適応能力を磨く
昨日の「年寄りの顔」に関連して、顔の形やその印象は皮下脂肪の中で動く筋肉の状態で決まる。
そしてその筋肉の動きは、感情や欲望・思想を映し出すから、顔つきは心の動きで次第と言う事になる。
だから何時も笑っている人は笑い顔になるし、強欲な人・怒りっぽい人もそれなりの顔になる。
要するに年寄りの顔は、長年生きて培ったその人の人格の表現と言う事になる訳だ。
それに加えて、顔が表現する最大のものは、その人の適応能力ではないかと感じている。
人間のキャパシティと言うか、この人にはここまで頑張れるけど、それ以上は無理だってなことが、顔つきで分かっちゃう。
動物も植物も、本来相当に広い適応能力を持っている筈だが、生活環境がそれを退化させてしまっている。
かつては人間も相当に苛酷な環境に耐えて生き残ってきた訳だから、凄い適応能力を持っていたはずだ。
だけど今日、戦国時代の武将達、いや戦前の戦地での環境を考えたって、その環境には雲泥の差がある。
車や航空機で移動し、空調の整った所で汗もかかずに機械をコントロールしている。
生き物としての適応能力を奮い立たせる環境には無い訳で、それが当たり前になっている。
俄然人々の顔は、生き物本来の精悍な顔つきが少なくなって、甘ったるい顔ばっかりになった。
食べ物にしても飽食は寿命を縮めるものらしく、鯉なども餌を与えすぎると死んでしまう。
私達も時には断食(ラマダン)する方が、生き物としての適応能力が刺激されるのではないか。
我田引水になるが、ウルトラマラソンはその適応能力(体力と精神)を極限まで刺激する競技だ。
水と僅かな補給食で野を越え山を越え100kを走るんだから、自分の生きることへの適応能力を試す試みだ。
もっとも昔の人は、生死を賭けて走ったのだから凄い。
例えば豊臣秀吉と柴田勝家の戦った賎ヶ岳の合戦では、豊臣軍は一昼夜で大垣から余呉湖まで走り抜けている。
本能寺の変の際の「大返し」も同様で、わら草履で武器を持って走ったんだから、正にウルトラマラソン以上だ。
余談になったが、要は人間には生きるための適応能力を刺激する過酷さが時々必要なんだと言うこと。
眠くても早起きする、寒風に耐えて運動する、汗を書くことを厭わない、あえて机に向かう、
美味しいものでも腹八分目、・・・ってなことかな。
フランスの生物学者アレキシス・カレルも、その著書「人間・この未知なるもの」の中で、
「動物や植物など生物体の価値は、その適応能力である」と書いている。
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