いま生きていること
どうやら、今日あたりから梅雨の中休みに入ろうとしている。
私の可愛がっている葡萄達は、この中休みの間に一気に色気づくのである。
それで昨朝は袋掛に夢中になって、毎日の立哨に5分ばかり遅刻したのである。
すると今朝、私のいない間に通過したと思しき子供達から「昨日は、どうしたの?」の一斉コールがあった。
暫しのやり取りだが、うっとうしい梅雨のひと時の何だか自分としては少し嬉しい一瞬だった。
ところで、私達は自分が生きてるって手ごたえを、どんな時に感じているだろうか?
普通は日々の生活の開け暮れに追われて「そんなこと・・・・??」って感じかも知れない。
でも人生には、躍動する瞬間と言うか、俺は今生きてるぞぅ〜って実感が欲しい。
現実の生活は様々な衣をまとっているのだけれど、それだけが生きるってことじゃない。
生活の衣装を剥ぎ取って、尚且つ一個の人間として「生きてるって」ことを実感したい。
一人一人の人間は、実は大変に孤独な存在で一人で産れ一人で死ぬ事になっている。
そうであればこそ、精一杯の生き方をして、そして納得してあの世へ旅立ちたい。
それに私達は、「今生きてる」って瞬間に励まされて、長い一生を送るのだと思う。
そして言うまでもなく、その瞬間は自分が意図して創り出すものなんだ。
梅雨の夜はひときわ内に籠るものだが、自分の人生を顧みるひと時でもある。
そう言えば、あの良寛和尚に「半夜」と題する七言絶句があった。
回首五十有余年 (首を回らせば五十有余年)
人間是非一夢中 (人間の是非は一夢の中)
山房五月黄梅雨 (山房五月 黄梅の雨)
半夜蕭蕭灑虚窓 (半夜蕭々として 虚窓に灑ぐ)
五十有余年の来し方を振り返ってみると、我が人生も一場の夢のようである。
この夏の五月(旧暦)、庵の外には梅雨が降りしきり、
この真夜中、人気ない窓辺をしょうしょうと濡らしている。・・・・・と詠っている。
あの子供達と戯れる天衣無縫な良寛和尚にして、一人の生身の人間は孤独なのである。
やはり、いま生きているって瞬間は大事だ。
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