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2019年1月16日 (水)

時代の心

長野県に「無言館」と呼ばれる美術館があって、かつて訪れて衝撃を受けたことがある。
展示されているのは全国から集めた戦没画学生の絵で、学徒動員を前に描かれたものだ。

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中でも印象深いのは、愛しい恋人を描いたもの(時に裸婦だったりする)で、自分の将来と愛人への狂おしい気持ちが伝わってくる。
芸術というものは「心」だと言うが、これ程心揺さぶられる絵を見たことが無いと思った。

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時代の要請とは言え、その二十そこそこの命を国に捧げんとする若者達の心や如何。
鹿児島の知覧を訪れたからには、この国の犯したおよそバカバカしい悲劇(特攻)について触れなければなるまい。

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これはそう・・・たかだか73年前(私の生まれる直前)の出来事なのである。
悪化を続ける戦況の中で、沖縄上陸を阻止せんとして立案されたのが、その特攻攻撃だ。

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制海権・制空権を奪われて為す術も無く、最後の破れかぶれ作戦に打って出たのである。
操縦訓練北だった知覧飛行場は俄に特攻基地に変じ、各地から若い隊員が集められた。

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空襲や艦砲射撃から逃れるため、半地下の兵舎に暮らし、若き彼らは故里の母を思いながら「我、突撃す」と散っていった。
その数1,036名、その大半は海の藻屑と消え、敵艦にはかすり傷さえ与えなかったのである。

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何と馬鹿なと思うのは簡単だが、時代の心とは時にとんでもない狂気を産み出すのだ。Img_1872_2
今回も知覧特攻平和会館を訪れ、改めて戦争の空しさ、馬鹿馬鹿しさを思ったのだが・・・。

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実は私自身は、こんな重苦しい記念館を訪れたくは無かったのである。

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もう四度目になるだろうか、私だって国に準ずる青年の熱い気持ちは痛いほど分かる。
だがそれ以上に、青年達をその境地に追い詰めた時の軍指導部を憎みたい。

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およそ千人余の若き命を、あたら無駄に散らせた責任は、一帯誰が償ったのか?
「いさぎよく 風に散りにし 花のこと 御国のためと ただ進むらん」・・・人の一生って、或いはそうかも知れないと思った。

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2019年1月15日 (火)

鹿児島雑感

開聞岳から北を見下ろすと、そこには大きな池田湖が広がり、その少し東側に真ん丸な鰻池が見える。
九州最大の池田湖と同様にマグマの水蒸気爆発で出来た火口で、直径1.3kほどある。

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実はこの鰻池周辺は、晩年の西郷どん縁の地であって、明治7年下野した西郷が過ごしたところだ。
昼間は開聞岳周辺で狩りをし、鰻池の福村市座衛門宅で好物のウナギを食すのが常だったとか。

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佐賀の乱に破れた江藤新平が、敗走の途上助けを求めて立ち寄ったのもこの地だ。

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西郷は江藤の言い分を聞き入れず、江藤はやむなく四国に逃亡するのだが、西郷はその江藤を指宿湊まで見送っている。
いずれにしろその三年後、西郷は私学校生徒らを中心にして西南戦争を起こし敗北する。

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やがて追い詰められた西郷は、鹿児島城下の城山で自害したことになっているのだが・・・。

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大河ドラマの西郷どんでは、彼は最後まで戦う設定になっていた。
司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」では、西郷は桐野利明らに担ぎ上げられて、やむなく挙兵した事になっている。

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しかし男に「やむなく」何てことがあるはずも無く、西郷は立つべくして立ったのだと思う。

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だが戦後、政府側の大久保利通にしてみれば、維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充)とされた大功労者を犯罪人にする訳にはいかなかったのだと思う。
ともあれ指宿のこの一帯は、西郷隆盛の最後の決断の地であることは確かだ。

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西南戦争が終わるまで、薩摩は治外法権の独立国の様相を呈していた。

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それを懐柔するために、島津久光を政府顧問にしたりしていたが、実態は西郷の国だったのではないか。
現実にこの国の基礎を創ったのは大久保利通に違いないし、セゴドンの人気はともかく、歴史は大久保をもっと評価すべきだと思う。

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さても、西郷が晩年の多くを過ごしたその地を走った訳だが、辺りはスナックエンドウや空豆、そして菜の花の畑が果てしなく続く。

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鹿児島は日本一の早出し野菜の産地なのであって、焼酎とお茶の名産地だ。
かてて加えて、サツマイモはこの薩摩から全国に広まって、戦前戦後の食糧難を救った。

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日本列島南端の鹿児島が、今日の近世日本を作り上げたことを思うと、やはり薩摩は神秘の地だ。
因みに、大会で頂いた焼き芋をカットしたら、忽然と「大」の字が現れた。
これって、多分大吉の吉兆なんだと、食べられずにいる。

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2019年1月14日 (月)

開聞岳へ

桜島と向きあって錦江湾に突き出すように聳える独立峰、それが開聞岳(924m)である。
富士山と良く似た形(薩摩富士)故に、昭和20年4月以降の特攻隊兵士達は、特攻に飛び立つ時、この開聞岳を最後の見納めにしたと言う。

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その開聞岳に何時か登ろうと思っていて機会が無かったが、今日はやっと登ることが出来た。

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宿を未だ暗い6時に出発し、麓近くのJR最南端駅(西大山)に立ち寄って、日の出と共に開聞岳を見上げた。

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今からあそこに来に登ると思うと、殊更に山への思いは深くもなる。

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その菜の花越しの開聞岳は、実に雄々しく錦江湾の上に聳えていた。

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私達は車で二合目まで行き、8;00登り始めたのだが、登山道は山をネジのように巻きながら続く。

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長い年月の間に深く切れ込んだ登山道は、火山岩が露出し、登り口から山頂までずっと急峻だ。

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時にハシゴを登り、つるつる滑る岩を越え、次第に指宿の街や池田湖を眼下に、桜島は勿論、佐多岬が眺望できるようになる。

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11時近くなってやっと頂上に達すると、そこからは噴煙を上げる硫黄島を始め360度の眺望である。

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あの大山駅から見上げた開聞岳は、さしたる事も無かろうと見上げたのだが、イザ登ってみるとそれはそれは大変な山なのである。

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そう・・・人も山も内懐に入ってみないと分からないって事だ。
外面の良い人が必ずしも善人では無いように、山も登ってみて初めて分かるのである。

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桜島と同じ火山の作り出した開聞岳、その錦江湾一帯を見渡しながら、やはり西郷どんを思った。
この薩摩の地は、維新の英傑を輩出した特別の地だし、それにはそれなりの舞台装置を備えているのである。

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もうこの鹿児島を何と訪れたことだろうか、と思いながら・・・ひょっとしたら最後かも・・・と思ったら、この開聞岳が一際愛おしく思えてきた。
この晴天の好日、この山に登れたことを本当に嬉しく感じた。

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2019年1月13日 (日)

きばれ~、チェィソー

流石に西郷ドンの地元のマラソンで、応援の掛け声からして違っている。

指宿菜の花マラソンに集まったのは、13,615人と発表され、確かに大変な人の波である。

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指宿に泊まったのに3.5kほど先のスタート地点ので行くのに大苦労、まだ暗い6時には会場に着いた。

9時のスタートに備え、会場は超満員であった。

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最高気温の予報は17度とかなり高く、私は短パンに半そでシャツでスタートラインに並んだ。

菜の原マラソンの名の通り、このマラソンの沿道にはずっと菜の花が続くし、それに人口の少ない所だと思うのに、村の衆が総出かと思う程の応援である。

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それに、沿道には施設エイドが切れ目なく続き、池田湖や開聞岳に錦江湾と景勝地が続く。

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結構快調に走りながら、伊豆に伝わる節分の民話を思い出していた。

昔々、来る日も来る日も日照りが続き、村の衆は雨ごいに明け暮れていたという。

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ある日、村長の所に天城に住む鬼がやってきて、「俺の望みを叶えてくれれば、雨を降らせてやる」と言う。

村長は、半信半疑ながらすがる様な思いで、鬼の要求に応じることにした。

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すると、天にわかに掻き曇り、大雨が降ったのである。

村人は大喜びで踊り狂っていたが、村長はひとり沈鬱な表情だった。

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それは、鬼の要求が「娘を鬼の嫁にやる」と言うことだったのである。

やがて鬼が訪れて娘を連れていく日、娘の母親は一袋の種を密かに持たせるのである。

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鬼に連れられて山に向かう道すがら、娘はその種を少しずつこぼしながら歩いていく。Img_1809

やがて三月になって、山裾の村の方を見下ろすと、そこには金色の菜の花が一筋、村の家まで続いているのだった。Img_1814

そして娘は、鬼から逃れその菜の花を辿って、村長の所に帰り着くことが出来たのだとさ。

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娘のいなくなったことに気付いた鬼は、娘の家にやってきて、娘を返せと言う。

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すると母親は、「米豆が芽を出したら、娘を返します。」とよく炒った豆を渡したのである。

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当然ながら、豆はついに芽を出すことがなく、鬼は娘をあきらめたとさ。

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だから、節分の豆はよく炒らなきゃダメなのさ。

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菜の花の話はともかく、4時間34分13秒、年代別19/317、総合順位2121/13615だった。

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4時間半は切れなかったが、まぁ~よく走ったと思っている。

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2019年1月12日 (土)

指宿にて

今日は、明日の菜の花マラソンのために指宿に泊まっている。

鹿児島には何度も来たが、今回は十数年ぶりだろうか。

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鹿児島空港に降りて真っ先に向かったのは、知覧の武家屋敷である。

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薩摩と言う所は、いささか周回遅れなところがあって、133か所の外城があった。

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武士集団の最大の組織者は織田信長だが、彼は戦闘集団としての武士を群れとして管理した。

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だが薩摩では、郷士としての武士は村々に集落を作り、一種の武装集落として幕末まで推移した。

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それが郷中組とか郷中教育として続き、幕末の幾多の英雄を生み出すもとになった。

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その一つの外城、知覧の武家屋敷を訪ねたのである。

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整然と掘り下げた道筋、入口の城構え、正月飾りの特殊性など、感心することしきりである。

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さても指宿の宿は民泊マンションで、旅館で豪勢にとはいかなかったが、アットホームな夜になった。

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明朝は、5時に宿所を出てスタート地点に向かうことになった。

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2019年1月11日 (金)

心配性のつぶやき

地区安心安全ネットワークを設立したのは、かれこれ10年前、私が地区長の時だ。
「そんなものは必要ない」と言う一部の意見を押し切って、設立にこぎ着けた思い出がある。

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その現在の地区長から要請があって、月に二回児童の下校時間帯に青パト巡回することになった。

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毎朝の立哨に比べればさしたる世話では無いが、子供の安全にはやはり地域の配慮が必要なのである。
93才になる私の母親が、私が一日でも留守にして帰ると「良かったねぇ、無事に帰って」と言う。

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子供の頃を思い出すと、母親は必ず「日暮れ前に帰ってくるんだよ!」と繰り返していた。

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あの頃、何処の母親もみんな心配性で、子供達も「早く帰らにゃ、叱られる」と心得ていた。
あの頃には、結構神隠しの様に忽然と抹殺される子供が多かったのかも知れない。

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否しかし今日だって、スマホには毎週の様に付きまといや不審者情報がある。

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日本には冠たる警察機構があるのだし、そんなに滅多なことはあるまいと思うのだが、事件が起こってからでは遅いのである。
而して、縁の下の何某かになればと、管内をぐるぐると回ることにしたのである。

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ところで今日は、静岡のグランシップで警察の年頭視閲式があった。

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もう何度も陪席している式典だが、何時もピリっとした年初の気分になる。
若い警察官達の訓練された機敏な行動は、見るものを圧倒するし、また信頼感を醸し出す。

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警察音楽隊の優美な演奏も、隊列行進や視閲官らの巡閲に花を添えていた。

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ともあれ今年も、部隊巡閲から警察歌斉唱まで1時間半の式典に加わった一人だ。

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考えねばならないことは、諸外国との関係も含め、安全は唯では無いと言うことだ。

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私達は一人自分の独立を保っていると思っているが、それは安全の仕組みが有ってこその話だ。
縁の下の力を軽んじてはいけないと思う。

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2019年1月10日 (木)

衣食足りて求めるもの

ご馳走と言う言葉は茶事から生まれたようで、亭主があちこち奔走して集めた食材で客をもてなすことを言う。
かつてはこの日本にも、客をもてなす文化(欧米のホームパーティ)があったのである。

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その茶事には、これまで数回招かれたことがあるだけだが、その度に扇子を新調したりした。
待合席では緊張していたし、招く方も招かれる方もそれなりに真剣だったのである。

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確かに茶席に於けるご馳走は絶品だが、飽食の今日、ホントのご馳走は無くなってしまった。
それに食は毎日のことで、齢を重ねるに従って、美食よりもちょつとした粗食が良くなった。

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宴会などで出される油ものは辟易だし、一匹10万円の蟹も、5千円のと何も変わらなかった。
それよりも新鮮なホウレンソウや大根煮が、殊更美味しく味わえたりする。

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ブランドだの特選だのと特別(馳走)強調するが、実は中身は同じなんである。
そして今では、ご馳走の中身よりも、誰と食べるのかが肝心になっている。

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私の昼ご飯は、93才のお袋と二人だけのことが多いが、大抵はラーメンかサバ缶である。
さして不満は無いが、これに孫が加わると突然色合いを帯び、食材も輝いて見える。

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元より胃の腑には限度があるのだから、毎日の食だって、そのシチュエーションが大事って事になる。
それで思うのは、心通い合える仲間との会食をこそ楽しむべきで、そんな場面をできるだけ創ることが大切だって事。

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私はお酒はあまり飲めないけれど、そんな心温まる人々の集まりは大好きだ。

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人が生きる場面には色々あって、懸命に一人で努力したり、和気藹々の協力関係を築いたり、共に歓喜したり、失意に沈んだり・・・・そんな色々な体験もしてきた。

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その食べるって事も、学生時代の下宿での鍋やキャンプ場の食、徘徊したおでん屋、緊張の偉いさんとの会食、・・・そう人生にゃ色々な食があるんだ。
でもさぁ~齡七十余才、望むらくは親しい人との心安らぐ一時だな。

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2019年1月 9日 (水)

裏白シダ

もう今日は9日で、今年も猛烈な速さでスタートしている。
一年の終わりが始めになって、今年こそはと思う訳では無いが、時の移ろいを感じさせる年末年始である。

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思うのは子供の頃の正月で、あの頃は何もかもを真っ白にして、新しいノートに向かおうとしていた。

大抵は三日坊主に終わったが、そのあの頃の気分が未だに残っているのである。

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だが、年が改まったからって何も変わる筈も無く、何時ものように日が暮れていく。

私がいつも走っている山(小笠山)はシダの山であって、殊にウラジロで覆われている。

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葉の裏が白くて(腹黒くは無いって意味で)正月飾りに珍重されているシダ植物だ。

その包み込むような鷹揚な葉の形も、正月を慶賀するのに向いているのかも知れない。

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その正月飾りも折からの乾燥で縮んでしまって、備えの餅にはカビが生え始めている。

正月気分を払底して、本気で今年に取り組まねばならないのである。

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ゆき去った古いものも、迎えた新しいものも、何時の間にか移ろい過ぎ去っていく。

そうやって七十余年を過ごしてきたことを思うと、無情とか懐かしいという言葉は実に虚しい。

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何時だって真剣に生きてきたし、その過ぎ去った日々は私そのものである。

「良いじゃ無いかそれで」って思う一方で、もっと違った生き方が有ったんじゃ無かろうかとも思う。

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今更事遅しだが、年末年始はそんなことを想起させるのである。

一昨日、地域の子供達120人余が寄せ書きした色紙三枚が届いた。

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毎日見守ってくれて有り難う、雨の日も風の日も・・・・・とあって、この十三年の立哨のお礼である。

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アッと言う間の十三年だったが、それは何時の間にか私の朝の日課になった。

ウラジロは日陰に育つ植物だが、実に性強く、元より裏表ないのである。

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2019年1月 8日 (火)

心ゆくもの

言葉は歴史と共に創られてきた訳だが、「心ゆき」などの言葉は何とも清しく感じる。
今でも「心意気や良し」などと使われて、弛まぬ前向きな心を称揚する言葉だろう。

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清少納言の枕草子に「心ゆくもの」の段があって、牛車が気持ちよく走る様や川舟下りの勇ましさなどを例に上げている。
少しばかり難しいことを、それなりに上手くやり熟す様ってことだろうか。

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近世の私達は効率や便利を合い言葉に、只管「楽」を追求してきたのだが、つまりは「心ゆくもの」を減らし続けてきたのである。
確かに移動にしても、意思伝達や表現にしても、私達はほんの五十年前と比べても異次元の世界にいる。

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例えは恋人と連絡を取るのだって、一昔前は電話するのさえ大変だっただろうし、「君の名は」なんて物語は今では有り得ない話だ。
幾多の困難を乗り越えての逢瀬は、それは感激に勝る歓びだったのに違いない。

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つまり私達の日常だって、楽でそれ程の苦労の無いことは、実は余り面白くないのである。
それに表現者(芸術)の世界も様変わりしていて、趣味の絵画なら兎も角、昔のような風景画や人物画では写真などの映像に敵うはずが無い。

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文学だって、電子メディアが当たり前になって、本はさっぱり売れない時代だ。
俄然、プロのアーティストが生き残るには、科学に勝る新奇を創造する他ないのである。

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静岡市美術館で開催されている「起点としての80年代」を覗いて、そんなことを考えていた。
確かにこの21世紀は、明確な(分かり易い)目標を見いだし難い時代だ。

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ともすれば、(メタボが激増しているように)楽な方へ楽な方へと流されて行ってしまう。

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しかし、敢えて困難にも果敢に挑戦する心意気こそ、人生の面白さに通じると思う。
私も古い人間の部類だろうが、冷たい空気の中を颯爽と走る姿を「心ゆくもの」と思う。

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繰り返すが、楽で間違いなくやれることに、あんまり面白いことはないのである。

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2019年1月 7日 (月)

亥年の七草がゆ

今朝は無病息災を思いつつ、七草がゆを頂いた。
殊更胃が疲れているという訳では無いが、久しぶりのかゆに何故か心温まる思いがした。

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その思いは「今年が平穏な年でありますように」ってことである。
今年は亥年、私はその年男でもあるが、過去の亥年は決して平穏ではないのである。

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2007年の亥年には、サブプライムローンが表面化して暗雲が漂う中、自民党が参議院選で大敗北した。
その前の1995年は、あの阪神大震災が起き、地下鉄サリン事件に驚かされた年だ。

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12年毎に物事が循環する訳では無いが、何れも暗雲漂うというか、歴史的な変調を思わせる年だった。
そして今、トランプや英国などポピュリズムの風潮が世界を覆い、成長を続けてきた景気も先行きが懸念されている。

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米中の貿易戦争だって、かつて第二次世界大戦前の覇権国どうしの軋轢を思い起こす。
そんなこんな、何かが起こりそうな予感のする年なのだ。

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ところで亥年の「亥」と玄人の「玄(くろ)」とは、一本の違いでしか無い。
その玄とは、老子によると「人生と宇宙の根源」とされていて、色に置き換えると「くろ」になる。

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しかもその「玄」は、真っ黒の一歩手前の色だと言うのだ。
本当の玄(くろ)は真っ暗では無く、一筋の明かりを漂わせ、希望を生み出す色なんだとか。

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ともあれ、もう六回目の亥年であって、角が一本取れて、そろそろ人生も玄人の域に入って良さそうなものだが、未だに生々しい。
相変わらず、年初からずっぱしる態勢である。

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補足すれば、玄というのは一筆の濃淡では無く、淡い墨を重ねて濃くしていくのだそうだ。

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或いは私達の生涯も、その玄人に達する道筋であって、一日一日をその淡墨を積み重ねているのだ。
まぁ~、我が輩は未だ未だ薄墨にも達しないのだが。

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2019年1月 6日 (日)

湖西連峰トレランへ

湖西連峰とは、遠州と三河を区切るように浜名湖の西に連なる山々である。
ゴツゴツと大小の岩が露出しているものの、その尾根筋は穏やかにくねっていて、トレイルにはもってこいのコースだ。

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今日は、その23kのトレイルコースを走るのである。

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御前9時、豊橋市の岩屋公園(二川)に集まったのは何と203人、豊橋RCのボランティアを含めれば250人である。

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この大会は、昨年急逝した佳江さん縁の大会で、妹さんもボラで参加して、皆で彼女を偲んだ。

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思えば佳江さんは、この大会ではいつも先頭に立って、あれこれと差配してくれていたのである。

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四五日前まで雨予報だったのが一転晴れとなって、おまけに午前10時には部分日食とあって、何やら天までが佳江さんを悼んでいるかのようであった。
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ともあれ9時半、200人余を4つにグループ分けして、順次細い山道に分け入っていく。
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三十分ほどで尾根に出ると、そこからは右に浜名湖、左には豊橋市街を見下ろしながらの走りだ。

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とは言っても、眺望よりも足元が大切で、転倒にだけは細心の注意を払ってのランだ。

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11時半、多米峠に降りるとそこには豊橋の仲間達のカレーエイドが開設されていて、何ともホッとしながら暫しの休息を取る。

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そこからはリンドを北に辿って赤岩自然歩道を経由して、本坂峠に向かう。

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本坂峠の下ではお汁粉エイドが開設されていて、暫し冷え切った体を温める。

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そこから廃寺跡まで引き返し、石巻山に向かい、その石巻神社前がゴールだ。

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ロードレースと違ってかなりハードなんだが、私は二時六分(4時間28分)でゴールできた。

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健康で持てる体力を精一杯使い、そしてゴールでは風呂に浸かり、多くの仲間と共に語り合って楽しむ。

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一日の楽しみ方に、これ以上ハッピーな有り様があるだろうか。

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そんな訳で、今日の一日も若い人達と共に(私が最高齢)人生を満喫したのである。

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2019年1月 5日 (土)

予定表

一年の計は元旦にありと教えられたが、かつて元旦に予定を構想したなんて記憶がない。
何時だって、三が日は来客やら初詣などの年中行事で終わってきた。

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与謝野晶子に「前なるは 一生よりも長き冬 何をしてまし 恋のかたはら」って歌がある。

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この長い冬の間、恋人と会えないのに、一体何をして過ごそうか・・・って言うのである。

恋の歌とは言え実に悠長で、現代ならメールでも電話でも即時に繋がるのである。

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勿論予定も、元日になって考える何てことは無く、数ヶ月も前からドンドン埋まっていくし、冬だからって家に籠もっているなんて事は無い。

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そしてその予定は、予定表(Schedule Dialy)を次々と黒く埋めていくのである。

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現役を退いて以来さして忙しい訳でも無いから、予定表など月めくりで十分と思いきや、
前年の10月には予定帳を買い求めて、一年間これを頼っている。

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かつての現役時代は、黒い表紙の手帳に細かい日程がびっしりと書き込まれていて、毎日そいつをこなすイメージが強かった。

しかし今では、暮らしの義務としての予定は僅かで、ほとんどが遊び(楽しみ)のスケジュールである。

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そのスケジュールが3月下旬辺りまで一杯に書き込まれていて、そのそれぞれの計画がその日を待って光り輝いている。

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当然ながら予定表は未来の記述だから、そこにはこれから体験する夢としての時間がひろがつている。

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それを次々と待ち・想像しながら暮らすのは、この上なくラッキーで贅沢な予定表の使い方だと思う。

ともあれ、この楽しみの予定帳づくりが何時までも続きますようにと願っている。

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2019年1月 4日 (金)

明神山へ

連日にはなるのだが、今日は愛知県東栄の明神山(1016m)に登った。
朝は未だ暗い内に出発し、集合場所の東栄温泉(摂氏-4度)からは8時に走り始めた。

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明神には普通南側の乳岩から登るのだが、今回は北側の尾籠地区から登るのだ。

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明神山の手前に岩山(700m)tがあって、先ずはその山頂に向かう(約2時間)のである。

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この山は正にその名の通り巨岩の屹立した山で、下を覗く通しが震えるような断崖絶壁だ。

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かつては山岳修験の地だったらしく、山頂近くには行者様と弘法様の石仏が祭られている。
4月15日にはその山頂で、尾籠岩山祭りが行われるらしいのだが、近年では過疎化と高齢化でどうも難儀しているらしい。

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ともあれ足のすくむ怖い場所を早々に引き上げ、少し戻って改めて明神山に向かった。

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と言ってむこちら側からの登山は急登続きで、しかも片側は断崖だし、油断すれば滑り落ちかねない。
ハシゴや鎖を頼りに登り続け、それでも11時半頃には頂上に辿り着くことが出来た。

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山は不思議なもので、遙か彼方の頂と思いつつも、一歩一歩進むうちに何時の間にかその山頂に到るのである。

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気温は低いが風のない晴天で、ぐるり南から北アルプスまでを見渡せる絶景である。

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人は誰もが、頂を極めたらやがて降りなければならない。

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暫しの達成感と共に昼食を済ませ、今回は三ツ瀬(豊川の源流、柿野川沿い)を下った。

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途中では地元の猟友会の皆さんと出くわすと、トラックには二頭の鹿が横たわっていた。
この地区でも鳥獣害は夥しいのだが、生き物の死を直視するのは少し辛いものがある。

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ともあれ、今回の登山マラソンは6名だったが、そもそもは昨年亡くなった佳江さんが発起人。
今回は彼女の追悼の意味も含めて、ゆかりの人達が集ったのである。

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そして、今日も存分に楽しませてもらったのである。

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2019年1月 3日 (木)

箱根八里を

新春の箱根駅伝は、予想外の結果で終わったが、9時国府津で7区の走者を見送った。
遠藤は勿論大変な人並みで、その人垣を掻き分けて彼らの勇姿に声援を送ったのだ。

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と言っても、今日はこの国府津から箱根を越えて三島までの40k近くを走るのだから、のんびりは出来ない。

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彼らが走りすぎると同時に、彼らの走ってきた道を遡って小田原に向かった。

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途中で建武の中興で没した新田義貞の首塚に立ち寄ったり、勿論小田原城に寄って箱根峠へと向かう。

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箱根は芦ノ湖を中心にした外輪山で出来ているが、そこまではずっと登りで、途中には秀吉の一夜城跡や北条早雲ゆかりの早雲寺がある。

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だがずっと急坂が続く訳で、その山道をあえぎあえぎ登っていく。

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途中からは石畳になって、この八里の間に石を敷き詰めた壮大な力を思いやる。

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登るだけでも大変なのに、そこを整地して重たい石を運び上げ、敷き詰めていったんだから、果たしてどれ程の人力を要したことだろうか。

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確かに箱根八里は馬でも超すとは言われたが、その馬だってかなり難儀したはずである。

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ともあれ私達は、昨年よりかなり早く、13時には甘酒茶屋に入ることができた。

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この茶屋は江戸時代から残された古民家で、かつては大名・小名も休息したという。

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ここまで来れば芦ノ湖は直ぐ目の前で、箱根の関所を越えて、復路のスタート地点に到る。

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今朝程まで人でごった返していたところだが、私達が到着した時には片付けの真っ最中だった。

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ここからは外輪山のピーク(箱根峠)を越えて、石畳の旧東海道を三島宿まで駆け下りる。

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およそ15k程だが、石畳で転倒しないよう慎重にスピードを上げていく。

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途中で山中城(北条氏が秀吉の侵攻に対して築いた城)に登ると、障子堀が美しく、本丸跡からは素晴らしい夕方の富士が聳えていた。

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山中城は数十万の軍勢に囲まれて一日で落城したと伝わるが、想像以上に大規模な城だ。
ともあれここからは、三嶋大社を経て三島駅まで一気に下っていく。

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薄暗くなり始めた17時10分、予定よりも1時間近く早く到着することが出来た。
約40kを8時間で走ったことになるが、新春早々元気に箱根八里余を走ることが出来たこと、それだけでも寿ぐべきだと思った。

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元気な自分が嬉しいし、「よし、今年も元気で!!」って気分だね。それに、楽しかった。

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2019年1月 2日 (水)

ご利役三倍

正月二日は遠州三山初詣が恒例になって、もう久しくなる。
9時袋井駅に集まったのは42名で、家康ゆかりの可睡斎、油山寺、そして法多山尊栄寺を順番に巡って詣でる。

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車ならば渋滞の列の中で一日を過ごすことになるが、自分の足ならばこの三詣でが可能なんだ。
おまけに温泉に浸かって、新年会付きなのである。

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初詣とは言っても、毎年決まって平穏無事を祈念するのであって、これは自分への決意でもある。

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色々と欲はあったとしても、一年間故障無く平穏無事に走ることが出来れば、これに勝ることはない。

そして今回は、昨年のナビブ砂漠ランのお礼と、来月からのニュージーランド250kの祈願であった。

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昨年からの一年を思いつつ、その時の流れの速さと、これからを思うのである。

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参道を歩く善男善女の姿は変わらねど、私は一年一年(心は兎も角)老いているのだろう。

可睡斎と油山寺はともかく、法多山にはもう50数年も詣でているのである。

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子供の頃は家族揃って夜明け前に、(あの頃の正月は清々しかった。)歩いた。

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その親父の顔やみんなの笑顔が甦っても来る、その思い出の時と場所なんだ。

ともあれ、私達は12時半過ぎには和の湯に到着して、箱根駅伝を観戦しながらゆっくりと湯に浸かった。

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青学は思いの他の苦戦で、明日に何処まで盛り返せるのかが、注目の的となった。

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たかが走ることだが、それでも思い通りには行かないのである。
況んや我が生き様など思い通りになるはずも無く、右往左往の道行きだが、それでもここまで走ってきた。

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勿論これからだっては走り続けるさ、今日も明日も。

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そんな訳で、明朝は国府津まで行って、箱根駅伝(青学)を精一杯応援してくるつもりだ。


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2019年1月 1日 (火)

明けて亥年に

皆さん、明けまして新年お目出度うございます。
社前に集まっている村衆ににそう語りかけながら、恒例の初参りをした。

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社前で初日の出を遙拝し、社屋に入って揃って神前に参り、やがて直会(なおらい)となる。
昔から続いている村の習いである。

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とは言っても、近年では集まるのは年配者であり、それも年々減ってきている。
全てが時代の趨勢だが、かつての正月は寒気と共に凜として、厳然たる趣でやってきた。

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だから私達も、威儀を正し年に一度の飾り付けをして、殊更改まって迎えたものである。
子供の頃は、正月の朝には枕元に新品の肌着などが準備され、それに清々しい気持ちで腕を通し、少し遠い法多山に参るのが常だった。

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薄暗い山道を登りながら、何となく今年こそなどと思っていたものである。
しかしながら70余回も新年を迎えてくると、その新年なるものの凝縮力が次第に減ってくる。
大袈裟に言うと、未来に向けての決意を受け止めるだけの緊張を孕んでいない気がする。

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而して10日もすれば、年初の決意など打ち忘れて暮らすことになるのが常だ。
さはさりながら、私にとっては何と6回目の(年男)亥年が巡ってきたのである。
年男と言っても、どの年代もの亥年生まれが似ている訳でも無いが、団塊の世代の先頭をくぐり抜けてきた我が同世代は、どこかイノシシに近いと思っている。
食べるものすら事欠いた終戦直後に生まれ、高度経済成長時代を猪突してきたし、バブル崩壊で勢いを失うと途端に豚になっちゃった。
だけどイノシシはやはりイノシシで、方向は違えどもあちらこちらに猪突猛進する姿は変わらない。

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私も正月早々から走り始めるつもりで、この一月から一気に拍車が掛かりそうである。
ともあれ、この元日はまれに見る穏やかな好天に恵まれ、今日だけはと書斎にこもって過ごした。
ニュージ250k参戦の諸々の手続きやら、我がノーベルの続きやらである。
そうこうする内に孫達がやってきて、やっと正月らしい気分がこみ上げてきたのである。

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