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2018年5月 3日 (木)

NO10-神楽坂

だがレストランの予約時間が近づき、何ともうつろな気分のままに一人で歩き始めていた。エトランゼを見つけて、店内を見渡しても時枝の姿はなく、時枝からレストランへの連絡もなかったようだ。テーブルに座ってみたものの水を飲むばかりで、もう料理の味などどうでも良かった。「何かがあったのだ。」「何かが…」それは、いったい何なのか。

それ以来時枝と連絡が途絶えたまま、二週間が過ぎた。時枝の消息は、思わぬところで男の知るところとなった。毎月一度仲間が集まって「人生を学ぶ勉強会」を開催していて、その主催者の久保田が「東京の時枝さんが、交通事故で重体らしい」ともらしたのだ。「何でもランニングの途中で、横断歩道で右折してきた車にはねられたらしい。大腿骨と骨盤損傷で、もう彼女は走れないだろう。人間、お互いに何があるか、分からないよね。だから人生は「今」「ここ」「自分」、それを大切に生きるってことを目指さなきゃ。」と話していた。だが男にとって、人生談義などは既に上の空だった。どうやら事故は、男との約束の前日の事らしかった。一時は命も危ぶまれたらしい。「それで、連絡が出来なかったのか。」男の心中には、何故か半ば安堵する気持が入り混じっていた。それに、それ以上詳しいことを知る由もなく、見舞うことすら出来ない自分が何とももどかしかった。

 それから一か月が瞬く間に過ぎ去った。その日、もしもと思いつつ毎日の様に掛けていた時枝のスマホに呼出音の反応があった。咳き込むように「時枝さん・・・」と叫ぶと、幾分張りはないが確かに時枝の声である。「私、はねられちゃって、連絡も出来なくって御免なさい。」「骨盤にボルトを入れて人工骨でつないだの。それで先週から少し歩けるようになって、今さっき、病院の近くのショップでスマホを買ったばかりなの。私を跳ねたおばさんが良い人でね、毎日やってきて「すみません。すみません。」って、謝って帰っていくの。少しずつ歩けるようになっているし、体はもう大丈夫なんだけど、もう…一生走れない。それに・・・・私、何だか変なの。うつ病の薬を飲まされているけど、自分が自分じゃないみたいで…・。」と一人でしゃべっている。どうやら今回の事故は、時枝の精神に大きなダメージを与えたようであった。「私ね、いつか砂漠を走ろうって思っていたの。それに南アフリカのコムラッズにも出ようって…・・それが、みんな駄目になっちゃった。何だか、風船が弾けてしまったみたいで、私の気持ちがどこかに行っちゃった。」

 男はやっと連絡が取れた嬉しさどころか、今度は時枝の精神を気遣わねばならなくなっていた。無事な顔を見たいのだが、時枝はひたすら今は人に会いたくないと言うのだった。

 

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