あの感傷を再び
子供の頃の大晦日は、正月を前にして心ときめいていた。
ラジオから流れくる紅白歌合戦、そしてそれに続く除夜の鐘は、まだ見ぬ世界への入り口だった。
京都の古寺の鐘の音に、どんな素晴らしい所なんだろうかと想像していたのだ。
枕の側には、両親が工面してくれた新品の下着や靴下が置かれ、
翌朝はそれを身に着けて暗い道を初詣に出掛けるのが習わしだった。
初詣の祈願だって、新鮮な気持ちで真剣に手を合わせていた。
老年に入って時にその新鮮さを思い出すこともあるが、大抵は毎年の当たり前だと惰性が先に立つ。
この期に及んで往時の感傷(感動)を取り戻すには無理があるが、何時になってもあの胸のときめきが必要だと感じている。
そもそも人間の若さとは、感動の量なんじゃなかろうか。
平凡ではあっても淡々と過ごす中に、どれ程の感動と感傷を盛り込めるかが若さのバロメーター。
例えば、立原道造の詩「夢みたものは」のように素直であって良いのだ。
夢みたものは ひとつの幸福
願ったものは ひとつの愛
山並みのあちらにも 静かな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
勿論今年の私にだって感動や喜びは一杯あって、精一杯の一年を過ごしたって気持ちはある。
そして来年は古希を迎えるから、この節目の年を成熟した感動で一杯にしたい。
折しも来年は酉年で、酉の字は酒を熟成させる器に由来するらしく、
若い頃のナイーブな感傷を思い起こしつつ、古希を迎える成熟度を楽しみたい。
一日一日の、その一つ一つを如何に楽しむかを課題としてみたい。
さても、残り数時間で新年を迎える。
この一年、数々の励ましを戴いたことに感謝しつつ、今年最後のブログを閉じたい。
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