどである。

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高い賃金は当然ながら物価に跳ね返って、何でも驚くほど高価である。

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例えば普通のミネラルウオーターが700円、日本なら100円のアイスが500円、

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家賃が月20万円と言った具合で、賃金は高くても生活は???である。

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因みにガイドのTさんはジュネーブに住むが、肉などはフランスに買いに行くのだそうである。

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そういえばこのジュネーブにはフランス人が大勢通勤して来ていて、高い賃金を得て税金はフランスに納めている。

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スイス政府にすれば困った事態なのだが、結局どうにも出来ないらしい。

先日書いたように多言語国家だから、TVだって他の国とはかなり違う。

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アナウンサーは口をパクパクさせているだけで、TVから流れる言葉は自分の選択した言語なのだ。

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少しゆっくりしたかったんだけど、今夜はローマに泊まることになっている。

ジュネーブから一飛び、山を越えればもうそこはイタリアなのである。

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2015年8月30日 (日)

紺碧の空に

一点の曇りなく、紺碧の空にアルプスの女王マッターホルン(4478m)が浮かび上がった。

夜明け前に宿を出て、朝日がマッターホルンを薄赤く染めるのを待ったのである。

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荘厳なその一時は、ツェルマットの美しい街並みや教会をも色彩に染めていく。

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気高くそびえる山は「登ってやろう」と思わせる何かを持っている。

そしてこのマッターホルンに初めて登頂したのは、英国人登山家エドワード・ウィンバーである。

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丁度150年前の7月のことで、登頂に成功した後の下山途中に悲劇が起こる。

7名のメンバーのうち一人が足を滑らせ、4人が宙吊りになってしまったのだ。

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やがてザイルが切れ、4人が道ずれになって滑落死したのである。

生還したウィンバー達は自分を守るためにザイルを切ったのではないかと噂される事になる。

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・・・・そんな物語はともかく、この山に挑んだ登山家のかなり多くが命を落としている。

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ツェルマットのカトリック教会の傍らに、マッターホルンで命を落とした人々の墓がある。

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数えてみると64の墓石があったが、もっともっと多くの登山家が死んでいる。

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人間は何を成したかであって、何もしなければその人生は無かったに等しいのだ。

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さすれば、この山に挑んで死んだとしても、それは本望と言うべきだろうか。

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それに彼らの誰一人として、自分が死ぬなんて考えて登った者はいないのである。

ツェルマットからはアプト式登山鉄道が出ていて、3,089mの展望台まで20度もの傾斜を登っていく。

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25分ほどで展望台に着くと、ぐるりとクスカム、クラインホルン、モンテローザ、

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ターシュホルンなどの4000m以上の山々が360度展開している。

ちなみにホルンとは尖った山の意だから、数多くのホルンと称される山がある。

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マッターは放牧地の意味で、マッターホルンとは放牧地の上の尖った山の意味であろうか。

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ともあれ世界に4000m超の山は38峰あるが、このうちスイスには29峰があるのだ。

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中でもマッターホルンは、美しさを通り越した神々しさを漂わせている。

このマッターホルンの氷河から始まるマッターフィスパ川は、やがてローヌ川となってジュネーブに流れていく。

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ジュネーブはレマン湖のほとりの国際都市だが、氷河が造った平地の上にある。

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ホルンの峰々から流れ出した氷河は大地を削り、U字谷を造っていく。

そして琵琶湖ほどの大きさのあるレマン湖は、氷河の造りだした氷河湖なのである。

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今夜はレマン湖のほとりにあるジュネーブに泊まる。

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明朝は、ジュネーブのシンボルであるジェツト噴水の傍らを走るつもりである。

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2015年8月29日 (土)

スイスの人々

今日はサンモリッツから氷河特急でアンデルマットへ、更にツェルマットへと向かう。

サンモリッツの朝は摂氏10度位でヒンヤリとしていて、ベルニナアルプスが朝日で輝いている。

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ホルンに向かう氷河特急は、このサンモリッツから出発するのである。

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この世界遺産のパノラマ電車は2033mのオーバーアルプ峠を越えて、

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時速35k程度でマッターホルンの基地、ツェルマット(10時間ほど)に向かうのである。

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しかし私達は、5時間余の電車の旅を打ち切って、アンデルマットで降りてバスで向かう。

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当然ながら沿線は、山また山を生活基盤にしてきたスイスの地の人が造った景観が続く。

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厳しい自然に働きかけて、そしてその結果が今日の絵の様な姿なのである。

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氷河特急を下車したアンデルマットは、アルプスの中央部に位置していて、

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東西南北どちらに抜けるにしても、山の中とは言え交通の要衝であった。

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そういう意味では戦略的にも重要な地であって、微妙なパワーバランスの上にあった。

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ここからはバスでベルベデェールでローヌ氷河を見物していく。

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ローヌ氷河はローヌ川の源流で、ローヌ川はジュネーブを流れ地中海に注いでいる。

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このローヌ氷河は、この130年で1.3k後退したそうで、温暖化の影響で毎年10mも減っていっているのだと言う。

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ここからダーシュまで車で3時間、ツェルマットは車を進入禁止にしているためダーシュからはシャトル電車で入っていく。

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今夜の宿泊地ツェルマットは、マッターホルン登頂の基地であって、宿からはホルンの頂が雪で白く輝いていた。

明日、より近く展望できるところまで登るのである。

ところで今日は、スイス人の不思議を思っていた。

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スイスの人口は804万人に過ぎず、愛知県と同じ程度なのである。

住んでいる人々もドイツ系やらフランス系など様々で、言葉も公用語が4つもある。

流石にスイス人はバイリンガルで少なくとも2か国語は話すようだが、

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駅の名前一つにしても、言語によって呼称が違っているから、不自由極まりない。

州が26あって、そのそれぞれで制度も法律も違っていて、それが連邦法より優先する。

つまり26の州がそれぞれ独立した国であって、スイス連邦は便宜的なものである。

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小国が独立して生きていくために組織されたのがスイスで、永世中立もその手段だ。

もともとこの山国の人々の生活の糧は、農業以外は「傭兵」の稼ぎだった。

フランスなど各国に兵隊として働きに出でいたのであり、フランス革命のときも最後まで宮殿を守って戦ったのはスイスの傭兵だった。

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そんな伝統から、今日でもバチカンを守っているのはスイス兵である。

何処の国とも等距離に付き合う為の永世中立であり、その方が商売上好都合だったのである。

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とは言え簡単に中立が維持できた訳でなく、今日でも国民皆兵だし、各家庭に武器が備えられている。

頑固で誇り高き人々の集まりがスイスだと言うことになるだろう。

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その4000m超の山々の聳える国は、ヨーロッパの水がめでもあるし、

世界中から観光客の集まる国なのである。

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2015年8月28日 (金)

サン・モリッツへ

今日は、ミラノから国境の町ティラノを経てサンモリッツに向かう。

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ミラノから50k程北に進むと、40kもの長さで細く続く川の様な湖が見えてくる。

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氷河の流れが山を削り取って造ったコモ湖である。

湖の岸辺の斜面に張り付くようにブドウ畑が造られていて、もうすぐ収穫が始まろうとしていた。

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その畑の上には小さな教会を中心に村があって、そんな景色がティラーノまで続いている。

排水の良い斜面にはワイン用のブドウを、限られた平地にはリンゴなどが栽培されている。

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ミラノから160kほど走ると次第に空気も涼しくなって、ベルニナ特急の出発するティラーノに着く。

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ベルニナ特急はオスピツィオベルニナ(2253m)を超えて、スイスのサンモリッツまで行くのだ。

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ティラーノの駅を出るとすぐにマドンナ教会前を横切るのだが、

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それが何と列車は路面電車の様に普通の道を走っていて、車を止めて進むのである。

それに特急とは言うものの、時速30k程度で、ゆっくりと景色を楽しみながらの旅になる。

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列車は曲がりくねった線路を登っていくし、オープンループを登る特急も珍しい景色だ。

そうそう、ベルニナ特急そのものが世界遺産に指定されていて、何と箱根鉄道と姉妹鉄道になっていた。

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ともあれ、国境を超えてスイスに入ると景色は次第に絵のようになってきて、

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そう・・・・あのアルプスの少女ハイジの飛び出してきそうな景色なんである。

青い空に白い山、緑の野原と色とりどりの高山植物、乾草のベットすらイメージしてしまう。

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途中にはベルニナ山から下る氷河の一部が見えているし、雪解け水の流れも美しい。

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やがて約2時間の列車の旅はポントレジーナで終わり、

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後は車で数キロ先のサンモリッツに向かう。

サンモリッツは、4,000m級のベルニナ・アルプスに囲まれた町で、

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ドナウ川の源流イン川沿いに広がっている。

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それに1928年と1948年2回も冬季オリンピックが開催された町でもある。

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このサン・モリッツ湖の北側の傾斜地に広がる中心街も童話の世界のように美しい。

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ホテルに着くと早速、この湖の周りを走ることにした。

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丁度、近くで術競技の大会が開かれていて、それがまた景色とマッチしているのである。

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湖畔を走っているとツーリングの若者と、それにリタイア後の老人の姿が多い。

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そう、このサンモリッツはウインタースポーツは勿論、トレッキングの拠点でもあって、

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夏の一時を過ごしながらトレッキングすることを夢見てしまった。

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あのアルプスの画家、セガンティーニはここに住んで、スイスを代表する画家になった。

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この澄んだ空気と美しい景観が、彼に素晴らしい絵を描かせたのである。

初めてのスイスは、どうやら目と心を楽しませる旅になりそうである。

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2015年8月27日 (木)

ミラノと言う街

イタリア第二の都市ミラノは、人口130万の商業都市である。

今回のバンク博覧会開催や古い工場地帯が真新しい近代都市に変わりつつある様に、

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或は最新のファッションを生み出し続けているように、近代都市としても発展を続けている。

同時にドゥオーモ広場やスフォルツァ城塞に代表に代表される歴史の町でもある。

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そしてミラノの旧市街は、このドゥオーモ広場から放射状に街が造られている。

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その臍には巨大な大聖堂ドゥオーモが、幾つもの尖塔を聳えさせて巨立している。

何とこのゴシック様式の代表とされる大寺院は、1386年から500年も費やして建設されている。

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最後の完成はナポレオンに支配されていた1809年、彼の命令で完成されたという。

この聖堂は法王庁のサンピエトロ寺院とスペインのセヴィリア大聖堂に次ぐ規模だ。

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彫像だって2245体も施され、兎に角見上げる者を圧倒させずにはおかない。

ともあれキリスト教は、313年にコンスタンテイヌス大帝が、この地でキリスト教を公認したことから広がるのだから、キリスト教布教の拠点でもあった訳だ。

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しかし、この大聖堂を見上げると「宗教とは何と壮大な仕掛けを必要とするものだ」と思わざるを得ない。

この圧倒的な豪華さが宗教的な気分を育てる???のかと。

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それは弱い存在でしかない一般庶民にとっては、美しい教会とマリア像が必要なのである。

そういう意味では、カトリック教会は人間的弱さを深く理解していたのだろう。

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教会の内部は外見に比べればごてごてと飾り立てず荘厳で、先ずは大理石の柱の林立に目を奪われる。

そうしてステンドクラスから差し込む光が、まさに宗教的な空間を造り上げている。

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ドゥオーモ広場に戻るとその真ん中に、イタリア王国(統一後)初代の王様の像がある。

広場からスカラ座に抜ける通りは、世界で最も古いアーケードで150年前にできている。

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そもそもアーケード(ガッシリア)が必要だとの発想自身が革命的でもあったろう。

アーケードの下には名だたる世界の老舗が店を並べ、人々は店の前のサロンで寛ぐ。

アーケードを抜けるとレオナルド・ダ・ビンチの立像が建っていて、その正面がスカラ座だ。

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オペラに関してはヨーロッパ最大の舞台だが、もともとは貴族たちの集う娯楽の場だった。

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いやそれ以前に歴史を辿れば、ゲルマン民族の流入で破壊された街が再興されたのは中世後期からだ。

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旧市街の最も奥まった所に、高い塔と赤煉瓦の城壁を備えたスフォルツァ城が建つ。

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14世紀にウィスコンティー一族によって建設されたもので、

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実は若き美のレオナルドはこの城主に雇われて成長し、後々の作品を残していく。

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と言う訳でダ・ビンチの最後の作品もこの城内にあるらしい。

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くどくどと書き並べてしまったが、まぁミラノはローマに比べれば新しい歴史の地だろう。

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EXPO MILANO

食をテーマにした博覧会とは、まさか食べ歩きじゃ限度があると思った訳ではないが、

その展開の仕方には大いに関心があった。

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そう、ミラノ博は歴史上初めての「食の未来」をテーマにした博覧会なのだ。

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国や地域・企業を含め140ヶ国余が参加して、連日賑わっている。

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珍しいものが食べられるんで話題になっているジンバブエ館の様なやり方もあるが、

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最初はワニ肉のハンバーグ、次いでシマウマの肉、そして最近ではニシキヘビ肉だとか。

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多くはその国の事情や国柄を表現する内容になっている。

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例えばイスラエルは砂漠的な乾燥地だから、少ない水でいかに生産するかと言う技術を。

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アメリカは大輸出国だから、安価な農産物をいかに売り込むかと言う展示になる。

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そしてイタリアは、昨日書いたように幾つかの国が集まって出来ているから、

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その地域地域で独特の食文化を残している。

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日本ではイタメシと一括りんしてしまうが、Img_2207

そんな各地の料理の総体がイタリアの食なのだ。

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考えてみれば、私達は食料を得る為に長いこと働いてきたのである。

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そうして、その食料の確保の仕方こそがその地域や民族の文化なのである。

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今日の昼食はリゾットとカツレツを頂いたが、これはミラノの代表的な郷土料理だ。

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変わった所では北朝鮮が小さな館を出していたが、果たして人々が飢えているあの国に

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世界に紹介するような食文化があるのかどうか・・・・。

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或はスローフードを紹介する館の隣にはファーストフードのマクドナルドが出店していた。

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掘り下げて見ていけば興味が尽きないのだろうが、何せ与えられた時間は3時間半。

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ほんの一部を除いただけで終わってしまった。

ともあれこの博覧会で最大の人気を集めているのが日本館、次いでイタリア館である。

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そうして今日も朝一番から3時間待ちの行列が延々と続いていた。

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日本館では、5つのフロアーで「和」をテーマにした意欲的な展開をしていた。

最初のフロアーではHARMONYと題してコウノトリが導く幻想的な風景に圧倒される。

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DIVERSITYでは、次々と滝から流れ出てくる食と映像で戯れる。

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INNOVETIONでは、モリゾーとキッコロの案内で食糧問題を考える。

COOL JAPANでは、食に係わる美を紹介していく。

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最後のLIVE THEATERは、参加型のイベントになっていて、発想も演出も圧巻である。

外では日本食を食べたり、イベントコーナーがあったりするのだが、今日は静岡県と山梨県が頑張っていた。

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もう一つ特徴的なのは、日本館の映像とスマホが連動していることだ。

興味をもって知りたいと思ったら、スマホをかざすだけで詳細情報を引き出すことができる。

そして何よりも、日本に行ってみたい、日本食を食べてみたい・・・と言う意見(ネット上)が圧倒的だと言う。

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日本人の私ですら、今回の日本館をみて改めて和食の素晴らしさを感じた。

それで思ったことは、これはイタリアで見せるよりも、日本人に見てもらって考える方が大切だってこと。

この一連の出展を、ぜひ日本国内で実現させてほしいと思った次第だ。

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2015年8月26日 (水)

長靴は一つ?

今夜は、イタリアのミラノに来ている。

成田発13:00の直行便でミラノ着が同日の18;08だから、何と言おうか?・・・地球は狭い。

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このイタリアは独占欲の強い女と、女たらしの男が多く住むので知られる国でもある。

・・・と書いてはみたものの、私達日本人の様に単一民族の住む国ではない。

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そもそもイタリアは、ほんの百十数年前に北イタリア出身のガリバルディらが武力で統一して出来た国だ。

それ以前は、ヴェネツィア・ミラノはオーストリア領、トスカーナ大公国、ナポリ王国、法王庁国などに分立していた。

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統一された後首都がローマに置かれたが、この国の主導権は常に北イタリア人が握ってきた。

その結果として、北部のトリノやミラノは一大工業地帯として発展してきたのだが・・・。

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南部の連中に言わせれば、政府の北部優遇政策の弊害だと言うことになる。

民族だってアラブ人、ギリシャ人、フェニキア人、スペイン人など様々で、

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それぞれの民族の歴史がまだら模様に入り混じっている。

今日只今だって、シリアなどからの難民が押し寄せているのだ。

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ともあれ今、このミラノで国際博覧会が開かれている。

先ずは明日、その食の博覧会を覗いてみようと思っている。

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イタリアはスローフード発祥の地だし、グローバリズムにノンの狼煙を上げたところだ。

そのイタリアがどんなメッセージを出しているのかが、取り敢えずの興味である。

それに参加145か国の中で、日本館が最大の目玉になっているようでもある。

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12時間ほどのアリタリア航空787便のフライトだったが、一昨日の足の疲れがピークだ。

あのトラバース道の長い下りで相当に足を痛めたらしい。

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その足を癒しつつ、しばしこの地を楽しみたいと思っている。

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2015年8月25日 (火)

何故登る

流石に下りが続いたためか、足にかなりのダメージが残っている。

私にとっては、今回の北岳が初めての本格的な登山だった。

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臆病な男だけど、高所の度胸を鍛えれば山家にもなれると思った。

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ただトラバース(山壁)道で経験したように、怖いとなると筋肉が委縮して余計に動かなくなる。

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それでも、次々と変化していく景観や草花に目をやるだけで自然の中に自分を感じる。

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高山植物だって平場の花と違ってかなり控えめな花々だ。

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その花を私達は「健気」・・・良くぞここで頑張って咲いている・・そんな思いで眺めている。

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恐らくは地球の環境変化に追われて山で生き残っている草花なんだろう。

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今回の最大のハイライトは、山頂から見渡した南アルプスの山々とトラバース道だった。

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北岳の真北には甲斐駒ケ岳が鋭い山頂を突き立てて聳えているし、隣には千丈岳だ。

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北岳の山頂で、来年はあそこ(甲斐駒ケ岳と千丈岳)に登ろうと心決めていた。

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今度はあそこからこの北岳を眺めてやろうってね。

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はて、こんなに大変な思いをして何故山に登るのかだが・・・・・

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それはとんでもない非日常で、場合によってはとってもデンジャラスでもある。

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それでも北岳から間ノ岳に向かう尾根道を辿りながら、この国の素晴らしさを思った。

こんなにドラマティックでスケールの大きな自然を残している国は、

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やはり途轍もなく素晴らしい国なんである。

今回も韓国人、次いで中国人の団体登山客が多かった。

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韓国には、登りたくたって登るような山は無いんだ。

それから、私達人間は思っている以上に遥かに小さな存在だってことに気付かされる。

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それもほんの一瞬、崖側に足を滑らせりゃそれですべての人生は終わるのである。

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ただ、あれだね。

マラソンはゴールが最終目標だから気持ちよくテープを切ることができる。

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だけど登山は、ピークを極めてから元の所に降りて来なくてはならない。

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2015年8月24日 (月)

トラバース(山壁)道

耳元での騒音は、午前3時半、隣の男が早立ちするのでやっと静まった。

やれやれ一眠りと思いつつも叶わず、外は少し白み始めている。

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起き出してみると、空は満天の星空でその中央に天の川が流れている。

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山小屋の朝飯を済ませて外に出ると、ご来光を待つ人々が群れていた。

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下界は一面の雲海になっていて、その所どころから幾つかの山が頭を出している。

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やがて東のその雲海に太陽が浮かび、景色は一気に昼間になっていく。

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午前5時半、私達は昨日登った北岳の山頂を目指して再び登り始めている。

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眼下には甲斐駒ケ岳や千畳ヶ岳がくっきりと浮かび上がっている。

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言うまでもないことだが、昨日と違って崖の下が見えるようになって、所々で足がすくむ。

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だが、やはり山は晴天に映えて浮かび上がるようである。

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そこにチッチャな蟻んこのような人間どもが這い上がっていくのである。

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ともあれかたの小屋を5:30に出発した私達は6:00頃には北岳山頂に立って居た。

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更に南に向かって続く尾根を辿って中白根山に到達(7:35)する。

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そこから更に標高で三番目の高さ(3,189m)の間ノ岳に向かうのである。

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遠くに見えていた険路を辿って黙々と歩き、8:30とうとう間ノ岳の山頂にたどり着いた。

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間ノ岳の南の先は明石岳や富士山の方向になるのである。

雲の合間から富士山が頭だけを出して、ちょこっと挨拶をしているようであった。

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ともあれ山頂で記念撮影を済ませると、直ちに折り返して14:00までに下山しなければならない。

北岳山荘までは同じ道を折り返し、北岳への急登を避けて八本歯ノコルに向かうことにした。

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この八本歯ノコルへの道はトラバース道と呼ばれていて、誰もが楽に下山できる道と思っていた。

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北岳山荘をでたのが10;00だが、道は北岳下の崖をへばりつくようにして続いている。

時に道がなくなって、丸太でハシゴの道が作られていて、その下は1,000mほどの空間だ。

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時々足がすくみ、ふわぁ~っと崖下に吸い込まれそうになる。

それでも、これはほんの序章に過ぎなかった。

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八本歯ノコルに近づくと、どうしてこんな岩が重なって続くのかと思う程の奇観で、

テトラポットが無数に積み重なっている上を渡っていくと言う感じで、まさに歯茎の様である。

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それも所々にハシゴが渡されていて、お尻を少しずつ移動させるように下っていく。

それでのやっとの事、11;18には八本歯ノコルに辿り着くと、広河原まで3時間と記してある。

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14時のバスに間に合うには・・・・・果たして、と私達はみんな焦りだしていた。

ところが八本歯ノコルの下は、崖を真下に下るような地形で、次々とハシゴが繋がっている。

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正に沢を真下に下る様な地形なのである。

そのハシゴを下れども下れども、足の置き場に困るガラ場が続くのである。

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随分と下って、やっと昨日向こうの尾根から眺めた雪渓の横を辿ったのは12:10頃か。

急かされながらも、広河原に到着したのは13:27分で公式表示より1時間は短縮したのである。

さても昨日これほど登ったのかと思う程下りがきつかった訳だが、

広河原から1700mが一気に切り立っている山だと言うことらしい。

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ともあれ帰りは奈良田の湯に寄って登山の疲れを癒し、やれやれと言った気分になれた。

この奈良田の湯には由緒があって、別名女帝の湯と呼ばれている。

奈良町の頃、孝謙天皇(女帝)が当時をした湯だと伝わっている。

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2015年8月23日 (日)

南アルプスへ

仲間と連れ立って、南アルプスに登ってきた。

富士山や白馬しか登っていないし、本格的登山歴のない私だがみんなが行こうと言う。

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それに今回は山家Kさんが引率して下さるので、ラン仲間8名での山行となったのである。

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朝5時に集合し、一路山梨県早川の広河原に向かったのである。

環境交通規制で奈良田から広河原までは直通バスに乗る。

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南アルプスの玄関口である広河原は、既に標高1,500mもあって、

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ここを起点に10:00には歩き始めた。

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向かうのは標高3,193m(富士山に次ぐ高さ)の北岳である。

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広河原から山に入って暫らくはモミやクルミの巨木が続いている。

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でも直ぐに急登に次ぐ急登になって、薄着でも全身汗びっしょりである。

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呼吸は皆荒いのだが強がりのランナーのこと、弱音も吐かずに登り続けて、

予定よりも30分以上早く白根御池小屋に到着したのである。

小屋の前で細やかな昼食を済ませ、そそくさと山頂を目指す。Img_2092

小屋の直ぐ上あたりから延々と花畑が広がっていて、私達はその中を登っていく。

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花畑から後ろを振り返ると、鳳凰三山がデンと座って私達を眺めていた。

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白根御池は北岳に向かう最初の小屋で、宿営しているテントや登山客でにぎわっていた。

小屋の隣に小さな池があることからその名で呼ばれている。

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北岳は、その北側には甲斐駒ケ岳や八ヶ岳があり、南アルプスの中央に位置している。

そう言う意味で、やはり単独峯の富士山とは全く様相を異にしている。

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登り始めたばかりの私には、簡単に感想を書くのは相当に難しい。

いずれ山について書くことにしたいが、ともかく難行は続く。

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それにしても登りの傾斜はきつく、私達は喘ぎ喘ぎ登っていく。

それでも、北岳の山頂はようとして姿を現さないのである。

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途中の左側の大きな沢には、8月の末なのに雪渓が姿を見せていた。

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私達は先を急ぎ、大樺沢二俣に向けてひたすら足を運んでいく。

小太郎尾根分岐を過ぎるといよいよ北岳らしき頂(?)が見えてきて、

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その崖路を大勢がよじ登っていくのが下から望める。

時折白いガスが上がってきて視界を遮るのだが、天気はこよなく良いと言うべきだろう。

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気温も次第に下がってきている筈なのに、みんな相変わらず大汗をかいている。

随分のぼったおぁ~と思う頃14:00には今夜泊まる予定の肩の小屋に到着した。Img_2117

4時間半登り続けた訳だが、予定よりも大幅に早く到着してしまった。

流石はランナーと言うべきだろうが、私達はジッとしている事は出来ない。Img_2120

それで小屋に荷物を置いて(負傷したK隊長を小屋に残し)

(明日の天気は分からないと)私達は小屋の先に見えるピークをアタックすることにした。

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小屋から40分程登り詰めると、そこが南アルプスの最高峰・北岳山頂であった。

直ちに屋まで下山して、小屋の前でビールで乾杯である。

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折よく夕日に手にされて雲に自分の姿が映る(ブロッケン現象)のも感激だった。

山小屋泊まりは覚悟の上だったのだが、小屋はあいにくの満員状態で、

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朝まで身動きの取れない状態で、おまけに隣の親父の鼾がすぐ直近で鳴り響くしまつ。

その拷問状態が夜の白むまで続いたのである。

続きは、明日にしましょう。

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2015年8月22日 (土)

人生の大事

人間は本来、肩書きのない一個の生きものでしかないと思う。

そりゃあさ、誰もが社会の仕組みの中で色々とやって来たさ。

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俺だって、一時は千人近い部下を持ったことだってあるけど、そりぁ遥か昔の話だ。

そんなもの過ぎてしまえば、直ぐに忘れ去られてしまう。

古稀近くなって何を思い出すかってぇと、仕事に夢中だった頃のことはあんまりない。

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それよりも、昔の景色だったり・・、もっと私的でささやかな出来事のようだ。

難しく言えばきりが無いが生きることの基本は、

食って寝てセックスして子を育て、仲間と付き合って、そうした風景を眺めるのが全てさ。

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ただ、その単純な事の中に喜びや悲しみがあって、それをどう充実させるかが肝心さね。

それにしても、歳をとるってことは楽になるってことだね。

取り立てて人に好かれなくったって良いし、威張ったり競ったりする必要も無い。

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ただただ自分が自分ならそれで良い。

思えば虚勢を張ったり、警戒したり、怒りをこらえたり、我慢したり・・ずうっとだったよね。

そういう無駄なものがずんずん希薄になるって感覚かな。

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もっとも、目がかすんできたり片付けが面倒になったり、不都合が無い訳じゃない。

だけどそれも自然の摂理であって、それなりの老化は甘んじて享受しなければなるまい。

そうして人生の大事は、出会いであったり笑顔だったり、極ささやかなことだな。

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肩の力を少し抜くだけで、世の中がハッピーに見えてくるから不思議だ。

そうして、自分に正直に生きりゃいいんだ。

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2015年8月21日 (金)

部農会

我が家の玄関の脇に大ぶりの鉢があって、そこにジャカランダの樹が植えてある。

オーストラリア原産で紫の花を咲かせる〔彼の地の桜と言われる〕筈だが、

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我が家にやってきて10年になるが、気候の違いの為か未だ一輪も咲いたことがない。

今朝その鉢を見ると、根元に見たことも無いキノコが生えていた。

これは十年来何の変化もなかった鉢の、初めて見つけた変化なのである。

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ひょっとすると、来春には花が咲くかもしれないと・・・・根拠の無い予感がしている。

ところで今夜は、その隔世の変化について書こうとしている。

田舎には何処の集落にも「部農会」があって、かつては村の経済活動を仕切っていた。

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近年では、例の減反政策の下請けも部農会の仕事だった。

自治会長・部農会長・土木が村の三役で、国で言うなら経済産業大臣に相当する。

実は今年、私がその部農会長なのである。

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とは言え経済産業大臣は稲作全盛の時代のことで、今では何もやることが無い。

かつて50戸近くが田を管理していたが、今ではその水田は僅か3戸に集約されている。

水田に依拠して生活していた人達は、近くに進出した企業に就職して押並べて離農した。

そうして毎日バイクや車、ベアリングなんかを造っている訳で、米に関心など無くなった。

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それでも部農会という組織はあって、未だ30戸ていどが脱退しないで残っている。

それなりの財産も残っていて、はてこの会をどうしたものかが当面の悩みなんである。

と言う次第で、昨日は班長に集まってもらって、この時代の変化を踏まえた相談をした。

当面は親睦を深める活動をしようか・・・と言うことになったが、時代は変わったのである。

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いや、時代を仕切る経済が変わったのであって、農の風景は何も変わってはいない。

稲田には黄金色に稔りつつある稲穂が風に揺れているし、用水も滔々と流れている。

雑草を刈り取り野菜を作る姿もあちこちに見られる。

TPPの動きも最終局面を迎えていて、ひょつとするとこの農の景色も変えてしまうかも知れない。

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2015年8月20日 (木)

著作

拙著であれ何であれ、自分で書いて公表したものが著作だとすれば、

何といっても、このブログが最大のボリュームになった。

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中身はともかく、3,400のその時々の思いを・行動をそこに記録してきたんだから大分だ。

だからどうしたって思いが自分でもない訳ではないが、事実として残したって事だ。

文章を書き始めたのは40歳を過ぎた辺りからである。

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隔月発行の「農の風景」と言う同人誌に投稿を始めたのがきっかけである。

自分の書いた文章を公表するってことは、実はかなりの度胸がいる。

文章を読めばその人間の程度が知れるし、その内容を裏切る訳にはいかないからだ。

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「農の風景」の記事を本にしようって考えたのは新世紀を迎えようとしていた頃で、

自分の想いを伝えたい一心で「心豊かな新しい時代のために」と題して自製本を作った。

当時、自分で本を作って知人に配る人間も珍しく、「オッ」って感じで受け止められた。

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若いってのは無謀なもので、鈴木自動車の修会長にも「読んで」って手渡した程だ。

ともあれ一度本にしたことで度胸がついたと言うか、次の段階への欲が出て、

その数年後に静岡新聞社から「スローな気分で・・・」を出版することになる。

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県内の主だった本屋に自分の本が平積みされて、その景色を見きただけでドキドキと、

摩訶不思議で表現のしようがない感覚を味わった。

しかし今思うと、「俺は、ここに生きている」って感覚が先走って、

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一体全体、読者に何を訴えたかったのか、まぁ書き手本位の本で終わってしまった。

その次の本は、静岡新聞に連載した記事がまとまって出版されたものだ。

その後も「農の風景」や「お茶と水研究会」の収録本やらが本になって残っている。

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ともあれ私の本も昔のものになって、図書館で本を選んでいて偶然自分の本と鉢合わせする。

寂しそうなその本に、借り手の現れるのをついつい願ってしまうのである。

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2015年8月19日 (水)

自分なりの・・・

人生は一度きりだし、誰だって試行錯誤で生きているんじゃなかろうか。

だから自分なりの生き方なんて、正直に胸を張って言える様なところは何も無い。

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行き当たりばったり、その時々の景色を窺がいながら、自分の生きられる道を歩いてきた。

そうして何時の間にやら、70年近い歳月を過ごしていたということに尽きる。

私の生きてきたこの戦後の期間は、歴史上類の無いほど選択肢が広がった時代だ。

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戦前までの諸々の制約から解放されて経済も自由も拡大し、

私達の前には次々と新しい景色が開けてきたし、言うならば良い時代だった。

可能性に満ちた時代だった訳だが、病弱だったり家庭の不幸を背負ったり人生色々、

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いくら清廉愚直に生きようとしたって、一筋縄ではいかないのが人生だ。

だから元気で走って毎日を忙しく動き回れるだけで幸せと言うか、運が良かったと思う。

そう、この世には人の数だけそれぞれ違った人生がある。

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技術者として、学者や教育者として、商社マンとして、或いは政治にかかわって・・・・・

その人柄の是非清濁は別にしても、そこに関わって命を燃やしてきた生き方がある。

「俺だって・・」と言いたいが、残念ながら形になって残っているものは何一つ無い?

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後生大事に努力した事だって、既に今は昔の出来事である。

「人生なんて、そんなもんさ!」って思いたいが、何となく納得し難い感がある。

思っても詮無いことだが「あの時、こうしていれば・・・」なんて悔悟も含めてである。

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ともあれ、既に第三四半期までの決算は終えている訳で、総決算も指呼の間にある。

それにしても、そろそろ自分なりの生き方ってヤツが見えてもよさそうだ。

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2015年8月18日 (火)

つれづれに

人は誰だってそうだと思うけど、子供の頃からずぅ~っとシャカリキで生きてきた。

そうして近頃、そんなこんなの人生を振り返ったり、一日一日を俯瞰して見ることが多くなった。

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今日もこうして一日が終わっていくぞっ・・・・って、何処かから自分を眺めている感覚だ。

それに「人生」って単語を頻繁に使うようになったのも、馬齢を悔いている証かもしれない。

ともあれ、終日のたりのたりではあるが、このブログを書き始めて3,400日目になる。

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この人工知能はかなり優秀で、直ちにそのすべてを振り返って覗き見ることができる。

左側の「バックナンバー」の表示をクリックすれば、過去十年のモノローグが覗ける。

同じく左側にアクセスカウンターがあって、この数字も60万アクセスになろうとしている。

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兎も角毎日書き続けてきたが、それぞれがこの10年間の紆余曲折であって、

言うまでもなく私の毎日にも谷もあれば山もある訳で、続けると言うのは容易くはない。

それでも書き続けようと言う熱意は何故か残っている。

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思えばこの十年、私の人生にとっては大きな曲がり角の歳月だったと思う。

イヤイヤ人生なんて明日をも知れない訳だから、もっともっと大きなコーナーが待ち受けているかも知れない。

そいつを「俺は、こう生きてらい!!」って書くのって・・・・シンドイけど、励みにもなっている。

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自分一人で生きてるんじゃないって思いかな。

人は時に群れたりするんだが、何故群れるかと言うと人の人生に関心があるからだ。

関心はあっても、その人生を飲み込むなんてことは出来ゃしない。

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結局のところ、「ふぅ~ん」って野次馬で終わってしまうのが常だ。

人の不幸や困難話が人々の耳目を集めるのは、その野次馬根性の延長だ。

後生大事に「自分」が大切だからね。

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そんな訳で、つれづれなるままに出来るところまで書き続けようと思っている。

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2015年8月17日 (月)

銅メダル

昨日は、思いのほか立派なメダルを頂いて帰った。

実は私の同級生は363名〔卒業〕で昨日出席したのが65名である。

卒業から50年を経ていることを思えばかなりの出席率で、その全員が自己紹介をした。

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それぞれ幾ばくかの面影を残しつつも、やはり年輪を経てそこそこの老人になっている。

それに、ここまで来ると歳の取り方も随分差があって、恩師よりも老けている者すらある。

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企業の顧問・役員や芸術活動、大学、医院などで引き続き活躍している人も居るが、

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大方は一線を退いて悠々自適と言った人が多いのも、老け方に関係しているのだろうか。

だが同級生の大半が驚いたのは物故者の数で、既に37名〔10.2%〕に達していることだ。

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「あいつも、死んだのかぁ~」と言う驚きである。

男の平均寿命まで十年と少々だが、果たして何人が銀・金メダルに辿り着けるものか?

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恐らく出席者の誰もが、人のことは別にして自分は金メダルまでと思っているのである。

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当然ながら私もその一人だが、金メダルにまで到達するには、

これからの20年の生き方を相当に工夫しないと駄目だろうと思った。

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園芸〔ブドウや野菜作り〕はかなり続けられるとしても、やがて身体的老化が訪れる。

それでも自分の時間を完全燃焼させ続けることが出来るのかどうか。

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人間が生きるには「甲斐」が必要であって、それが無くなると忽ちにしてボケが始まる。

折からの少子化で跡継ぎの絶えつつある家庭だって増えている。

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「のんびり余生を楽しむ」つもりが、無為に過ごす毎日になりかねないのだ。

ともあれ歳をとっても、真っ直ぐにくそまじめに歩み続ける他あるまいと思う。

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それで、小さくっても良いからやっぱり目標を見失わないことだな。

多少の無理をしても目標に向かって進み続ける姿勢こそ、明日への道だろうと思う。

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2015年8月16日 (日)

あぁ~、五十年

一体何時の間に・・・、何時の間に50年もの歳月を費やしたのだろうか。

少年老い易くとはまさに字のごとく、五十年前の紅顔の美少年・少女もかくのごとしである。

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今日は高校の同窓会総会で、卒業 50年の区切りに銅メダルを戴いてきた。

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因みに60年には銀メダル、70年には金メダルが授与されるのである。

流石に見付中学時代の88歳で金メダルの皆さんは10名になっていた。

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同窓会は当番年次の人たちが立派に仕切って、例年通り感慨深いものになった。

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年々歳々、同窓会にもその年のカラーがある。

それにしても私達も数年?前に登板だったと思うが、皆さんは若くキラキラ輝いている。

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しかして20年など瞬く間に経過していくのだろう。

ともあれ卒業以来それぞれの人生を歩み、そうして今日の会に参加しているのである。

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私の同窓生は36人が出席したが、その三分の二は初対面と同じであった。

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それぞれの人生の遍歴は、その顔を観ればおおよそ推し量ることができる。

それぞれのこの50年余の履歴を正直に刻んでいるのである。

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同窓会は一時の事であって、明日からは又それぞれの人生を生きるのである。

これまで培ってきた生き様は、容易に変えようもなく、これからも綿々と続くのである。

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肝心なのは「あぁ、五十年」なんであって、これをどう総括し明日に生かすかであるが、

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既に一割の同級生が物故していることを思えば、のんびり構えている暇はない。

二年後の70歳を機に同級会を開催することになった。

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歳と共にこうした催しが増えるのだろうが、同窓会も過去にこだわることは無い。

明日はどうするかって、そう言う若々しい会でありたいと思っている。

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懐かしさと言うものは、共に歩んだ歴史がなれーければ生まれないのである。

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2015年8月15日 (土)

寛ぎの時

毎日暑い日が続くが、そのさなか暑い暑いとフーフー言いながら走っている。

このくそ暑い中を何故と思うかもしれないが、耐久力を付けるには夏を走り切るに限る。

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気温が高いとホルモンの活性が鈍るのかスピードはグゥ~ンと鈍るし、もの凄く汗をかく。

たかだか15k走るのに2リッターも飲んでしまっても、走り終わってまず求めるのは水だ。

その走り終わってだが、よれよれになって返りつくの安堵感は何よりの物だ。

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今日も走り切ったって思いとヤレヤレって気持ち、そしてそこには同じ思いの仲間がいる。

そう、一日で一番寛ぎ感のある時間がこの時なのである。

取り留めのない・・・・暑かっただの、歩いちゃつた、イノシシに会ったなどの会話が続く。

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そんな会話を聞きながら、頭から水を浴び正にリラックスして、心身共に安堵している。

これが夏の一日の大事なステージなのだ。

「いやいや、人生とはもっとドラマと波乱に満ちている筈だ。暇げた年寄りどもだ」の声が聞こえてきそうである。

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確かに脇を通り過ぎる車は、この山の上で何事かと奇異の目を向けて通り過ぎる。

ところで仲間の内に、皆の羨望の的になっている75歳の男がいる。

この人の日課は、6時頃から山に入って11時ころまでたっぷり走ることである。

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毎日山の斜面を登ったり下ったり、5時間余りも走ってケロリとしている。

15kほどでヨレヨレになっている我々は何かと言うことになるが、兎に角鍛え方が違う。

しかもヒイヒイ喘いでいる私達をヒョイヒョイと追い抜いて行くのである。

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「あの糞爺め・・・・・」などの陰口もどこ吹く風なのである。

この爺さん、来月の丹後100kを走るのだが、先にゴールするのは爺さんさって声。

このN爺さんを見ていると、人間は歳じゃないって思うが、さて真似出来るものかどうか。

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ともあれ私にとっての夏の風物詩は、この寛ぎの一時なのである。

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2015年8月14日 (金)

戦争は知らない

私は、親父が中国から帰還出来たからこの世に生まれ、今日に至っている。

戦病死していれば勿論のこと、あの悪魔のロシアに抑留されていれば私は存在しない。

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親父や母親から聞かされた戦中の事、それが私たち団塊の世代の戦争体験である。

それに戦後の食糧難、物資不足も一通りは経験してきている。

そして戦後も70年になって、戦争なんて永遠な無いと考える人が大部分になった。

バカバカしい戦争など無い方が良いに決まっているが、世の中弱ければやられる。

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日清戦争が典型的で清国の弱さに付け込んで権益を拡大したのがこの国の戦争はじめだ。

帝国主義時代とはいえ、明々白々な侵略で列強は押しなべて侵略を国是としていた。

そして南米はポルトガルとスペインの子孫の国だし、カーストラリア・ニュージは英国の領土だ。

ロシアは更に極端で、シベリア以東はモンゴルや中国、そして日本の領土だった。

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ともあれ力(軍事力)が世界地図を作ってきたのであり、これは厳然とした事実だ。

時代錯誤の感があるが、つい最近だってロシアのクリミア半島編入などが現実だ。

北方領土など変換されるはずもないし、中国の海洋進出もほんのジャブに過ぎない。

世界は常に流動しているのであって、実はそれは厳然として力によるものだ。

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アメリカの力が衰えれば、他の勢力が食指(影響力)を伸ばしていく。

只私たち団塊の世代は、そうした世界の流れに対してあくまでも楽観的だ。

この70年間の経験に照らして、そんなにドラスティックなことなんて起こりゃしないって思っている。

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だから今日の安保法案の議論に対しても無関心だし、日本は安全だって思っている。

原発も防衛協力も反対、憲法改正反対で済むのかどうか…・この国の将来を考えない。

人口も減って経済力も相対的に縮小する将来、どうやって自立していくんだろうか??

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まぁ~俺たちが生きている間は大丈夫なんだろうが、後は勝手にしろって訳だ。

共産党も民主党も、本気でこの国の将来を考えているのかなぁ~???

とにかく、バカバカしい事がまかり通っている昨今さ。

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2015年8月13日 (木)

盆供養

私の住む集落では、毎年8月13日に初盆のお宅を訪ねてお参りをすることになっている。

そして今年は8軒のお宅が初盆で、それぞれ近所の皆さんと連れ立ってお参りしてきた。

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と言っても近所の付き合いが薄くなって、初めて訪れる家が大部分なのである。

その昔農業で地域が成り立っていた頃には、しょっちゅう顔を合わせていただろうし、

村の住人ならば恐らく知らない人など居なかったはずである。

しかし、戦後に人口が急増したことに加えて、それまでの村落共同体が崩壊してしまった。

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共同で堀浚いや道普請・田植えをしたりと言うことが無くなって、それぞれが疎遠になった。

それでも、昔ながらの盆供養の習慣だけは続いているという訳である。

日頃の付き合いも無いから座敷に上がっても話題とてなく「毎日、暑いですねェ」程度で引き上げる。

何だか意味がないと思いつつ、近所に住んでいた人を供養することに専心している。

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盂蘭盆会が仏教の何に元ずくのかも分からないし、時は情報化の時代である。

あちらの世界にもネットが普及していて、常時後代の処世を観察しているかもしれない。

とすれば、迎え火を焚くのだが、ご先祖様も遥かな?道程を辿って、わさわざ盆に帰るのかなぁ~?

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とは言え、ご先祖様の御恩はとりわけ掛け替えのないものである。

只死とは無になることであり、生きるもの全ては生きている間がすべてなのである。

誠に不謹慎ながら、お墓の存在にすら空虚なものを感じているのだから。

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ともあれ、夕方には住民こぞって三々五々ゾロゾロと参り歩くのが風物詩になっている。

これも正月と同じで、一年のけじめなのである。

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2015年8月12日 (水)

うつろい

明日或いは明後日、久方ぶりに雨が降るらしい。

夏の日差しと言うものが、こんなにも厳しいものだったのかと改めて認識しなおしている。

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ともかく寒いのも嫌いだが、歳のせいなのかどうか極端に暑いのも困りものである。

それで暑さのせいか、時々刻々外の環境の変化につれて変わっていく自分に気づく。

変わっていくのは思ったり考えたりすることがクルクルと移っていくと言うことだ。Img_1943

早朝の葡萄を相手にしている時には、雨が多かったからなぁ~、虫を付けなきゃ・・・、

早くやらんと間に合わんぞ、このウドンコがなけりゃなぁ・・・などと独り言を言っている。

車の運転中には、前後車の運転手の心理だったり、到着後の対応を考えている。Img_1942

会議の席では世界の経済の流れや政治の動きに神経を集中させている。

・・・かと思えばラジオから流れ出てくる音に反応したり、ともかく一点留まることが無い。

外の環境はどんどん変わっていくのが当然だし、自分だってそれに対応しなきゃいけない。Img_1941

だから何の不思議もないのだが、何故かクルクルと目まぐるしく変節する自分が奇異に思う。

そして、古希に近いヤツがこんなに動き回っているからかなぁ~と考えたりする。

言うまでもなく人には色々な生き方があって、ゆったりのんびり生きている人もいる。

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それが出来ない性と思いつつも、時にこれで良いんかなぁ~と考えるのである。

「何時までも生きる訳でなし、その一瞬を大切に・・」などと、それは分かっちゃいるんだ。

しかし、じゃあ~次の瞬間をどうすりゃ良いんだよぉ~・・・・と思わない?

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悔いなく生きるなんてのは当たり前の事で、目の前にある課題から逃げないことでしょ。

そうやって一日が暮れていくんであって、今日は何が出来たか・・・それで十分だと思う。

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あれだね・・・・・こうやってブログを書けるってことは最高の幸せかも知れない。

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2015年8月11日 (火)

猫も杓子も

「世間並みでないと、外聞が悪い」三つ子の頃から母親に再三聴かされてきた言葉だ。

お陰でなのか戦後の教育の影響なのか、多分に世間の動向に流されて生きてきた。

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つまり人がやるから自分もやる・・、自分だけ突出するなんてことは絶対しない生き方だ。

と言う訳で、靴下や帽子の色が違うだけでもビクビクとしたりして、

とにかく服装やら何やら目立たないって事に神経を注いできた様な気がする。

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かつての呉服屋の番頭さんのように、ひたすら世間に合わせることに腐心してきた。

そして『落ちこぼれ』だけにはなるまいと思っていた。

社会人になっても先輩のやり方は先ずはお手本にしたし、「人並み」なことが大事だった。

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これは江戸時代以来の日本人の性癖でもあって、何も私だけのことではなかろう。

それに人間は、元来がシマウマなどの群居動物に近いんじゃないかとも思うんだ。

群れの中で目立たずに生きてりゃ考えなくてもいいし、第一楽だしねぇ~。

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個性が尊重される時代になって、冒険や芸術・スポーツなどに羽ばたく人も多くなった。

私なぞは猫も杓子もの月並みな人生だから、

人の真似ができないことが出来る人を見ると、もう眩しくて仕方が無いのである。

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ところで杓子とはシャモジのことで、ありふれたモノの代表だ。

変じて、誰も彼も右へ倣えってな意味に使われるんだろう。

「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」〔一休〕

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ともあれ、そんな杓子が自分なりの人生を考え始めたのは中年以降のことである。

しかし三つ子の魂は容易に抜け難く、それに時既に遅しってことでもあった。

而して今日の代わり映えのしないジジイになったという次第である。

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代わり映えはしないが、杓子は大分磨り減って随分と丸くなった気がする。

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2015年8月10日 (月)

石磨き

朝五時前からブドウの収穫を初めて、注文が多く終わったのは9時近くなった。

朝飯をサッと終え山に出かけと慌ただしい一日になったが、今日も一日二万余歩無駄なしの感がある。

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だがとにかく一日一日が、ものすごいスピードで過ぎ去っていくのである。

ところで一昨日の連合会三役懇親会の折である。

宴の途中、Tさんが「ちょつと・・」と私を誘って茶屋の隣家に招き入れた。

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実は隣に同級生(女性)がお住まいで尋ねたら、ご主人が私と旧知と言うことになって・・・。

是非会いたいと言うのであった。

それはそれはとお邪魔したのだが、はて?どなただったか・・両者しばしの沈黙となった。

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ハッと合点がいったのは、元の職場に同姓同名の先輩が居たってことだ。

まぁそれで話は通じたのだが、それからそのMさんの趣味の話になったのである。

山あいの三倉川の上流にお住いのMさんの趣味は、石磨きである。

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三倉川からコレと見込んだ石を拾ってきて、ひたすら磨き込んで悦に入っているのである。

それがもう、かれこれ30年余と言うから剛の者で、奥さんも匙を投げていた。

お宅の周りには幾つかの倉庫があって、その全てに彼の作品が静まっている。

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それで帰りしな、「気に入ったのが有ったら、差し上げます」とおっしゃる。

精魂込めて磨いた石なのに・・・と思いつつ、結局遠慮なく戴いて帰ることにした。

Mさんは地元のライオンズクラブの会長など色々と活躍されてきた方で、そして今は石だ。

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精一杯の命を燃焼させてきて、そして今残っているのが石を磨くことだという。

山と川に抱かれ、その自然の中で余生を送って居られた所に、私が闖入したのである。

そのMさんとお話ししながら、「あぁ、人が生きるってことは・・・」って考えていた。

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人は何がしかに自分の精魂を注入して、望むらくはその成果を残したいのである。

Mさんの今が、たまたま石だったということである。

いやいやMさんに限らず、私達はどこかにそんな気持ちを抱きながら生きている。

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彼の気持ちが、頂いてきた石の存在感なのである。

そして、犬も歩けば棒に当たるのである。

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2015年8月 9日 (日)

沼の水

今日は昼から、高等学校の同窓会総会にお招きいただいた。

言う間でもなく同窓会は、同窓の縁を足掛かりに人の環を広げる会である。

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とは言え、同窓生の一人一人は卒業以降それぞれ別々の人生を歩んでいる訳だし、

それに日頃から頻繁に逢っている何てことも少ない。

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それで「久しぶりねぇ〜」と挨拶したものの、なかなか会話がかみ合わない何てこともある。

それが同窓会が今一つ盛り上がらない理由の一つになっている。

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しかし、やはり人生で一番面白いのは人だろうと思う。

同窓会がそれぞれの異なった人生をお互いに学びあう場になれば、

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会の在り様もかなり変わってくるのではないか。

ところで今日の会を盛り上げる為、スワンプ ウォーターの皆さんが駆けつけて下さった。

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SWANP WATERは浜松を拠点に活動する鶴田俊美さんと高橋辰幸さんのデュオである。

高橋さんが中高校で教鞭を取っている縁でミニライブが実現した訳である。

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SWANPとは沼の意だが、沼の水とは中々の思い入れのあるネーミングである。

「不思議の花」や「ふたりぼっち」など三枚のCDを出していて、最新作が「ケンシンジャー」である。

最愛の奥さんが乳癌になって助けられたことから、検診を応援する歌にもなっている。

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ともあれこのデュオからは、真摯に人生と向き合う気持ちが切々と伝わってくる。

音楽活動にどの程度のウエイトを置いているのか知らないが、彼らの懸命な人生を感じさせてくれた。

そう・・改めて思えば、人はそれぞれ(人がどう思おうと)精一杯の表現をして生きている。

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派手さはさっぱり無いとしても、私達も自分なりには懸命に歌っているのである。

敢えてデュオの名を「沼の水」と命名(様々な材料をミックスしたカクテル)したように、

私達の人生だってそこいらにある水溜りの様なものかも知れない。

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彼らの音楽に、飾らずに在りのまま生き抜く覚悟の様な気分を感じたのは私だけだろうか。

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2015年8月 8日 (土)

同走会

今日は山の中で二つの同窓会があって、電波状態が悪くってやっと繋がった。

前段の同窓会は、かつての連合会三役の懇親会である。

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森町三倉の神楽坂峠の茶屋に集まって、旧交を新たに・・・と言う次第である。

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それで本番はその後の同走会で、これは今春の北海道マラニックのメンバーが集まった。

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少しアルコールが入っていたけど、午後3時過ぎから大日山方向に向かって走り始めた。

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殆どのメンバーは小笠原以来の常連で、肝胆相照らす仲間である。

汗を流して喘ぎながら坂を上っていると、ゴロゴロって音が響いてきて直ぐに雨になった。

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久しぶりの雨が心なしか嬉しくって、ピョンピョン飛ぶようにしてムーハウスに帰ってきた。

濡れ鼠達はシャワーを浴びて、ワイワイと親しい仲間の「団欒」が始まる。

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テーブルにはコック長が腕を振るった料理が次々と並んで、昼からの私はもう腹いっぱい。

それに今回はみんなの話がそれ以上のご馳走かな。

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話は次から次へと発展し、次の夢へと走っていく。

そう、同窓会は過去を語るのではなく、未来のためにあるのだ。

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2015年8月 7日 (金)

短気は損気

一昨日、歴史観に優れ骨太な論客であり続けた阿川弘之さんが94歳で無くなった。

晩年は「葦の髄から」と題した随筆を書いていて、私もその深い所で得心させられてきた。

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それで改めて読み直しながら、日本人の堪え性に触れた一文に戦後70年を思った。

それは熱し易く醒め易い、すぐカッとなる日本人の性癖のことである。

阿川さんは、フランスの大政治家クレマンソーの言と忠臣蔵の浅野内匠頭を例に上げていた。

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敗戦直後の日本の政府を組織したのが東久爾宮稔彦王で、二ヶ月間首相を務めている。

その東久爾宮がフランス留学中にクレマンソーに会って、日米戦の可能性について訊ねている。

クレマンソーの答えは「アメリカは自分から日本に戦争をしかけるような愚かなことはしない。

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まず外交で日本を苦しめる。日本は外交が下手なうえに短気だから、

ギュウギュウ締め付けられるときっと、喧嘩を買い、日本のほうから戦争をしかける。

アメリカは外交的にそうなるようにもっていく。・・・戦争になれば、アメリカ兵は強いし、

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生産力も比較にならない。日本は必ず負ける。だから、どんなことがあっても、

日本は我慢して戦争をしないように」と言うものだった。

流石に虎と呼ばれたクレマンソーで、彼の慧眼どおり短気な日本人は真珠湾に向かい、

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結果として広島・長崎を原子爆弾の実験場にまでされてしまったのである。

更には、元禄14年〔1701〕に刃傷事件を起こした浅野内匠頭のこと。

赤穂浪士の仇討ちは歴史的義挙になっている訳だが、そもそもは赤穂の殿様御短慮。

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浅間内匠頭は家臣誰もが知る極度の短気性で、神経症の持病もあったらしい。

勅使饗応などはあと半日我慢してれば万事丸と収まったものを、前後を忘れ・・・となる。

結果は当人即日切腹、領地没収、家名断絶となって、あの忠臣蔵となる訳だ。

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とどのつまり浅野藩は勿論のこと、吉良家も幕府も甚大な苦衷を味わうことになる。

国際関係も私達の日常もかくのごとく短気は損気、堪忍が肝心と言う事である。

それでさ・・・、毎日顔を合わせているあのお方とも同じって事さね。

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2015年8月 6日 (木)

天の美禄

親父は酒が飲めず、無理に飲まされたお猪口一杯の酒でフーフーと倒れ込む人だった。

アルコールは、肝臓でアセトアルデヒドから蟻酸・酢酸を経て水と二酸化炭素になる。

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しかしアセトアルデヒド脱水酵素が無いと、この分解が上手くいかないのである。

つまり親父はそういう体質の人である。

その息子だからアルコール消化能力は脆弱で、思えば随分苦しい酒を飲んできた。

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付合いが肝心と無理して飲んで、帰りの電車を降りた途端に嘔吐なんて事を繰り返した。

原酒を飲まされて、足が立たたずに帰れなくなったことすらある。

だから二日酔いの辛さも十分知っているさ !

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それが何時の間にか美味くもない酒を日常的に飲むようになった。

それは酒に強くなりたい一心で始めた晩酌がきっかけだったろうか。

或いは残業で夜遅く帰って、眠り薬のつもりで飲んだウイスキーが原因かもしれない。

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兎も角も弱いくせに、それに味も分からないのに飲酒が習慣になっている。

最近では、精一杯走って汗をかいた後、グッと一杯やるあののど越しが気に入っている。

それに走っている時に飲むビールは、あれは何処かに消えてしまうんだよね。

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ところで酒との相性は、人によって随分と異なるようだ。

幕末の儒学者横井小楠は晩年に酒で大失敗しているし、榎本武揚の酒乱は有名だ。

何でそんなに飲む〔飲める〕のかと思うが、それが酒たる所以なんだろう。

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福沢諭吉も頭抜けの大酒飲みだったらしく、福翁自伝にも酒の記述があって、

「私の口には酒が旨くて多く飲みたい。その上に、酒の良否が誠に能く分かる・・」とある。

その酒が旨いと言う感覚は知る由も無いが、ふわりふわりと気が大きくなって楽になる。

私にとっては、その酔いの気分が酒そのものである。

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多くは飲めないにしても、ほど良いたしなみを大切にしたいと思っている。

養生訓にも「酒は天の美禄なり。少し飲めば陽気を助け、・・・・・甚だ人に益あり。」とある。

酒は百薬の長でもあるが百毒の長にもなる訳で、心して頂くことが肝心だね。

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2015年8月 5日 (水)

EQ

今日は地元で、小中学校の先生達と一緒に教育研修会で少し勉強してきた。

神戸大学大学院教授の川畑徹朗先生の話を伺いながら思ったことを書こうとしている。

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この頃の教育は、国から地方まで「生き抜く力」を如何に育てるかに躍起になっている。

ライフスキル教育などと、如何したら子供に自信を持たせられるかがテーマだ。

その為にはひたすら聴いてやって、褒めて励まして意志決定の機会を与えて・・・・と。

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問題行動は自信の無さの裏返しだから、確かに叱り飛ばすよりも効果があるだろう。

家庭も学校も、そして地域もそんな視点で子供に接することは大賛成だ。

とは言え私共の頃は知識偏重も甚だしく、競争が前提だったのだから隔世の感がある。

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そして近頃ではIQ〔知能指数〕に対して、EQ〔Emotional Quotient〕が言われる様になった。

自制したり共感できる能力の高さを示すもので、心の知能指数ともされている。

この世を生き抜く上での問題に対する答えは一つではないから、

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多くの選択肢から最適解を見つけ出す「対応力」の方が大切だろう。

つまり「頭が良いのにパッとしない」例えば超有名大学を卒業したのになんてことがある。

要するにIQはずば抜けて高いのに、自分なりの答えを見出せないのはEQの低い人だ。

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・・・・とそこまで書いて、突然に自分のEQが心配になってしまった。

それでネットを開くとチャンと測定できるソフトがあって、早速それを試してみたのである。

やはり心配していた通りと言うべきか、200点満点で平均が90 ~100とされるテストである。

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何と私の獲得点数は60点に過ぎなく、心の知能はかなり低いと判定されてしまったのである。

そう言えば困った事態にあうと何時もアタフタしてきたし、臨機応変ってのは苦手だ。

それにだ・・・IQは低いけど融通無碍な山の神には、何時も小馬鹿にされている。

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良く言ゃ朴訥に生きて来た訳で、一時代後に生まれなくって良かったと思って・・・・?

ともあれ自尊心は自分の生き方の結果なんだろうから、今更気にする事はあるまい。

とにかく、子供を育むことはかほどに難しい訳だ。

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2015年8月 4日 (火)

現実と自分

自分自身の客観的な姿は、分かっているようで実は見えちゃ居ないものだ。

人には、誰にもいわれなき自己過信の様なものがあって、

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そのお陰で成り立っているところがある。

いやなに、自分を眉目秀麗で明朗快活なイケメンだと思い込むほどのナルシストではない。

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第一イケメンは若い人に限定されている訳だから、もとよりロートルは論外である。

只、容姿に関しては床屋に行く度に愕然とするのだが、これが現実かと観念する他無い。

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だが時々、鏡の無い床屋は無いだろうかと思うことがある。

鏡が一般化されるようになって、初めて自分の顔を見た昔の人は、どう思っただろうか。

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・・・・あぁ、私はこんな人だったのかって、自信を持ったのかガッカリしたのかどちらかだろう。

声だって同じで、自分の声や喋り方を録音で聴くと、自分のイメージと全然違っていたりする。

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つまり自分はこうだと思って演じていた自分が、他人には必ずしも同じではないってことだ。

そして他人に見えている自分の総体が、社会の中での自分なのである。

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そうして客観化された自分よりも、実は本人の方が上ってことは先ず無い。

多分アレだね、名誉欲が旺盛で社会的な地位に固執する人は、

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自分に対する何らかの証明が欲しいんだな。きっと。

まあ私の様な普通の人間でも、聡明な父親とか若々しい男とかを演じているしさ・・・?。

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努力して頑張って、それで元の自分よりカッコ良くなるならそれも良し。

しかしまぁ、今更装ったところで地金が剥き出しているからね。

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何のかんのと言っても、百姓の親父に違いないんだから、それなりの味がでりゃ結構。

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2015年8月 3日 (月)

夏の線引き

晩方、見たことの無い男の子が来て、「お父さんが、ブドウを取って来い。」ってと言う。

訳の分からないまま、余りの人懐っこさに一房を持たせて「未だ、酸っぱいんだ」と返した。

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暫らくすると、今度は孫娘と女の子が「ブドウを採ってくれぇ・・・」とやって来た。

息子の家で大勢集まって夕涼み会をやっているらしいのである。

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私もご相伴にとおっとり刀で駆け付けては見たものの、既に宴の後で何もなし。

当然ながらブドウも棒ガラになっていた。

子供たちが花火を始めていて、久しぶりの夏の夜だけは味わって帰ったのである。

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ところで、戦後70年となる終戦記念日が近づいている。

8月6日は広島原爆忌で、次いで9日は長崎原爆で二発もの原爆を落とされたのである。

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実は既に焼け野原と化した日本側は、7月から戦争終結に向けた模索を続けていた。

それを承知の上で、トルーマンは二発もの原爆投下命令を出したのだ。

「軍国日本は、最後まで戦う覚悟だった・・」が言い訳になっているのだが?

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熱い被爆から既に70年の歳月が流れ、広島の原爆は夏の季語になっている。

そして長崎の原爆と終戦記念日は秋の季語だ。

もう直ぐ立秋となるのだが、立秋は夏至と秋分の真ん中の日で今年は8月8日だ。

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「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」〔藤原敏行〕

このバカバカしい程の暑さも、間もなく残暑となる。

子供たちは無邪気に花火に興じているのだが、花火ほど儚いものもない。

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一瞬にして消えた何十万もの命と人生も、再び生き返ることはあり得なかった。

戦争など愚の骨頂なのだが、いまだにあちこちで人が殺しあっている。

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2015年8月 2日 (日)

身勝手

気怠いと言うか、動くのもおっくうな暑さが続いています。

今日はこれとこれをやろうと決めたことも、中々に取り掛かることができません。

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それでも習慣化したことは止める訳にはいかなくって、今日も山を走りに出かけました。

汗ばかり流れてスピードはまったく出せないのですが、淡々と足を進めます。

しかしながら、7,5kの折り返しからは流石に歩きになってしまいました。

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山は何故かセミではなく、あのカナカナッていうヒグラシの鳴き声で満ちているんです。

それに走り終えて寛いでいると、オーシーツクツクって聞こえてきて・・・・・。

或は、この暑さも束の間なのかもしれません。

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「喉元過ぎれば、熱さも忘れる」などと言うように、

じきにこの暑さが懐かしくなるのかと思えば耐えねばなりません。

しかしまぁ、夜まで暑いんだから…・

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ところで暑さの中での相談で、この夏、山の皆で北岳に登ろうと言うことになりました。

富士山に次ぐ高さ(3,193m)だから涼しかろうってことで、

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ちょつと甘いんじゃないかと思いつつ行くことにしました。

そうして北岳から帰れば、今年の夏も終わりなんだろうと思った。

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それにしても掛け替えのない一日の筈なんだけど、こう暑くてはねぇ〜。

誰か、何とかしてくれない・・・。

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2015年8月 1日 (土)

小さな島の物語

先日訪れた佐久島は、三河湾に浮かぶほんの小さな島だけど「ふる里」を思わせる島だ。

面積にして170ha 程で海岸線をぐるりと回っても11k程だが、その形が一丁前に面白い。

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その昔、南に向かって開かれた湾部には千石船が停泊(風待ち?)したという。

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縄文の石器が出土する位だから、島には島の歴史があって・・・そして、今がある。

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何の、数キロ北に広がる産業都市大名古屋だって、江戸期以前は延々とした農村でしょ。

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その頃のこの島は、海運と漁業で結構豊かだったんじゃなかろうか。

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私達はこの暑い最中も、シコシコと毎日の「生活」の中に生きている。

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その日常を過ごすだけで精一杯で、とお〜い昔のことやその人々の営みを思う事もない。

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TTPやら安保法制などですら、遠い世界の出来事として過ごしている。

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そう言えばあの民主党政権の頃、このブログにもTPP推進を吹っかけてきた人が居たっけ。

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結構強情な人で、先ず人の意見に耳を傾けるなんてことの出来ない人だった。

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民主党員とか言ってたけど、音沙汰は無くなって今頃何をしていることか?

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とにかく人は、その時々に熱くなったりするけど、所詮その時の事で終わってしまう。

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一個の人間がどれ程熱い思いを持ったとしても、時の流れはもっと大きなうねりで、

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そうした個々の人々の生活をも押し流していってしまう。

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時の経過とはそうしたもので、もっと長いスパンで物思えば、この島だってそうでしょ。

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かつて「潮騒」って映画があって・・・・今では島を舞台にした映画はできないだろうな。

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そんな具合に、時代はどんどん変わってしまっているのである。

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佐久島は、俗化せずにそんなこんなを思わせてくれる島なのである。

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今回は駆け足だったけど、改めて「タコしゃぶ」でも食べに出掛けようかと思っている。

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