人それぞれの幸福
近頃しみじみ思うのは、若い頃よりも今の方がずっと幸せだよなぁ~ってことだ。
幸せの中身は具体的じゃないけど、自分なりの心の居場所がチャンとあるってことかな。
あの(現役の)頃には、兎角心配事が多かったし、喜びも苦しみも悩みも起伏が大きかった。
それは仕事のことだったり、人間関係だったり、はたまた子供の事だったりと、
遮二無二生きていて、幸福なんて感じている暇は無かった。
責任ある立場に立って日々奮闘している頃を振り返っても、幸福なんて実感は無かったな。
それが今は殊更大きな出来事がある訳ではないが、毎日の一つ一つをそれなりに幸福って思えるようになっている。
朝目覚めて天気が良ければそれだけで、日課のランが心地良く走られればもうぐっすり眠れるし、畑の作物がすくすく育っていれば機嫌よく過ごせる。
楽しいマラニックに参加できて仲間と語るだけで、それはもう言うことはない。
食べる物だって、とてものこと美味や量は既に卒業してしまっている。
古稀を迎えようとするしがない年寄りの幸福なんてのはそんなもので、決してダイナミックなもんじゃない。
要するに良い意味で鈍感になった訳で、その鈍感な分逞しく生きられるという次第である。
既に物欲なんてものは無いに等しいし、諸行無常も世の常と心得ているから、
この自分のふんわりと感じている小さな幸福こそが本物だよなって思う。
人が生きるためには、どうしても幾らかの幸福感が必要らしく、それは勿論各人各様だ。
そして誰だって、自分なりの幸福感を温めながら生きている。
何事も過ぎたるは及ばざるが如しで、程々が肝心なんである。
私も、やっとのこと、そんな簡単な事が分かる年齢に成ったのだろう。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
いいですね。
充足感溢れてますね。
私は、笑顔の友人が好きです。
言葉なく語る風や木々や草が好き。
土を触ってる時が何より好き。
物を作る自分の手が好き。
父母に頂いた体。
共に生き、褒めて頂いた心と身体。
ここにあることが、幸せです。
我が家には、人を妬み生きる事が、生きる力だったと自ら言う妻がいます。
彼女も更年期を迎えて10年過ぎました。
今尚、毎日のエルネギーは、幼少期からの嫉妬と妬みの思い出ボロボロ・・・。
悲しいことに、ダークなエネルギーの方が、清いエネルギーよりも少しだけ強いようです。(どの世界も・・どの国にも・・)
ただダークにエネルギーは、自らを傷つけ破滅に向かう様で、幸せわ育む力は無いようです(どの世界も・・・との国にも・・)
私は、戦後71年あのパールハーバーに立つ日本の首相に、『謝罪は無用』と言えるアメリカ人元兵士言葉に未来を思う。
自らの命を奪った民をも赦すキリストを崇める国だからでしょうか・・・・?。
ゆるす心・・・
赦す心・・・
罪を赦し幸せを分かち合える家族・仲間・世界って大切ですね。
それぞれの幸福に向けて・・・・。
今日もありがとうございます。
投稿: ひろ | 2016年12月26日 (月) 21時22分
何だか、ひろさんの琴線に触れる様なことを書いたのかなぁ〜。
人間は70年も生きてくると、多分色々な感性が鈍感になるんでしょうね。それでかつてはイライラしたことも、今ではケセラセラって過ごせるようになる。つまり、人間にはある程度の鈍感力と許容力が必要で、そいつがあった方が楽しく生きられるって思うんだ。
まぁ〜細君のことも含めて、丸ごと認めてやりゃあいい。その人の人生なんだから。私もブログでいろいろ(揶揄することを)書いたりしますが、実際には細君は自由気ままにやって居ます。
一度しか無い人生だから、楽しくやろうよって気持で生きています。
山草人
投稿: 山草人 | 2016年12月27日 (火) 17時27分