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2018年9月18日 (火)

回天の地を走る

実は今回のマラニックは、いささか抜かったと幾分後悔している。
事前に何の下調べ(日程表やコースすら確認)もせずに、現地入りしたからだ。

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そして関門海峡を目の前にして初めて、ここが濃厚な回天の地であったことを思い出した。

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時は1185年3月、この海峡には両軍合わせて4,000艘もの軍船が浮かび、熾烈な闘いが繰り広げられたのだ。
やがて潮の流れが義経側に味方し、平家側は安徳天皇と共に滅亡する。

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つまり古代から中世へ、貴族の時代から武家の時代へと、ここで時代が動いたのである。

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そして、その武家の時代を終わらせたのもこの海峡で、それが馬関戦争であり、騎兵隊の蜂起だ。
馬関戦争はこの国最初の攘夷戦争で、正に壇ノ浦の古戦場に造られた砲台から英仏蘭などの船を砲撃することから始まった。

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一旦は退いた異国の軍艦がやがて大挙して押し寄せ、長州の砲台は全てフランス軍に占領されてしまう。

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連合国側の賠償請求を幕府に払わせる画策など、それがやがて第一次長州征伐となるのだ。
長州藩は幕府に屈し、三家老の切腹など、幕府に恭順する俗論派が権力を握っていた。

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その俗論派に対して、騎兵隊を組織して敢然と立ち上がったのが高杉晋作で、藩内戦争が始まるのだ。

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と言っても高杉の組織した騎兵隊は80人そこそこの素人部隊、だがその人数を引っつれて五卿の前に参じ「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す。」と宣言したのだ。
直ちに高杉らは近くの萩藩会所を襲撃して、やがて藩内俗論派を追い落とすのに成功する。
 
そのImg_0522旗揚げの地、功山寺は、私達の訪れた上杉邸の直ぐそばにあった。
そして第二次長州戦争の最中、上杉は若干27歳でこの世を去るのだが、その終焉の地もこの近くだ。
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨の如し」正にその短い生涯が歴史を動かしたのだ。

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そして、明治維新を陰でさえ続けたあの白石正一邸も下関駅近くの海峡沿いにある。
海峡の物流を支える荷受け問屋として財を成し、その財の全てを勤王の志士たちのサポートに投じた男だ。

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その多くが志し半ばで倒れたにしても、明治維新の成就はこの人があったればこそと言っても過言ではない。
事実藩の存亡の最中、1863年6月騎兵隊はその白石邸で結成されたのである。

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白石正一の晩年は、一切の俗事から離れ、赤間神社の宮司として生涯を終えたようだ。
彼が維新を担った志士達を支えたのは、須くその幕末の勤王思想ではなかったか。

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高杉にしろ、白石正一の生涯にしても、その一生を差配したのはその「思い」ではなかったか。
今回のマラニックは、純粋に下関の歴史を訪ねる旅だけであっても、それはそれ面白かったのではないか。
功山寺、そして白石邸、高杉終焉の地も訪れてみたい所であった。

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コメント

歴史好きな山草人さんにとっては堪らない場所の一つみたいですね。
一緒に走っていればいろいろと蘊蓄を聞かせて頂いただろうなと、少々今回のマラニック
に参加出来なかったことを悔やんでいます。

また機会があれば山草人さんの頭のなかを覗かして下さい。

投稿: かわい | 2018年9月19日 (水) 08時53分

 実は、下関を訪れたのは今回が初めてで、幾つか「そうだったんかァ~」って事があって、やっぱりその土地が人を育てるんだよね。
 私のように田舎に育てば、世間知らずのボンボンになるし、俺だってここで育てばなにがしかの・・・って思ったりして。
 下関と門司は対面しているんだけど、随分と気風が違っていて、やはり歴史の重みなんだよなぁと納得しました。それもこれも、行ってみて走ってみなければ、分からなかったことなんだよね。マラニックは素晴らしい。
              山草人

投稿: 山草人 | 2018年9月19日 (水) 16時47分

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