« 2018年4月 | トップページ

2018年5月23日 (水)

高尾山に登る

心配した雨にも降られず、東京郊外の高尾山(599m)に登ってきた。

高尾山は、年間に280万人もの人が登るこの国で最も登山者の多い山だ。

Img_0343

普段は登山者の渋滞が出来るほどらしいが、今日は雨予報のお陰で心地良く登ることが出来た。

と言うか、あのナビブ砂漠のことなどを話しながら登っていたら、何時の間にか頂上だったって感じ。

Img_0345

頂上までの所要時間は1時間と少しで、その先の陣馬山まで行くと、それは十分な一日コースらしい。

Img_0346

新宿から京王線で一時間弱だから、都民の健康づくりに大いに役立っている山だ。

さても遥々遠州から高尾山に出かけたのには訳があった。

Img_0347

ナビブで大変お世話になったHさんが、仕事で博多から東京にやって来るという。

それなら〇さんと3人で同走会をと言うことになったのだが、まだ日本に帰ってから15日しか経過していない。

Img_0348

ついこの間の事なのだが、そればもう既に過去の「時のしるし」になっている。

Img_0349

突き詰めて考えれば、あのレースも非日常的体験をさせる大人のままごとだったかも知れない。

もっとも、人生そのものが「遊びせんとや、生まれけん」なのだとしたら、それこそ本流だと言えなくもない。

Img_0350

それにしても、15日ぶりの二人の顔が何とも懐かしく感じられた。

Img_0351

既に〇さんは来月のゴビ砂漠に向けて夢中だし、Hさんも9月のアタカマ砂漠へと準備中だ。

Img_0352

それに比べこの私は、暫し立ち止まってしまっている。

Img_0353

平々凡々、日暮らしすれば良いと考えている訳ではないが、ここは少しばかり考えたいと思いだしている。

それは書き進めている「時のしるし」でじっくりと表現したいと思っているのだ。

Img_0354

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月22日 (火)

甲斐に向かって

実は昨日あたりから、幾分空虚な気分の中にいる。

大一番が終わって、大きく山を下ってきて、さあ~ぁてこれからどうしようかってことだ。

Img_0338

人間ってのは、生き甲斐の無いことから身を遠ざけ、生き甲斐あることに自分の努力を仕向けるものである。

否さ、たまりにたまっていたブドウの管理作業もあるし、梅雨に入る前に玉ねぎや馬鈴薯も収穫しなきゃならない。

Img_0337

それはそれで進めているのだが、どうも心ここにあらずと言った具合なのだ。

それだけ砂漠体験のインパクトが大きかったという訳だが、そろそろ次に向かわなければならない。

Img_0336

その決断が出来ずにいて、その最大の障害がやはり年齢にある。

砂漠でも最高齢と言うことで、皆さんに支えていただいたが、この体がもつのは何処までか?

Img_0325

出来るものなら、来年はニュージランドのグレイトレースを目指してみようと考えている。

それにレースに限らず、次の目標をもっと明確にしなければならない。

Img_0315

そんな訳で明日は、東京で砂漠で行動を共にした三人の同窓会がある。

高尾山に登る予定なのだが、果たして雨で登山が可能かどうか?

Img_0310

いずれにしろ話題は次の目標だろうし、人間ってやつは贅沢な動物である。

Img_0300

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月21日 (月)

真実の実在

昨年の今日、ある女性から「ナビブ砂漠に行きませんか」と言うメールがあった。

それから色々と迷ったりもしたけど、散々苦心して最高齢の砂漠257kの完走者になった。

Img_0308

この非日常を体験できたのは、彼女の誘いが契機だったのだから、今は感謝の限りである。

あの道元禅師は、人間の真実の存在は「静」ではなく、動的なもの、動くものだということを強調している。

Img_0317

私達が生きているってことは、人生の時と共に何をしているのかが全てだってことである。

つまり、実在の世界ってのは、日々の変化とその人の動きそのものだってことになる。

Img_0319

人は生きている限り何時かは死ぬし、それまでの間に何が出来るのかが実在ってことだ。

昨日、71kにゴールした後、100kのゴール地点に立って、次々とゴールに向かってくる人達を迎えていた。

Img_0320

100kを走ってきて、疲れとか困憊とかは既に通り越していて、その彼らの顔が実に美しいと思った。

涙を流している人もいたし、微笑んでいる人もいた。

Img_0329

そのみんなが、この一日を通して一つのことをやり通したっていう、その甲斐に満ちていた。

私は71kがゴールだったけど、100kには100kの顔があった。

Img_0333

人間歳をとるということは人生の一面に過ぎないのだが、私達の存在にとっては本質的なことだ。

生まれてからこの方、ずうっと歳を重ねてきた訳だし、それはそれで貴重なことなんだと思う。

Img_0339

世間の人、私を含め凡夫は病むものであり、年々老いゆくのが必然なのである。

そういう新陳代謝を何千年とやってきて今日があるんだから、私もその中に生きている。

Img_0341

「今、動け」私の心の中に、そう呟き続ける何者かが住んでいる。

出来る時にできることをやる‥‥それが「動」なんだと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月20日 (日)

天気晴朗なれど波高し

紺碧の空に濃淡の緑、ヒンヤリとした空気に恵まれ、絶好のウルトラ日和となった。

結果は71kゴールだが、9時間15分で無事完走となった。

Img_0321

その最大の要因が最初の10kで、Mさんに付き合ってかなりの低速で推移したのだが、

その後の登りに入ってからの走りは快調で、一種のランナーズハイの気分であった。

Img_0322

空気も美味しいし快調な歩調に気をよくしていた。

が、好事魔多しの例え通り、下りでばったりとコケてしまった。

Img_0323

周りの人が駆け寄るほどの転倒だったが、(事実衝撃は大きかったが)こちとらは転ぶ技術にたけている。

ごろりと一回転して、膝に擦過傷を負った程度で済んだのである。

Img_0324

暫く痛みは去らなかったが、10kほど走ったらその痛みは嘘の様に消えてしまった。

何のことはない、42k地点で昨年より30分も好タイムで走っていた。

Img_0326

残りの29kも歩くことなくゴールして、結果としてもう29k走れたかな~って気分になった。

がしかし、ナビブ砂漠の疲れ?もあり、今回だけは慎重を期すことにしたのである。

Img_0328

ゴールの温泉でゆっくりと湯に浸かってビールを飲み、なお駆け上がってくる100kランナーを眺めるのも、これまた乙なものである。

100kレースは、この71kからが大変で、馬越峠を越えて野辺山までの行程は決して安易なものではない。

Img_0330

それを今年はやることなく、風呂に入っての高みの見物なのである。

ともあれ絶好のコンディションに恵まれて、あのYタカちゃんが6年ぶりの完走を果たしたのである。

Img_0331

走れなくって悩み続けていた彼女の力走に涙が出る思いだが、彼女はワハハと豪快である。

顔で笑って心で泣いて、人生にゃ山もおれば谷もある。

そんな山や谷を乗り越えていくのが長い人生なのである。

Img_0332

勿論リタイアした人も4人いて、諸手を上げて喜べる訳ではないが、全体とすれば素晴らしい一日だった。

而して、野辺山の一日は今年も終わったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月19日 (土)

野辺山へ

長野県野辺山高原の松原湖畔に来ている。

日本列島は真夏日のところもあって初夏の陽気が続いているが、ここは10度位は低い。

Img_0290

だから高原野菜の畑が広がっていて、植えたばかりのレタスやキャベツの畑のマルチがまぶしい。

この野辺山には、八ヶ岳ウルトラマラソンを走るのために、40歳の中ごろから毎年来ている。

Img_0291

かれこれ25回目にもなろうかという年月になっている。

私が最初にウルトラを走ったのもここだし、デカフォレストの称号を得たのもここだ。

Img_0292

私のウルトラの原点とも言えるのだが、流石に近年では容易には完走できなくなっている。

殊に今年は砂漠から帰ったばかりだからと、大事を取って71kにエントリーしたのである。

Img_0293

勿論野辺山はいつも100kだから、71kは初めてである。

体の調子を確かめながら、来月の日光ウルトラの下準備のつもりでもある。

Img_0298

とは言え、アップダウンの激しい大会だから、気を抜いている訳にはいかない。

ともあれ、例年の通り仲間とともに清里でソフトクリームを食べ、初原湖を一周してとそのルーチンを終えたところだ。

Img_0299

松原湖からは昨年夏に縦走した八ヶ岳が見渡せて、その山並みの一つ一つを思い出した。

雪もかなり残っていて、くっきりと澄んでいるから、明日は晴天なんだろうか。

Img_0301

平場を熱さを基準に考えていたのだが、明朝は幾分寒くなるのかもしれない。

ともかく、気を抜かないで精一杯走ってみようと思っている。

Img_0302

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月18日 (金)

子供達に元気をもらって

アフリカ遠征中に暴走したブドウの枝整理に夢中になっていると、外で「おにいさぁん~」と大きな声がする。

先日「お爺さんではなく、お兄さんと呼びなさい。」と教えた保育園の子供達である。

Img_0227

機嫌よく出迎えると、かみさんが出てきて「今日は、落花生を蒔く」のだと言う。

勿論ブドウのハウスに入って「早く、大きくなぁれ」と大合唱は忘れないのではあるが・・・・・!。

Img_0228

六月に入れば直ぐにサツマイモの蔓挿しだから、その準備(畝づくり等)もしなければならない。

Img_0229

雑草の除去もブドウの管理もと、15日間も遊んだ分実に多忙な毎日である。

そんな毎日なのに、昨日は小学校に呼ばれた。

Img_0230

新潟県での痛ましい事件があったばかりだが、私の毎朝の立哨はこの四月で11年目に入った。

雨の日も風に日も(可能な限り)子供達を見守ることと、車からガードすることに専念してきた。

Img_0283

ってなこともあって、毎年一度子供達(学校)が感謝の意を伝えたいと言うのである。

Img_0284

全校生徒が集まったついでにアブトレなるものをやって、・・なにこれ、「助けてぇ~」って大声で叫ぶ練習である。

こんなことをやらなきゃならないなんて・・・とは思うものの、体育館の大音響は励みになった。

Img_0285

さてもこの10年、私の前を通る子供の数は年々減って、今では60人ほどになってしまった。

Img_0286

子供の数が少なくなるのは寂しいが、後代を育てることを放棄する風潮なのだから仕方がない。

後代の無いのも、幸不幸は別にしてその人の人生の選択なのだから、とやかく言っても詮無い話だ。

Img_0287

しかしながら、仮に出来の悪い餓鬼だとしても、それはそれ生き物の希望なのである。

そりぁさぁ~色々な子供がいるけれど、ひっくるめて地域全体で愛してやれば良い。

Img_0288

そんな温かい風潮が広がれば、新潟のような事件は起こりっこないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月17日 (木)

STAGE6(フィナーレへ)

6時、大西洋の高い波音で目覚めたが、辺りはまだ真っ暗である。

それでもテントサイトには多くの人が集まっていて、今日は最終日ということで、皆さんの顔にはうきうきした表情が浮かんでいた。

Img_0146

Img_0147

この最終日のコースはTorra Bayと呼ばれる海岸近くの10kを走るのだが、これまでの全工程を振り返るような設定になっている。

Img_0148

海沿いの砂浜から始まって、小高い砂丘の尾根を辿り、岩の上をはしり、やがて塩湖の底で塩の結晶を踏みしめ、最後の砂丘を乗り越えると、そこがゴールだ。

Img_0149

Img_0150

走りだしは皆さんと歩調を合わせていたが、何時しか飛び出していて、この10kを1時間20分で走り抜けていた。

Img_0151

途中の塩の泉ではズブズブと塩水もあって難儀したが、大きな砂の丘を越えると、そこに忽然と最終ゴールのゲートが現れた。

Img_0152

Img_0153

この長かった257kの旅が終わったのである。

Img_0154

いやしかし、随分の長丁場だと思っていた砂漠の旅路も、過ぎ去ってみれば瞬時の出来事の様でもあり、

Img_0155

Img_0156

世界40か国の仲間たちと、何とか意思疎通をと努力した毎日ですら夢の様に思われてくる。

Img_0157

ゴールゲートの傍らに憩いながら、砂丘の向こうから現れるランナーのヒトリ一人との思いでがよみがえる。

Img_0168

Img_0161

彼女はスペインの、彼はイタリアで本屋をやっていて、・・などと反芻しながら、時にゲートに駆け寄って「コングラチュレーション」とハグを繰り返す。

Img_0162

チーム参加のロッポンギロケッツの若い3人も揃ってゴールし、お互いの絆を確かめ合っていた。

Img_0163

Img_0164

途中でリタイアした10人余だって、走り続ける仲間を励ます方に回って、立ち働いていた。

Img_0165

スタッフとて大変な毎日であった訳で、レース終了の感激は全員のものになっていた。

Img_0166

Img_0168_2

手際よくゴールが撤収され、帰路はバスで4時間(300k強)であった。

Img_0169

途中でバスが砂にはまって動けなくなっても、「レッツ、ステージ7」などと言いながら歩き、ジョークと笑いが続いていた。

Img_0171

Img_0172

16時、スワコップムントホテルに入り、石鹸を使ってシャワーを浴びたのだが、鏡を見た瞬間、浦島太郎もかくやと驚いてしまった。

Img_0181

顔一面の白髭と化していて、自分でも80歳の爺さんに十分思われた。

Img_0184

Img_0188

慌てて髭をそり落とし、何とか平静を取り戻したのだが、皆に老人と思われたのも無理なかったのである。

Img_0189

Img_0194

ともあれ、今回の一年近くに渡った砂漠レースへの挑戦は終わったのである。

Img_0206

腰回りからは血が滲みだしているし、苦しいことが山程あったはずなのに、それすらもう遠い過去の事の様に思われた。

Img_0207

Img_0208

そして、その一年をやり通したという、その実感だけに支配されていた。

Img_0211

どうやら人間とは、そうした生き物であるらしい。

Img_0209

Img_0190
ナビブ砂漠よ、さらば。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年5月16日 (水)

Dune Day(砂丘の日)

第五ステージの38kは、今回のレースで最もダイナミックで変化に富んでいた。

幾つもの砂丘の峰を行くステージなのだが、この日私は仲間と離れて一人飛び出していた。

Img_0118

Img_0119

砂漠に慣れたこともあるが、何よりも背中の荷物が随分と軽くなっていたからだ。

Img_0120

Img_0121

それに、砂をけ立てて快走したいという気分もあったのだが、それは流石に続かなかった。

Img_0122

それでも14;45分には、海岸のリゾート施設近くに設けられたテントサイトに着いた。

Img_0123

リゾート施設と言ってもあるのは釣り客用のシャワーだけだが、その水を使って6日ぶりに頭と体を洗ったのである。

Img_0124

その心地良さと言ったらえも言われぬもので、目の前の大西洋を見ながら、仲間の到着を二時間近くも待っていた。

Img_0125

Img_0126

この6日間はアッと言う間に(人生の日々と同じように)過ぎ去ってしまって、レースの残りは明日の10kだけになった。

Img_0127

最後の10kは、もう心置きなく砂漠を楽しめば良いのである。

Img_0128

とは言え、私の胴回りはバックパックを締め付けて走ったために赤裸になっていて、

Img_0129

防護テープをぐるぐると巻いていたにもかかわらず、シャワーを浴びるのも一苦労だったのである。

Img_0130

しかしながら、こんなものは砂漠レースのささやかな勲章でしかなく、仲間達の足は悲劇的だった。

Img_0131

Img_0132

それにしても今日のコースは壮観で、数百メートルもの高さの砂丘の尾根を登り降りしながら

Img_0133

Img_0134

20k余を進むのだが、砂丘の砂は当然柔らかく、踏み出す一歩に大きな負荷がかかるのである。

Img_0135

Img_0136

その脈々と続いて何時果てるとも知れない砂丘は、確かにダイナミックだが人はそれに耐えるしかない。

Img_0137_2

Img_0138

そして、これぞ砂漠であり、このシーンに自分を置くために、このナビブまでやって来たのである。

Img_0139

Img_0140

16時を過ぎて、後続のランナーが次々と海沿いの向こうからやってくる。

Img_0141

Img_0142

その仲間たちがゴールする度に、スタッフが太鼓をたたき歓声を上げて迎えている。

Img_0143

すると突然、「レースはもう終わるのだ」と言う実感が込み上げてきて、苦しかったことはすべて忘れ、楽しかったことだけが残ろうとしていた。

Img_0144

そう・・・思えば私は砂漠の旅人であったが、同時に時の旅人でもあったのだ。

Img_0145

過ぎ去った時を、私の思い出の格納庫に、既に大切に仕舞おうとしているのであった。

そしてキャンプサイトには、長いレースをほぼ終えたという安堵感が漂っていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年5月15日 (火)

安らぎのひと時

もう陽は高く、外の賑やかさに寝袋を這い出た。(4時間ほど眠ったようで)8時だった。

テントサイトには、暫しの安らぎに笑顔が溢れていた。

Img_0085

陽が登ると流石に熱く、仲間たちは三々五々テント下の日陰を求めて憩っている。

今朝までのレースを終えて、この一日は唯一のオフなのである。

Img_0086

とは言え、11時近くになって最終ランナーがゴールしてきて、私達はその粘り強い仲間を熱く出迎えていた。

テントが囲む広場には40か国の人々が入り混じり、お互いの気持ちを伝えあっている。

Img_0087

それにしても英語圏の人達が多く、私達アジアの人間にはハンディーがある。

Img_0088

しかし、今回最大の韓国勢は、もてる英語力を駆使して活発に歩き回っていた。

意思疎通は英語に頼る他ない訳だが、私の付け焼刃の英語力ではさすがに限界があり、それをを思い知らされた。

Img_0090

その分、何くそって、次の機会への語学力向上への励みになった気もする。

ランナーの多くが足を豆で血だらけにしていて、この日は一日中メディカルテントに行列が出来ていた。

Img_0091

田中君などは、親指が二倍にも膨らんで、チマメで真っ赤になっていた。

Img_0092

それでも弱音を吐くことなく、頑張ってきたんだから日本男児も見上げたものである。

Img_0093

あのセミブロの若岡さんも右足を捻って大きく腫らしていたが、それでも弱音を吐かなかった。

Img_0094

私もシップ布を提供したのだが、「何としても現在の4位を死守したい」と痛さをこらえて走る覚悟だ。

Img_0095

誰もが多かれ少なかれ、ここまでのレースでダメージを抱えていたのだが、私に関しては豆はたったの一個で、それも二日目には完治していた。

Img_0096

テントサイトの話題は、やはりグレイトレースに関することが多い。

Img_0097

この大会の主催者は、ナビブ、ゴビ、アカダマ、南極のレースを基軸に、ハワイ島やカンボジア、ニュージーランドなどでもレースを開催している。

Img_0098

今回のコンペティッターには、これらのレースに複数回参加している人も多く、どうやら過酷なレースであればあるほど、それが病みつきになるようだ。

Img_0099

人は、テーマパークであれ映画や読書であれ、非日常を希求するもののようで、主催者はめったに体験できない体験の場を提供するのだ。

Img_0100

そんなリピーターの話を聞きながら、日がな砂漠の一日をゆったりと過ごすのである。

Img_0101

テントサイトの傍らには、あのキソウテンガイが息づいているし、ヒンバ族の人達が民芸品を並べている。

Img_0103

全て彼らの手作りのようだが、産業の(鉱山の他)ないこの国の人達の生活を思う。

Img_0104

ともあれ、やがてランナーたちのシルエットを残して陽は西に沈み、私達は明日への準備に余念がないが、だがレースは残すところ二日だけなのであった。

Img_0105

Img_0106

Img_0107

Img_0109

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月14日 (月)

赤い砂漠

肌寒い朝を迎えたが、今日はいよいよ赤い砂漠への突入と題された84kのオーバーナイトランある。

果たして迷うことなく突破できるのかどうか、最も心配だった第4ステージだ。

Img_0066

この日からスタート時間が午前8時に繰り上がって、地平線を登り始めたばかりの太陽に向かって進んでいく。

Img_0067

スケルトンコーストから東に向かうということは、どんどん内陸に入って行くということだ。

そして案の定、一歩進むごとに気温は上がり続けて、次第に灼熱の砂漠になっていく。

Img_0068

強い陽の光が砂や岩を熱し、それが空気を温めて、熱風となって私達に吹き付けるのだ。

Img_0079

40度位だろうか、それでも風があった方が涼しく感じるが、体からはどんどん水分が失われていく。

その暑さの中、一時間遅れでスタートしたトップ集団の激走は続いていた。

Img_0070

私達は15k地点辺りで追い抜かれたが、あの若岡さんはトップ3人に肉薄して頑張っていた。

Img_0071

しかし、18k地点の給水所辺りからは、倒れ込んでいる人が目立つようになった。

やがて、オーストラリアのエアーズロックを連想させる赤茶色の山が現れ、その山を回り込むように進んでいく。

Img_0072

その褐色の山裾一帯には、うっすらと小さな植物が生えていて白い花を咲かせている。

Img_0073

砂漠にもわずかな水分で生きる植物や動物がいるのである。

その緑と小さな花が銀色になびいて、私達砂漠の旅人の心を幾分和ませてくれる。

Img_0074

山間の地帯を抜けると、今度は平原を20kほども一直線に進むのである。

Img_0075

この日初めてキソウテンガイを見つけ、若岡さんの言葉を思い出す。

決して美しくもなく、派手さも微塵もない姿で地面にしがみ付いて生きている。

Img_0076

しかし彼らは、この灼熱の砂漠に深く根を張って、1000年も生き続けるのである。

果たして私達に、そんな地味な生き方が出来るだろうか?

Img_0077

平原が尽きて47kを過ぎる辺りで陽は西に傾き始め、一番星が輝き始めていた。

このCPの車の陰で夕食を済ませ、ヘッドランプと懐中電灯・背中の点滅燈のチェックを受けて出発である。

Img_0078

砂漠の夜は、ライトなしではコースか確認できず、進むに進めないのだ。

コースを示すフラッグを見失いがちで、4人で細心の注意を払いながらの行進だ。

Img_0079_2

夜の距離は一向にはかどらず、私達4人は代わる代わる歌を歌って進んだ。

私達は「月の砂漠」を、そしてJuliaはイエスタディーを歌ったりして、時を忘れようとしていた。

Img_0080

日本の「月の砂漠」はメルヘンそのものだが、このナビブ砂漠には金の鞍も銀の鈴もない。

あるのは、真っ暗な大地と砂の道だけである。

Img_0081

そして、足の沈み込む何時果てるとも知れないサンドロードが続くのである。

76k(残り8k)のCPに着いて給水していると、傍らの寝袋がゴソゴソっと動いた。

Img_0082

出てきたのは、あの元気だったオーストラリアのジャッキー譲で、足を血まみれにしていた。

それでも「ゴー・バック」と言ってぴっこを引きながら暗い中に消えていった。Img_0083

直ぐに彼女に追いつき追い越したのだが、あの元気印のジャッキーをしてかくのごとくである。

さても、午前三時半、彼方にかすかなテントサイトの光が見えて、やっとこのロングマーチを終えることが出来たのである。

1時間の走行距離は6kだったから、時間の経過は距離そのものだった。

まさに、ロングマーチはその我慢の9時間だった。

Img_0084
ともあれ、砂まみれのまま、倒れ込むように寝袋に潜り込んだのである。

ともかくも、私達は最大の難所をクリアーしたのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年5月13日 (日)

鶴ヶ城をめざして

大内宿での夜は地元の産物をごちそうになって、どうやら夜半まで続いたようである。

ともあれ8:00には会津若松に向けて26km、下野街道を辿らなければならない。

Img_0258

大内宿の直ぐ上の街道は、昭和初期にできたダムの湖底に沈んでしまっていて、

Img_0259

そこにあった官軍(戊辰戦争)戦死者の墓は、ダムのだいぶ上に移転されていた。

Img_0261

氷玉峠を攻略する際の佐賀軍などの戦死者、24名の墓である。

Img_0262

その墓に詣でた後、その最大の防御陣地だった峠を越えて栃沢宿に向かった。

Img_0265

峠道には昨年よりも倒木が多く、この下野街道を辿る人の数も少なくなっていることを伺わせる。

Img_0266

かつて伊達正宗や秀吉、吉田松陰らが通ったはずの街道だが、今は寂れて久しい。

Img_0267

関山宿に近づくと、その村はずれにも42人塚が残されていた。

Img_0268

この塚は、会津藩兵の戦死者を祭ったもので、関山宿はその際戦略的に焼き尽くされている。

Img_0269

従って、大内宿の様な茅葺家屋は残されてはいない。

Img_0270

勿論120年を経た今日では普通の集落だが、歴史は時にとんでもない災禍を及ぼすのである。

Img_0271

次の集落の神社境内にアッキーさんがエイドを設営してくださっていて、とっても美味しいカレーを頂いた。

Img_0272

アッキーさんは那須塩原の人だが、このマラニックのために何時も尽力してくださっている。

Img_0274

アッキーさんのエイドから10k、いよいよ今回の目的地鶴ヶ城である。

Img_0275_3

昼過ぎからポツリポツリと降り始めた雨も、何とか大雨にならずにすんでいた。

Img_0276

鶴ヶ城では戊辰戦争150年を記念した特別展が開催されていて、それを観覧しながら、維新当時の会津の苦衷と悲劇を思った。

Img_0277

その象徴は白虎隊19士が切腹して果てた飯盛山だが、城とそれほど離れないところにあった。

Img_0278

ともあれ、あの事変はたった150年前の出来事なのに、私達は遠い昔の出来事の様に思っている。

Img_0279

会津を改めて味わいつつ、今回のマラニックを終えたのである。

Img_0280

Img_0281

Img_0282

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2018年5月12日 (土)

日常の日々に

今日明日とはナビブのレポートはお休みすることにして、会津でブログを書いている。

15日間留守にしていただけなのに、私のブドウも畑も目を覆う状態になっていた。

Img_0232

私が非日常の世界に出かけていた間に、それぞれ勝手な成長をしてしまったようだ。

Img_0233

この私とて、砂漠での非日常の毎日のインパクトが大きく、いまだに興奮状態が続いているようだ。

ともあれ、早く日常を取り戻さねばならない、・・・ということで今日は下野街道マラニックである。

Img_0234

今日のコースは、会津田島駅をスタートし、23k余を走って、下野街道の中山峠越えで大内宿に入る。

Img_0235

その江戸時代そのままの佇まいを残す宿場の宿に投宿するのである。

宿は本家扇谷で、はて・・築100年は経過しているのではと思うが、戊辰戦争当時も似たような様子ではなかったか。

Img_0236

その江戸時代にタイムスリップしたかのような宿場の宿で、今夜は仲間と語らうのである。

Img_0237

このマラニックが日常と思われる程に、砂漠の日々はあまりにも非日常だったようである。

所でマラニックで会津を訪れるのは三度目だが、新緑の会津は初めてである。

Img_0238

会津の春は随分ゆっくりで、この時期にもまだ桜が残り、チュウリップやライラック、芝桜などが一気に咲いている。

Img_0239

勿論、会津の山は新緑が萌えたっていて、その黄緑と濃緑のコントラストが美しい。

砂漠の広大・荒涼とした景色とは余りにも違い過ぎるが、これが日本の日常なのである。

Img_0240

さても山中峠は行き交う人とてなく、かつて戦国から江戸期にかけて人々や物資が行き交った峠はあくまでも静かであった。

Img_0241

そう今年は戊辰戦争から150,年、鳥羽伏見の戦いから函館戦争までの16か月、各地で激しい戦闘が繰り広げられた。

Img_0242

その最も激しい戦闘があったのがこの会津で、今日でも戊辰戦争の傷跡はあちこちに残っている。

Img_0243

その官軍がたどったのも下野街道で、会津に至る峠は官軍を防ぐ陣地でもあった。

Img_0246

明日は大内宿からその最大の激戦地、氷玉峠を経て会津の鶴ヶ城に向かう。

Img_0245

Img_0250

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月11日 (金)

Julia

第三ステージは42kを走るのだが、この日は幾分風が穏やかな朝を迎えた。

空は霧もなく、朝から快晴(と言ってもこの時期毎日快晴なのだが)である。

Img_0050

この日も私達4人(日本人3人とイングランドのJulia)は、歩調をを合わせて進んでいた。

Img_0052

一人が遅れれば待ちってな具合で、コースロストしないようお互いに気を配っていた。

13k程で海岸に出て、そこの給水ポイントからはずっと海沿いを20k北上するのである。

Img_0053

実はこの20kには難儀して、波打ち際の硬いところを選んで走るのだが、足が沈んで一向に距離は伸びない。

Img_0054

慰めはオットセイの群れや水鳥なのだが、それとてもゆっくり眺めている暇はなかった。

この海岸砂漠はスケルトン・コーストと呼ばれ、アンゴラ国境まで延々と海と砂漠の背中合わせが続くのである。

Img_0055

世界で最も不毛の地の一つに数えられ、骸骨海岸と名付けられた様に、かつて沖合で座礁する船も多かったらしく、幾つもの船の残骸が残されていた。

Img_0056

船員が運よく岸に辿り着いても、この砂漠から生きて帰ることはまず不可能だったという。

ところでこの七日間私達とずっと行動を共にしたJuliaだが、彼女はケンブリッジ大学法科卒業の弁護士である。

Img_0057

実直な性格で、こんな激しいレースに何故挑戦するのかと問うと、毎年何かにチャレンジすることを自分に課していて、今年はこれなのよと言う。

Img_0058

更に、「ちょっと、頭がおかしいのかも知れないわよ」と笑った。

少しも派手さのない彼女の内面には、相当に強靭な精神が宿っているのである。

Img_0059

そのJuliaが、一隻の沈船の前で立ち止まり、腰に巻き付けていた旗を取り出した。

Img_0060

旗には彼女のひいお爺さんの写真がプリントされていて、そこは彼女の先祖の遭難の地だったのである。

どうやら今回のチャレンジの目的はこの沈船だったようで、彼女の顔には安堵の色が浮かんでいた。

Img_0061

そんな彼女の心境を慮ることもなく、日は西に傾き、私達は先を急いでいた。

Img_0062

その先の10kは内陸に向かってどこまでも行く、360度の地平線が続くのである。

その地平線を追って一直線に進むのだが、進めば進んだだけ地平線は向こうに逃げていく。

Img_0063

とこまで行っても同じ景色が続いて、正に時間との根気競べであった。

Img_0064

そう・・・それは私達が時間を追いかけているのと同じで、何処かに終わりがあるとしても、(時の旅人としての)私達の毎日はこの地平線と同じだと思っていた。

Img_0065

Juliaが100年前の先祖の終焉の地を訪ねたように、私達の過去も未来も時の旅人なのである。

ともあれ、長かった一日だったが、17:50陽が西に傾く中を今日のテントサイトに入ったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月10日 (木)

第二ステージを終えて

こちらの朝の6時はまだ夜だが、テントの外では焚火がたかれ、その周りに集まって、賑やかに笑いあっている。

みんな少しだけ砂漠に慣れたようで、昨日の朝よりもかなり元気な様子だ。

Img_0039

昨日剥がれた靴(ゲータ)の修理に余念のないHさんを尻目に、荷物のバックパックへの収納を済ませ外に出ると、一人が立ち上がって「プリーズ」と席(焚火)を譲ってくれた。

どうやら私はこの大会のオールディスとと言うことで、相当な年寄りに見られているらしい。

Img_0040

とは言え、体の大きな外国人に囲まれて、会話のスビートも早いから、私は成すすべもなく暖を取るのみだった。

Img_0041

第2ステージは40kで、昨日より3k少ないだけでかなり気分も軽くなっている。

それにこの日は路面も比較的硬く、疲労は昨日よりも軽かった。

Img_0042

それでもスタートして直ぐにダイナミックな砂丘が広がり、地平線の向こうには湖の様なものが見える。

もちろん蜃気楼で、水に飢えた砂漠の旅人が蜃気楼を追いかける気持ちが良く分かる。

Img_0043

砂漠と一概に言っても、水の干上がった塩の原やゴツゴツとした石の平原もあって、決して柔らかな砂地ばかりではない。

Img_0044

石や岩場が続くこともあって、その金属質な石は剥離して鋭くとがっているから、倒れたら相当なダメージになる。

この日は順調に進んで、16:30にはテントサイトに到着することができた。

Img_0045

私達に続いてロッポンギロケッツの3人も到着して、テントサイトでの夕食を兼ねての歓談となった。

私の2人の連れは、早くも足に豆を幾つも作って、それどころではなかったのだが・・・・

Img_0046

彼らは三十代の後半の気持ちの良い男達で、今回唯一のグループ参加者であった。

3人が一定の距離を保たなくてはならず、ペースを合わせるのが大変なのだが、完走すれば世界一ということになる。

Img_0047

ともあれリーダー格の孫さんと、砂丘に沈む夕日を見ながら、少しばかり人生を語り合ったのである。

彼は、若には若いのにしっかりとした信念があって、「自分にしか出来ない生き方をしてみたい」と言う。

Img_0048

大阪生まれの在日朝鮮人の彼は、ハングルは勿論英語に関西弁もこなすバイリンガルで、自分の境遇を十分生かして、人の言葉には左右されない生き方をしたいと強調した。

確かに人の言葉に左右されがちなのが日本人の欠点なのだが、何をやり何をやらなかったかがその人の人生なのだから、彼の生き方は実に素晴らしい。

Img_0049

そんな人生観が顔にも表れていて、伸び始めた髭面が殊更逞しく感じられた。

その若さが、まぶしく感じられる若者たちであった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年5月 9日 (水)

いよいよの砂漠ラン

4月29日、いよいよステージ1の当日を迎えた。

昨夜来の風の音でうつらうつらしていたのだが、午前3時頃から外では動きが始まっていて、

Img_0021

お湯を沸かしたりする現地の人たちの声で目覚めた。暖をとるための焚火も始まっていた。

Img_0022

6時、こちらでは未だ夜が続いているのだが、寝袋から這い出て、懐中電灯の下で走る支度を始めた。

と言っても基本的に着替えは無いから装束は同じで、日焼け止めを塗ったり、朝食の支度やマットを畳んだりの作業である。

Img_0023

7時、夜が薄すらと白み始める頃、お湯でラーメンを作り、インスタントみそ汁とプロテインバーを朝食にした。

Img_0024

勿論テントサイトのテーブルでヘッドライトを照らして食べるのだが、風があって肌寒く、それに濃い霧が立ち込めていた。

海から内陸に向かう風が濃霧を生むのだそうで、砂漠の生き物にとっては貴重な水分でもある。

Img_0025

ともあれ、強い風が吹き始める中、今日の43kレースが始まったのである。

Img_0026

一体どんな路面なのかと不安だったが、存外に走り易い地面で、足を取られる砂場は1/3だったろうか。

とは言え背負った荷物は12k近くで、たちまちにして胴回りを痛め始めていた。

Img_0027

それでも私達(Hさん、丸さんと私、そしてJulia)は、1k/10分のペースを保って進んでいた。

1時間ほどでドクロの一般人侵入禁止の国立公園入口が現れ、本格的な砂漠に入ったのである。

Img_0028

およそどこまでも荒涼・荒漠として、砂の大地は地平線の果てに連なっている。

Img_0029

その砂の色合いは褐色や青に変わったりし、時には干上がった塩湖の中を通ったりする。

今日はこの砂漠の環境に体を慣らすのだと言い聞かせ、慎重にその砂漠を味わっていた。

Img_0030

11時頃には霧は消え、地平の果てまでの青空が続き、気温はどんどん上がって、体から水分が奪われていく。

Img_0031

ほぼ10kおきに給水テントが設けられているのだが、その10kが随分と遠く感じられた。

Img_0032

その間のルートは、10cm程のピンクの旗が約30mおきに地面に刺してあって、私達はその旗を辿って進むのである。

昼は行動食(カロリーメイトに羊かん)を給水テントで食べ、ひたすら先を急いだ。

Img_0033

17時、約!km先に今夜のテントサイトが現れ、スタッフの歓呼の声さえも聞こえてきた。

Img_0034

テントは昨日同様に大きく揺れていたが、一日を終えた安堵感は強かった。

フルマラソンの距離だから普段ならどうってこともないのだが、なにせ荷物が重かった。

Img_0035

韓国のDong君が真っ先に私に駆け付け、今日の一日を激励してくれた。

律儀な(儒教の国の)若者だと思ったのだが、彼は最年少の参加者で最高齢の私を特に意識していた。

Img_0036

テントサイトでは、既に国籍を超えた歓談と夕食が始まっていて、寒さにもかかわらず火を囲んでの会話が7時ころまで続いた。

Img_0037

ともあれ、後は明日に備えて眠る他なしと、下着だけを替えて寝袋に潜り込んだのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 8日 (火)

砂漠は砂まみれ

大会が準備しているスワコップムントHは、ドイツ統治時代からの瀟洒なホテルであった。

朝食を済ませるとすぐブリーフィングが始まって、私は今大会最高齢のコンペテッツターとして紹介され、満場の拍手で迎えられた。

Img_9957

これを機に大会中を通じて注目され続ける存在になった訳だが、自分の年齢を強く意識されられることにもなった。(詳細は別途)

Img_9996

会合が終わると一人一人のチェックインが始まる。

Img_9997

大会のPASSPORTが渡され、背負う荷物の計量、メディカルチェック、装備品チェック、携行食料のカロリーチャックと続き、すべてクリアーして初めて大会に参加できるのだ。

Img_9998

不足していた医薬品を買い足したり、大会のパッジを追加したりとしている人もいたが、荷物が届いた私は一発でパスした。

Img_9999

プールの周りで寛いでいると昼食が渡され、バスに乗り込んで、いよいよ本番が始まろうとしていた。

Img_0001

ホテルから1日目のベースキャンプまでは、砂漠の中の一本道を大西洋に沿って北上すること3時間、おおよそ250kの所にあった。

Img_0002

海沿いのサイトだから内陸に向かって強い風が吹き、竜巻の様な砂塵が幾つも立ち登ってっていた。

Img_0004

私達の寝泊まりするテントも大きく揺れ動き、中まで砂が吹き付けていた。

Img_0007

舞い込む砂に口を開けるのも閉口する有様だったが、日が落ちるとともにその風も和らぎ、

Img_0009

テントサイトでの各々の夕食が始まった。

Img_0010

現地人がドラム缶でお湯を沸かし供給してくれるので、私は防災用のマジックライスてある。

Img_0011

非常食だが野営の場でいただくと案外美味しく、砂丘に沈む夕日を眺めながらのディナーは砂漠レースならではのものだ。

Img_0014

テントにはそれぞれ7~8人が割り当たられて、国籍も性別もまちまちだった。

それで私は日本の二人とともに、カナダのマニクエとリシェ、スイスのロバート、イタリアのマルコと7日間を共にすることになったのである。

Img_0017

とは言っても、テントの中のスペースは狭く、砂まみれになりながら寝袋にくるまって寝るのである。

出入り口近くが多かった私は、外からの風と砂、出入りする仲間の砂ぼこりと相まって、朝目が覚めると正に砂ネズミ状態だった。

Img_0018

戦場の野営陣地もかくやと思われる環境だったが、なあに・・・それも次第に慣れていった。

テントサイトには全身を赤茶色に染めたヒンバ族もやってきて、全身裸(下着もなし)なのだが彼ら独特の歌と踊りで歓待してくれた。

Img_0019

しかし、海からの風は存外寒く、みんな明日に備えて早々と寝袋に潜り込んでいた。

外はヒューヒューと風が音を立てていた。(毎日こんな状態かと少し不安になっていた)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年5月 7日 (月)

ヨハネスブルクにて

ウォルビスベイ空港を発って、ヨハネスブルクに向かう。

眼下には延々と限りなく砂の大地が続き、日本国土の2.2倍もある国土の大部分が砂漠であると知れる。

Img_0212

二時間半のフライトだが、心なしか緑が増えてくる頃には南アフリカに入っている。

緑が、私達の生活を支えていることを、改めて実感させられる。

Img_0213

私達は乗継便の都合で、今日は南アのヨハネスブルク(人口270万人)泊まりである。

南アフリカは、マンデラ大統領の登場以降白人支配から脱し、BRICSの一角として、その経済も目覚ましい発展を遂げてきた。

Img_0214

しかしここに来て、貧富の格差に由来する政情・治安が目立つようになっている。

それでヨハネスブルクは、貧しい黒人たちが作った街ということもあって、特に旅行者には要注意の街になっている。

Img_0216

而して私達は、ホテルから一歩も出ることなしに、この街の空気を感じ取ろうとしている。

ところで昨夜の完走パーティでは、70代(私一人)での勝者(日本人としてはセミプロの若岡さんに続く二位)として、2018年のナビブレースに記録されることになった。

Img_0217

完走メダルと4デザーツノシャツ、それにクリスタルの盾を手にして、今回の一年近くにわたったレースへの試みはエンドを迎えた。

ウィルビスベイを離れるにあたり、共に過ごした仲間との別れは、多分永遠の別れであろうし、惜別の感はいや増すばかりだった。

Img_0218

イングランドのJuliaを始め、オーストラリアのジャッキー、スペインのBea、イタリアのMarco、スイスのRobertoはいい奴だった。

Img_0219

それに韓国のDong君は、二年間の兵役を済ませて直ぐにこのレースに挑戦したらしく、いつもキビキビと活動的だった。

ゴールした後も、五人の仲間とともに兵隊時代の歌を歌って、私達を楽しませてくれた。

Img_0220

そして「きっと、メールします」と別れたのだが、果たして彼は何と言ってくるのだろうか?

Img_0221

ともあれ、明日の昼の便で香港に飛び、成田には明後日の到着になる。

私の今回のミッションは、帰国して書きかけのnoveを完成させれば終わりだ。

Img_0222

帰国してから、改めて今回のレースを回顧しようと思っている。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2018年5月 6日 (日)

情熱砂漠

今は只「ナビブの砂漠よ、有り難う」という気分である。

古稀の爺さんが地球の裏側の砂漠258kを、砂まみれになって走りきることが出来たのだからだ。

Img_9994

砂の地平線は、進めば進むだけ後退していって、いつ果てるとも知れない行程を、メトロノームのように手足を繰り出すことだけを続けていた。

Img_9995

沈み込む砂に足を取られ、歩みは思うに任せないのだけれど、その熱砂のただ中でも決してひるむことはなかった。

Img_0001

そう・・・・その今を、ナビブのそこを、そして自分を生きていたのだと思う。

Img_0004

世界40か国の仲間は、みんながフレンドリーで、オールディストの私にエールを送ってくれた。

Img_0009

最初のブリーフィングで最年長と紹介されて以降、私の毎日は一種のヒーローだった。

Img_0011

韓国のDong君などは、私のところに朝晩ご機嫌伺いに来るし、黒人の原地人スタッフですら私の年齢を知っていて、「グレイト」「エブリシングOK?」などと声をかけてくる。

Img_0018

砂漠は、内陸に向かうに従って熱くなる。

Img_0021

焼け付くような日差しが岩や砂を熱くし、その熱が熱風となって吹き付けるのだ。

Img_0023

その40度くらいかとおもわれる熱風でさえ、ランナーにとっては涼風にさえ感じられた。

Img_0026

この砂漠には、千年を生きるとされるキソウテンガイと呼ばれる植物が生きている。

Img_0030

大木になどなれはしないのだが、それでもこの熱砂の中で生強く生きている。

Img_0037

何のために?…それを問うなどおよそ愚の骨頂であって、それは多分私だって同じようなものだろう。

Img_0098

オーバーナイトラン84kの第4ステージ、朝の10時を過ぎて7人の砂漠の旅人がテントサイトに到着した。

Img_0100

その26時間の旅を終えようとする最終ランナーを、先に到着した私たちは歓声を上げて出迎えていた。

Img_0106

そう…ナビブの砂漠は、いつの間にか私たちをも熱くしてくれていたのである。

Img_0109

私が砂漠に行くと言い出したころ、周囲からはいくばくかの懐疑的な視線が集まった。

Img_0119

何故そんな無茶をするのかと、…しかし、そもそも人生に無茶でないことなどあっただろうか?

Img_0125_2

母親の胎内に着床する前から激烈なrat raceで生き残ってきたのが我々なのである。

Img_0130

而して、この情熱砂漠での7日間だって、私のささやかな人生経験に過ぎないのである。

Img_0132

そして今、情熱と熱砂の砂漠よ、代えがたい感動を有り難うと呟いている。

Img_0138_2

もう2時間ほどすると最後のブリーフィングが始まって、私たちはお互いのすべての努力を称えあうのである。世界の仲間とともに。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2018年5月 5日 (土)

NO12Japan Wolf

第五節 ジャパン ウルフ

 レースが半年後に迫ったその日、男は東京舞浜のレストランにいた。レースに出場する日本人ランナーの結団式でもある。メンバーは9人と聞いていたが、それでも世界中から集まってくる200人余の中では日本人の比率はかなり高い。

 過去に大会に参加した人達も含めて大方が集まった頃、日本事務局のサンディが前に立って話し始めた。彼女は未だ40歳位だが、何処で鍛えたのかバイリンガルで数カ国語を使いこなす。「皆さん、お集まりいただいて有難うございます。レースまで、残り六カ月になりました。まだお見えになっていない方もいますが、経験者も多数参加していますので大いに交流して、4月のレースを準備してください。それではサハラレースの完走を祈念して乾杯しましょう。」みんな初対面なのに、会は和やかに始まっていた。

 今回の参加者はと見渡すと三十前後の若い人達ばかりで、どうやら男が最年長であった。いやもう一人、肌のつやつやとした精悍な60歳位の男がいた。それが、コンサルタント会社を経営している福岡の高田であった。人をそらすことのないスマートな身のこなしが板についていて「向こうに行ったら、よろしくお願いします。どうやらロートルは二人のようですね。」と言うと、「私も、本当は不安一杯でね。どうか、よろしくお願いします」と返してきた。「どうして、ナビブに行くことにしたんですか?」と尋ねると、「いやなに、自分を試してみたいっていうか、人間って誰かに認めてもらいたくて生きているところがあるでしょう。それに異次元の世界に飛び込んで、自分自身が納得したいってことでしょうか。それて俺もここ一番って気持ちですよ」と語り始めた。そこに一人の女性が遅れて入ってきた。

 その女が男を見るなり「エッ」と言った。いつかのマラニックで一緒になったことのある里山澄江であった。男が奇遇に驚いていると「私ね、来年の3月で定年退職なの。それでもう清水の舞台から飛び降りるつもりで、とにかく忘れられない思い出を創ろうと思ったの。」と知り合いを見つけてホントに安心したと付け加えた。澄江は時枝と同じ歳なのである。多分時枝も同じことを考えていたはずで、思わぬ巡り合わせを感じていた。

 その時枝だが、近頃は薬の量が多くなっていて、どうやらうつ病の症状が重くなっている様子だった。

 酒が進むにつれて、話はどんどんと核心へと近づいていく。男の口も酔いに任せて大分軽くなっていた。「大分キザかもしれないけど、だけど私は常にキリンの首にあやかりたいと思っているんですよ。とかく人間は、愚痴ったり他人の悪口を言ったりして自分を慰めて生きがちなものだけど、私は駄目で元々だと思って、あの高い樹の葉っぱを食べてやろうってね、懸命に首を伸ばす方なんです。少しずつ、少しずつね。ほら、英語で人生はlifeだけど、人生を強調するときにはwalk of lifeって書くでしょう。人生は日々の生活の仕方って訳だ。何にもせずにだらだらと無為に日々を過ごせば、それなりの人生。困難を承知であれこれに挑戦して、その山を一つ一つ越えていくのも人生でしょ。私は断然後者だから、今回もこの挑戦をしようと考えたんですよ。」挨拶の続きのつもりでそんなことをしゃべっいた。

 すると高田が少し重々しく口を開いた。「私はね、実は人生なんて何にも考えちゃいないんですよ。60歳の節目を迎えて、何かやらなきゃいけない。それで何ができるか試してみようってのが、今回の挑戦なんです。ナルシストなんですよ、私は。人は誰でも、究極のところで自分が可愛いのだと思う。だから気の弱い人は、自分の殻に閉じこもっちまう。でも、私は逆でしてね。敢えて飛び出して言って、血路を開くって生き方ですね。私はクリスチャンじゃないけど、ほら聖書に<隣人を愛せよってあるでしょう。あんなの嘘だし、欺瞞だと思う。自分をとことん曝け出せないヤツが、他人を愛しむことなんて出来る訳がない。だから理屈はともかく、私は今ナミブの250kを走り通すことだけを考えています。お互いに同じでしょうが、砂漠の250k

がどんな世界なのか究極の場面に立ってみて、それでお互いにゴールを迎えることが出来たなら素晴らしいじゃないですか。ゴールじゃそれこそ思いっ切り抱き合って、お互いの頑張りをたたえあう。それが俺達の隣人愛なんでしょうね。」と難しいことを言い始めていた。

Img_9910

そこに澄江が「お二人とも、随分いろいろとお考えなんですねェ。私なんか何にも考えちゃいませんよ。」「それより、私達三人だけがシニアのようだから、三人でチーム組みません。日本のシジババグループ。」すかさず高田が「いいねぇ、それで何て名前にするの?」と反応している。「二人とも最初っから、こうワンワン吠えあっているでしょ。だから、もう絶滅しちゃったけど『Japan Wolf』ってのはどお?」「澄江さんは、知恵者だね。それで決まり。三人仲良く、一緒にゴールしようよ。」

 そんな話をしていると、事務局のサンディーがランニングウエアーに装着する日本国旗と大会のパッチを配ってきた。「皆さん、気が合う様子ですね。もう、分からないことはないでしょうね。みんな聞いてってよ。」と言いながら、砂漠で履く靴や砂除けの方法などについて説明していく。

 会が終わりに近づて三人は立ち上がり、お互いに「日本オオカミをナビブの砂漠で復活させましょう」と固く握手しあっていた。これで準備は九割方整ったと、男はそう思った。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年5月 4日 (金)

NO11-決断

第四節 決断

 その夜、時枝とのこの三年余りのことをあれこれと思い出していた。ハラハラドキドキしながら、デートにこぎ着けたあの日。古女房とは全く違った魅力が時枝にはあって、時枝が欲しいと思い続けた一年余りの事。初めてのめくるめくあの日のこと。以来、男は時枝と二人で青春をやり直していたのである。それは、生きていて良かったというか、人生を面白いと実感できる日々だったのである。しかるに、その幸せの日々は既に失われてしまおうとしていた。わずか三年の付き合いなのに、男の心の中での彼女の存在は、何時しか生きる甲斐にまで膨らみつつあったようだ。人生に事故やトラブルはつきものだが、普通は自分の身にそれが降りかかるなんてことは考えないものだ。だが時枝の身に思いもかけず起こった事故は、意外な形で男の残りの人生を深く考えさせる契機になっていた。この先何年生きるのか分からないが、元気なうちにとにかく行動しなければならないと強く考え始めていた。

 翌日、男は朝からパソコンの前に座り込んでいた。あの下野街道で出会った岩原が挑戦したグレイトレースに関する情報を集めたかった。すると主催者の4TM desertsのホームページには、70歳までがエントリーできる年齢と記されていた。「やるなら今回が最後、ラストチャンスだ。」男はそう呟きながら、時枝が砂漠を走りたかったのなら、俺が走ってやろうと考えたのである。それが古稀になろうとする自分に出来ることなのかどうか? だがそれもやがて、岩原に出来たことが自分にできない筈はなかろうと思い始めていた。

 ネットを開いていくと、世界の三大砂漠と南極、その過酷な環境を走り抜くグレイトレースが紹介されていた。そこには自然と人間との壮絶な葛藤が、大自然の中に身を晒して走るランナー達の姿があった。男は僅かに身震いし、ドキドキと鼓動の高まるのを覚えていた。そして次の瞬間には、躊躇も何もなくエントリーの手続きを始めていた。男は、古稀が如何なるものか、それを試さなれければならないと確信を込めて思ったのである。

 翌日からの男の行動は、これまでとは打って変わって鋭敏になった。早朝の一時間は、英会話に没頭する。英会話などことごとく忘れ果てていたが、何とか急ごしらえで大会に間に合わせようと考えていた。砂漠レースは、世界中の人間との出会いの場でもあって、それならば会話くらいはある程度出来なければなるまいと思ったのである。英会話の後は、山の杣道を3時間余り走ることを日課にした。更に加えて、荷物を背負っての訓練を負荷した。砂漠レースでは、必要なものはすべて自分で背負って走らねばならないのである。男の体は、まだ十分にその訓練に堪えうる力を残していた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 3日 (木)

NO10-神楽坂

だがレストランの予約時間が近づき、何ともうつろな気分のままに一人で歩き始めていた。エトランゼを見つけて、店内を見渡しても時枝の姿はなく、時枝からレストランへの連絡もなかったようだ。テーブルに座ってみたものの水を飲むばかりで、もう料理の味などどうでも良かった。「何かがあったのだ。」「何かが…」それは、いったい何なのか。

それ以来時枝と連絡が途絶えたまま、二週間が過ぎた。時枝の消息は、思わぬところで男の知るところとなった。毎月一度仲間が集まって「人生を学ぶ勉強会」を開催していて、その主催者の久保田が「東京の時枝さんが、交通事故で重体らしい」ともらしたのだ。「何でもランニングの途中で、横断歩道で右折してきた車にはねられたらしい。大腿骨と骨盤損傷で、もう彼女は走れないだろう。人間、お互いに何があるか、分からないよね。だから人生は「今」「ここ」「自分」、それを大切に生きるってことを目指さなきゃ。」と話していた。だが男にとって、人生談義などは既に上の空だった。どうやら事故は、男との約束の前日の事らしかった。一時は命も危ぶまれたらしい。「それで、連絡が出来なかったのか。」男の心中には、何故か半ば安堵する気持が入り混じっていた。それに、それ以上詳しいことを知る由もなく、見舞うことすら出来ない自分が何とももどかしかった。

 それから一か月が瞬く間に過ぎ去った。その日、もしもと思いつつ毎日の様に掛けていた時枝のスマホに呼出音の反応があった。咳き込むように「時枝さん・・・」と叫ぶと、幾分張りはないが確かに時枝の声である。「私、はねられちゃって、連絡も出来なくって御免なさい。」「骨盤にボルトを入れて人工骨でつないだの。それで先週から少し歩けるようになって、今さっき、病院の近くのショップでスマホを買ったばかりなの。私を跳ねたおばさんが良い人でね、毎日やってきて「すみません。すみません。」って、謝って帰っていくの。少しずつ歩けるようになっているし、体はもう大丈夫なんだけど、もう…一生走れない。それに・・・・私、何だか変なの。うつ病の薬を飲まされているけど、自分が自分じゃないみたいで…・。」と一人でしゃべっている。どうやら今回の事故は、時枝の精神に大きなダメージを与えたようであった。「私ね、いつか砂漠を走ろうって思っていたの。それに南アフリカのコムラッズにも出ようって…・・それが、みんな駄目になっちゃった。何だか、風船が弾けてしまったみたいで、私の気持ちがどこかに行っちゃった。」

 男はやっと連絡が取れた嬉しさどころか、今度は時枝の精神を気遣わねばならなくなっていた。無事な顔を見たいのだが、時枝はひたすら今は人に会いたくないと言うのだった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 2日 (水)

NO9-神楽坂

この岩原という男の活力は、何処から湧いてくるのだろうか? 財力もさることながら、次から次へと自分を限界へと駆り立てていく。並みの人間というものは、知らず知らずの間に自分自身を型にはめてしまうものだ。やりたいことをして、やりたくないことはしない。そうやって、自分の殻に籠っちゃう。現に俺だってそうだ。マラソンを楽しんできた延長線上にウルトラマラソンがあって、単にそれを走ることがさも特別であるかのように思っていた。それが古稀の声を聞いて、俺はもうこんな歳になったのかって気付いて、いささか狼狽えている。

その夜、男は浅い眠りの中で夢を見た。大きなリュックを背負って砂山を登っていく夢である。何故かそのリュックには、雨傘が一本挿してあった。 

第三節 神楽坂

下野街道から帰って数日後、男は神楽坂の赤城八幡神社にいた。時枝が、今度は東京で会おうと指定してきた場所である。メトロ神楽坂駅で降りて少し歩くと、そこにはガラス張りの社殿があって、社務所の隣が神社の経営する喫茶店という如何にも東京の神社なのである。約束は神社で10時に落ち合って、神楽坂の通りをぶらぶらと歩き、昔の花街の通りのエトランゼという洒落たレストランでフレンチを食べようと言うものだった。男は、神楽坂の幾ばくかレトロな街に見入りながら、時枝の笑顔を待っていた。

 しかし約束の10時を過ぎても、何故か時枝は現れなかった。律儀な女でこれまで約束を違えたことなど一度もなかったのに、一向に姿を現さない。約束を勘違いしたのかと時枝にメールをしても返ってきてしまう。電話は「使われておりません」と繰り返すばかりであった。「会えて良かったぁ~」と何処かから元気な声が聞こえるような気がするのだが、何時まで待っても姿が見えなかった。とにかく、何か時枝に異変があったのである。その何かの予感に、男は次第に怯え始めていた。考えられるのは、時枝の変節だが・・、それはあるまい。とすれば、二人の関係が露見して・・。などと男は、いささかうろたえていた。だが考えてみれば、男は彼女の住所すら知らなかったのである。目黒だと聞いてはいたが、二人の紐帯は僅かにスマホだけだったことに彼自身唖然とする思いだった。

Img_9300

やむなく男は神社の喫茶店に入り、次々と訪れる参拝客を眺めていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月 1日 (火)

NO8-バンパイヤー

「そうですか。それは驚きました。それで、失礼ですが岩原さんはお幾つになられます?」「まだ73になるところですよ。俺の人生は、ずうっと走ってきた人生でね。昔・・・、本当にもう随分昔になっちゃったけど、学生時代に学連のワンゲルの頭をやっていたことがあるんだ。それで、何人も人を殺しちゃってね。いやなに、俺が直接殺したって訳じゃない。だけど当時のワンゲルには、そう言うところがあってね。かなりきつい訓練をやって、それが当たり前っていう雰囲気があった。俺は、その先頭に立って走っていたって訳さ。それで、バンパイヤーだなんて呼ばれてね。仲間からはお前が一番先に死ぬって言われていたんだ。だけど、人生それから色々とあって、主だったやつで今生き残っているのは、何故か俺だけさ。俺が世界中駆け回っているのも、みんなの分を背負っているって気分が幾らかはあるね。それはともかく、世界はとんでもなく広いぜ。」と、そこまで言って岩原はにやりと笑った。

 男は、少し自惚れていた自分を恥じていた。少しばかりウルトラマラソンを走るからって、俺の体は頑健だなんて思っていやしなかったか。100kを走るのは、それは大変だが、練習を積み重ねれば誰だってできることだろう。要は、やるかやらないかの違いってことだ。

この岩原は自分の仕事を十分すぎる程やり終えて、尚かつ過酷なレースに挑戦し続けている。十日後に出発するパタゴニアには、ジャングルの山や谷を越え、野営を続ける7日間のレースが待っている。それに背負っていく10kの荷物は、想像するだけで重過ぎるではないか。果たして自分に、その真似が出来るだろうか? 確かにこいつは、バンパイヤ―だ。ニコニコ笑ってやがるけど、とんでもない野郎だ。などとアルコールの酔いに任せて、岩原の顔を睨みつけるように眺めている。

そんな男の心を見すかすかのように、岩原がまた口を開いた。「この73になるまで色々とやってきたけど、何をやって、何をやらなかったかって、その全部が自分の人生だよね。だったら、出来ることをどんどんやるしかない。そりぁ俺も30の中頃までは、行け行けドンドンだったね。だけど考えてみると、その辺がピークでね。事業にしても遊びにしても、少しずつ下り坂に入っていた。ほら、平仮名のへの字なんだなぁ人生は。ピークまでは急勾配を登るけど、その後は長い下り坂を降りていかなきゃならない。俺もその坂を下ってきてね、結局人生は、その長い下り坂をどう下って行くのか、その下り方こそが醍醐味だと思う様になったって訳さ。それに人間って奴は、何時も何か夢を追いかけていないと駄目だな。何かを追いかけることで、それで気持ちのメリハリが保てるんだと思う。ほら、あの学生時代に歌ったなぁ〜、昭和ブルース。なんにもせずに死んでゆく、それが俺には辛い~のさってね。何もしないんじゃ、この世に産んでくれた母さんに申し訳ない。俺も、そんな気持ちでずっと走ってきたのさ。おぉ〜、何だかしんみりしちゃったなぁ。」岩原は、そこまで一気にしゃべって、向きを変えて宴席に溶け込んでいった。春本明枝は、もうとっくに幹事役の久保田と談笑していた。

 マラニックの後の懇親会はいつも愉快で、共に同じ汗をかいた仲間だから屈託はないし、あれこれ語り合うだけで疲れが身体から抜けていく。この夜も囲炉裏を囲んで二次会まで続いたのだが、男の頭は何故か酔うことができなかった。再び風呂を浴びて布団に入ったが、岩原の言った「何もせずに死んでゆく」という言葉が繰り返し浮かんでくるのだった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年4月 | トップページ