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2017年2月28日 (火)

いま在る姿

自分の姿は自分では見えないから、自分が何者(何が出来る)か分からず、それで子供の頃から悩んできた記憶がある。

それが何時の間にか、薄くなった頭や皺ばった面体を認めざるを得なくなって、やっと「あぁ~、こんなもんか!」って観念するようになっている。

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それで、人生なんてもっと楽に生きりゃ良かったと思うのだが、結構真面目に生きてきた。

人並みに人生の意味や人間何故生きるかなどと、生意気に考えたりもした。

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正に徒労と言うべきで、当然ながらそんなもんは始めっからありゃしなかった。

幸福になりたいとほのかに夢見たこともあったが、それも空気みたいなものだった。

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そうやって右往左往してここまで来て、今は在りのままの姿が少しは見えるようになった。

先日の高校生とのマラソン風景を写真に撮って下さった方がいて、

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かなり良い写真だが、当の被写体の本人は今にも死にそうな顔をして走っていた。

多分私の人生も同様で、息せき切って懸命に走って来て、今そんな顔をしてるんだろう。

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残念ながら颯爽とではなく、どうやら、はぁ〜はぁ〜喘ぎながら生きてるようだ。

先日両国の大江戸博物館で、江戸に暮らす人々の姿をジオラマで見てきた。

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両国界隈を行き交う人々の姿が生き生きと活写されていて、自分がその中の一人であるかの様な気分にさせられた。

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この時代に生まれていたら、八百屋を冷やかす親父か浪々の痩せ浪人か???

堂々と両国の大通の真ん中を歩けたかどうか・・・などとね。

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もっとも江戸の昔ならこの歳まで生きているのは稀で、もうとっくに死んでいるだろう。

なれど平成の今日、人生はまだまだ続くのである。

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やはり在りのままの自分をそれなりに評価して、そいつと正直に向き合う他あるまい。

今更、飾っても化粧してもどうにもならんがな。

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2017年2月27日 (月)

人生一人旅

常に刺激を求めて走り回っているやに思われがちだが、実は一人で過ごすことが多い。

孤独を極端に恐れて群れることに執心する人も見かけるが、どうにも真似ができない。

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人間は習慣の動物であって、慣れてしまえばどんな生活であれ、どうってことは無くなる。

私の毎日も、これが当たり前って思いつつ、自分にとって快適な当たり前を模索してきた。

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昨日の東京一人ランにしても、「一人じゃ寂しいでしょ」と同情されるが、むしろ十二分に楽しんでいる。

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皇居の内堀を走りながら移り変わる景色を堪能、そして行き交うランナーの内面を伺う。

何処のどういう人なのか、その人生も内堀を走る動機すらもみんな違うのだろう。

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走り疲れて皇居前の石に腰を下ろし、ゴールしてくるランナーを遠く眺めながら、2時間近く日向ぼっこをした。

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隣の石にはラテン系の女性二人が座り、東京マラソンのシャツを着て、何やら楽しげに話をしている。

大手町のビル群を借景にその前を走り抜けていくジョガー達、時が静止したかのような私だけのひと時であった。

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考えてみれば私の座っているその場所だって、終戦の日のあの時は人々が跪き・・・、

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桜田門近くだから幕末のあの日は水戸浪士達が・・・と延々と時が濃縮された場所なんだ。

その場と時に身を浸し、私の眼だけが現代の様を何時までも眺めている。

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そして私自身、その一人で彷徨う時間を静かに味わっていた。

平凡な日常はそれはそれで大切だけど、最近はマラニックを含めてぶらりと旅に出る。

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やっとそんな我儘が許される年頃になった訳で、その「ニュートラルな自分だけの時間」は、

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ふらりと旅に出てきたからこそ味わえたものの様である。

人は時の旅人だし、もっともっと心の旅をしたいし、四次元の世界にだって行ってみたい。

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「・・・日々旅にして、旅を洒とす」のごとく、人は生涯を通じてそれぞれの旅をするのだから。

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2017年2月26日 (日)

一人東京ラン

人もすなる東京マラソンなるものを、我もしてみんとて押っ取り刀で東京に出向いた。

実はこの10年間、毎年エントリーしてきたのだが、一度として当選することが無く、

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思い切って寄付枠(10万円)を払って参加しようとしたら、この三千人も既に一杯だった。

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ええ〜ぃままよと、参加したつもりで一人で走ってやろうとした次第である。

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しかしながらこのマラソン大会は、参加者三万六千人、ボランティア一万一千人と桁外れで、

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東京ビックサイトの受付会場にしてからが、人の波と会場の広大さ故に、入ってから出てくるまでに一時間もかかってしまった。

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東京マラソンEXPOと称しているとおり、正にお祭りなのである。

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受付もさることながら、都庁前のスタート会場は通り抜けるだけでも大変なことで、

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ともかくも一時間前に、スタートから600mの地点に陣取ったのだが、それも押すな押すな。

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体がかなり凍えた頃(9:05)車椅子のランナーが走り出てきて、9:10真っ黒なランナーの集団が先頭に現れた。

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先頭を独占しているのはケニアを中心にした黒人ランナーたちである。

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続いてランナーの列が次第に膨らんで、やがて都庁前の広い道一杯になって続く。

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しかも20分経過しても一向に減る気配すら見せずに続くのである。

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止む無く私も走ることにし、ランナーの脇を新宿から四ツ谷、飯田橋、神田まで走った。

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もちろん歩道だが、交通規制のお蔭で信号のストップもなく、一人マラソンを満喫したのである。

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10年間外れ続けたカタキを取った気分だったが、流石に神田からはコースを逸れて皇居ランに切り替えた。

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皇居一周は5kだが、これを二周して、かねて憧れの皇居ランを遂に達成したのである。

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東京マラソンは今年からゴールが東京駅前になって、これまた東京駅に向かうのにも一苦労となったのだが・・・

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ともあれ、清々と東京の一人走りを楽しんだ訳だが、三万人余のマラソンは半端じゃないね。

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しかし、やっぱりゼッケンを付けて一層走りたくなって、来年の運を期待するばかりだけど、こればっかりはなぁ〜。

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2017年2月25日 (土)

素の値打ち

人はある程度甲羅を経ればそれぞれの品格が出来て、自ずと滲み出るものだと言う。

そして見る人が見れば、その品格は何となく察知されるものらしい。

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昔の剣豪小説を読むと、畑で黙々と鍬を振るう老人がいて、その体に寸分の隙もない。

さてはあのお方こそ○×の名人、何某太郎兵衛様である・・・と言った場面が出てくる。

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私も毎日農作業をしていて、この時期はホウレンソウの収穫やら播種やらに汗を流している。

当然農作業着だから土まみれのズボンに、上は裸に近いシャツで汚い帽子を被っている。

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時折ハウスの戸を開く音がして、誰かと振り向けば宅配業者か集金係りの顔がある。

はてさて彼らに、私の姿は如何なる品格を醸し出して写るのだろうか?

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それは考えるまでも無く、「小汚い百姓のジジイ」だろうし、品格など微塵も感じる訳は無い。

金に換算すれば僅かな(一束100円のホウレンソウを20束程を作って)小遣い稼ぎをするオジイに過ぎないのである。

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言い訳をすれば私だって色々やっていて、朝は二紙の新聞に目を通し、街頭に立って子供達を見送り、諸々の作業を済ませ・・・・と結構立ち働いている。

まぁ~それらをひっくるめて人間の値打ちなんだろうが、他人から見れば只の中古親父だ。

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これが女性なら化粧をし、小奇麗な服を着てソソッと立ち居振る舞いを正せば、何処の奥方様かとなるのだが、

男は社会的な肩書きが外れたら、まさにそれなりの価値になる。

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それでも僅かながらの稼ぎのあるうちは、流石にドライな女房殿も幾分の価値を認めてくれようしようが、それも無くなりゃ正に「TVの前の産業廃棄物」になる。

それにしても、株でも何でもどんどん値打ちの下がる銘柄は持ちたくないものである。

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と言う訳で、男も自分の値打ちを上げる対策を考えないと遺憾と思っている。

それには馬子にも衣装と言うから、服装を少し整えて、細君に丁寧な物言いをすることかな。

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それに肝心なのことは、自分への挑戦を忘れないことだろう。

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2017年2月24日 (金)

幸せ(?)な子供達

中学生を対象にしたアンケート調査によると、子供の80%近くが「僕(私)は幸せ」って思っているらしい。

そりゃそうだよな、少子化で蝶よ花よと何不自由なく育てられて、何でも手に入るんだから。

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・・・と思うのは少々早合点で、チョットしたきっかけで絶望したりしてしまうから要注意だ。

そもそも何が幸せなのか分かっていない訳で、思慮と言うか思いが浅薄との指摘もある。

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特に交友関係は昔と様変わりで、ツイッターで友達募集してラインで繋がって満足していたりする。

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一度も逢ったこともない友達がこんなにいるから幸せってな感覚なのである。

私達の時代には考えられない希薄な交友が、かなりの比重を占めていたりもするのだ。

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実は地元の中学校の「学校運営協議会」があって、授業参観の後の会合で「生徒の様子」について話す中で話題になったのである。

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先日「幸せのサイズ」について書いたばかりだから、「子供達の居所」と言う点で興味を引かれた。

80%もの子供達が幸せなら結構なことだが、実際はそんな筈はない訳で、その表面(づら)が気になるのである。

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ともあれこの中学校では、授業開始の二分前には着席し≪黙想≫することが励行されている。

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結果として意欲的に勉強する子供が増えていて、昔と様変わりに学校全体も落ち着いている。

それに不登校の生徒も次第に少なくなっているから、先生方に大いに感謝したいところだ。

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それにしても、子供達の関心を引き付けて、学びへと導けられるかどうかは、教師一人ひとりの力量に大きくかかっている。

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外からあれこれ言うのは簡単でも、父兄の動向もこれあり、実際の教育現場は容易ではない。

教育に地域の声をと設置された協議会だが、これがまた中々難しい。

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2017年2月23日 (木)

人生の苔(垢)

半世紀以上も延々と生きてきた訳だから、誰にだってそれなりの苔が着いていても不思議じゃない。

それにこれまでの経験に照らして、ある程度の自分の生き方への自信も持っている。

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たとえどんなに環境が変わったって、何とか生きていける(はずだ)と思っている。

かてて加えて、主義主張程のものは無いにしても、それなりのプライドや癖を持っている。

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ひっくるめてそれらは、言うならば長年の人生の過程で付着した苔なんだと思う。

当然ながら私にも、本人が意識もしない余分な苔が生えているだろうと思っている。

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しかしながら、古希という年齢は、そいつらが本当に必要なものかどうか、虚心坦懐に振り返ってみる時期らしい。

つまりコアの部分は別として、物心共に身軽になった方が、これからが生き易いのではないかと言うことだ。

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特に心だが、些細なことは水に流し、時には清濁併せ呑む位の気持ちになることが肝心だ。

例えば、孫や子供の振る舞いにあれこれ忠告したところで、それはさして利口とも思えない。

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簡単に言うと、そこそこに枯れることが必要な年頃なんかなぁ〜と思案しているのである。

もっとも私の場合には、さざれ石の巌となりて苔の生すまで・・・ならともかく、多分に人生の垢だろうから、洗い落とすにしくはないだろう。

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とは言え、長年要して積み重ねたことだから、短気もケチも理屈っぽさも容易にゃ治らない。

はてさて好々爺になるにはどうしたものか・・・・それが、昨夜の夢だった。

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最近はボケの兆候なのか訳の分からない夢が多くなって、しかも理屈っぽい夢なのである。

毎日風呂に入っているから垢はと思うのだけど、人生のこれは中々落ちないんだよね。

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2017年2月22日 (水)

若いってこと

今日は高校生のマラソン大会に飛び入り参加して、11kを若い人達と共に走った。

私からすれば孫世代と競争する訳で、340名の男子高校生の中では飛びっきり目立つ存在である。

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勿論、例によって最後尾からスタートして、何人追い抜けるかと密かに楽しんでいる。

しかし彼らも「あんなオジイに負けて堪るか」とばかりに頑張るから、そう簡単じゃない。

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ともあれ11kを50分で走って、はて(?)180番目位ではなかったか。

まぁ〜順位はともかく、若いエネルギー(一生懸命)に触れるのは、何とも言えず心地よい。

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当たり前だが体の若さと同時に、心の若さを感じる時、やはり無条件で嬉しくなる。

怖いもの知らずで磊落で、心身に躍動感があって、みぃ〜んな私が失ったものだからだ。

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私の高校時代のマラソン大会は、ただただ苦しかった思い出しか残っていない。

ところが今時の皆さんは、仲間と競い合ったりして、結構楽しんでいる風景がある。

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市民マラソンが全盛期にあることも、或は彼らの心境に影響しているのかも知れない。

マラソンと言うスポーツは、単純なだけにその人間の一面を映し出すところがある。

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いやいや早い遅いではなくて、それは人間の性根の様な部分で、そういう意味じゃマラソンは人生の断面とも言えるのだ。

たった11kに過ぎないマラソンだが、枝垂れ梅の咲くこのコースを走り抜いたことを何時か懐かしく思いだすだろう。

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そして「あの頃の若さは、掛け替えのないものだった」って、必ず思うはずだ。

そうだなぁ〜、私にとってはもう50年以上昔のことだもの!!

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そして月並みだけど、若さには無限の可能性があるんだ。

そうして、その無限の可能性に挑戦出来るのは、生涯で一度っきりなんだ。

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怯むな、恐れるな、諦めるな、挑戦を続けて、自分の人生を精一杯生きてやれ!!

そう呟きながら、若い若い人達との一時を過ごしたのである。

折しも、今夜は誕生パーティとかで孫の友達が6人やってきて、若さ一杯の一日だった。

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2017年2月21日 (火)

幸せのサイズ

まだ総括は時期尚早かと思うが、時にフッと「俺の人生は幸せだったのか?」と考える。

時代の波に乗って生きて来て、それなりに仕事をして、家族を養い終えたんだから、それで十分じゃないかと思う一方、

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後悔と言うか悔やむことも次々と去来して、結局のところ結論は出せずにいる。

しかしそれも思いようで、仮に戦中に生きていたらとか、震災に遭遇してたらなどと限はない。

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90歳を越えているお袋が「こうやって、元気でいるだけで幸せだぁね」と、時折つぶやく。

確かにその通りで、幸せなどと言うものは感じ方次第なのである。

例えば天下布武を唱えた織田信長は、本能寺で「是非も無し」と死んでいくのだが、

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おそらく彼は幸せなどと言うことを考えたことも無かっただろう。

江戸の天下泰平を創りあげた家康だって、たぶん無我夢中で生涯を生きたんだろう。

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しかるに現代を生きる私達は、幸せの中身も定かでないのに「幸せになろうよ」などと、

それぞれが何処かで思いながら生きている。

それは世の中には幸せそうな情報が一杯あって、ついついそれに惑わされるからだと思う。

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それに加えて隣に蔵が建ちゃ〜の類で、嫉妬心が幸福感を毀損するし、幸せという感情は多分に周囲の環境によって左右される。

そもそも幸福は一種の人生感であって、人によってそれぞれのサイズがあるのではないか。

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・・と言うか、人生長くやって来りゃ、自分の過不足を含め凡その自分の人生が見えてくる。

つまり、大小はともかく、自分なりの幸福のサイズが分かってこなくっちゃいけない。

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高望みばっかりしてても無念なだけだし、あまりに小さいのも寂しい限りだ。

とどのつまり、幸福のサイズは自分の器量ってことになる。

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まぁ〜禍福あざなえる縄のごとく、思い通りにゃいかないわね。

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2017年2月20日 (月)

一人じゃないって

人の心の持ちようには、大きく分けて三つの状態があるようだ。

一つは人と関わっている時の自分で、これはもうその対人関係に全ての関心を向けている。

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二つ目は一人で外の動きを伺っている時で、意識と関心は外の世界にある。

三つ目が自分の内側に意識を向けている時で、一人沈思黙考若しくは孤独な状態だ。

かつて天地真理が甘い声で「一人じゃないって 素敵な事ね〜♪ あなたの肩越しに 

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草原も輝く 二人で行くって 素敵な事ね♪」って歌っていたのを思い出す。

その歌を聴いて「そうだ、一人じゃないって、そんなに素敵な事なんか!」って思ったものだ。

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私の結婚願望もそんなイメージの中で醸し出されたのだと思うが、しかし人生はそんなに単純じゃなかった。

やがて「二人でいても、それは厄介なだけ・・・」って思うようになったからだ。

そもそも人間は一人で生まれて、死ぬ時だって基本的には一人、而して一人自立して強く生きるのが自然だ。

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実は私は人混みが嫌いで、特に祭りの馬鹿騒ぎなどは、殊更に孤独を意識せざるを得ないから苦手だ。

一人でいる時よりも、あの孤独な集団の中にいると、余計に自分が空しくなるのである。

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それで、そんな空虚な空間よりも、自分ひとりの時間の方が遥かに充実を感じられる。

その孤独な時間が基礎にあってこそ、時に一人じゃない時間が殊更嬉しく感じられるのだと思う。

それに考えてみると、私の「ひとり時間」は年々その割合が多くなっているようだ。

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読書は勿論、農作業にしても何にしても・・・・一日の大半を独りで過ごしている。

そして、その折々に四季の変化を感じ、自然の風物を味わいつつ、一人だからこその淋しさを楽しむのだ。

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そういう意味では、「一人って、素敵な事ね♪」と歌いたい。

この国でも全世帯の三分の一が一人暮らし世帯だって言うし、そんな歌が流行んないかなぁ〜?

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ともあれ、私は孤独な「時間道楽」を謳歌したいと思っている。

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2017年2月19日 (日)

私の贅沢

私は元来が水飲み百姓の子倅だから、滅多なことでは無駄使いはしない。

そもそも金を使うことが嫌いだから、着るものも食べるものも、何時も質素倹約を旨としているのである。

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この点我が愛妻とは正反対で破れ鍋に閉じ蓋であって、これが故に我が家計は年中火の車ではあるが・・・・!!。

それはともあれ、私自身は石部金吉と言われる程贅沢と言うものが嫌いなのである。

贅沢とは、生活をしていくのに必要な最小限の範疇を超える物や事のことだ。

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自分にとって無駄なことや「分」を過ぎているものも、極力排除する生き方をしてきた。

しかしそんな私にも例外があって、私にとって分不相応な物が三つだけある。

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その一つがボールペンで、常時イタリア製のAURORAとフランス製のWATERMANを使っている。

たかがボールペンと思うなかれ、これが絶妙な筆致で悪筆もそれなりに見えてしまうから不思議で、この十数年こればかりは手放せなくなっている。

二つ目は革靴だが、リーガルは重くて堅くて決して履き心地は良くはないのに、ここ一番の勝負靴にしている。

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足がデェーンと落ち着くというか、何故か私の心を落ち着けてくれるのである。

三つめが時計で、ある時自分への「ご褒美」のつもりで買い求めたものである。

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時計などはスマホでも間に合うし、ホームセンターはもとより円ショップでも売っている。

昔の懐中時計でもあるまいし無駄の骨頂だと思うが、これを身に付けていると信頼感に包まれるから不思議だ。

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いずれにしてもこの三つは、無駄と言えば無駄だが、私の心の余白を少しばかり醸し出してくれるグッズになっている。

要するに私の贅沢は一種のおまじないとも言えるもので、傍目にも分かる代物だから

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細やかな見栄かも知れないが、この程度の贅沢が許されることに満足している。

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2017年2月18日 (土)

人生の大計

中国の宗の時代の思想家に朱仲新と言う人がいて、この人が人生には五計が大事だと言っている。

五計とは、生・身・家・老・死に対して、それぞれキチッとした考え方を持つと言う事らしい。

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生とは、自分の生涯の生き方(生甲斐)を見定めること。

身とは、自分の体の健康を如何にして保つかと言うこと。

家とは、自立できる程度の経済力を身につけること。

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老とは、人間としての成熟を成して信頼を得ること。

死とは、どの様な死を迎えるのかを考えておけ・・・・ってことらしい。

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実は先日、ある方の葬儀に参列しながら、このことを考えていたのである。

故人のKKさんは教育者としての生涯を貫かれた方であって、教育にロマンを追い続けて、

最後まで教え子達との交友に喜びを見出しておられたようで、健康づくりも一貫していた。

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勿論経済力は問題ないし、老年に入ってからも青少年健全育成に尽力していた。

そして死に際して、見舞いに来る人毎に「色々世話になったなぁ〜、ありがとう」と感謝していたというのである。

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喪主の息子さんの挨拶状にも、この「ありがとう」に関する記述があり、生前の故人が偲ばれる内容だった。

つまりKKさんは、朱仲新の五計のモデルの様な生涯を送られた訳である。

葬儀は進んで、あのチン・ドン・ジャランで覚醒し、俄かに「翻って我が五計は如何」と慌ててしまった。

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生・家・老は、共にここまで来てしまっては、既に取り返しがつかないではないか。

まぁ、辛うじて「身」だけは日頃のランニングのお蔭で、かなりの若さを維持している。

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しかして大問題なのは「死計」であって、その計画も覚悟も皆無なのである。

人生の締めくくりのテーマと言うものが如何なるものなのかは勿論のこと、確たる死生観すら持ち合わせないのである。

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言い訳は「まだ若いから」なんだが、果たしてまだ若いのかどうか?

「死」をキチッと意識しない限り、本当に生きることにはならないとも言うしなぁ〜。

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2017年2月17日 (金)

変わらなきゃ・・

人間は、自分が変わらない限り、いつまでも同じ景色をみているものらしい。

進歩にしろ後退にしろ、自分の立ち位置が変わるから物の見え方が変わるんだ。

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一昔前、日吉ミミの「男と女のお話」って歌に、「恋人にふられたの 良くある話じゃないか♪

世の中変わっているんだよ 人の心も変わるのさ♪」とあって、何だか妙に納得したことがある。

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まさしく人の心が変わるのも、何らかの動機があって立ち位置が移動したからなんだと思う。

そして、その変わり方は人により千差万別で、変わらない事を自慢する変人も居るくらいだ。

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だけど人間は、生まれてから死ぬまで同じ景色を見続けている訳にゃ行かない。

やはり、物の見方や考え方が少しずつ進歩(成熟)した方が、人生としてはハッピーだろう。

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それで人を変える要素は何かと考えると、それは読書、交友、移動(旅行)、それに運動に尽きるだろう。

どんな本を読んで異なった世界を垣間見るのか、自分以外の個性と如何に関わったか、

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異なった文物に直に触れて何を感じたか・・・などが、いつの間にか自分を変えていく。

つまりこの三つの人間の成長剤が、その人間の「でき具合」を決める重要な要素と言う訳だ。

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そはて運動だが、ウォーキングやランニングを始めとして諸々あるが、体を動かすことで人間はアクティブになる。

勿論行動だけじゃなく、前向きな考え方をするようになるし、根気すら養ってくれる。

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而してこの四つのエレメントを、意図的に組み込む生き方ができりゃ「賢人」になれる筈だ。

さはさりながら、時間の制約もあるし、人との出会いの妙(運)ってこともあるから、それは簡単な事じゃない。

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それに本には悪書もあるし、友には時に悪友だって登場するし、旅も単なる観光じゃ時間潰しだ。

私の場合はどうも後者に偏った嫌いがあるが、運動(ラン)だけは真面目に取り組んでいるぞッ。

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そして、読書だって今からでも遅くはなかろうと思っている。

望むらくは、昨日の自分と少しでも変わっていたいから。

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2017年2月16日 (木)

ハザードを越えて

私達の人生は、ちょっとした障害物競走(それもコース設定の無い)に似ているかもしれない。

最終的なゴール(死)に向かって、病気や怪我、経済的な困難や進路上の幾つかのハードルなど、山や谷を乗り越えて行かなきゃならない。

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時には越えられそうに無い壁や道の陥没、或いは道路工事で迂回を余儀なくさせられるかも知れない。

それで最終ゴールは決まっていても、その途中経過は人それぞれ随分と違ったものになる。

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私も幾つものハザードを越えてきた訳だが、考えてみると思い出はそのハザードに関連したものばかりだ。

月並みかも知れないが、入試や結婚へのプロセス、職業選択や事件・事故との遭遇しかり、

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それに増して仕事の上でのハザードは数えきれない程あって、今思えば、良くぞ逃げ出さずに乗り切ってきたって感慨が残る。

若かったから出来たのだとも思うが、一世一代の勝負の様な場面の連続だった。

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人間はその立場とか責任を背負うと、普通は越えられない掘だって軽々(?)と越えられるのだから不思議なものである。

それにしても、私にとっての人生の思い出はハザードの連続であって、

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これが仮に平板な道程ばかりだったら、「私の人生は、何だったのか」ってな事になっただろう。

つまりは、色々とあるから人生は面白いってことなんだと思う。

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もっと言うと、人生を面白くしたかったら、限りなく自分の困難(壁)に挑戦することだ。

ハザードは無いに越したことは無いが、そのハザードがあるから人生が面白くなる。

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その証拠にハザードを乗り越える度に、思い出に残る瞬間に遭遇できるんだからね。

はてさて、決して若くはないこれから、果たしてどれ程のハザードに遭遇することやら。

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これも分からないから面白い訳で、まだまだ俺の挑戦は続くぞッ!!

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2017年2月15日 (水)

思いのままに

毎朝子供達の顔を眺めながら、その一人ひとりのこれからの人生をそこはかとなく思っている。

自分の辿ってきたこれまでを思い、彼らの辿るだろう道程を想像するのである。

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出生や育ち方の違いこそあれ、誰にだって可能性へのチャンスはある。

ただ、その前髪を何時どんな時につかみ得るかどうかが、人生の分岐点なんだと思う。

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幼い彼らは今は未だ自分に何が出来るのか知る由もないし、自分への信頼だって無いだろう。

そして何時か「自分にも、出来る!」って思う時があって、実はその時こそがチャンスなんだ。

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私にとっての最初のチャンスは中学二年で、一夜漬ながら試験勉強を始めた頃だった。

するとそれまで出来ないと思っていたことが、成績と言う形で次々と可能になっていった。

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それまでの落ち毀れ小僧が「僕にも出来るかも」って思うようになった些細なきっかけだ。

「自尊感情」を僅かながら持った訳だが、人生はそいつを積み上げて行く事で発展する。

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そして「俺は、この程度だ」と思った時点で、その人の人生は頂点を打つのではないか。

そういう意味では、人間は自分の限界への挑戦を生涯忘れないことが肝要だと思う。

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私がマラソン大会に初めて参加したのは40歳の時で、ハーフマラソンだった。

10kは何とか走ったものの、残りの11kは足を引きずりながらの青息吐息で、やっとの思いでゴールに辿り着いた。

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その悪戦苦闘ながらも成し遂げたことが契機となって、フルマラソンに挑戦、そしてやがてウルトラマラソンへとのめり込んで行く。

殊にウルトラマラソンへの挑戦は20数年前だが、その準備に2年間を費やして臨んだ。

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準備万端しての挑戦のはずだったが、結果は制限時間ギリギリで、この時の苦しさと感激は今でも忘れられない。

宿に戻って、二階への階段を四つん這いで這い登り、一人涙したのを覚えている。

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このウルトラマラソンを完走した経験は、後々の私の大きな自信になって、

「人には、その気になれば思っている以上に、大きなことを成し遂げる力がある」と思うようになった。

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どんな窮地に陥っても自分を信頼できるかどうか、それが人生の要諦だろうな。

そんなこんなで、ウルトラマラソンは私の年間行事になっている。

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2017年2月14日 (火)

時の贅沢

およそ時の流れは、その一瞬一瞬が人生そのものだと言える。

それに過ぎ去った時は二度と取り戻すことが出来ないのだし、増して歳を取れば取るほど

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残り時間は少なくなる訳だから、まさに「時は、金より貴重なり」と言うべきだろう。

その貴重な時間を私達はちゃんと意識して味わいつつ、尚且つ有効に使っているだろうか?

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それが今夜のテーマなんだが、はて・・その貴重な時間を何に使えば満足出来るだろうか。

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私の場合は、四六時中あくせくと走り回っていて、そうだなぁ〜何もしない時間は希少だ。

生来の貧乏人根性と言うべきだが、その凡人にとって何もせずに過ごすことは至難の業だ。

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だが時の贅沢とは、泰然自若として無念夢想、時の流れに身を任せて時の流れを味わうことらしい。

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言うならば、欧米人のバカンス的な時の過ごし方であり、茶の湯などかつての詫び寂びに象徴される生き方だ。

確かに近世以降の日本人は、がむしゃらに働いて時間を楽しむことを忘れてきた。

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そして私も還暦を過ぎる頃までは、生きるとはがむしゃらに働くことだと思っていた。

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その強迫観念から解放されたのはつい近頃で、自分の時間を「自分で使う」ようになってからだ。

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誰彼に気がねすることもなく、その気になれば何時でも自由な行動ができる。

それこそが「贅沢」と言うべきではなかろうか。

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而して週末にはマラニックやマラソン大会に出掛け、時には山にも登り、折々に畑を耕す。

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「忙中自ずから閑あり」悠々自適、これ程の贅沢はかつて無かったのではないかと思う。

私に残された時間はたかだか10万時間足らずだろうが、もっと贅沢に使う工夫をしよう。

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ともあれ時間は有限、あなたにとっての贅沢な時の流れは果たしてどんな時だろうか? 

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2017年2月13日 (月)

無用の用

起きて寝て、息を吸って吐いて・・・などと、すべからく人生は繰り返しである。

私も長い距離を走ったり、ホウレンソウや葡萄を作ったり毎年毎日同じ事を繰り返している。

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そうしてその繰り返しは、必ずしも進歩している訳でもなく、それに生産的な訳でもない。

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人から見れば「何と無駄な・・・」と思われることに、私なりに真正面から取り組んでいる。

例えば走ることに何の意味があるのか? ・・・と問われても、殊更に実利的な要素は見当たらない。

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健康づくりだとの説明にもかなりの無理があって、100kマラソンなどは逆に健康に悪いだろう。

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その意味の無いことに、もうかれこれ30年も打ち込んでいる訳だから何としようか。

強いて言い訳するとすれば、私とってそれは人生の潤いづくりなんだと言うべきだろうか。

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かてて加えてもっと言えば、このブログにしてもしかりである。

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金を払ってスペースを維持し、そこに毎日ブログを書くことにどれ程生産的な意味があるだろうか?

人に言わせれば、「バカバカしい、ただの自己満足だ」と一蹴されかねない仕儀だ。

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確かに時間と労力の無駄かもしれないが、実はこれも心のどこかに充実をもたらしている。

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走ることやブログを書くことは、それ自体は無意味かも知れないし無駄であったりもする。

だけど長年真剣に続けてくると、その中に人生の真実が垣間見えてくるから不思議だ。

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而して年々歳々同じ事を繰り返している訳で、その平凡さの中に私は生きている。

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つまり同じ繰り返しは嫌だって止めちゃったら、人生をやめることに限りなく近くなる。

そういう意味じゃ、日常生活に合理性なんて考える必要は無いだろう。

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そうして、自分の中に一つでも多く最高の瞬間を実現できれば、それは素晴らしい人生になる。

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ましてこれからの人生の成熟期には、もっともっと沢山の無駄を積み上げていかなくっちゃなるまいと思っている。

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2017年2月12日 (日)

清水は晴れにて

今日は、清水いいとこマラニックで、例年通りの変化に富んだ38kを走る。

スタート(9;00)地点の清水駅に着くと、もう既に皆さんはスタート直前だった。

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慌てて股旅の衣装に着換えて、皆さんの後を追うのだが今年のペースは速い。

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先ずは次郎長生家が修理中で次郎長船宿に立ち寄って、清水の気分に暫し浸る。

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そこからは清水の町を離れて、標高307mの日本平山頂を目指して登っていく。

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「日本平」という名称は日本武尊(ヤマトタケル)に由来し、草薙の地名とも繋がっている。

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この有東山からの富士山の眺望は、最大のご馳走で、今日は雲一つなく裾野を広げている。

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その富士の絶景を横目にひたすら上り詰めて、山頂からはロープウエイで久能山へ。

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東京からのHさんにお供して、久しぶりに東照宮に参拝して行くことにした。

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ここでは梅は既に終わり、川津桜が満開で社殿の華やかさに一層の風情を添えていた。

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久能海岸に降りてイチゴをと思ったのだが(余りに高価で)、代わりにイチゴジュースを一杯。

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ここから三保までの海岸線7kを、駿河湾のコバルトブルーと共にひた走って行く。

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三保では例によって、茶店に立ち寄っておでんの昼食を済ませ、改めて富士を眺める。

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まぁ〜、今回のハイライトはここまでで、

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その後の17kは湾の内側をぐるっと回って草薙のゴールを目指すのである。

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35kとは言うが、あちこちに立ち寄ったり景色を眺めたり、それに何やらと会話していると

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何時の間にやら距離は進んでいて、まさしくこれがマラニックなんだろうな。

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いずれにしても清水は、日本一景色の良い所かもしれない。

その景色をたっぷりと堪能した一日だったが、15;20草薙ぎの湯にゴールし懇親会である。

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毎日遊び呆けて・・・これで良いのだろうかと、少しばかり心配になってきた。

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時の流れと邂逅と

宿を出ると直ぐに凄い下り坂があって、チェーンを装着していても雪の上をスルスルと、

それでもチェーンのお蔭で何とか脱出(冷や汗をかいたが)出来たのだった。

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この宿は実は少人数収容の宿で建物は古いが、食事は少し贅沢だった。

贅沢ってのは、普段しないような不必要なことをするってこと。

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人生は上下左右に揺れ動いたり色々あって面白くなる訳で、ただ単に真っ直ぐじゃ、

そもそも物語りにならないし、それじゃ味が無いってんで、少しだけリッチにしたんだ。

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夜の食事はともかく、雪景色を前面にした朝食には少しだけ感激しちゃった。

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朝食なのに色々と出てきて、白湯のフカヒレスープじゃ、そのヒレが奥歯に引っかかって・・。

ともあれ雪の中、先ず向かったのは彫刻の森公園である。

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三十数年前、確かに家族で訪れたことのある場所なのに、さっぱり記憶は消えていた。

雪の中にたたずむ彫刻群れだからという訳でなく、果たして展示内容が一新されているのか?

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当時と違うのは、圧倒的に外国人の姿が多いことで、やはり中国人の姿だろうか。

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まぁより、人間(私)の記憶もあてにゃならんと自覚することと相成った。

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次いで向かったのは、湯本駅近くの早雲寺である。

この寺は北条早雲の遺言で北条氏綱が建立した北条氏の菩提寺だ。

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もともと早雲が小田原の堀越攻めの拠点とした所で、往時は湯本全域に及ぶ寺域だった。

しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めに当たり、彼は皮肉にもこの早雲寺を本拠とした。

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やがて石垣城(太閤の一夜城)が出来るとそこに移るのだが、その際火をかけて焼かれてしまった。

現在の早雲寺は1627年に再興されたもので、北条五代の墓碑が残されている。

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もとより往時の数分の一の小さな寺で、正に敗軍の寺の侘しき趣だろうか。

しかしこの湯本から小田原までは10k足らずで、小田原城の真上に当たる位置にある。

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そういう意味じゃ、天正のいにしえも、さるものかと思った次第だ。

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2017年2月10日 (金)

箱根の湯

御殿場IC経由で箱根路にかかると、一気に雪景色になって雪対策のガイドである。

それでコンビニの駐車場でチェーンを装着、ノロノロと斜面を登って箱根に入る。

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・・・だが、チェーンなど着けている車は一台もなく、(スタッドレスなのかな?)

箱根路は外輪山の中だから斜面の連続で、時速30kをキープで走る。

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登りに登って大涌谷へ着くと、駐車場の係員から「チェーン」外すならあっちへと言われちゃった。

しかし、雪景色の中の湯けむりは、流石に又とないコントラストの絶景である。

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2015年の噴火口は、周りを硫黄で黄緑に染め、依然として激しく湯けむりを出している。

大涌谷と言えば黒卵だが、一昨年の噴火以降火口には近づけず、単なる土産(黒い卵)になっていた。

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ともあれ卵を食べ、早々に近くの小さな(古い)宿に入って源泉掛け流しの湯へ。

私の箱根のイメージは、司馬遼太郎の「箱根の坂」で、加えて箱根八里だろうか。

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北条早雲の悲願は、根拠地の伊豆韮山からこの箱根の坂を越えて相模に入ることだった。

そして65歳を越えてから、ようやくにして箱根を越え、関東への基盤を作るのだ。

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秀吉に滅ぼされるまでの北条五代の祖となるのだが、その起点が箱根(早雲寺)だ。

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明日は、秀吉の小田原攻めの本陣が置かれたという、その早雲寺を訪ねようと思っている。

とは言え、かつての箱根は生産的なところでは無く、明治初めまでは硫黄の採取地程度だった。

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それが海外との関係が深くなるにつれ、富士の絶景と併せ外国人に羨望の観光地となった。

それに箱根駅伝の起点だしね、そんなこんな箱根は不思議なイメージを持つ観光地だ。

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2017年2月 9日 (木)

たった一度の・・・

誰だって一生に一度しか無い出来事なら、それはそれは大切にするのではないか。

漫然と過ごしてきた70年・・とは言わないが、その一日を風任せに過ごして来なかったか。

思うのは、50代の一年と70代の一年とでは、その重みが全く違うと言うことだ。

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確かにこれまでの私には、無限の(人生は永遠に続くって言う)将来があった。

だけど、これから10年生きるのかどうかと考えると、少しばかり人生に対して謙虚にならざるを得ない。

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謙虚にはなるのだが、私の毎日はそんなに変わるもんじゃない。

朝食を済ませて街頭に立って子供たちを見送り、ホウレンソウの出荷作業。

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その後は、今シーズン最後の播種(ホウレンソウ)床づくりに汗を流し、

降り出した雨を見定めて、ブドウの枯れ枝の焼却作業に取り掛かる。

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やがて独り昼食を済ませ、静岡の会議へと車を走らせる。

その帰り道、明日の箱根路(かなりの雪があるらしい)に備えて、車のチェーンを買い求める。

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実は、明日は十数年ぶりの女房孝行(?・・御機嫌取り)で、箱根に出掛けるのである。

やはり日頃の心がけが悪いというか、大雪予報と蜂合わせたのである。

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ともあれ、この一日だって些細もない一分始終で終わってしまっている。

人生と言うのは、そうした何の変哲もない毎日の繰り返しではあるが、それでも何らかの意味が欲しい。

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「これが、出来た!!」って、些細もない自己満足が出来りゃ、それでゆっくり眠れるってもんだ。

それで毎日、何事かをしなくっちゃって、急かされる様な日々を送っている。

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これは多分、この先あんまり長くない証拠なのかも知れない????

それとも、単なる貧乏性か。

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2017年2月 8日 (水)

従心

昨夜は学生時代の夢を見て、それが卒業予定者名簿に自分の名前が無くてウロウロするってな夢だった。

目が覚めて思い返すと、昨日はある同級生と偶然出会ったし、裁判で苦労している一人からも便りがあった。

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それで頭の回線が、一気にあの頃へと飛躍したんだろうか。

あれからおよそ50年、それぞれが夫々の道を歩み・・、正に人生いろいろの感を深くする。

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私も今年は古稀とされる節目の年齢に達する訳だが、

孔子は「七十にして心の欲する所に従えども、矩を越えず(従心)」と言い定めている。

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もう心のままに生きたとしても、自ずと道を逸れることは無いはずだと言うのである。

さもありなんと思いつつも、その「心のまま」ってのが中々難しい。

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歌舞伎なら、芝居を終えた役者が引き下がっていく「花道」というものがある。

本舞台には既に幕が引かれつつあり、主人公は舞台を惜しむ様に一時の見栄を切り、

ただ一筋におのれの花道を進む他余地はないのだ。

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しかしながら現世の私達に花道などは無く、思うままに生きることなど出来よう筈が無い。

それに人生は山に登るようなもので、その中腹までは淡々と登ることが出来るだろう。

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しかして老年とは、「従心」と言いつつも、その頂上を極めることであって、

それは人生の締めくくりをつける、極めて困難な胸突き八丁なんじゃないかと思う。

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そうして「心のまま」とは、自らの命を燃やし尽くすことではないか。

そもそも幾つになろうが、人生は照る日曇る日で、それを乗り越えて生きにゃならない。

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尚且つ意馬心猿を飼いならしながら、生涯現役を目指すのが後生ってもんだろう。

それが仮に思い通りの人生で無かったとしても、ここ(70歳)まで来て、やっと語れ(見えてく)る人生もあるだろう。

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それにどんなに長生きしたとしても、残された時間は限られている。

最大限に使わにゃ~・・・・と、まぁ、変てこな夢を起点に左様に思った次第である。

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2017年2月 7日 (火)

春風を探して

束の間の温かさが薄れ寒さのぶり返した今日、幾分早いが春大根の播種をした。

「東風(コチ)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ」(菅原道真)の気分である。

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年々歳々四季を愛でて暮らしてきた私達にとって、この時期の春は殊更待ち遠しいもの。

ついつい春は何処にあるのかと、探してみたくなるのではないか。

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それで私は一昨日の東風に誘われて、一足早い種巻きをしてみたのである。

さはさりながら、立春を過ぎたとは言え春は名ばかりで、蕗の薹すら見えないではないか。

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しかるに私の心の声が、春を・・・春を探せと、しきりにささやくのだ。

止む無く、浜名湖の畔のガーデンパークに春の兆しを探しに出かけたという次第である。

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思い起こせば、私に春のやってきたのは何時のことであったか?

小学・中学といつもオズオズと腕力の強い子の顔色を窺ったり、仲間として受け入れられることに心を砕いていた。

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自分から何かするなんて思いも及ばない、およそ引っ込み思案な子供だった。

そうだなぁ〜、そうした集団の抑圧から解放され、自分らしさを見出し始めたのは大学に入ってからだった。

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およそ個性を殺してきた人間が、その頃から少しずつ自分の芽を伸ばし始めた。

人生も春夏秋冬、環境が変わることで抑圧から解き放たれることがあるんだね。

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殊に早春は、人々の可能性が広がる季節でもあって、私にとっても冴える季節だ。

これからの一日一日は、そう言う春風を少しずつ感じながら過ごす良い季節になる。

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この時期の春の気配を素直に歌う詩に、宋の時代の真山民の「新春」がある。

 餘凍雪纔乾 (余凍 雪僅かに乾き)

 初晴日驟喧 (初晴 日にわかに温かなり)

 人心新歳月 (人の心に 新たな歳月)

 春意菖乾坤 (春の意 再び充満す)

 煙碧柳回色 (煙は碧にして 柳は色を回復し)

 焼青草変魂 (野焼きは青くして 草は魂を返す)

 東風無厚薄 (東風 厚薄無く)

 隨例到衡門 (例に従いて 貧しき門にも到る )

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今日は孫が中学に入るに際し自転車を買い与えたが、これも春だね。

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2017年2月 6日 (月)

文章を書く

人は言葉によってものを考えるのだが、考えを組み立てるのはやはり書くことによってだろう。

書くことをしない単なる口先のおしゃべりだけでは、思考はさほど深まりはしない。

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それに悔しさや楽しさを含め、色々と思うことがあっても、私達は直ぐに忘れてしまう。

書くことによって思考を組み立て、思いに残すことが出来るのだ。

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つまり、考えることなくその日を生きているだけなら、犬や猫とさして変わらないことになる。

それで私は、かつては日記を書き、今ではブログを書くことを習慣付けてきた。

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言葉は話言葉でもあるが、文字を得て始めてそのイメージを膨らませることが出来る。

特に活字(漢字)は、私にとっては時に思考(認識)の入り口の様な気がする。

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実は、ある程度まとまった文章を書くと言う事は、それ程容易な事ではない。

「思い」が無ければ何を書いて良いのか分からないし、書くにしても一定の文章力が必要だ。

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メールの時代の到来で書くことは増えているが、やはりメールで使う言葉は限られる。

私が本格的に文章を書くようになったのは、やはり仕事で必要に迫られてだった。

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「企画」と付くポジションに長く勤務したから、言うならば四六時中文章と格闘していた。

必要な統計や資料を読み込んで、将来を画策していくのが企画だから、それは真剣勝負だ。

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それから40代の中頃からは、仲間と同人誌を定期的に発行し、自分の主張(思い)を書くようになった。

これは仕事の文章とは違って個人の腹の中を表現するから、全く別の訓練になった。

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ともあれそんな試練もあって、私にとって文章を書く事はさして苦労ではなくなっている。

だけど、心の根っこから発して、読み手の共感を得られる文章を書くのは大変難しい。

読み手に何がしかの役に立つようにと思いながらも、兎角独り善がりに終始してしまう。

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このブログだってモノローグ(独り言)だからと弁解しつつ、それでも塵も積もれば山となるである。

書き続けてそろそろ11年、今夜で3,924日目になった。

はぁ~て、何時まで書くのかなぁ~と思いつつ、案外、書くことが張合いになっている。

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2017年2月 5日 (日)

森町ロードレースへ

春一番のこの大会へは、ランパン・ランシャツと皆さんよりかなりの軽装で臨んだ。

9:30のスタート時になって、ポツリポツリと雨が降り出したが、無風で8.9度と温かく、

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かなり気持ち良く走ることが出来たんだから、結果としてはこの軽装は成功である。

遠州の小京都と言われる森町の(森の石松の故郷)この大会には、もう25年以上前から参加している。

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以前は細君の実家の傍らを通ったから、家族総出で応援して貰ったりしたのだが、

時は流れて、そんな風景も昔の思い出の彼方のものになった。

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その当時の記録は定かではないが、1時間40分位だったと思う。

あれから私も随分年配のランナーにはなったが、今日の記録は1時間47分20秒。

25年間で7分程歳を取った勘定である。

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ともあれ60歳以上では48位(総合順位501位)だった。

11kの折り返しを過ぎて暫くは後続ランナーと対面走行になって、知り合いとエールを送りながら走る。

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その最後尾近くで、D(A・N)女子が頑張って走っていた。

彼女はまだ若いのだが数年前から足腰を痛めて苦しんできていて、それでも諦めない。

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一週間ほど前に12k走ることが出来たとかで、森の完走を期しての参加であった。

彼女のブログ(ぽれぽれ雑記3)を読む限り無理かもなって思っていたが、何と制限時間一杯でゴールする彼女を再び見ることが出來た。

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降りしきる雨の中を、かなりしっかりした足取りで走って来て・・・何だか抱きしめたくなる衝動が起こった。

持てる力を振り絞って懸命に前に向かう姿は殊更美しく、それは私には神々しくさえ映っていた。

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ともあれ今日の大会は、おじいがこんなに走っても良いのかと言うほどの快走で、私自身まだまだ若いことを実感したのである。

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2017年2月 4日 (土)

生涯現役

夜半ベットの中で、大げさに言うと「自分の生きている証拠」を懸命に探していたりする。

この感覚は中々説明し難く、夢心地で人生の意味など考えても埒があかないが、

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それでも明日の予定の中に何らかの意味を探す様な・・・・そんな作業をしている。

忙しく動き回っている日中には決して考えないことを、ベットの中で逡巡しているのだ。

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それは突き詰めてみると、「気持ちとは裏腹に、何時の間にやら今年は古希を迎える。

これから先「老」を身を持って体感せずはなるまい。だが、この間(10年)をどう生きる? 

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望むらくは生涯現役だが、生理的な部分は別として、果たしてその中身は如何?」ってことかな。

人生もそろそろ第三コーナーを曲がる所まで来て、「はて、この先は?」と戸惑っている。

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正直なところ、近年は新しい挑戦をあんまりしなくなっているし、進歩の実感がない。

このまま歳と共に失うものが次々と出てきたんじゃ、生涯現役は貫けなかろうが。

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そもそも、何の為に生きとるんじゃ?・・・・ってな次第である。

人間もその辺の草木やミジンコと同じで、生きてる事にさして意味があるとは思えない。

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自分じゃ後生大事と思ってる人生だが、自然の中の何百億分の一のほんの些細な現象に過ぎない。

その意味がない事を薄々知りながら、それでもささやかな張り合いを探して懸命に生きているのが私達人間だ。

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おまけに見栄や嫌悪、損得や羞恥などと雑多な感情が入り混じっていて、そいつが自分達を様々に縛り上げている。

まぁ〜そう言うことになるが、自分の美意識にかなった生き方をしたいと思っているのである。

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正直言って、これからの生き方は中々難しいぞって感じだな。

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2017年2月 3日 (金)

一枝の春

窓の外はヒューヒューと、相も変わらず冷たい北風が吹いている。

だけど日差しは随分高くなって、毎朝の立哨の日陰もジリッジリッと短くなってきている。

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私の立つ交差点は建物の影になっていて、日差しが届くまで残り3m(15日)になったのだ。

明日の立春を前にして、この時期になると、どうしても春の気配を探してしまう。

我が家の河津桜の花芽も随分膨らんで、良く見るとその中の一輪が花を開こうとしている。

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いやさ桜よりも、この時期はまだ梅の花であって、紅梅が見事に咲き始めている。

五世紀の中国、陸凱の五言絶句に「一枝の春」の表現があって、正にこの季節の気分だと感じた。

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 折梅逢駅使(梅を折って 駅使に逢い)

 寄與隴頭人(隴頭の人に寄与す)

 江南無所有(江南に 有る所無し)

 聊贈一枝春(いささか贈る 一枝の春)

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「一枝の梅を手折って飛脚に託し、隴山の畔に住む君に送る。

この江南にはまだ君に差し上げる物は何も無いので、先ずは一枝の春をお届けする。」

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春を待つ思いを乗せた簡潔な詩だが、はて「隴山の畔に住む君」とはどんな人なのか?

しかして、こうした交友関係をこそ羨ましいと思うのだが・・・・。

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私はと言えば、一昨年から年賀状の一葉も出さず、中元・歳暮の類も含め、あえて不義理を普通にしようとしている。

義理の付き合いも大切だろうが、「一枝の春」で心通う付き合いができりゃ最高だね。

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ともあれ、春の足音が遠くから聞こえてくるのは事実だ。

馬鈴薯を伏せたり、春大根を播いたり、それに葡萄と、春に追掛けられる毎日がやってくる。

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いきなり現実的な話しになったが、一枝の春を探して回りたいとも思っている。

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2017年2月 2日 (木)

本当の贅沢

私は宝くじは買わないが、もし○億円当たったらどんな贅沢をするだろうかと考えてみる。

だけど瞬時に「何が贅沢なの?」って、そんな夢想は消えてしまう。

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子供の頃を考えれば、衣食住は勿論、車や旅行にしても、私達は贅沢の極みを生きている。

今更成長する訳でもないから胃の府には粗食が優しいし、第一これ以上欲しい物がない。

衣食足りて既に久しく、一体何を贅沢すれば気が済むのかってことになる。

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それで私にとってのこれからの贅沢は二つあって、それは心温まる交友関係と、何時までも続けられる習慣だと思っている。

習慣ってのは、70歳から先の規則正しい生活のリズムを模索すること。

現在までに身に付けてきた暮らしの習慣を維持しつつ、新たにどんなソースを加えられるかってことだ。

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朝起きてから寝るまでのルーチンをイメージしつつ、スクラップ&ビルドをしてみている。

作物を育てることやランニングは限りなく続けるとして、この他に私に出来るものを創ること。

それは、無理のない趣味の様なものかも知れないが、

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そのイメージの中には、どうしても人との温かな交流が欠かせない。

こればっかりは一朝にして出来るものではなく、「今」がそれを作り得るラストチャンスなんだろうと思っている。

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人生8~90年時代は厄介なもので、残り10~20年も生きなきゃならないかも知れない。

過ぎてしまえばアッと言う間だろうが、この間を何もせずに過ごすことは、さて・・難しい。

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細やかながら人の為になることをやり、尚且つ自分の「今」を充実させることが大切だ。

そういう意味で私も第三の曲がり角を迎えているようで、これからの贅沢を考えている。

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そうして、歳を重ねて出来た自分の顔を、今より好きになることが出来れば、それが最高の贅沢だろうと。

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2017年2月 1日 (水)

忘己利他

後生大事に自分一人で生きている気になっていても、この大宇宙から見れば一人の人間の存在など、

ほんの些細な存在でしかないが、それでも命の営みと言うものは凄いなぁ~と思った。

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NHKの特集で「命の営み」だったかな、苛酷な環境を生きる動植物に焦点を当てていた。

ライオンたちの過酷な猟の姿、乾燥地帯の一時の雨に素早く芽吹いて子孫を残す植物、

その緑の芽吹きを待ってのバッタの大発生と繁殖、カリブーの大群の餌を追う大移動。

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次世代に命を繋ごうと「今を生きる」壮大な営みであって、これは我々人間も同じことだ。

ただ人間は少しばかり知能を発達させたが故に、地球の貯えた資源を蚕食することで幾分豊かになり過ぎた様だ。

そして、足るを知ることなく飽食し、尚且つ利己に走るようになった。

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子孫を残すよりも安楽を優先させる風潮(少子化)が蔓延し、最近では自分(国)本位主義が始まっている。

言うまでもなく米国のトランプ旋風(米国ファースト)だし、英国のEU離脱もその流れだろう。

ロシアや中国は言うに及ばず、このままではかつての帝国主義の時代に戻りかねない。

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自分(国)の利益だけを追求すれば、中国の南シナ海占拠やロシアのウクライナ侵攻となり、

イスラエルとパレスチナは再び戦火を交えるだろうし、それは世界各地に飛び火する。

ところで、天台宗には「忘己利他」という教えがあるそうだ。

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「自分の事はさておき、人の為に尽くすことで自分が救われる」と、言うならば因果応報だ。

この教えを音で聞くと「もう懲りた」とも聞こえる。

そう、物欲追求や覇権主義は、あの第一次・第二次世界大戦でもう十分に懲りたはずではなかったか。

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しかるに歴史は繰りかえすのが常で、その伏流となっているのが個々人の利己主義なのである。

この今が良けりゃ・・・・って、後生大事に利己を求め続けるのが人間だとすれば、

人間なんて地球の迷惑者だね。

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