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2018年4月23日 (月)

a life worth

今朝は突然保育園の子供たちがやってきて、口々に「あっ、お爺ちゃんだ」と言う。

短パン・ランシャツ姿でブドウの手入れ(花房整理)をしていたのだが、子供たちを前にして「これからは、お兄さんと言いなさい」と言っていた。

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素直な子供達は直ぐに「お兄さん」と言い直したので、快く彼らを受け入れた次第だ。

近頃では外での園外生活を多くするんだとかで、今日は我が家の柏の葉を採りに来たのだ。

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次いでに花の咲き始めたデラウエアの部屋に入って、食べられる頃にまた来ますと帰っていった。

果たして今度やってきた時、ちゃんと「お兄さん」と呼ぶのかどうか?

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それはともあれ、私も随分長く生きてきた訳だが、今日はその価値について書こうとしている。

私達は誰だって生きている限り、できれば充実した意義のある生き方をしたいと思っている。Img_9641

だけど現実は、日々の生活の惰性と言うか、雑事に追い流されて毎日を過ごしてしまっている。

そもそも生きる価値って何かと考えても、これは人によって千差万別だ。

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経済活動をしている人なら最大の利益を上げることかもしれないし、芸術家なら他人の評価に耐えうる作品を生み出すことだろうか。

仕事が生き甲斐と言う人は多いし、My homeこそ後生大事と考えている人も多い。

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それに既に一線を退いた私達の生き甲斐は、これまた全く変わってきてしかるべきだ。

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もちろん、食べて飲むことだけが生き甲斐なんてことになったら、それは大変だと思っている。

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思うに、自分の生き甲斐は自分で育てるものであって、そういう意味で私も悪戦苦闘している。

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あの保育園の子供達の生き甲斐は、毎日毎日新しい経験を積み重ねることだし、自然にそれが楽しいことになっている筈だ。

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このジイジにしても同様で、次々と未知の経験が出来るのなら、それは素晴らしいと思っている。

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2018年4月22日 (日)

Mt富士に見守られ

今日はチャレンジ富士五湖ウルトラマラソンで、今未明から出掛け、日帰りで走ってきた。

明後日に出発するナビブ砂漠マラソンの最終調整のつもりだが、少し走り過ぎたようだ。

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しかし、やってみればそれなのに幾つかの収穫があって、先ず今日は暑さだけを心配して出かけた。

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だからウエアーの防寒対策は無しで出かけたのだが、只朝は8度とかなり冷え込んでいた。

それで考えたのが砂漠の朝(零℃くらいらしい)対応だが、それにしても今日の富士五湖は暑かった。

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砂漠の40度超とは比べるべくもないが、28度にはなったのではないか。

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少しく暑さになれる練習になったかも知れないが、一日中雲一つなく今日の富士山は朝から晩までくっきりと見えた。

かつてこの大会は雪で苦しめられたり雨だったりして、10回ほどの私の経験でもこんな好天は初めてである。

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それで今回は前半を調子に乗って走り過ぎて、50k過ぎからは歩いたり走ったりになってしまった。

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と言う訳で、3LAKES71.5kを9時間14分でゴールした。

制限時間の11時間からすれば余裕のあるゴールだが、暑さのために正直かなり疲れたようだ。

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砂漠の調整だから気を抜いてと思っていたのに、ゼッケンを着けて号砲が鳴ればゴールを目指してしまうのがランナーの性だ。

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ともあれ、足が固まらないようにと富士眺望の湯に立ち寄って入浴し、今さっき帰ってきたところだ。

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この分では、飛行機の中でもストレッチを繰り返す必要がありそうである。

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富士山と湖の青さがかつてなく美しく、この写真をもってナビブで自慢してやろうと思う。

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2018年4月21日 (土)

時を創る

と言っても、何も必要な時間を作り出すと言うことではない。

今日は恒例の人生を学ぶ勉強会があって、まず最初に、前回の勉強から一か月間の出来事について、それぞれ話すことになっている。

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ここで何を語ることができるのかは、正にその人がその一か月間をどう生きたかと言うことで、ある意味かなりの反省を伴う時間になる。

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勿論私達は、日々の日程やら雑用に追われて過ごしてしまいがちだけど、やはり意識して一か月を過ごす習慣は大切だ。

たとえ小さなことでも続けてできたとか、嬉しいことがあったから、これを今月もでも良いしね。

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私の言いたい時とは、過ごした人生により良い中身を創るってことである。

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ところで今日のテーマは、「自分の人生にテーマを持つ」ってことだった。

私達はそれぞれみんな違う訳だが、実はその違いはその人のeffort(積み重ねた努力)によってはっきりしてくる。

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だから自分なりのテーマをもって生きることが、自分の個性を育てることになる訳だ。

学者や職人の様に一つ事に専心するのもよし、私の様に凡夫徹底で同じことを繰り返すのも良しである。

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自慢に聞こえるかもしれないが、この四十年ずっと続けてきたことがある。

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それは走る事であり、書くことや栽ることなのだが、その継続が何時の間にかその人の個性になる。

しかも私の場合、考えるよりも行動が先で、気持ちは後から付いてくるってやり方だ。

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もとより凡夫にして軽薄だから、とても世に残すような業績など無いが、せめて自分の人生を極めることくらいはやりたい。

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その秘訣は、しつこく続けることであり、馬鹿は馬鹿なりにこの道に徹しようと思っている。

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それにしても、今日の勉強会は「森のよりみち」や「創芸舎」を訪れたり、山菜を採ったりと中々忙しかったが、これまた面白い一日だった。

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要は、この一日一日を、自分なりに何を得ていくのかに尽きるのではないか。

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2018年4月20日 (金)

老いの至らんとするを知らず

かつてこの国は儒教圏の末端にあって、老と言うものは敬すべきものとされていた。

その証拠に尊敬する人を老師とか老兄と呼んだし、政府の大臣は老中で総理大臣は大老だった。

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更に藩の政治を司ったのは家老だった訳で、年齢はともかく「老」は尊敬の対象だった訳だ。

様々な技術の伝承でも同様で、親方を見習って技術を習得するのが一般的だった。

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しかるに今日、時代は思いっきり変わって、ITやAIが大手を振る時代である。

歳を経ているからと言って、最先端の情報処理技術には適わないし、敬老は陳腐になった。

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それも、ともすれば単なる老いさらばえた犬(年金食いの役立たず)とされかねず、かねず社会全体の大きな荷物になろうとしている。

そんな役立たずが皆100歳まで生きたら、それはそれ確かに大変なことなんだろうと思う。

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私達団塊の世代は、こうした生き様の転換点に立たされているような気がする。

或いは孔子の時代の老人は如何と思って論語を開くと、「発憤して食を忘れ、楽しみをもって憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らず」とあった。

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夢中になって物事に取り組んでいれば、歳をとるなんてことは関係なかろうって訳である。

現実に人も時代も留まることなく動き、そして変化を続けている訳で、その中の流れ星のような存在が私達だ。

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さすれば、精一杯輝いて、老いることすら忘れて生きれば宜しかろう。

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「じいじ」と呼ばれることが多くなったこの私だが、その精神性は若い人たちと何ら変わるところがない。

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否さ、その若い人たちだって、直ぐに私くらいの年齢に達するのである。他人事じゃないんだ。

而して年齢などに捕らわれることなく、私達は「今」を熱く生きれば良いのである。

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今さっき4デザーツから枷メールがあって、その中にThe oldest competitor of the race is Yasuichi Kawashima of Japan who is an incredible 70 years old. とあった。

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2018年4月19日 (木)

年齢を楽しむ

昨年70歳を前にして、正直自分で自身がうろたえて居るのが分かった。

何時の間にこんなに年を取っちまったのかって、何とも不可解な気持でもあった。

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人間生きていれば毎歳を取るのが当たり前だけど、自分だけは何時までも若いと思い込んでいたのだ。

人生は若さではなく、自分が今生きていることを最大限楽しむことこそ肝心なのだが、古稀がそれを阻害すると思ったのである。

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人生の楽しみなどは歳相応に無限にあって、働くことや知る事、人との交わりや旅、

自然とのふれあいや将来への思いなど、自分の生活が限りなく楽しめればよい。

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作物を育てる働き甲斐や収穫する喜びに甲斐を感じるし、声をかけて笑顔が帰ってくればそれは出会い甲斐だ。

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それに私にとっては、遊び甲斐と言うやつがあって、かなりこの遊びに熱中している。

かつての子育て甲斐や夢中になって働いた仕事甲斐は終わってしまって、今は遊びだ。

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いやさ遊びと言うと軽く感じるが、私の遊びは何時も真剣勝負だ。

全国のウルトラマラソンを走るのも、砂漠のグレイトレースへの挑戦も遊びだ。

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古稀を迎えて、改めて生き甲斐を考えたのだが、それは野菜や果物などを作り出すこと、そして自分に何ができるのかを試すことが大切だと考えた。

体力の限界に挑戦し、尚且つ何が経験できるかを追求しようと思ったのだ。

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勿論熱暑の砂漠を走ったからって、およそ世のため人のためになる訳じゃない。

或いは家族からしたって、家計に一銭の足しになる訳もなく、何のためにと言う声がある。

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「何の為って、私の遊び甲斐さ!」って嘯く他ないのだが、人生の肝心な部分ってそんなもんじゃなかろうか。

何をやって、何をやらなくって一生を終わったかが、その人の一生なんだよね。

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このブログを読んでくださっているあなた、あなたの生き甲斐って何ですか?

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2018年4月18日 (水)

人生の黄金期

人生100年時代と言う言葉を、あちこちで見かけるようになった。

私が就職した頃まで定年が50歳くらいで、当時退職して隠居・年金暮らしなんて言っていた人達だって寿命は精々70歳だった。

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それからすると、古稀を迎えて地球の裏側の砂漠に走りに行くなんて、およそ想像できなかったのではないか。

かくのごとく私達の健康寿命も飛躍的に伸びているのである。

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仮に100歳までの命とすれば、これから30年もある訳で、はてそれは・・遥かなる命である。

折角の命なら、自由で何でもできる期間を限りなく謳歌しなければ、何のための100歳かということになる。

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つまり私にとっての黄金期は、正にこれからやって来ることになるではないか。

いやさ、素晴らしい加齢をすることで、自らこの期間を黄金期にせずばなるまい。

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先日の余呉湖70走に89歳のIさんが参加されておられて、矍鑠として50kを立派に走られた。

もう三か月ほどで90歳を迎えるというのに、その体力もさることながら気力が素晴らしい。

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恐らく歳を重ねておられても、感じていることは今日の私とさして違わないのではないか。

そしてこれからを黄金期にする極意は、やる気の脳をフル稼働させることだ。

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「止めよう」ではなく、「よっし、やるぞ!」って、前向きに働く脳を動かすことだ。

実は私の中にも弱気の自分や怠惰な自分、怒りっぽかったり楽天的だったり、な人格や無茶ぶりな男など、いろんな性格が住んでいる。

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40歳以前の私は、多分かなり弱気派に支配されていたと思うが、その40歳で革命がおこった。

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と言うか今思えば、かなりの決意をもって自ら革命を起こしたのだと思っている。

結果として人生は大きく転換したし、元気印の私はそこから始まっている。

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ともあれ、人生の黄金期も自ら創り出すほかないのだ。

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2018年4月17日 (火)

未知の世界への期待

ナンビアへの旅立ちが一週間後に迫っている。

それで今日は荷物を詰める作業をしたのだが、準備した荷物がリュックに収まり切らない。

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別に袋を括り付けて何とか凌ぐつもりだが、その重さは12kを上回っている。

果たして、この荷物と酷暑に私の体は何処まで耐えられるだろうか?

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そうした一抹の不安を残しながらも、未だ見ぬ彼の地を思い浮かべて、ワクワクもしている。

勿論「必死」でゴールを目指すだろうが、併せてそこで私が何を考えられるのかも課題だ。

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リュックのポケットにノートを収納し、折りにふれて書き留めながら進もうと思っている。

私達の住むこの国は、今まさに萌出る緑に溢れようとしているのだが、彼の地は緑なき世界だ。

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数百メートルもの砂の峰が幾つもうねり、しかも風によって少しずつ移動しているらしい。

モンスーン地帯に住む私達からすれば、それは無機の世界だろうが、それでも砂漠は生きている。

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その生きている砂漠を、自分の足で250k辿るということは、私自身の壮大な冒険だ。

齢古稀を迎えての挑戦だから、再びやり直すことなど不可能なことだと覚悟もしている。

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この一年、そう…体力強化も含めて、出来る事はすべてやって準備してきた。

あの課題だった英会話ですら、何とかなるかもって思い始めている。

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須らく、志しあれば通ずであって、サハラレース挑戦は既に半ば成功したと言えると思う。

最大の課題は、書き進めている物語「時のしるし」(課題)の砂漠での展開である。

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或いは今考えているストーリーとは別物になるかもしれず、これは現地の空に任せようと思う。

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とは言え、少し過密かもと思ったが、最後の調整レース(富士五湖ウルトラ)を控えている。

ともかく毎年走ってきたこのレースを走り切って、翌日成田からヨハネスブルクに向かうのである。

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機中では体が固まらないように、常に足を上下させて、リハビリにこれ努めようと思っている。

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2018年4月16日 (月)

適応能力を試さん

動物である植物であれ、その生き物としての価値は、如何に環境に適応できるかで決まるらしい。

我々人間は実に多くの試練をくぐり抜けて繁殖してきた訳だが、結論からすれば適応能力が高かったからなんだろう。

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もっとも昨今の人類の繁栄は、地球の蓄えた資源(石油などの)お陰だし、冷暖房や交通インフラなど人工の環境下でのことだから、裸の適応能力はかなり退化しているかも知れない。

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例えば走る事にしても、一昨日の70kを走り切る力をどれ程の人が備えているだろうか。

一昨日のブログに書いたように、賤ケ岳の戦いはその適応能力が試された場でもあった。

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あの天正11年の春、秀吉は岐阜城で反旗を翻した織田信孝征伐に向かっていた。

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それに呼応して柴田勝家が近江を攻めるのだが、羽柴軍は一転賤ケ岳に引き返すのである。

当時の装備で、美濃大垣から賤ケ岳まで一昼夜で走り抜けたというから凄い。

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秀吉なりの戦略があって、色々と(エイドステーションの)準備をしていたとは言え、今日では考えられない奇跡だ。

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それに当時の雑兵がマラソンのトレーニングをしていた筈もないが、しかし適応能力(体力)はかなりのものだろう。

余呉湖70kレースには二人のドクターが参加していて、そのうちの一人が草鞋で走っていた。

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9週目だったかすれ違った折に伺うと、既に三足目の藁草履だよと言っていた。

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つまり舗装道路を走っているのに、藁草履の耐久は20k程度なのである。

刀や槍を抱えて美濃大垣から走って、賤ケ岳に着いたら、翌日には大合戦が始まっている。

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それは生死を分けるものであって、筋肉痛なんて言っている場合ではなかったろう。

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この一事をとってみても、今日の私達に真似のできる仕業ではないのである。

快適な環境は私達の適応能力を刺激しないし、要するにどんどん退化していく。

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だからこそ、例えばウルトラランであれ何であれ、自分を適応能力が必要な場に置くことが必要なのではないか。

怠惰で飽食の毎日は、私達の生物体としての能力を減衰させるのである。

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毎日ペットフーズを食べて絨毯の上で暮らす猫は、ネズミを獲ることもなく、木にも登れなくなるのと同じだよね。

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2018年4月15日 (日)

マラソンの後に

私達のマラソン大会参加は、それ自体を楽しむのだが、実はアフターマラソンがもっと大切になっている。

と言うか、そいつを楽しむために大会に参加することさえある。

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今回も同様で、大会が終わって入浴を済ませると、さっそくの大宴会が始まった。

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ようやくにして雨も降りだしたのだが、私達は大きなホール一杯に集まって、それぞれの健闘を称えあうのである。

それに私は参加三回祈念のTシャツ、それに古稀の祝いとして大吟醸を頂いた。

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更に二次会は会場を変えての大抽選会で、これでもラン用ロングタイツをゲットした。

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大いに楽しんだ後は、更にそれぞれのコテージで夜半まで四方山話である。

こうしてたっぷりと一日をエンジョイし、雨の上がった今日は長浜へと向かった。

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長浜では、ユネスコ無形文化遺産の曳山まつりの真っ最中であった。

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先ずは黒壁通りを散策しながら、曳山博物館へ向かい、曳山とは何かを勉強する。

初代長浜城主だった羽柴秀吉が、この長浜を城下町にした時から始まったとされるから、それは400年以上の歴史あるお祭りだ。

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と言うよりも、子供狂言(歌舞伎)を中心とした奇祭なのである。

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例年四つの山組(十二組の曳山のうち四組)が、四畳半の舞台を備えた曳山を繰り出して、

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五歳から十二歳の男の子が、それは見事な狂言を披露するのである。

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私達が見物できたのは船町組の「一の谷の熊谷陣屋の場」で、45分間のその悲劇であった。

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勿論題材は敦盛で、熊谷次郎直実が義経から敦盛の命を(後白河法皇の御落胤故)助けよと命じられ、止む無く自らの子供の首を首実検に差し出すのである。

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ともあれ、とてものこと子供の演技とは思えない真柏の舞台に見惚れてしまった。

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この祭りを数百年に渡って引き継いできたこの町の気魄は、流石に他には見られないだろう。

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今日は、長浜と言う町を再発見したのである。

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マラソンがなければ、とてもこんな経験は出来なかっただろう。

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2018年4月14日 (土)

賤ヶ岳と天女の羽衣

琵琶湖と余呉湖を隔てて、得意げに盛り上がっている小高い山並みが賤ヶ岳だ。

里山が幾分高くなったほどの山だけど、天正11年の昔羽柴秀吉と柴田勝家の雌雄を決する戦が繰り広げられたところだ。

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歴史は羽柴秀吉の地滑り的な勝利になり、この戦争を機に豊臣政権樹立へと向かったのである。

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時期は4月22日と伝えられ、それは萌えるように新緑に溢れた山容であったのに違いない。

戦の主戦場は余呉湖らしいが、その戦の喧騒は嘘の様に静まり、桜も残り花が吹雪の様に散るだけで、その湖面のようにあくまでも静かな佇まいである。

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そのおおよそ7kmの余呉湖を十周するのが、今日の天女の羽衣余呉湖ウルトラマラソンである。

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幾分の風こそはあったが、心配された雨が降ることもなく、思いの他良いコンディションになった。

早朝から顔見知りを見つけてのエールの交換が続いていたが、7:00一斉にスタートである。

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スタート地点から余呉湖までは2km弱、その後はそれぞれ自分のペースでの走りになる。

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肝心の私だが、朝のうちはかなり体が重かったのだが、2周回する頃には足がスムーズに回転するようになった。

という訳で、昨年とは打って変わって、次々と(少し大げさか)周回遅れの仲間を追い抜くことになった。

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やはり追い抜かれるよりも、追い抜くほうが元気が出る。

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湖畔で静かに時間を過ごす人それぞれの思いを想像したり、時折並走する仲間と話をしているうちに、距離はどんどんすすんでいく。

周回7kmという区切りは、一年や一か月の区切りと同じで、私にとってはむしろ走り易いようだ。

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ともあれ、8時間31分でゴールし、風呂に浸かって疲れを癒したのである。

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ところで天女だが、余呉湖は古くから天女伝説のある所で、菅原道真は天女の産んだ子供ということになっている。

そして余呉湖のほとりに、昨年までは樹齢数百年の羽衣掛け柳がそびえていた。

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その老木が先日の大風で倒れ、根元からバッサリと切られてしまったのだ。

孫枝が横から出ているものの、これが羽衣をかけるほどの大樹になるのは果たして何年先の話だろうか。

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それまでのしばらくの間は、天女が下りてきても衣を脱いで水浴びはできないのである。

賤ヶ岳は歴史変える契機を作ったが、羽衣掛け柳は人々の心に細やかなロマンを作り続けてきた。

みなさん、その土地の歴史って面白いと思いませんか?

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2018年4月13日 (金)

春の無駄話

このところ、ナビブへの出発が迫っていることもあって、とにかく気が急いている。

ブドウをはじめ畑の作物の管理やら、旅の準備のもろもろに追われているのである。

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それに最後の調整と言うか、明日の余呉湖70kをはじめとして、まだまだレースが控えている。

そんな中、今日は遂に全て(食料を含め)のエクイップメントを整えて、レース事務局への提出用リストを書き上げた。

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たかがと言うなかれ、食料だけでも8日分を背負って走るのだが、乾物ばかりとは言えその量は馬鹿には成らない。

自分が毎日こんなに色々と食べていたのかと、改めて驚く量なのである。

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ともあれこの全てがリュックに収まるかどうか思案しているのだが、何とか工夫する他ないだろう。

ところで私はハツカネズミの様に忙しく動き回っていて、何時も何かを求めている。

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動き回ってその成果を得ることで満足するタイプで、成果の得られない無駄な時間が嫌いだ。

人と会うのも同様で、用事も無いのに人と会うなんてことはできやしない。

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況や、無駄話のおしゃべりに付き合わされたりしているとイライラしてくる。

どうも私には、生産的でない時間を無駄な時間だと思う癖がついているのである。

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俗に、これを貧乏性と呼ぶらしいが、三つ子の魂だから今更変えようもない。

エッ、マラソンだって無駄じゃないかって、いやさ「生産的」ってのは私にとって大切かどうかってことだ。

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それに今年の春は速足だし、春には只てさえやらなきゃいけないことが目白押しだ。

そんな折に15日間も家を留守にするんだから、気が急くってのも当然だよね。

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だけどそんな風にバタバタしながら、もう既に今年の1/3が過ぎ去ろうとしている。

無駄なこと、やっている場合じゃないよね。

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2018年4月12日 (木)

身のこなし

朴訥でゴツゴツとして、およそ身こなし下手な男を自認している。

昔から自意識過剰と言うんだろうか、自分が変に思われてやしないかって何時も心配していた。

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それで必要以上に緊張するし、やることだって本来の実力の六割も発揮してこなかった。

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この点スマートな人は、声の抑揚から所作、言葉や顔の表情だって整っている。

実はそうしたスマートで魅力的な人にあこがれる一方で、何故か近寄り難く感じてしまう。

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住む世界が違うというか、自分には真似ができないものと決めつけてきたからだ。

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今この歳(古稀)になって、なあ~んだ人間なんてみんな同じじゃないかと思うようになった。

取り立てて自分の身のこなしが良くなった訳じゃないが、人の生き様を俯瞰できる様になったのかも知れない。

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それに最大の要因は、今更カッコつけたってどうにもならない(諦め)ってことでもある。

その諦めに加えて心掛けていることがあって、それは自分の心を伝えるってことだ。

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先ず人と会う時、私はこの人を好きだと思うことにしている。

そりぁ人間だから痘痕も靨って訳にゃいかないが、それでも基本的に好きだと思って向き合う。

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その感情ってものは何故か相手に伝わるもので、私もやっと人並みの付き合いができるようになったと思っている。

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多分、映画「スター・ウォーズ」で言う「フォース」ってやつでしょうかね。

ともあれカッコつけない分、随分と生き易くなったと感じている。

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人生の極意は、まず最初に自分が自分を信じることから始まるのではないか。

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2018年4月11日 (水)

言葉どおり

テンポの速い春で、もう既に2月半ばになんなんとしている。

ナビブ砂漠レースで半月も留守にするんで、気ばかり焦って一日が終わってしまう。

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一番の気がかりはブドウ達の世話で、援農の申し出もあるのだが、やはり難しいだろう。

今年の発芽はメリハリが良くって、きっと豊作になるパターンだ。

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それに品種格差が例年になく際立っていて、デラウエアは既に果房整理の段階だが、ピオーネなどは芽を出し始めたばかりだ。

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毎日ブドウのハウスで二時間余を過ごし、芽欠きやらをしながらその彼女らと会話している。

だが私が留守になることは、(潅水や身繕いの担い手が定かでなく)未だ話すことができないでいる。

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最悪の場合は、この15日間何とか耐えてくれるのではないかとさえ思っている。

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ところで今日は、自分の言葉と行動のことを書こうとしている。

元来が優柔不断で三日坊主が当たり前だった私が、何とか一人前に生きてこれたのは言葉のお陰だと思っている。

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四十歳の頃、自分の人生を変えようと思って、その手段にしたのが言葉だった。

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それは、自分の決めたことを口外して、自分自身にも言い聞かせることだった。

例えば、毎日朝五時に起きて1時間走ることにしたのだが、それは真っ暗な冬の朝は辛かった。

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それでも約束したことはやらねばならず、実は今日に至る私のランニングの歴史はそうして始まった。

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一事ヶ万事で私が曲りなりにも元気で今日あるのは、言葉による自己コントロールの賜物だ。

どうやら言葉と言うものは、脳の自律神経系に敏感に反応するらしく、確実に体をその方向に仕向けてくれる。

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折に触れて溜息をつく人がいるが、私は「あぁ~、この人は駄目だな」と思ってしまう。

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それは、自分で自分をダメな方向に引き込んでいるのが歴然としているからだ。

今の私は職場を離れて直接的なインターフェイスは少なくなったが、既に4,400日になろうとするこのブログが、そのアナウンスメントの役割を果たしてくれている。

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そう・・・、言葉どおり生きる為に、私はブログを書いているのかもしれない。

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2018年4月10日 (火)

これが私の人生

それは成る様になってきたというか、言い方を変えれば惰性で生きてきた人生かも知れない。

何かになろうって熱望して、それが実現したって訳でもなく、コレッて特徴もなく生きてきちゃった。

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のめり込むような趣味もなく、職場で出会った女と適当(ビジョンもなく)に結婚して、平凡に父親役をやって、それが卒業する頃には初老に至っていた。

いやなに、その時々で自分なりに謀反を起こしてはいたが、とどのつまり平凡な日々が続いて今日に至ったって訳だ。

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それを特別不満だと言う気はないが、なぁ~んか物足りないって気持ちが残った。

もっとこう特別に熱烈な恋愛をしたり、冒険に溢れたドラマチックな生き方だってありぁ~しなかったか。

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もっとも、内気で小心な百姓の息子が、アランドロンのドラマみたいなのを演じるのは所詮無理だな。

だけど私は子供の頃からかなりの夢想家で、あれこれと馬鹿な空想をするのが好きだった。

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その中身は覚えていないが、現実からのありようもない一種の逃避だったかも知れない。

大学に入って自由を得、当時流行りの左翼に傾倒したりもしたけど、それだけだった。

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そんな夢から少しずつ離脱するのが、私の大人になる過程だったと思う。

就職してからは正に現実の連続で、夢を見ることはまずなくなった。

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そうして四十数年、人生の重要な時を過ごしたんだけど、充実してはいたけど何だかなぁ。

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夢中で生きてきたんだけど、過ぎ去ってみると何だか物足りなくも思う。

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それで遅ればせながら古稀を過ぎてから、俺に何ができたのかって確かめようとしている。

既に時遅しなのは承知だが、それでも敢えて青春を演じようとしている。

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そうだよ、あのドン・キホーテだって大真面目で人生に取っ組んでいたんだしね。

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2018年4月 9日 (月)

私は私

風土や歴史が培った風なのだろうが、日本人はとかく自分を押し出すことを回避する。

私なぞ典型的なその類で、多くの場合周りの顔色を伺いながら行動してきた。

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振り返ってみても、「私が・・」と言う主語で物事を動かしてきた印象が少ない。

正に、共に水利を分け合うことで成立してきた稲作民族特有の習風で生きてきたのだと思う。

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だから真面目で一生懸命で、尚且つ自己主張で軋轢を生むこともなかったのである。

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それはそれで悪くはなかったが、人生としては気概に欠けるし、それに面白くないだろう。

話は変わるが、今日出席した高校入学式の校長訓示で「英語では主語が最初に来て、次にどうする、何故ならと続く」。

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「これからの時代は、意思を明確にした自立が求められるが、その判断力を磨くのが高校時代の学びだ」と話していた。

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確かに英語は意思明瞭で、主語(I、You、How、Whatなど)を先に口に出してしまえば、後の意思疎通は何とかなるって感じだ。

自分の意思を明確にするってことは、それは自から行動することにつながる訳である。

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これからの時代、自らの判断力と責任感、それに自決自行が求められるのは当然だろう。

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誠に遅ればせながら、私もやっとそんな気持ちになっている。

私のこれからの10年計画には「私は私」って項目があって、いたずらな迎合はしないことにしている。

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一見すれば頑固親爺かも知れないが、中身は明らかに違って、そこには自らの意思がある。

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外からの理不尽な圧力があったとしても、そこは断固「嫌なものは嫌」なのである。

ともかくこれからの十年、可能な限り我が道を行こうと思っている。

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先ずは、半月後に迫った砂漠レールを完走し、生きて帰ることである。

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2018年4月 8日 (日)

秦野と言うところへ

湘南は秦野市に走りに行ってきた。

丹沢の山には二度ばかり登ったことがあるのだが、その登山口にある秦野は初めてである。

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初めての土地と言うものは、どんな風物に出くわすのかと何時もワクワクしながら走る。

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その土地にはその土地なりの香りや独特の雰囲気があって、それが処女地の面白さだ。

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今回の秦野(人口17万)も関東への入り口って言った風情があって、自然もたっぷりの良い所だった。

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小田急線の鶴巻温泉駅に集まって、先ずは弘法山(237m)へと急坂を登っていく。

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弘法山ハイキングコースとして実によく整備されていて、日曜とあってハイカーも随分多かった。

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眼下に秦野市街を見下ろす絶好のコースで、残念ながら名物の桜は過ぎ去っていたが、これはこれトレランにはもってこいの山だった。

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私達は2時間弱でこの山を下りて、今度は秦野のいいとこを巡って走るのである。

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秦野市は神奈川県唯一の盆地なのだが、市街地を南に下るとそこには震生湖があった。

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関東大震災の折に陥没が起き、併せて市木沢がせき止められてできた湖で、今ではブラックバスの釣り場になっている。

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その震生湖をぐるりと回って、今度は出雲大社相模分祠へ、国譲り(大和朝廷に)の出雲なのにと不思議に思ったが、関東への御神徳の拠点として明治21年に建立されている。

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ともあれ秦野は、丹沢山塊を水源とした湧水の里でもあって、あちこちから水が噴き出している。

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この出雲大社の隣にも霊水の湧き出る水源があって、口に含むとまろやかな味がした。

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市の運動公園(カルチャーパーク)で軽く昼食を済ませ、今度は水無川を遡る。

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この市のほぼ中心部を流れる川には(伏流していて)水がなく、川の両河川敷が芝生になっている。

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この緑の絨毯を心地良く走って、水源近くにある広大な戸川公園に至る。

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折しも公園のチュウリップが咲き競っていて、山桜との共演となっていた。

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この花をめで、巨大な風のつり橋を渡れば、残りは5kmの下り道であった。

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カルチャーパークに帰ると、そこには市営の無料温水シャワーもあって、ランナーにとっては、秦野はとっても恵まれたところであった。

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今日も、出かけて良かったと満足して帰ったのである。

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2018年4月 7日 (土)

顔は自ら創るもの

確か「四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と言ったのは、リンカーンだったか。

先日熊野に出向いた折、「セックスは、最大の美容術だ」と言ったら女性陣からシカトされてしまった。

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性的機能が活き活きとしていれば、当然それは顔や表情に現れるという意味で言ったのだ。

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私の育てているブドウも、その管理の如何がたちまちにして表情に現れる。

手抜きをすれば、芽が細ったり房がまばらになったりと、彼女らも実に正直なのである。

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それはあの飼い犬と同じで、散歩て連れ歩く犬の顔は、よぉ~くその飼い主に似ている。

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人間もしかりで、昨日の入学式では全体としてスマートで整った顔が整然と並んでいた。

この点私の子供の頃を考えると、食い付きそうな顔や泣いているような顔、それに如何にも餓鬼大将って顔が並んでいた。

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野菜だって昔はもっと個性的で、こくやあくというか、風味や泥臭さがあった。

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それが今じゃ、みい~んな粒ぞろいの端正な見かけをしたハウスものだ。

人間も同じで、栄養豊かに育って苦労がないから、その顔に味がないのだろう。

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えっ、私の顔?・・・子供の頃は力のない痩せ顔で、如何にもオドオドとその性格が出ていた。

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職に付いてからは次第に自信にあふれた顔になって、(もっとも、鏡など見る暇はなかったが)

そういう環境下で四十年余を過ごしてきたから、私の顔の下地になってしまったようだ。

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定年後暇が出来て鏡を見、自分の顔の爺くささにおよそ嫌気がさした。

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それが最近、その爺臭さに少しばかり味が加わっているのに気が付いた。

「オッ、良い顔になってきたじゃん」と喜んでいるのだが、これも老眼故かも知れない。

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贔屓目に考えれば、毎日の苦行に痩せ細って、その雰囲気が顔にも出てきたのだと思う。

来月の今頃は(望むらくは)真っ黒になって帰国し、一層骨と皮の聖人になっていないかしらん?

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ともあれ、やはり自分の顔は自分で創るのである。

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2018年4月 6日 (金)

人生のギャンブル性

駆け足でやってきた春がもう盛りになって、今日からは小学生の登下校が始まった。

この四月で11年目になる立哨に立って、一年生が増えて幾分華やいだ気分を味わった。

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小学一年生は勿論のこと、新たにリーダーになった六年生までが緊張しているのである。

私にとっては十年一日、何も変わらぬ景色なのだが、対人関係やらクラスやら、子供達にとってはそれはそれは大きな変化だ。

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私の変化はと言えば、急ぎ足の春のお陰で、ブドウたちが一斉に芽吹きを始めて、その対応に追われていることだ。

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無駄な芽を欠き、芽が伸びたら誘引やら花房整理やらと、一気に仕事が増えるのだ。

今年のブドウは昨年より好調な芽の伸びだが、実は私の留守(遠征)中がかなり心配ではある。

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とは言え、物事はやってみなければ、結果など分からない(なるようになる)もの。

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人生がそうであるように、用意周到準備したって物事に100%などということはない。

台風などの災害があったり、病虫害にやられたり、そんなこんなに一喜一憂してきている。

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いやさそれは農作物に限られたことでなく、私達は大なり小なりのギャンブル的な挑戦をしている。

やらなきゃ良かった、やって良かったなんてことは、毎日あるんじゃなかろうか。

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でも私にとっては、前者はほんの僅かで、たとえ失敗してもそれはやって良かったの繰り返しだ。

やらないで悔いを残すより、やって教訓を得る方がよほど懸命だからだ。

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況やこの年齢になったら躊躇している暇はない訳で、それが無益な博打でない限り挑戦すべしと考えている。

要は何にその価値を見出して、そしてどう挑戦するのかに尽きるのかもしれない。

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そうした人生のギャンブルは、競馬競輪パチンコなどとは比べようもなく面白い。

これも人生の楽しみの一つだと思う。

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2018年4月 5日 (木)

長命の時代だが

今日は、地元の中学校の70回目の入学式に出席した。

70年と言う歳月は、私の生きてきた年月と奇しくも同じで、少しばかりの関興を覚えた。

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とは言っても、団塊世代の私の同級生は400人余だったが、今年ま新入生は142人だ。

控室で会式を待つ間の雑談が、同世代のTさんが「近頃は、仲間集まると病気の話ばかりだ」と言う。

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それから「だからきっと、あなたのように元気だと場が白けるよ。」と付け加えた。

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健康自慢をして場が白けるのも、これは長命の時代ならではのことかもしれない。

そもそも私達の先祖は、ずぅ~っと短命な時代を生き繋いできたのである。

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幕末の志士達のほとんどは二十代で死んでいるし、弥生人の寿命は二十年とされている。

奈良時代になってやっと三十八年程度になったが、日本人の平均寿命はずっと五十年だった。

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伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代(天武天皇)から始まったが、当時の寿命から考えても二十年で全てを新しくしなければ、技術の伝承が困難だったからだ。

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要するに、二十年で世代交代する時代の仕組みなのである。

ともあれ、短命の時代には誰もが生き急いでいただろうが、そういう意味で長命時代の今日では、まだまだ先があると思って緩慢に生きてしまう。

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そう・・・、今日では誰もが「自分は、無限に生きる」と思って日々を暮らしている。

私も同様だが、せっかく与えられた長寿の時間を、病院通いで過ごしたくはない。

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望むらくは、目一杯走り切って、息絶える寸前にゴールに駆け込みたいと思っている。

そうだ、今日は入学式の話しだった。

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まだまだ子供と言うか、幼さが色濃い新入生なのだが、それなりに緊張していた。

中学は子供から大人への過度期と言うか、その心持が大きく変わっていく脱皮の時だ。

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弥生や奈良時代なら立派な大人だが、今日ではまだヒヨッコだ。

これからclimb the school ladderしていくのだが、お陰と時間はたっぷりとある。

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それでも親や国に育ててもらうのは、二十五年位にしたいね。

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2018年4月 4日 (水)

Is it worth doing?

自分にとって何が大切かということは、そう‥年齢とともに随分変わってきたように思う。

幼児にとっては母親が後生大事だし、青少年期にあっては将来に見通しを付けることだろう。

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そして職場に於いては如何に仕事に取り組むか、そして誰もが出世と言うことを一度は考えるだろう。

或いは、恋人を追い求めるなんて行為も、時と場合によっては最重要だったかも知れない。

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そうやって私も夢中で過ごしてきて、今改めて何が大切かってことを考えている。

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古稀を過ぎた男の一般的な関心事は、大抵は健康と程々の娯楽だろうか。

団塊の世代の諸君がどんなことを大切に思い、何を価値とするのかはそれぞれの自由だ。

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だが私にとっては、これからの十年に何ができるのか、それを試すことが価値だと考えている。

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これまで仕事を含めて夢中で過ごしてきた事どもから解放されて、私には何と死ぬまでの自由が与えられているのである。

ならばスポーツであれ文学であれ、或いは恋愛であれ経済であれ、何と言われようと、とことん自分の可能性を追い求めてみたい。

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過去はいくら追憶したところでやり直すことは出来ないが、未来には無限の可能性がある。

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そしてそれは、未来の何かに価値を見出すことから始まると思っている。

実は、自分は若い若いと思っていて古稀を迎えた時、実は自分自身が驚くというか、内心うろたえるような気分になった。

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それまで、まさか自分が70歳になるなどと考えもしなかったからだ。

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人は年々歳をとって、そして何時かは死ぬのだが、自分もその仲間だとは思いたくなかったのだ。

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そう・・・自分だけは永遠に生きると思って、私達は日々暮らしているのである。

その幻想に気付いたというか、自分に残された命を精いっぱい燃焼させなきゃいかんと思ったのである。

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而して、私の悪戦苦闘が始まるのだが、結果は見てのお立合いである。

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2018年4月 3日 (火)

心は春霞

熊野は、大小無数の山が寄せ集まったところで、その山伝いに幾筋もの小河川が流れている。

いずれも川底が透けて見える清流で、時々アマゴの稚魚の群れが黒く見えたりする。

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紀州と聞けば随分明るいイメージがあるのだが、実情は山また山の僻地なのである。

実際に私達の辿った160k の街道沿いには、空き家又廃墟と過疎化の足音が聞こえるほどだった。

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だけど古代においては、古事記や日本書紀に頻繁に主要舞台として登場するし、安宅水軍の跋扈もあって、決してへき地ではなかったはずだ。

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それに大和の国創成に関わる伊弉冉や日本武尊ゆかりの地ということで、中世以来この地を恋い慕うのが流行になった。

蟻の熊野詣と呼ばれる、人々の熱狂的な熊野詣の宗教的な習慣にまでなったのである。

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京の都からでさえ往復600k の道のりで、今日の私達が難渋するような難路なのにである。

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貴族も同様で、白河上皇は八回、後白河に至っては何と三十三回に及んでいる。

熊野に何があったのかと思わせるが、それは本宮・新宮・那智の聖地であった。

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その中心は城下町でもあった新宮で、備長炭(紀州田辺の商人・備後屋長右ェ門由来)を江戸や大阪に積み出す商港として栄えていた。

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而して言わずもがな、紀州は古き良き時代の宗教都市なのであった。

司馬遼太郎の若き日、彼は戦地への出征を前にして、高野山への山道を歩いている。

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運命の断崖に差し掛かった若い命が、人生の何事かを見出そうと夜を徹して歩いたのである。

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不肖ながら私はナビブ砂漠250kレースを前にして、伊勢路を辿った訳だがその心は、

「そらになる 心は春の 霞にて 余にはあらじとも 思い立つかな(西行)」であった。

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西行が出家に際して詠んだ句で、心は昨今の春霞のようなのだが、この世との別離

も辞せない思いで向かおうとしている。

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今時そんな大業なと思うなかれ、人生は何時だって真剣勝負なのである。

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2018年4月 2日 (月)

Lucky charm

さても伊勢路の旅も最終日となって、いよいよ極楽浄土に入るのである。

熊野から紀伊飯田までの11kを熊野灘沿いに七里御浜を進んで、そこから10kは紀勢本線に乗って新宮に入ることにした。

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熊野の宿を出て1km程の所に獅子岩があって、直ぐその先に花の窟神社が鎮座している。

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この社は大国主命の母親、伊弉冉の尊の墓所とされていて、高さ45mの巨巌を神体とする日本最古の神社である。

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社殿などはなく、岩に渡し結ばれた注連縄が独特で、正に八百万の自然崇拝の遺風を今日に伝えている。

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この社からは熊野灘の海沿いに新宮に向かうのだが、途中で砂浜を走ることになって、

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私の砂漠体験をみんなで共有しようと走り始めたものの、100mも進まずに悲鳴を上げてしまった。

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そもそも砂地には、ランに必要なキックをする足場が無いのである。

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どうやら砂漠の旅40km/dayは、おそらく想像を絶する苦行になりそうである。

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ともあれ私達は、幾つもの峠を越えて、ようやくにして新宮に至ったのである。

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新宮と言うからには古宮が在ってしかるべきでだが、その宮は市街地の南、千穂ヶ峰の南端に鎮座し天照大神を祭神とする神倉神社であった。

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この神社は花の巌に似て、ゴトビキ岩をご神体とし、熊野三山の本元であるらしい。

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そしてこの神倉神社の元に、過去・現在・未来をつかさどる熊野三山が開かれたと伝わる。

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先ず訪れたのは、過去をつかさどり、富貴を叶えるとされる熊野速玉大社である。

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神仏混交の社で社殿の傍らには梛木の巨木があって、この社に参れば世みがえるらしい。

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次は新宮からバスに1時間半ほど揺られて那智大社に至る。

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私達はついに熊野古道170kmの終着点、那智大社に至ったのである。

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那智大社は現在をつかさどるとされ、滔々と130mの高さを流れ落ちる那智の滝を借景に堂塔が立ち並ぶ。

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そこには人間が作り得る最高の造形美があって、平安の昔から浄土とはかくなるものかと人々を納得せしめたのだろう。

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この那智大社で私達の旅は終わったのだが、旅の終わりに4人の女性達から私にプレゼントがあった。

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それは、那智大社の勝守(ナビブ無事に完走すること)を祈念するお守りであった。

いやさ今回の旅は、お守りのご利益もさることながら、砂漠250kを走破する大きな自信になったのである。

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このお守りをバックパックの背中に、私はあのナビブの砂漠を走り続けるのだろう。

それはそれ大変な冒険だが、おおいにそのsand roadを楽しみたいと思っている。

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2018年4月 1日 (日)

伊勢路五日目は、三木里から熊野市までの26.5kである。

それも峠に次ぐ峠で、ヨコネ道、三木峠(標高250m)、羽後峠(260m)、曽根次郎坂太郎坂、

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二木島峠と250~270mの峠が続き、更に逢神坂峠、大吹峠、松本峠を越えたのである。

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峠道はいずれも急傾斜の苔むした石畳で、進む速度は時速2km位になってしまう。

その一つ一つの峠を上りながら、峠は大変なモチーフではないかと考えていた。

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峠自体は、一歩一歩を根気良く登っていけば、何時かは頂上の尾根の明かりが見える。

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そして峠の向こうの新たな世界へと入っていくのだけど、これは私達の歩いている人生と同じだ。

司馬遼太郎の代表作の一つに、河合継之助の生涯を描いた「峠」がある。

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その峠は三国峠と呼ばれる信越の山道ではあるが、小説は河合の人生の峠を次々と描写していく。

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そして最後の峠は、官軍の軍監であった岩村清一郎との小地谷での談判であった。

小地谷会談は彼の一生一代の峠だったはずだが、会津藩の謀略などもあって、越後長岡藩はあえなく滅びへと追い込まれてしまう。

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峠の向こうを想像して、努力もし、何とか血路を拓こうとするのだが、人生は必ずしも計算通りにはいかないのである。

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曽根次郎坂太郎坂の峠を越えて二木島の村に降りると、もう十二時をかなり回ろうとしていた。

何処かに店は無いかと尋ねると、店じまいしつつある巡回販売車を教えてくれた。

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その軽トラを引き留めて、秋刀魚寿司や飲み物を買って昼食にしたのである。

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漁港で働くお母さん達がレジンの座布団まで譲って下さって、車座になって疲れを癒やすことができたのである。

しかし峠はまだまだ続く訳で、明るい内に宿に辿り着けるのか心配しながら、逢神坂峠への急階段を上っていった。

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この「逢神」だが、由来は伊勢と熊野の神様に出会うところと言う意味らしく、実に心地良く整備されていた。

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この峠の石畳普請は、紀州藩五代藩主・後の八代将軍吉宗によって整備されたと伝わる。

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その峠の坂を下りると、今度は波田須神社に通じる比較的平坦な道になって、その途中に徐福茶屋があった。

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崖の下には、秦の始皇帝の命によって不老不死の妙薬を求めて渡来した徐福の墓石(?)を祭る宮がある。

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真偽のほどはともかく、何らかの徐福の足跡があるのだろうが、その崖上の茶屋に立ち寄った。

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美味しいコーヒー(徐福の妙薬)を頂いて鋭気を養い、大吹峠を越えると、この日最後の峠が松本峠である。

この峠の頂上には、少し大きなお地蔵さまが建っている。

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そして江戸時代のはじめ、この地蔵を妖怪と勘違いした鉄砲打ちが発砲したらしく、

地蔵の足元にはその鉄砲の弾痕が残されていた。

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ともあれ、私達はやっと熊野市に至り、和歌山県入り(これまでは三重県)したのである。

そしてこの最後の夜は、150k余の旅路を振り返って、お互いにこの古道の意味を噛みしめていた。

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