歳月
昨日は寒い一日だったが、間違いなく春分の日で、細君は雨の中在所の墓参りに出かけた。
夫々の親は一人二人と他界し、残るのは93歳になろうとする私の母親だけである。
いずれ世代交代が進んで私達の番になる筈だが、不思議なことに自分では永遠に生きると思っている。
ともあれ、早いもので親爺が83歳で死んで、もう真ん丸11年になろうとしている。
昼間に親爺を思い出すことはめったに無いが、やはり夢には頻繁に登場する。
父親などは哀れなもので、私もそれほど親爺の影響を受けたとは思っていないのだが、
何時の間にか風貌は似てくるし、考えることだってそれほど変わってはいないようだ。
その親爺だが、戦地で何度も死にそうになって、やせ細って復員し、そして私が生まれた。
復員して直ぐに祖父が亡くなり、弱冠二十代の夫婦が家を背負って働いた。
当時の事だから、農作業は肉体労働に依存せざるを得ず、原始的農業に心血を注いだ。
子供の頃の私は、その父母を少しでも助けることで、自分の心を養っていたようだ。
今なお頑張ろうって気持ちがあるのは、あの頃の経験(小さな子供が果たした役割)があるからこそだと思っている。
今じゃ誰も信じてくれないが、あのオシンの生活とさほど変わらなかったのではないか。
その一見可哀そうだった子供が、もう既に70歳にもなって、世界をまたに遊びまくっている。
それが出来るのも、93歳になろうとする母親が元気なおかげで、彼女は毎日自分のできる仕事を探し回っている。
草取りや掃除に始まって、新聞記事の注目点までもこの息子に伝えようとするのである。
人間が生きるとはかくあるべきと、彼女はそう信じて毎日を暮らしている。
いや私も遊び回っているだけではなく、それなりに仕事はしているのだが、そうだなぁ~
私の場合は仕事も遊びであって、人生を謳歌していると言ってよかろうか。
そういう意味で、自分の命を燃焼させられるステージを共有しているのである。
歳月人を待たずと言うが、その過行く歳月を精一杯謳歌しているのである。
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