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2017年4月14日 (金)

一生の友?

友だち100人あった〜ぁら♪、などと、幼稚園の子供達は歌っている。

否、子供たちならずとも、肝胆相照らす友人の存在は人生の重要問題だと思ってきた。

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これまで随分多くの同級生、先輩・後輩・同輩、はたまた地域や仕事、そして遊びで、それこそ無数の人々と出会ってきた。

親しくお付き合いさせて戴いている人も多いが、「果たして友か」と言うと正直分からない。

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確かに濃淡は別にして、親しい知人ではあっても、やはり他人であってそれ以上ではない。

正直言って、私には本当の友達なんて一人もいないのである。

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ただ成り行き上、友達であるかの様に振舞っている人はかなりの数いる。

それぞれお互いを認め合って、共存している関係と言ってもいいだろうか。

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「それが、友達だよ」と言われればそれまでだが、その人達に私は本音で話しちゃいない。

あくまでも付き合いであって「何時も、私は私を演じている」に過ぎないのだ。

いやさ、仮に恋人があったとしても、やはりその愛する人には自分の良いところを見せたい。

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清濁併せ呑むなんてのは、友達関係に於いては嘘なんじゃないか。

つまり何らかの打算、利害関係が自ずとその行動を支配している様な気がする。

本当言うと、どこかで「ドあほうで身の程知らずの自分」を知られたくないのである。

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これは利己主義の時代の特徴なのか、それとも私自身の自己の肥大化なのか悩む所だ。

いつの頃からか、一人で産れて自分一人で成長してきた様に感じているんだ。

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そして今、「友達なんて一人もいなくたって良いんだ」って納得し始めている。

人間は一人で産れてきて、死ぬ時だって一人なんだからさぁ。

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コメント

やはり一人ですね。。

投稿: 掛川 ノブ | 2017年4月14日 (金) 22時11分

何だか、寂しい気がしますが、それが現実の様ですね。それに私たちは、友達幻想に囚われ過ぎているんでしょうね。
 人間は、独りスックと立って先ずは自立することが肝心で、人に依存しようとするから不安になる。友とは、自立したもの同士がお互いに高めあうというか、相互に刺激しあう関係ですね。
               山草人

投稿: 山草人 | 2017年4月15日 (土) 17時57分

兄貴、依存し合うのが友だとは、思いませんが、
しかし一瞬でも同じ方向を向いて楽しんだり頑張ったりする仲間は、友だと思えます。
利害ばかりが先行する世の中です。
自分の主張より互いの利益の為に自分を殺して対応した際に相手が、自分のみを主張したりするとがっかりしますね。
余り相手の為と心を使い過ぎると人を信用出来なくなると友達も減る様に思えます。
ただ、兄貴の思いとは正反対に利用出来る相手を友と言う自分勝手な人も多いのは、事実ですね。

ドイツの精神学者のゲシュタルトの言葉です。

・・・・・私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために
生きているのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
・・・・・等と言って居ます。
また無理に友を探す必要も無いと私は、思えます。

投稿: ひろ | 2017年4月18日 (火) 20時32分

依存しあう関係は、いつか破綻するでしょうね。ゲシュタルトの言う様に、私は私、あなたはあなたで、それぞれが自立していることが基本でしょう。
 ともかく、友に過大な期待や幻想を懐かないことが大切だと思います。
               山草人

投稿: 山草人 | 2017年4月18日 (火) 21時10分

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