埋め尽くし
インドにはサドゥと呼ばれる諸国行脚の坊さんがいて、ボーッと一日中座っている。
別に瞑想をするって訳でもなく、ひたすら同じ姿勢で座ったまま動こうとしないで過ごす。
勿論働かない訳だが、そんな無為な生き方を支える民衆がいて、それで彼らは存在しているのだ。
一種の浮浪者とも言えるが、年中温暖なインドでこそ可能な生き方かもしれない。
しかし、そもそも人間は動かずにいられる(生きられる)ものなのかどうか。
おそらく人間は、やがて自分に死がやってくるって事を知っている唯一の動物だろう。
猫のようにそれを知らずに生きられるなら、一日の大半を寝ていたって一向に焦ることもない。
自分の行く末や死を考えるなんてことは無いから、ただ今を生きてりゃ良いんだ。
だけど人間は普通、何にもする事が無いってことは恐怖であって、自分の生存すら脅かしかねない。
90歳を過ぎてなお元気な私のお袋は、年中草取りやら掃除・花作り、はたまたウオーキングなどと自分の仕事を探し歩いている。
何事かをする事が、自分の存在価値であり元気の源なんだと割り切ってもいる。
当然ながら今日よりも明日をと成長社会を生きてきた私も、明らかに空白恐怖症だ。
手帳に空白があればそれを埋めるべく、ごく自然に行動しているのである。
そして予定は自分を律してくれると言うか、日々の行動の原動力でもある。
因みに今週末は、浜松から佐久間までの間80kを往復する浜松縦断走を予定している。
まだまだ暑さの続く今日この頃、その暑さの中を何処まで頑張れるか我慢比べである。
人生は山登り同様に、何事も挑戦してみなければ結果は見えてこない。
畢竟、人間は思考し行動する葦でなければなるまいと思っている。
「この命なにを齷齪」で良かろうとも思っている。
それに「閑」とは、門に木(かんぬき)を掛けることに他ならないのだから。
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