人も時間も旅
一概に旅とは言っても昔と今日とで随分違って、昔の旅は命がけだったかも知れない。
その「遠くまで来たなぁ~」って実感は、自分の足で辿った昔の人達の方が先達だ。
今日の私達は、異国にだってその日のうちに飛んで行ってしまえる訳で、確かに世界は狭くなった。
その分、情緒と言うか、旅情の感覚が薄くならざるを得ないだろう。
毎週の様に出かけている私なぞは、或いはその出掛けることが日常化している。
それでもそこで誰と出会ったとか、珍しい風物と遭遇したりすれば、それはたちまち感慨となる。
確かに一人で農作業していたんでは、味わうことのできない旅の人生なのである。
旅の俳人芭蕉の奥の細道は「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり」と書き出している。
私があちこち出掛けているとは言っても、やはり行き交う月日には到底かなうべくもない。
出掛けるのは、その旅行く月日に幾ばくかの印を残さんと欲すればなり・・・と言うことになる。
しかしながら、この旅路に何某かの意味を残すのは実は大変なことだと思う。
平々凡々と生きてきたからかも知れないが、我が人生を振り返って忸怩たる思いがする。
何と平板に物語もなく生きてしまったことよ・・・・と(精一杯だったくせに)思うのである。
かと言って、どこをどう歩けば良かったのか、旅から帰っての繰り言なのである。
確かに、確かに月日は流れていて、この古稀の峠を越えた我が身にも、老いは確実に迫っている。
それを見て見ぬ振りをしているのだが、さてもこの芸は何時まで通用するものやら。
かつて「月日が百代の過客」などと思ったことはなかったのに、今では実感を伴って理解できるのだ。
| 固定リンク
コメント