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2018年1月15日 (月)

自然(世界)と自分

昨日は少しばかりの間、あの白一色の異空間に身を置いたのだが、大げさに言うと「世界の存在」ってなことを考えていた。

朝起きて周りを見渡せは、そこには多分何の変哲もない日常の風景が広がっている。

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朝が来てやがて夜になり、海があり山があり、時に嵐や吹雪があって、夜の星が広がる。

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突然この世界が変わってしまうなんてことはなく、100年前も同じで、その世界が続いている。

その世界の中に抱かれて、私達はこの世に生まれ、生き、そしてあるとき死んでゆく。

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そういう繰り返しによって、そこにどんな意味があるのかは別にして、人間社会は面々と続いてきた。

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一個の人間にとっては死ねば全てが終わりであって、その人間が何をしたかなど、すぐに忘れられてしまう。

それでも、私たち一人一人は、懸命にこの世を生きるのである。

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昨日も凍てつく雪の山に登り、その寒さに自分の生を改めて自覚していた。

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人間がこの世に生まれて生きる客観的な意味は、それは只ひとえにその懸命さにあるのではないかと。

樹氷の育つ雪の中で、風の力で移動する砂山を連想していた。

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高さ300mほどもある砂の峰が、そろりそろりと移動していくのである。

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人間は産業革命以降、確かに自然をコントロールするかのような実に大きな力を手にした。

だけど昨日の高見山にしても、神武天皇の頃と多分何も変わってはいないのである。

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ただ、私たちが世代代わりしただけだ。

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私の行こうとしている砂漠だって、アラビアのロレンスの頃と寸分も変わっちゃいないだろう。

かどれ程の人が、その砂漠とどんな関わりを持ってきたかだって、誰も知らない。

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自然のあまりの大きさの前には、一個の人間が生きて死ぬことに、さほどの意味があるのかどうか?

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そいつを確かめに、私は砂漠に行くのだと思っている。

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