« 老いらくの恋 | トップページ | 多少是非無人知 »

2018年6月29日 (金)

離見の見

毎朝街頭に立って、「お早うございます。」を何十回も繰り返している訳だが、会釈すらなく通り過ぎていく子供もいる。

友達と話に夢中だったと言うのではなく、挨拶そのものが出来ない子供なのである。

Img_0616

勿論学校ではキチッと教えているが、家庭環境や精神の発達如何で挨拶が出来ないのだ。

挨拶出来る子供は、その習慣性が出来ているか、自立精神が発達している子だと思っている。

Img_0615

要するに、その子は自分の姿が見えていないってこと。

私は小さい頃から挨拶は良くできた方だと思うが、あの頃は何時も訳の分からない不安や焦りを何時も感じていた。

良く分析できないが「自分は大人になって、ちゃんと生きていけるだろうか?」という、将来に対する不安だ。

Img_0614

将来に対する無限の可能性を秘めている分、その不安だって大きかったのだろう。

それが歳を重ねるに従って、生きることがどんどん楽になってきた。

Img_0613

他人と比較する事も無くなったし、むしろ冷静に自分自身を見つめることが多くなっている。

世間の諸々のことは大抵洞察できるし、人の行動や思考だっておおよそは予測できる範囲内だ。

Img_0612

それに隠居の身だから、何もキョロキョロしながら生きる必要がなくなったのである。

かつては、やらなきゃならない事に支配されていたが、今は全てが自分の裁量下にある。

Img_0611

定年後は人生の最終章とも言える訳だが、これをどう描くのかに専心すれば良いのだ。

己の心に従って矩を越えずと言えば難しくなるが、要は思いっきり羽ばたいて良いのだ。

それに長いこと付き合ってきたこの自分と言う奴が、実に良く見えるようになっている。

Img_0610

「離見の見」は室町時代の世阿弥の言葉だが、自分の姿を客観視できるようになれば芸は高まるとしている。

私達だって、自分の生き様がちょっと離れたところから見えるようになれば、もう人生の練達と言えるだろう。

Img_0609

最終章は、そう・・・少し俯瞰するような感じで描けば良いと思っている。

今挨拶のできない子供だって、心の自立と共にちゃ~んと出来る様になるさ。

|

« 老いらくの恋 | トップページ | 多少是非無人知 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/172740/66882549

この記事へのトラックバック一覧です: 離見の見:

« 老いらくの恋 | トップページ | 多少是非無人知 »