人間の木地
良くも悪くも、今の自分はどうして出来たのかと考えてみている。
多分人間と言うものは、その幼少期の体験や環境で、その木地の様なベースが出来る。
それは恐らく小中学校時代までに原型が出来上がって、それが年月と共に、
漆を塗るように幾重にも上塗りされていって、そうして現在の自分になっているんだろう。
そして、外見上それなりの漆器に見えるのだが、時として地金が顔を出すこともある。
塗りが剥げた訳ではないが、その木地の強弱や素材などの本源的な部分が現れるのだ。
私の子供時代に関しては、終戦直後の貧乏で生きるのに必死な生活を経験しているし、
子供が親を助けて働くのは当たり前だったし、だから炊事をしたり、土を運んだり、山羊や牛の世話をしたりと忙しく、勉強などした記憶は余り無い。
それに内気で近所の子供と遊ぶことも少なく、悪餓鬼に苛められることもしばしばだった。
俄然、赤銅鈴之助や鞍馬天狗などのラジオ放送に聞き入って、正義の味方になることを夢想していた。
格闘家になって苛めっ子をやっつけるイメージもあって・・・そう、力を得たい、強くなりたいって思っていた。
中学二年になって少し物心が付いて俄然勉強をする様になったのも、そんな心の裏返しだったのだと思う。
思うに自分の木地は、かなり粗雑で壊れ易く出来ている。
その弱さを覚っているから、あれこれと試行錯誤して、今日の見てくれを創って来たのだ。
ともあれ、馬齢を重ねてみて分かることは、そんな人生の機微の様なものだろうか。
翻って、孫達の世代は何不自由することも無く、伸び伸びと子供時代を過ごしている。
栄養も十分で、木地だって不純物の無い無垢で出来ているだろう。
それにアニメ全盛の時代で、正義の味方と言えばアンパンマンくらいだろうか。
この時代、スーパーマン的な強烈な正義感は必要ないのだろう。
孫達の未来は、きっ素晴らしいものになると信じたいが、それはやはり緻密な上塗り如何だろう。
漆器の美しさは、やはり幾重にも漆を重ねてこそ生まれる。
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