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2019年1月31日 (木)

現世か来世か

私なぞはほぼ無宗教(困ったときの神頼み)だから、信仰というものの価値を信じていない。
奈良時代の仏教導入は学問(人生哲学)から始まるが、空海の密教から信仰じみてくる。

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その根底には、輪廻思想に由来する天国と地獄を信じる来世への不安があった。

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自分の死後はどうなるのかという、恐怖にも近い感覚で、だからこそ西方浄土を求めたのである。

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徳を積み喜捨を施せば「善人なおもて往生を遂ぐ」のであって、来世は必ず報われるとされたのだ。

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陰陽道(安倍晴明)や菅原道真の祟りは、そうした来世への思想があって初めて存在できたのだ。

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因みに平安時代に宇治平等院を創建した藤原頼道は、来世の世界を今生で再現したのだと言われている。

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その隆盛を極めた仏教だが、近世にいたって急速に衰微して行ってしまう。
自然科学の進歩普及と相まって、多くの人々が来世の存在を信じなくなってしまったからだ。

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而して日本の仏教は、葬儀を司る儀式として辛うじて存続しているのである。

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しかし昨日まで滞在したタイでは、煌びやかな寺院の存在や教育(多くの人が得度する)によって来世を信じているかのようだ。

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街のあちこちに祀られた仏には供え物が絶えないし、托鉢の僧侶への喜捨も怠りない。

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寺院は金箔で張り巡らされ、この世の天国を表現しているかのようでもある。

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ワット・プラケオはその最たるもので、寺院の外側の回廊には釈迦の生涯が延々と描かれ、その内側には驚くほど華麗な堂塔が立ち並ぶ。

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これ程の絢爛豪華さは、恐らく世界屈指では無かろうか。

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来世を信じない私もその精緻な美しさに目を見張ったのだが、タイの人々は或いは見方が違うのかも知れない。

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当然ながら、現世で完結しようとする私と、来世を信じて生きる者とでは行動が自ずと異なるはずだからね。

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ともあれ宗教心の有無は別にして、ワット・プラケオは一見の価値ありである。

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2019年1月30日 (水)

タイの人々の活力

バンコクから帰ったばかりなんだが、タイの人々の暮らしぶりをどう評価したものか思いあぐねている。
確かに街は活気に溢れているし、高層ビルが聳え、尚且つ建設の足音もそこここで聞こえている。

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公園には、人々がくつろぐ景色があるし、バザールは人で溢れ、電車も地下鉄も満員だ。
春節を祝う飾り付けが目立ち、ヨーロッパの高級ブランドの店が建ち並び、デパートだって賑わっている。

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その一方で、貧しい露店が建ち並び、乞食すら散見されるし、豊かさの片鱗すら感じられない場面もある。

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タイは日本の1.4倍の(平坦な)国土で、そこに日本の半分ほどの人々が暮らしている。

一見雑然としているが、日本の高度経済成長期のような活力が感じられるし、その貧富の格差を除けぱ人々も活気に満ちている。

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そう・・・人々が外見(オカマも多い)など気にせずに、人々が素のままにに生きているって感じすらする。
国王の交代から間のない為だろうか、至る所にラーマ10世の肖像画が掲げられている。

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或いは国情なのかどうか、幾ばくかの違和感すらを感じたが、その国王自体亡くなった前国王に比べると評判は今一つらしい。

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とは言え、王室のこの国に於ける歴史的な役割は大きく、私達の巡った公園だって王室の寄与が大きいようで、仏教との関係とも併せ、国民と王室の間合いは伺い知れない。

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人々の生きる活力を感じさせられるのは、勇敢なバイクと軒をひしめく露天だろうか。
バイクに関しては、信号待ちの先頭部分はバイク集団だし、バイクタクシーなども車と車の間を抜けるように走って行く。

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正にスリル満点に見えるが、(事故が絶えないが)こちらの人は慣れっこになっているらしい。
渋滞の多いバンコクでは、バイクの後ろに人を乗せて走るのが効率的らしく、無数のバイクタクシーが走っている。

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それに歩道を埋め尽くして立ち並ぶ露天(惣菜や弁当、果物、仏花、宝くじなどを売っている)は、衛生などを考えたら????だが、これもタイ独特な風景だ。
道は彼らに占拠され、人々はそれを避けながら歩く他ないが、彼らには公道という感覚は皆無らしい。

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タイ人は独立性が高く、人に使われるのが嫌いで、従って個人事業主としての露天やバイクタクシーが多いという説もあるがどうだろうか。
街には、そんな事業主に屋台をレンタルする仕組みもあるらしく、簡単に商売ができるようだ。
コンビニなどもちゃんとあるのに露天が成り立つのには、どうも人々の生活習慣があるらしく、出勤途上の多くの人達が露天で朝食を買っていく。

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あちこちに仏を祭るほこらがあって、そのお供え物だって絶えることが無いのだ。

思いロイのは、街(電柱)には蜘蛛の巣のようにケーブルが張り巡らされていル事で、一体どれが何のケーブルなのか無秩序を絵に描いたようでもある。

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マラニックの途中では、物乞いもかなり見かけたし、路上生活者もかなりいる。

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規則や規制、常識の中で生活していろ我々からすると、混沌としか言い様がないが、タイの人達はかなり自由な生き方をしているのかも知れない。
一面でバイタリティー溢れ、つまり、人の生き方にも色々あるって事だ。

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2019年1月29日 (火)

パタヤに遊ぶ

パタヤはバンコクから147k南に下がった、タイランド湾のこの国随一のリゾート地だ。

このパタヤがリゾート地として開発されたのは、1960年代のあのベトナム戦争と大きなかかわりがある。

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泥沼化するベトナム戦争の帰休兵を癒すために、この地が開発され使われるようになったからだ。

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彼らが地獄の黙示録そのままに武装ヘリなどに乗って人を殺し、その合間に戦地から離れ、暫しの安息をこのパタヤで過ごしたことを思うと、何だかそのギャップの大きさに驚かされもする。

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そのパタヤは、東洋のワイキキと呼ばれる穏やかなビーチが3kも続き、その一歩裏側には何でもありの歓楽街が育ったのである。

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今でもそのビーチには多くの中高年のリゾート客が群れていたが、海はかなり汚れた印象があった。

乱開発による汚れで、同時に歓楽街にはエイズや麻薬などの噂もあるらしい。

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それで私達はそのパタヤのビーチをそこそこに、その沖合10kの所に位置するサンゴ礁の島、ラン島を目指したのである。

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港で水上タクシーを借り切って、そのラン島までは約40分であった。

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そこには穏やかな自然と共に、極めて透明度の高いビーチがまだ残されていた。

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早速水着に着替えて(随分久しぶりだが)海に入ると、水は暖かく熱帯魚も散見される素晴らしい海で、すぐさま心は童心になっていた。

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昼食をはさみながら、バナナボートにも挑戦したのだが、まんまとひっくり返されて二度も海に沈められてしまったのである。

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私達の訪れたビーチには若いヨーロッパ人が多く、その圧倒的な露出度とプロポーションに圧倒されつつも、それなりにタイの一時を楽しむことが出来た。

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それにしてもバンコクから高速道路を二時間半、リゾートはゆっくりと寛ぐものだが、私達のは細やかなリゾート体験だったか。

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すっかりとタイランドを楽しんだ四日間が終わり、明日は厳冬の日本に帰らねばならない。

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2019年1月28日 (月)

アユタヤーへ

今日は、バンコクから75k高速道路を北上し、ウートン王が開いた王城の地アユタヤーを訪れた。

水運に恵まれたこの地は1351年に王朝の都となって以来、417年にわたって栄え、あの山田長政の活躍したのもこの地である。

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山田長政は1612年、都と向かい合うようにチャオプラヤー川の対岸に日本人町をを造った。

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静岡県の沼津当たりの出身らしいが、琉球や台湾を経てシャムのこの地に渡り、日本との交易で力を蓄えた。

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やがてオユタヤー王朝の傭兵として権力を得、一世を風靡することになったが、やがて江戸幕府の鎖国政策と相俟って町は衰微し、政敵に毒殺されてしまう。

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そんな訳で長政の活躍したのは18年間に過ぎず、今はその跡地には石碑と記念館が残るだけだ。

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ともあれ私達が最初に訪れたのは、その日本人町跡である。

暫し江戸初期の面影をと探したが、僅かに厳しい顔をした長政の銅像を残すのみだった。

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次に訪ねたのは72mの高い塔のあるワット・ヤイ・チャイ・モンコンで、1592年のビルマ軍との戦勝を記念して建てられたという。

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寝釈迦仏像や数十体の仏座像とともに、1357年の建造以来の歴史を感じさせる。

そしてその近くの水上マーケットに向かったのである。

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いやいやその隣にたくさんの像がいて、その像に乗ってから昼食と言うことになったのである。

さても、その15分余りの像の散歩に一人あたり400バーツ(千五百円)である。

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私は皆さんのご満悦な顔を眺めていただけだが、像たちの迷惑そうな顔とはうって分かって、それぞれ満足した様子だ。Img_2130

やっと昼食かと思ったら、その前に笹船に乗ってマーケットの水路を一回り、これもマーケットの演出である。

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かつての水上生活盛んなりし頃の風景を感じつつ、タイ国での旅情を感じさせていただいた。

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更にもう一遺跡と言うことで、今度はワット・プラ・マハタートで、1374年に建設された巨大な寺院で、かつては白亜の華麗な寺院だったらしい。

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しかしその後ビルマ軍によって大きく破壊され、首のない仏像に日干し煉瓦を積み上げた堂塔が半ば朽ちかけて林立している。

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中には木の根に埋め込まれてしまった仏像の首など、まさに歴史の遺産と言うべきだろうか。

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そんなこんな、今日一日はアユタヤーの地に遊んだのである。

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2019年1月27日 (日)

チャトゥチャック公園に向かって

昨日は18kほど走り、船や電車にも乗って主だった寺院や王宮を見て回ったが、今日は改めて人々の暮らしを見ようという試みだ。

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7:30揃って柏屋旅館を走り出て、北西に向かう。先ず立ち寄ったのがベンジャギティ公園で、一周1kだが多くのランナーが走っている。

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その仲間に交じって走り始めたのだが、朝8時丁度になると笛の音がして、誰もが帽子を取って直立不動になる。50秒間の国歌の演奏である。

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その儀式を済ませたのだが、ここで李さんとその息子さんに合流した。

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李さん一家は羨むようなインターナショナル人達だし、それに家族皆がバイリンガルだ。

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因みに今回李さんを訪ねてロシアからやってきた息子さんは、ハングルに英語、ロシア語はもちろんのこと日本語までできるのである。

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ともあれ次に私達は、そこから3kほど離れたベンジャキティ公園を訪れた。

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湖を一周すると1.8kの街中のきれいな公園で、ちょうど駿府公園のイメージだが、こんなにバンコクが公園に恵まれているとは思わなかった。

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公園からは、マルマルバンコクの中心街のビルを見渡すことが出来るのだ。

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そこから水路の上にかけられた遊歩道を辿って行くと、その傍らには貧しい水上家屋なども散見されるのだ。

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やがて私達は周囲2.5kの広大なルンビニー公園へと入っていく。

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ラーマ六世の銅像前で記念撮影を済ませ、各々この公園を走ったのだがあまりにも広く、それに池にはワニ(オオトカゲ?)までいるのである。

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すっかりその公園を満喫して、スクンピット通りを北上し、最大の繁華街サイアムスクエアに入る。

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サイアムパラゴンと呼ばれる巨大なマーケットがあって、その中を迷子にならないように、かつ恐る恐るやっとのことで昼食を済ますことが出来た。

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スカイウォーク道に高架鉄道、その下にはバイクタクシーと共に高級車が走っている。これがバンコクなのである。

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ここで迷子になったIさんを探すために30分ほど費やしたが、その高架鉄道に乗って今度はチャトゥチャック公園に向かったのである。

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この公園はほぼ郊外に位置していて、周囲3kの巨大な公園だが実に麗しく、市民がゆったりとくつろいでいる。

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と言うのも、その隣に東南アジア最大とされるウィークエンドマーケットがあって、その広さも広大だが、混沌と喧騒・・・もの凄い人の波で正に東南アジアの風景である。

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この中に入ったが最後、右も左もわからなくなって、とにかくはぐれまいと一時間半余りを過ごしたのである。

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静寂で清楚な公園の隣に、こんな騒然があることのミスマッチ、またそこに世界中から人々が集まってくるのである。

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人々の生活は、水上生活者から乞食、圧倒的に多くの戸板一枚の露店主、高度なエンジニアまで、そうこの国は軍事政権の下で未だに混沌の中にいるのである。

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公園から、今度は地下鉄に乗ってスクンピット駅まで帰った私達の一日である。

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2019年1月26日 (土)

サワディー・カップ

今日案内してくださるのは、香港在住のKさん夫妻と韓国籍の李さんである。

早朝7:00、勇んで柏屋旅館を出発する。

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Img_1930西に5Kほど走ると、そこはこの首都の更に中心街で、2010年に反政府デモがあって、取材中の日本人記者が死んだところである。

至る所に説いた一枚で細やかな食材などを売る露店が並び、片やヨーロッパの一流ブランド店が並ぶ。その貧富の格差が暴動を生み、仏教がその格差を幾分緩和しているのだ。Img_1934

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Img_1939この国のドリアンは、ことさら美味である。

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Img_1943立ち並ぶ露店。

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8k地点、そこは最も中心部で、そこにはこの国の独立を守り続けた戦勝記念碑が高々とそびえていた。1941年、侵攻してきたフランス軍を撃退したのである。

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王室離宮の傍らを走り抜けて(離宮だが周囲は3kほどもある)チャオ・プラヤ川に向かう。

Img_1956更に下ってワット・プラケオに向かう途中はずっと露店が続き、熱さとも相まってフルーツを求めて喉を潤すことにした。

ミカンもおいしいし、名も知らぬ果物をそれぞれ頂いたのである。

Img_1957ほら、こんな具合である。

Img_1960_2レストランに入ると、そこにはヨーロッパ人やら、米国人やら。

いつの間にかアメリカの大学教授(?)夫妻と仲良くなった。

Img_1963やっとプラケットに着くと、そこは流石に小乗仏教のきらびやかな別天地である。幾つもの仏塔がそびえ、釈迦に帰依する人々の決勝が露出しているのである。

Img_1970そのワットの前での一枚。

Img_1973更に中に入ると、すべてが金色に輝く黄金の国だった。

Img_1980中国人を中心に大変な人波が続き、はぐれないように必死になりながら、この国を巡ったのである。

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Img_1999そこから更に2kほど進むと、そこにはあの寝仏で知られるワット・ポーである。

Img_2003プラヤ川を渡し舟てわたる。

対岸にはこの川を見下ろす7山田長政の銅像が見えた。彼は、17世紀初頭アユタヤーに日本人町を築き、王朝の軍人としても活躍した男だ。

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そして次は、あの三島由紀夫の暁の寺で有名なワット・アルンである。

余りにも華麗な寺の姿に驚きながら、仏教とは何かを考えさせられるのである。

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この寺ですでに16時を過ぎ、30分余り船で川を下り、タクシン駅へ、ここから電車で宿に帰るのである。

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この一日、何度サワディ・カップ(今日は、おはよう)と言ったことだろうか。

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バンコクに着いて

うぅ~ん、大寒最中の日本の皆さんには申し訳ないが、こちらの気温は30度超である。

羽田を10時半過ぎに離陸、トンキン湾からベトナム・カンボジアを越えて6時間半、現地時間で4時近く、バンコクに着いた。

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タイには20年ほど前に一度訪れているのだが、今回のようなフリーな旅は初めてだ。

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やはり空港から一歩外に出ると、バンコク名物の渋滞で幾分埃っぽく、道路は広くなっているが基本的には昔とあまり変わっていないようだ。

それでもこの時期は乾期で、幾分涼しく一年のうち最も過ごしやすい時期らしい。

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宿は柏屋と言う日本風の旅館で、その一角は日本人向けの店が軒を連ねている。

ここを拠点に、明日から5日間あちこちを歩き回ろうというのである。Img_1924

早速、少し離れたところまで歩いて、露店で遅い夕食を取った。

このバンコクと言う町は実に多国籍で、世界のさまざまな人種が肩をすり合わせて生活している。Img_1922

そして思い出すのは2010年の暴動から軍政への移行(革命)だろうか。

あれから10年、やっとこの3月24日に選挙を行うと発表されたが、軍の支配は容易には脱せないようだ。Img_1920_2

タイは東南アジアの各国が植民地化される中で、辛くも独立を保ちえた国だ。

もっとも、その要因の一つが軍部の活躍にありそうである。

現在のプミポン王朝(ラマ10世)にしても、かつて軍司令官だったチャクラー(ラマ1世)が作り上げたものだ。Img_1917_2

その軍政はともあれ、タイは小乗仏教の国であり、その法王が国王なのである。Img_1927

その国情を足元から、のぞき見してみたいと思っている。

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2019年1月24日 (木)

ときめきは何処に

私の机の上段に、砂漠で両手を高く差し上げている一枚の写真がある。
昨年五月ナビブ砂漠を走った時のもので、カナダ人の女性が撮ってくれたものだ。

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軽快な身なりでサングラスをして砂丘に立つ私は、とてものこと70才には見えないだろう。
そもそもナビブ砂漠257kへの挑戦は、自分が70才にまでも達したことの驚きが契機だ。

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時に流されるのでは無く、望むらくは時を我が物にしたいとの思いだったと言っても良い。
人間は年を経ると共にときめきを無くす生き物で、何時の間にか惰性で生きてしまうものだ。

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だから、何とか今のうちに出来る「ときめき」を求めたいと、そう思う様になっている。
選択肢には世界旅行などもあったが、やはり自分の体力への挑戦だと、あの三浦雄一郎さん同様に考えたのだ。

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砂漠は確かに未知の空間だったし、丸一日360度同じ地平線を追いかけるなんて、たった一人なら気の狂うような大地を走った。
1時間進めば、その分だけ地平線が向こうに行くだけで、それでも進む他ない自分。

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そんな異次元のシチュエーションに、それでも進む他無い人生の毎日を投影したりもしていた。
そう・・今日も何の変哲も無い一日を終えようとしているが、あの砂漠の一日だって同じなのだ。

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257kのレースを終えた日、その達成感と同時に猛烈なエンプティーな気持ちに覆われていた。
「終わってしまった」って思いであって、明日からはもうこのレースは無いのだとの失望感だ。

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人間ってヤツは不思議なもので、困難なら困難なほど、それが続いて欲しいと思うものらしい。
「ときめき飢餓性」とでも言うのか、私の体が新たな挑戦を求めているのである。

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而して来月末からのニュージーランド250kへの準備は佳境にあって、foll of nature な挑戦を心待ちにしている。
人は「ときめき」を失うと俄に老化するものらしく、我が人生はときめきを追い求めるものでありたいと思っている。

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2019年1月23日 (水)

:暴走老人

今時の団塊の世代は、暴走老人第二世代なんだそうである。
そう言えば、変なヤツが増えたなぁ~って、実感が確かにある。

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ここ数年の体験で言えば、何でも反対老人や威張りたがり老人、妨害運転老人、自尊心過剰老人などが目立つ。
自治会のさしたる案件でもないのに殊更な反対をして、自分の存在を悲しいほどアピール。

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日頃目立たない人が自治会長になって、途端にとんでもなく威張りだした人。
危険運転ギリギリの挙げ句、車を止めてイチャモンを付ける厭なジジイ。

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普通の会話をすりゃ良いのに、もったいを付けて尊大ぶる老人。
かてて加えて、交通事故や万引きなどの犯罪も高齢者が中心になっている。

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それに、ネット上で誹謗に近いコメントを書き込んだりする馬鹿な(何が楽しいのか?  )老人もいる。
何れも「無理すんなよ」って言ってやりたいが、とてものこと近寄るのも危険な存在(触らぬ神に祟りなし)だ。

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ただこの暴走老人はほんの一部で、大多数は何をしているのか知らないが、家の中に縮こまっているようだ。
確かに世の中の流れは依然として急だし、ともすればこの社会変化から取り残されっちゃう。

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話し相手だって次第に少なくなって、自分の存在を何かで確認しないと居たたまれないのだろう。

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そしてそこにあるのは、これまで頑張ってきた俺を認めて欲しいという「虚栄心」でしかない。

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人間の細やかな性だが、そんなものに拘泥する人間は過去に生きているとしか言い様がない。

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どうせ暴走するなら、思い切って体を動かすが良い。
そなん訳で、今年も休むこと無く走り続けていて、今週末はタイランドを走る。

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2019年1月22日 (火)

生年百に満たず

昨日は隣家(私と8才年上)の葬儀で、標記を思いながら一日を過ごした。

かつての日本人は、謡曲「敦盛」に「人生僅か五十年」と謡うように、そう考えてきた。

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だけど中国の詩人は、古代から「生年、百に満たず」とするのが定型だ。

一昨日、日本最長老だった116才の男性が亡くなったらしいが、百才だって夢じゃ無い。

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何も長生きすりゃ良いって訳じゃ無いが、その可能性はあった方が良いに決まっている。

だが寿命が長くなれば、やはりそれなりに心を煩わす事も多くなる。

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古代の哲学者荘子は「人は憂いと共に生きる」と言ったが、人は大抵そうやって生きている。

「何故生きるか」とか、孫子や連れ添いのこと、世の中の不公平など、生きれば生きるほど憂いは尽きない。

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その憂を消してくれるのは唯一快楽で、愛しい人との一時や心躍る活躍の時なんである。

私はそれをマラニックやマラソン大会、はたまた心温まる出会いに求めてきた。

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人生なんてさして大業なものじゃなく、日々の出会いや感激の結果(集積)でしかない。

ならばこそ、出会ったその「時」を大切にしたいし、それにだって「時期」と言う物がある。

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既に古稀を過ぎ、物事を先延ばしにするなど笑止千万、今をこそ楽しまんとぞ思う。

それを笑わば笑え、人生は有限なのであって、機を逃す訳にはいかないのである。

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 生年不満百 (生年 百に満たざるに)

 常懐千歳憂 (常に千歳の憂いを懐く)

 昼短苦夜長 (昼は短く 夜の長きに苦しむ)

 何不乗燭遊 (何ぞ 燭をとりて遊ばざる)

 為楽当及時 (楽しみを為すは 正に時に及ぶべし)

 何能待来慈 (何ぞ能く来たる 慈を待たんや)

 愚者愛惜費 (愚者は 費えを愛惜するも)

 但為後生嗤 (但だ後生の嗤いとなるのみ)

 仙人王子喬 (仙人 王子喬)

 難可与等期 (与に期を等しくすべきは 難し)

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その昔、周の王子・喬は崇山に登って仙術を学び長命をたもったという。

しかし凡人の我々がそれを期しても無駄なこと、やはり有限の人生を楽しむことに尽きるのだ。

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それにしても、人生100年をどう生きる?




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2019年1月21日 (月)

すずめ蜂の気持ち

あの獰猛なすずめ蜂に気持ちなんて有るのかどうか分からないが、年中彼女らと対峙している。
それは私の走っている杣道に、彼女らが(蜜を吸いに)集まる一本の大きなバメガシが有るからだ。

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勿論この冬季には蜂は一匹も居ないけれど、それでも恐る恐る彼女らの存在を確かめて通るのが習慣になっている。
昨年夏には、余程注意しながらこの傍らを通過したのに、足に刺されて大きく腫れ上がり、10日間ほど痛い思いをしたからでもある。

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その太いウバメガシの幹に、誰か分からないがグルグルとラップを巻き付けた人がいる。
奴らが樹液を吸えなければ集まらないだろうって趣向だったが、むしろその上方の手の届かない所に群がるようになった。

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さっきから彼女らと書いているが、蜜を集める働き蜂は全て雌で、従って我々を刺すのも雌だ。
いや、私が雄だから刺すって訳では無く、そもそも雌は(人間も?)本能的で獰猛なのである。

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それ;じぁあ雄は何をしているのかと言うと、たった一匹の女王蜂と交尾するために、只ひたすらズラリと控えているのである。
当然ながら外敵との戦争となれば出動するのだが、全ての雄が女王蜂の指命を待って、交尾のために控えているのである。

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それはともかく、ミツバチならせっせと蜜を集めるが、すずめ蜂は何の役にも立ちゃしない。
彼女らは営々として地中に巣を作り、女王蜂のために休みなく働いているだけだ。

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而して彼女らの存在は、人間世界には無用の危険物であって、何の値打ちも無いもんだ。
まぁ~だからと言って、人間世界を攻撃し、勢力を拡大侵略しようと考えている訳じゃない。

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だが彼女らは、その巣に近づいただけで間違いなく襲ってくるから、さわらぬ神に祟りなしって事かなぁ~。
だからって、今年もあの道を走るしかないし、そこがこの世を生きる難しさってことかな。

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2019年1月20日 (日)

心配の量と質

夕焼け小焼けで日が暮れて・・子供の頃何処で遊んでいても、日暮れ前には必ず家に帰ったものだ。
それは親の心配もさることながら、街灯も無かったし、辺りが真っ暗になって怖かったからだ。

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現実に「神隠し」なんてんで、突然いなくなってしまう子供だって結構居たらしい。
それが今では街の夜は何時までも明るいし、コンビニは一晩中やってる、スマホだって持ち歩いてる。

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子供の学習塾は夜までやっているし、いざ何かあればパトカーが飛んでくる。
随分と心配は減ったはずなのに、それでも時にとんでもない事件が起こったり、詐欺の類いや不審者情報のメールは日常茶飯事だ。(交通ルール無視もね)

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「浜の真砂は尽きれども、盗人の種は尽きまじ」(石川五右衛門)で、心配の質は変わったにしても心配そのものは決して減った訳では無い。
それで安心安全には、どうしても警察の出番が必要になる訳だが、彼らだって生身の人間である。

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時には晩酌をと思っても、職務との関係上何かと制約されることだって多くなる。
それに常日頃から求められるのが心身の錬磨で、柔道や剣道の訓練は必須事項でもある。

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一昨日は、その冬季術科訓練納会に招かれて、市民の一人として立ち会ってきた。

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今回は若手を中心とした納会ということで、流石に気迫に溢れた立ち会いが繰り広げられて、こちらとしては暫し緊張し通しだった。

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訓練も業務の一環とは言え、日々自己鍛錬を積み上げるのは(マラソンもそうだが)決して容易なことでは無い。
しかし、彼らのそうした努力が、私達の安全な暮らしを担保しているのも事実なんだろう。

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ともあれ真剣な対戦を前にして、残っていた正月気分は一気に吹き飛んだのであった。

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2019年1月19日 (土)

でこぼこマラニックへ

今日は俄に予定がエンプティーになって、ドタサンで標記のマラニックに参加した。
北遠で孤軍奮闘、頑張っているシンシンさんのマラニックである。

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その名の通り、北遠は山ばっかりで、どちらに向かおうが急な斜面を上り下りする他無い。

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と言う訳で今日はスペシャルコースって事になって、秋葉ダムサイトのいたわりの湯に集まったのは6名。Img_1892
午前九時、揃ってダムを下り、白倉峡の隣の小芋川を遡って山を登っていく。

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途中から林道に入って、やがて道は倒木の続く険しいものになって、間違いに気付いて引き返すこと1時間余。

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やはり山間のことで、道は凍って風も冷たく、手先は冷たく凍てついていた。

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引き返して10k近くの陽の当たる場所で、遅い昼食となった。

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それまでずっと凸凹、山の中を彷徨っていたのである。

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それでも、これが正に凸凹マラニックで、途中でであったハンターが「良く、この山を走ってきたなぁ」と感心していた。

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ともあれ本来のコースに戻って、不動の滝に着いた時には14時を過ぎていた。

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この不動の滝は、天竜川に向かって流れ下る300mほどの滝で、この渇水期にも十分な水量が流れ下っていた。

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それにしてもこの辺り、過疎化が顕著でめったに人に会うことが無い。
これから先、この北遠地域はどうなって(ひょっとしたら消えて)しまうのか?

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何であれ、人が入り込む動機を数多く創らないと、凸凹の生きる術は無いのだと思う。

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ともあれマラニック6時間30分、15:30にはいたわりの湯に辿り着くことが出来た。
ゆっくりとお湯に浸かって、懇親会をして、夕闇迫る中帰宅の途についたのである。

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静かな山の中を走るマラニック、私は好きだな。シンシンさん頑張れ!!

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2019年1月18日 (金)

亥年生まれ

私は亥年生まれだが、亥年生まれはみんな同じ猪突猛進的な傾向なのかと思っていた。

しかし猪にも、勇猪、遊猪、弱猪、家猪、荒猪、疲猪、出猪と色々と有るらしいのだ。

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それで某開運の秘訣によると、丁亥(ひのとい)の私は「遊び猪」になるらしいことが分かった。

そしてその性分には「山間を呑気に遊び回る猪。本業にはあまり熱心で無く、他のことに熱中し易い。正直で小心で遠慮がち。又、欲が深いため投機的なことで失敗が多い。

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回りくどいところがあり、後始末も良くない。家族には愛情が深く、涙もろい。人情深く、多くの人から愛される。遊んでいる割には、人に助けられる。」とある。

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ふうぅ~ん、たかが干支占いだが、この性分は当たっていないとは言い難いのである。

否むしろ、日々山の中を走り回っているし、仕事もやったが仕事以外も求めたな。

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正直・小心・遠慮は、まさに私そのものだし、回りくどい(理屈っぽい)のも私だ。

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それにそう・・・老後の備蓄も損に損を重ねているから、これも当たっているだろう。

どうかなと思うのは「多くの人から愛され、助けられる」ってことだが、これは並じゃ無いかなぁ~。

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そもそも愛情に一方通行は無い訳で、愛おしく思うからこそ愛されるってのが普通だしね。

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因みに大正12年の亥年は荒猪で、「正直で曲がったことを嫌い、嘘の無い人。だが強情短気で一度怒り心頭に発せば、如何なるものも恐れず突進する。

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短気を謹んで親睦心を養えば、人望を得て幸福な一代を過ごす」とある。

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昭和34生まれの猪は、おっと・・・これは書かない方が無難かも知れないから止めておく。
ともあれ人間は時代に生かされるが、性分は自らが培い養うものだから、干支は単なる教訓に過ぎない。

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それにして遊猪よりも勇猪や荒猪の方が断然潔くって、今日は少しばかりがっかりしちゃった。

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2019年1月17日 (木)

六十のお婆さん

古稀を少しばかり過ぎたばかりなのに、近頃「お若いですねぇ」と世辞を言われることが多くなった。
そう言われて良い気になって、この間床屋の椅子に座ったら、目の前にどこぞのオジイが座っていた。

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やはり見た目にもやはりそれなりの年格好なのであって、奴らそれを承知でご機嫌を取っているんだ。
それに近頃じゃ、TVでニュースを観ようとすると「何で、こんなに大きな音にするのよ!」って叱られる。

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そんな馬鹿な、聞こえないから仕方ないだろうって反論していたが、どうやら私の耳に原因があるらしい。
何とも寂しい限りだが、気持ちだけはとんでもなく若いのである。

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だけどこの70余年ってえのは大変な年月なんであって、例えば水で考えてみる。
私の子供の頃(昭和20年代)には、お袋は裏の井戸端でタライに洗濯板で着物を洗っていた。

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それでもやがて井戸にポンプが着いて、ギーコチョン・ギーコチョンって景気よく水が出るようになった。
簡易水道が出来て水道が出るようになったのは、小学年の頃だったか。

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それまでは井戸で水をくんで、バケツで屋内の風呂桶を満たすのが学校帰りの私の仕事だった。
それが今じゃ、蛇口をひねりぁお湯が出てくるんだから、世の中随分と変わったのである。

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しかしあれだね、年齢ってヤツは中々微妙で厄介なもんだね。
先日の知覧の武家屋敷に向かう途中、ガイドをお願いしている女性に車中から電話したのである。

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すると60才くらいと思われる元気な声が聞こえてきて、「少し、遅れます」と了承を取った。
その時私の口が「ガイドさんは、60くらいのお婆さんだね」とポロリと喋ってしまった。

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すると突然車内が騒然となって、「しまった!!」と思ったが後の祭り、車には男二人に姦しい女性4人が乗っていたのである。
「『60の婆さん』とは何よ!」って訳である。

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そのぉ~あのぅ~、ホラ「村の渡しの船頭さんは、今年60のお爺さん♪」って歌うでしょ。
しかし姦しい女性陣の怒りは一向に収まらず、迂闊に年齢を口にしたら怖いことを実感した次第だ。

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2019年1月16日 (水)

時代の心

長野県に「無言館」と呼ばれる美術館があって、かつて訪れて衝撃を受けたことがある。
展示されているのは全国から集めた戦没画学生の絵で、学徒動員を前に描かれたものだ。

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中でも印象深いのは、愛しい恋人を描いたもの(時に裸婦だったりする)で、自分の将来と愛人への狂おしい気持ちが伝わってくる。
芸術というものは「心」だと言うが、これ程心揺さぶられる絵を見たことが無いと思った。

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時代の要請とは言え、その二十そこそこの命を国に捧げんとする若者達の心や如何。
鹿児島の知覧を訪れたからには、この国の犯したおよそバカバカしい悲劇(特攻)について触れなければなるまい。

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これはそう・・・たかだか73年前(私の生まれる直前)の出来事なのである。
悪化を続ける戦況の中で、沖縄上陸を阻止せんとして立案されたのが、その特攻攻撃だ。

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制海権・制空権を奪われて為す術も無く、最後の破れかぶれ作戦に打って出たのである。
操縦訓練基地だった知覧飛行場は俄に特攻基地に変じ、各地から若い隊員が集められた。

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空襲や艦砲射撃から逃れるため、半地下の兵舎に暮らし、若き彼らは故里の母を思いながら「我、突撃す」と散っていった。
その数1,036名、その大半は海の藻屑と消え、敵艦にはかすり傷さえ与えなかったのである。

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何と馬鹿なと思うのは簡単だが、時代の心とは時にとんでもない狂気を産み出すのだ。Img_1872_2
今回も知覧特攻平和会館を訪れ、改めて戦争の空しさ、馬鹿馬鹿しさを思ったのだが・・・。

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実は私自身は、こんな重苦しい記念館を訪れたくは無かったのである。

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もう四度目になるだろうか、私だって国に準ずる青年の熱い気持ちは痛いほど分かる。
だがそれ以上に、青年達をその境地に追い詰めた時の軍指導部を憎みたい。

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およそ千人余の若き命を、あたら無駄に散らせた責任は、一帯誰が償ったのか?
「いさぎよく 風に散りにし 花のこと 御国のためと ただ進むらん」・・・人の一生って、或いはそうかも知れないと思った。

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2019年1月15日 (火)

鹿児島雑感

開聞岳から北を見下ろすと、そこには大きな池田湖が広がり、その少し東側に真ん丸な鰻池が見える。
九州最大の池田湖と同様にマグマの水蒸気爆発で出来た火口で、直径1.3kほどある。

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実はこの鰻池周辺は、晩年の西郷どん縁の地であって、明治7年下野した西郷が過ごしたところだ。
昼間は開聞岳周辺で狩りをし、鰻池の福村市座衛門宅で好物のウナギを食すのが常だったとか。

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佐賀の乱に破れた江藤新平が、敗走の途上助けを求めて立ち寄ったのもこの地だ。

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西郷は江藤の言い分を聞き入れず、江藤はやむなく四国に逃亡するのだが、西郷はその江藤を指宿湊まで見送っている。
いずれにしろその三年後、西郷は私学校生徒らを中心にして西南戦争を起こし敗北する。

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やがて追い詰められた西郷は、鹿児島城下の城山で自害したことになっているのだが・・・。

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大河ドラマの西郷どんでは、彼は最後まで戦う設定になっていた。
司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」では、西郷は桐野利明らに担ぎ上げられて、やむなく挙兵した事になっている。

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しかし男に「やむなく」何てことがあるはずも無く、西郷は立つべくして立ったのだと思う。

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だが戦後、政府側の大久保利通にしてみれば、維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充)とされた大功労者を犯罪人にする訳にはいかなかったのだと思う。
ともあれ指宿のこの一帯は、西郷隆盛の最後の決断の地であることは確かだ。

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西南戦争が終わるまで、薩摩は治外法権の独立国の様相を呈していた。

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それを懐柔するために、島津久光を政府顧問にしたりしていたが、実態は西郷の国だったのではないか。
現実にこの国の基礎を創ったのは大久保利通に違いないし、セゴドンの人気はともかく、歴史は大久保をもっと評価すべきだと思う。

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さても、西郷が晩年の多くを過ごしたその地を走った訳だが、辺りはスナックエンドウや空豆、そして菜の花の畑が果てしなく続く。

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鹿児島は日本一の早出し野菜の産地なのであって、焼酎とお茶の名産地だ。
かてて加えて、サツマイモはこの薩摩から全国に広まって、戦前戦後の食糧難を救った。

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日本列島南端の鹿児島が、今日の近世日本を作り上げたことを思うと、やはり薩摩は神秘の地だ。
因みに、大会で頂いた焼き芋をカットしたら、忽然と「大」の字が現れた。
これって、多分大吉の吉兆なんだと、食べられずにいる。

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2019年1月14日 (月)

開聞岳へ

桜島と向きあって錦江湾に突き出すように聳える独立峰、それが開聞岳(924m)である。
富士山と良く似た形(薩摩富士)故に、昭和20年4月以降の特攻隊兵士達は、特攻に飛び立つ時、この開聞岳を最後の見納めにしたと言う。

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その開聞岳に何時か登ろうと思っていて機会が無かったが、今日はやっと登ることが出来た。

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宿を未だ暗い6時に出発し、麓近くのJR最南端駅(西大山)に立ち寄って、日の出と共に開聞岳を見上げた。

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今からあそこに来に登ると思うと、殊更に山への思いは深くもなる。

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その菜の花越しの開聞岳は、実に雄々しく錦江湾の上に聳えていた。

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私達は車で二合目まで行き、8;00登り始めたのだが、登山道は山をネジのように巻きながら続く。

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長い年月の間に深く切れ込んだ登山道は、火山岩が露出し、登り口から山頂までずっと急峻だ。

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時にハシゴを登り、つるつる滑る岩を越え、次第に指宿の街や池田湖を眼下に、桜島は勿論、佐多岬が眺望できるようになる。

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11時近くなってやっと頂上に達すると、そこからは噴煙を上げる硫黄島を始め360度の眺望である。

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あの大山駅から見上げた開聞岳は、さしたる事も無かろうと見上げたのだが、イザ登ってみるとそれはそれは大変な山なのである。

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そう・・・人も山も内懐に入ってみないと分からないって事だ。
外面の良い人が必ずしも善人では無いように、山も登ってみて初めて分かるのである。

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桜島と同じ火山の作り出した開聞岳、その錦江湾一帯を見渡しながら、やはり西郷どんを思った。
この薩摩の地は、維新の英傑を輩出した特別の地だし、それにはそれなりの舞台装置を備えているのである。

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もうこの鹿児島を何と訪れたことだろうか、と思いながら・・・ひょっとしたら最後かも・・・と思ったら、この開聞岳が一際愛おしく思えてきた。
この晴天の好日、この山に登れたことを本当に嬉しく感じた。

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2019年1月13日 (日)

きばれ~、チェッソー

流石に西郷ドンの地元のマラソンで、応援の掛け声からして違っている。

指宿菜の花マラソンに集まったのは、13,615人と発表され、確かに大変な人の波である。

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指宿に泊まったのに3.5kほど先のスタート地点ので行くのに大苦労、まだ暗い6時には会場に着いた。

9時のスタートに備え、会場は超満員であった。

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最高気温の予報は17度とかなり高く、私は短パンに半そでシャツでスタートラインに並んだ。

菜の原マラソンの名の通り、このマラソンの沿道にはずっと菜の花が続くし、それに人口の少ない所だと思うのに、村の衆が総出かと思う程の応援である。

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それに、沿道には施設エイドが切れ目なく続き、池田湖や開聞岳に錦江湾と景勝地が続く。

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結構快調に走りながら、伊豆に伝わる節分の民話を思い出していた。

昔々、来る日も来る日も日照りが続き、村の衆は雨ごいに明け暮れていたという。

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ある日、村長の所に天城に住む鬼がやってきて、「俺の望みを叶えてくれれば、雨を降らせてやる」と言う。

村長は、半信半疑ながらすがる様な思いで、鬼の要求に応じることにした。

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すると、天にわかに掻き曇り、大雨が降ったのである。

村人は大喜びで踊り狂っていたが、村長はひとり沈鬱な表情だった。

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それは、鬼の要求が「娘を鬼の嫁にやる」と言うことだったのである。

やがて鬼が訪れて娘を連れていく日、娘の母親は一袋の種を密かに持たせるのである。

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鬼に連れられて山に向かう道すがら、娘はその種を少しずつこぼしながら歩いていく。Img_1809

やがて三月になって、山裾の村の方を見下ろすと、そこには金色の菜の花が一筋、村の家まで続いているのだった。Img_1814

そして娘は、鬼から逃れその菜の花を辿って、村長の所に帰り着くことが出来たのだとさ。

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娘のいなくなったことに気付いた鬼は、娘の家にやってきて、娘を返せと言う。

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すると母親は、「米豆が芽を出したら、娘を返します。」とよく炒った豆を渡したのである。

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当然ながら、豆はついに芽を出すことがなく、鬼は娘をあきらめたとさ。

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だから、節分の豆はよく炒らなきゃダメなのさ。

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菜の花の話はともかく、4時間34分13秒、年代別19/317、総合順位2121/13615だった。

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4時間半は切れなかったが、まぁ~よく走ったと思っている。

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2019年1月12日 (土)

指宿にて

今日は、明日の菜の花マラソンのために指宿に泊まっている。

鹿児島には何度も来たが、今回は十数年ぶりだろうか。

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鹿児島空港に降りて真っ先に向かったのは、知覧の武家屋敷である。

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薩摩と言う所は、いささか周回遅れなところがあって、133か所の外城があった。

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武士集団の最大の組織者は織田信長だが、彼は戦闘集団としての武士を群れとして管理した。

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だが薩摩では、郷士としての武士は村々に集落を作り、一種の武装集落として幕末まで推移した。

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それが郷中組とか郷中教育として続き、幕末の幾多の英雄を生み出すもとになった。

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その一つの外城、知覧の武家屋敷を訪ねたのである。

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整然と掘り下げた道筋、入口の城構え、正月飾りの特殊性など、感心することしきりである。

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さても指宿の宿は民泊マンションで、旅館で豪勢にとはいかなかったが、アットホームな夜になった。

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明朝は、5時に宿所を出てスタート地点に向かうことになった。

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2019年1月11日 (金)

心配性のつぶやき

地区安心安全ネットワークを設立したのは、かれこれ10年前、私が地区長の時だ。
「そんなものは必要ない」と言う一部の意見を押し切って、設立にこぎ着けた思い出がある。

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その現在の地区長から要請があって、月に二回児童の下校時間帯に青パト巡回することになった。

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毎朝の立哨に比べればさしたる世話では無いが、子供の安全にはやはり地域の配慮が必要なのである。
93才になる私の母親が、私が一日でも留守にして帰ると「良かったねぇ、無事に帰って」と言う。

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子供の頃を思い出すと、母親は必ず「日暮れ前に帰ってくるんだよ!」と繰り返していた。

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あの頃、何処の母親もみんな心配性で、子供達も「早く帰らにゃ、叱られる」と心得ていた。
あの頃には、結構神隠しの様に忽然と抹殺される子供が多かったのかも知れない。

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否しかし今日だって、スマホには毎週の様に付きまといや不審者情報がある。

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日本には冠たる警察機構があるのだし、そんなに滅多なことはあるまいと思うのだが、事件が起こってからでは遅いのである。
而して、縁の下の何某かになればと、管内をぐるぐると回ることにしたのである。

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ところで今日は、静岡のグランシップで警察の年頭視閲式があった。

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もう何度も陪席している式典だが、何時もピリっとした年初の気分になる。
若い警察官達の訓練された機敏な行動は、見るものを圧倒するし、また信頼感を醸し出す。

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警察音楽隊の優美な演奏も、隊列行進や視閲官らの巡閲に花を添えていた。

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ともあれ今年も、部隊巡閲から警察歌斉唱まで1時間半の式典に加わった一人だ。

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考えねばならないことは、諸外国との関係も含め、安全は唯では無いと言うことだ。

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私達は一人自分の独立を保っていると思っているが、それは安全の仕組みが有ってこその話だ。
縁の下の力を軽んじてはいけないと思う。

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2019年1月10日 (木)

衣食足りて求めるもの

ご馳走と言う言葉は茶事から生まれたようで、亭主があちこち奔走して集めた食材で客をもてなすことを言う。
かつてはこの日本にも、客をもてなす文化(欧米のホームパーティ)があったのである。

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その茶事には、これまで数回招かれたことがあるだけだが、その度に扇子を新調したりした。
待合席では緊張していたし、招く方も招かれる方もそれなりに真剣だったのである。

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確かに茶席に於けるご馳走は絶品だが、飽食の今日、ホントのご馳走は無くなってしまった。
それに食は毎日のことで、齢を重ねるに従って、美食よりもちょつとした粗食が良くなった。

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宴会などで出される油ものは辟易だし、一匹10万円の蟹も、5千円のと何も変わらなかった。
それよりも新鮮なホウレンソウや大根煮が、殊更美味しく味わえたりする。

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ブランドだの特選だのと特別(馳走)強調するが、実は中身は同じなんである。
そして今では、ご馳走の中身よりも、誰と食べるのかが肝心になっている。

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私の昼ご飯は、93才のお袋と二人だけのことが多いが、大抵はラーメンかサバ缶である。
さして不満は無いが、これに孫が加わると突然色合いを帯び、食材も輝いて見える。

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元より胃の腑には限度があるのだから、毎日の食だって、そのシチュエーションが大事って事になる。
それで思うのは、心通い合える仲間との会食をこそ楽しむべきで、そんな場面をできるだけ創ることが大切だって事。

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私はお酒はあまり飲めないけれど、そんな心温まる人々の集まりは大好きだ。

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人が生きる場面には色々あって、懸命に一人で努力したり、和気藹々の協力関係を築いたり、共に歓喜したり、失意に沈んだり・・・・そんな色々な体験もしてきた。

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その食べるって事も、学生時代の下宿での鍋やキャンプ場の食、徘徊したおでん屋、緊張の偉いさんとの会食、・・・そう人生にゃ色々な食があるんだ。
でもさぁ~齡七十余才、望むらくは親しい人との心安らぐ一時だな。

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2019年1月 9日 (水)

裏白シダ

もう今日は9日で、今年も猛烈な速さでスタートしている。
一年の終わりが始めになって、今年こそはと思う訳では無いが、時の移ろいを感じさせる年末年始である。

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思うのは子供の頃の正月で、あの頃は何もかもを真っ白にして、新しいノートに向かおうとしていた。

大抵は三日坊主に終わったが、そのあの頃の気分が未だに残っているのである。

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だが、年が改まったからって何も変わる筈も無く、何時ものように日が暮れていく。

私がいつも走っている山(小笠山)はシダの山であって、殊にウラジロで覆われている。

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葉の裏が白くて(腹黒くは無いって意味で)正月飾りに珍重されているシダ植物だ。

その包み込むような鷹揚な葉の形も、正月を慶賀するのに向いているのかも知れない。

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その正月飾りも折からの乾燥で縮んでしまって、備えの餅にはカビが生え始めている。

正月気分を払底して、本気で今年に取り組まねばならないのである。

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ゆき去った古いものも、迎えた新しいものも、何時の間にか移ろい過ぎ去っていく。

そうやって七十余年を過ごしてきたことを思うと、無情とか懐かしいという言葉は実に虚しい。

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何時だって真剣に生きてきたし、その過ぎ去った日々は私そのものである。

「良いじゃ無いかそれで」って思う一方で、もっと違った生き方が有ったんじゃ無かろうかとも思う。

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今更事遅しだが、年末年始はそんなことを想起させるのである。

一昨日、地域の子供達120人余が寄せ書きした色紙三枚が届いた。

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毎日見守ってくれて有り難う、雨の日も風の日も・・・・・とあって、この十三年の立哨のお礼である。

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アッと言う間の十三年だったが、それは何時の間にか私の朝の日課になった。

ウラジロは日陰に育つ植物だが、実に性強く、元より裏表ないのである。

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2019年1月 8日 (火)

心ゆくもの

言葉は歴史と共に創られてきた訳だが、「心ゆき」などの言葉は何とも清しく感じる。
今でも「心意気や良し」などと使われて、弛まぬ前向きな心を称揚する言葉だろう。

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清少納言の枕草子に「心ゆくもの」の段があって、牛車が気持ちよく走る様や川舟下りの勇ましさなどを例に上げている。
少しばかり難しいことを、それなりに上手くやり熟す様ってことだろうか。

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近世の私達は効率や便利を合い言葉に、只管「楽」を追求してきたのだが、つまりは「心ゆくもの」を減らし続けてきたのである。
確かに移動にしても、意思伝達や表現にしても、私達はほんの五十年前と比べても異次元の世界にいる。

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例えは恋人と連絡を取るのだって、一昔前は電話するのさえ大変だっただろうし、「君の名は」なんて物語は今では有り得ない話だ。
幾多の困難を乗り越えての逢瀬は、それは感激に勝る歓びだったのに違いない。

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つまり私達の日常だって、楽でそれ程の苦労の無いことは、実は余り面白くないのである。
それに表現者(芸術)の世界も様変わりしていて、趣味の絵画なら兎も角、昔のような風景画や人物画では写真などの映像に敵うはずが無い。

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文学だって、電子メディアが当たり前になって、本はさっぱり売れない時代だ。
俄然、プロのアーティストが生き残るには、科学に勝る新奇を創造する他ないのである。

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静岡市美術館で開催されている「起点としての80年代」を覗いて、そんなことを考えていた。
確かにこの21世紀は、明確な(分かり易い)目標を見いだし難い時代だ。

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ともすれば、(メタボが激増しているように)楽な方へ楽な方へと流されて行ってしまう。

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しかし、敢えて困難にも果敢に挑戦する心意気こそ、人生の面白さに通じると思う。
私も古い人間の部類だろうが、冷たい空気の中を颯爽と走る姿を「心ゆくもの」と思う。

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繰り返すが、楽で間違いなくやれることに、あんまり面白いことはないのである。

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2019年1月 7日 (月)

亥年の七草がゆ

今朝は無病息災を思いつつ、七草がゆを頂いた。
殊更胃が疲れているという訳では無いが、久しぶりのかゆに何故か心温まる思いがした。

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その思いは「今年が平穏な年でありますように」ってことである。
今年は亥年、私はその年男でもあるが、過去の亥年は決して平穏ではないのである。

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2007年の亥年には、サブプライムローンが表面化して暗雲が漂う中、自民党が参議院選で大敗北した。
その前の1995年は、あの阪神大震災が起き、地下鉄サリン事件に驚かされた年だ。

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12年毎に物事が循環する訳では無いが、何れも暗雲漂うというか、歴史的な変調を思わせる年だった。
そして今、トランプや英国などポピュリズムの風潮が世界を覆い、成長を続けてきた景気も先行きが懸念されている。

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米中の貿易戦争だって、かつて第二次世界大戦前の覇権国どうしの軋轢を思い起こす。
そんなこんな、何かが起こりそうな予感のする年なのだ。

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ところで亥年の「亥」と玄人の「玄(くろ)」とは、一本の違いでしか無い。
その玄とは、老子によると「人生と宇宙の根源」とされていて、色に置き換えると「くろ」になる。

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しかもその「玄」は、真っ黒の一歩手前の色だと言うのだ。
本当の玄(くろ)は真っ暗では無く、一筋の明かりを漂わせ、希望を生み出す色なんだとか。

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ともあれ、もう六回目の亥年であって、角が一本取れて、そろそろ人生も玄人の域に入って良さそうなものだが、未だに生々しい。
相変わらず、年初からずっぱしる態勢である。

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補足すれば、玄というのは一筆の濃淡では無く、淡い墨を重ねて濃くしていくのだそうだ。

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或いは私達の生涯も、その玄人に達する道筋であって、一日一日をその淡墨を積み重ねているのだ。
まぁ~、我が輩は未だ未だ薄墨にも達しないのだが。

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2019年1月 6日 (日)

湖西連峰トレランへ

湖西連峰とは、遠州と三河を区切るように浜名湖の西に連なる山々である。
ゴツゴツと大小の岩が露出しているものの、その尾根筋は穏やかにくねっていて、トレイルにはもってこいのコースだ。

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今日は、その23kのトレイルコースを走るのである。

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御前9時、豊橋市の岩屋公園(二川)に集まったのは何と203人、豊橋RCのボランティアを含めれば250人である。

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この大会は、昨年急逝した佳江さん縁の大会で、妹さんもボラで参加して、皆で彼女を偲んだ。

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思えば佳江さんは、この大会ではいつも先頭に立って、あれこれと差配してくれていたのである。

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四五日前まで雨予報だったのが一転晴れとなって、おまけに午前10時には部分日食とあって、何やら天までが佳江さんを悼んでいるかのようであった。
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ともあれ9時半、200人余を4つにグループ分けして、順次細い山道に分け入っていく。
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三十分ほどで尾根に出ると、そこからは右に浜名湖、左には豊橋市街を見下ろしながらの走りだ。

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とは言っても、眺望よりも足元が大切で、転倒にだけは細心の注意を払ってのランだ。

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11時半、多米峠に降りるとそこには豊橋の仲間達のカレーエイドが開設されていて、何ともホッとしながら暫しの休息を取る。

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そこからはリンドを北に辿って赤岩自然歩道を経由して、本坂峠に向かう。

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本坂峠の下ではお汁粉エイドが開設されていて、暫し冷え切った体を温める。

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そこから廃寺跡まで引き返し、石巻山に向かい、その石巻神社前がゴールだ。

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ロードレースと違ってかなりハードなんだが、私は二時六分(4時間28分)でゴールできた。

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健康で持てる体力を精一杯使い、そしてゴールでは風呂に浸かり、多くの仲間と共に語り合って楽しむ。

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一日の楽しみ方に、これ以上ハッピーな有り様があるだろうか。

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そんな訳で、今日の一日も若い人達と共に(私が最高齢)人生を満喫したのである。

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2019年1月 5日 (土)

予定表

一年の計は元旦にありと教えられたが、かつて元旦に予定を構想したなんて記憶がない。
何時だって、三が日は来客やら初詣などの年中行事で終わってきた。

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与謝野晶子に「前なるは 一生よりも長き冬 何をしてまし 恋のかたはら」って歌がある。

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この長い冬の間、恋人と会えないのに、一体何をして過ごそうか・・・って言うのである。

恋の歌とは言え実に悠長で、現代ならメールでも電話でも即時に繋がるのである。

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勿論予定も、元日になって考える何てことは無く、数ヶ月も前からドンドン埋まっていくし、冬だからって家に籠もっているなんて事は無い。

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そしてその予定は、予定表(Schedule Dialy)を次々と黒く埋めていくのである。

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現役を退いて以来さして忙しい訳でも無いから、予定表など月めくりで十分と思いきや、
前年の10月には予定帳を買い求めて、一年間これを頼っている。

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かつての現役時代は、黒い表紙の手帳に細かい日程がびっしりと書き込まれていて、毎日そいつをこなすイメージが強かった。

しかし今では、暮らしの義務としての予定は僅かで、ほとんどが遊び(楽しみ)のスケジュールである。

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そのスケジュールが3月下旬辺りまで一杯に書き込まれていて、そのそれぞれの計画がその日を待って光り輝いている。

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当然ながら予定表は未来の記述だから、そこにはこれから体験する夢としての時間がひろがつている。

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それを次々と待ち・想像しながら暮らすのは、この上なくラッキーで贅沢な予定表の使い方だと思う。

ともあれ、この楽しみの予定帳づくりが何時までも続きますようにと願っている。

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2019年1月 4日 (金)

明神山へ

連日にはなるのだが、今日は愛知県東栄の明神山(1016m)に登った。
朝は未だ暗い内に出発し、集合場所の東栄温泉(摂氏-4度)からは8時に走り始めた。

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明神には普通南側の乳岩から登るのだが、今回は北側の尾籠地区から登るのだ。

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明神山の手前に岩山(700m)tがあって、先ずはその山頂に向かう(約2時間)のである。

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この山は正にその名の通り巨岩の屹立した山で、下を覗く通しが震えるような断崖絶壁だ。

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かつては山岳修験の地だったらしく、山頂近くには行者様と弘法様の石仏が祭られている。
4月15日にはその山頂で、尾籠岩山祭りが行われるらしいのだが、近年では過疎化と高齢化でどうも難儀しているらしい。

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ともあれ足のすくむ怖い場所を早々に引き上げ、少し戻って改めて明神山に向かった。

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と言ってむこちら側からの登山は急登続きで、しかも片側は断崖だし、油断すれば滑り落ちかねない。
ハシゴや鎖を頼りに登り続け、それでも11時半頃には頂上に辿り着くことが出来た。

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山は不思議なもので、遙か彼方の頂と思いつつも、一歩一歩進むうちに何時の間にかその山頂に到るのである。

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気温は低いが風のない晴天で、ぐるり南から北アルプスまでを見渡せる絶景である。

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人は誰もが、頂を極めたらやがて降りなければならない。

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暫しの達成感と共に昼食を済ませ、今回は三ツ瀬(豊川の源流、柿野川沿い)を下った。

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途中では地元の猟友会の皆さんと出くわすと、トラックには二頭の鹿が横たわっていた。
この地区でも鳥獣害は夥しいのだが、生き物の死を直視するのは少し辛いものがある。

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ともあれ、今回の登山マラソンは6名だったが、そもそもは昨年亡くなった佳江さんが発起人。
今回は彼女の追悼の意味も含めて、ゆかりの人達が集ったのである。

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そして、今日も存分に楽しませてもらったのである。

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2019年1月 3日 (木)

箱根八里を

新春の箱根駅伝は、予想外の結果で終わったが、9時国府津で7区の走者を見送った。
遠藤は勿論大変な人並みで、その人垣を掻き分けて彼らの勇姿に声援を送ったのだ。

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と言っても、今日はこの国府津から箱根を越えて三島までの40k近くを走るのだから、のんびりは出来ない。

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彼らが走りすぎると同時に、彼らの走ってきた道を遡って小田原に向かった。

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途中で建武の中興で没した新田義貞の首塚に立ち寄ったり、勿論小田原城に寄って箱根峠へと向かう。

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箱根は芦ノ湖を中心にした外輪山で出来ているが、そこまではずっと登りで、途中には秀吉の一夜城跡や北条早雲ゆかりの早雲寺がある。

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だがずっと急坂が続く訳で、その山道をあえぎあえぎ登っていく。

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途中からは石畳になって、この八里の間に石を敷き詰めた壮大な力を思いやる。

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登るだけでも大変なのに、そこを整地して重たい石を運び上げ、敷き詰めていったんだから、果たしてどれ程の人力を要したことだろうか。

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確かに箱根八里は馬でも超すとは言われたが、その馬だってかなり難儀したはずである。

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ともあれ私達は、昨年よりかなり早く、13時には甘酒茶屋に入ることができた。

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この茶屋は江戸時代から残された古民家で、かつては大名・小名も休息したという。

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ここまで来れば芦ノ湖は直ぐ目の前で、箱根の関所を越えて、復路のスタート地点に到る。

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今朝程まで人でごった返していたところだが、私達が到着した時には片付けの真っ最中だった。

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ここからは外輪山のピーク(箱根峠)を越えて、石畳の旧東海道を三島宿まで駆け下りる。

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およそ15k程だが、石畳で転倒しないよう慎重にスピードを上げていく。

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途中で山中城(北条氏が秀吉の侵攻に対して築いた城)に登ると、障子堀が美しく、本丸跡からは素晴らしい夕方の富士が聳えていた。

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山中城は数十万の軍勢に囲まれて一日で落城したと伝わるが、想像以上に大規模な城だ。
ともあれここからは、三嶋大社を経て三島駅まで一気に下っていく。

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薄暗くなり始めた17時10分、予定よりも1時間近く早く到着することが出来た。
約40kを8時間で走ったことになるが、新春早々元気に箱根八里余を走ることが出来たこと、それだけでも寿ぐべきだと思った。

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元気な自分が嬉しいし、「よし、今年も元気で!!」って気分だね。それに、楽しかった。

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2019年1月 2日 (水)

ご利役三倍

正月二日は遠州三山初詣が恒例になって、もう久しくなる。
9時袋井駅に集まったのは42名で、家康ゆかりの可睡斎、油山寺、そして法多山尊栄寺を順番に巡って詣でる。

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車ならば渋滞の列の中で一日を過ごすことになるが、自分の足ならばこの三詣でが可能なんだ。
おまけに温泉に浸かって、新年会付きなのである。

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初詣とは言っても、毎年決まって平穏無事を祈念するのであって、これは自分への決意でもある。

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色々と欲はあったとしても、一年間故障無く平穏無事に走ることが出来れば、これに勝ることはない。

そして今回は、昨年のナビブ砂漠ランのお礼と、来月からのニュージーランド250kの祈願であった。

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昨年からの一年を思いつつ、その時の流れの速さと、これからを思うのである。

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参道を歩く善男善女の姿は変わらねど、私は一年一年(心は兎も角)老いているのだろう。

可睡斎と油山寺はともかく、法多山にはもう50数年も詣でているのである。

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子供の頃は家族揃って夜明け前に、(あの頃の正月は清々しかった。)歩いた。

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その親父の顔やみんなの笑顔が甦っても来る、その思い出の時と場所なんだ。

ともあれ、私達は12時半過ぎには和の湯に到着して、箱根駅伝を観戦しながらゆっくりと湯に浸かった。

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青学は思いの他の苦戦で、明日に何処まで盛り返せるのかが、注目の的となった。

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たかが走ることだが、それでも思い通りには行かないのである。
況んや我が生き様など思い通りになるはずも無く、右往左往の道行きだが、それでもここまで走ってきた。

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勿論これからだっては走り続けるさ、今日も明日も。

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そんな訳で、明朝は国府津まで行って、箱根駅伝(青学)を精一杯応援してくるつもりだ。


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2019年1月 1日 (火)

明けて亥年に

皆さん、明けまして新年お目出度うございます。
社前に集まっている村衆ににそう語りかけながら、恒例の初参りをした。

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社前で初日の出を遙拝し、社屋に入って揃って神前に参り、やがて直会(なおらい)となる。
昔から続いている村の習いである。

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とは言っても、近年では集まるのは年配者であり、それも年々減ってきている。
全てが時代の趨勢だが、かつての正月は寒気と共に凜として、厳然たる趣でやってきた。

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だから私達も、威儀を正し年に一度の飾り付けをして、殊更改まって迎えたものである。
子供の頃は、正月の朝には枕元に新品の肌着などが準備され、それに清々しい気持ちで腕を通し、少し遠い法多山に参るのが常だった。

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薄暗い山道を登りながら、何となく今年こそなどと思っていたものである。
しかしながら70余回も新年を迎えてくると、その新年なるものの凝縮力が次第に減ってくる。
大袈裟に言うと、未来に向けての決意を受け止めるだけの緊張を孕んでいない気がする。

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而して10日もすれば、年初の決意など打ち忘れて暮らすことになるのが常だ。
さはさりながら、私にとっては何と6回目の(年男)亥年が巡ってきたのである。
年男と言っても、どの年代もの亥年生まれが似ている訳でも無いが、団塊の世代の先頭をくぐり抜けてきた我が同世代は、どこかイノシシに近いと思っている。
食べるものすら事欠いた終戦直後に生まれ、高度経済成長時代を猪突してきたし、バブル崩壊で勢いを失うと途端に豚になっちゃった。
だけどイノシシはやはりイノシシで、方向は違えどもあちらこちらに猪突猛進する姿は変わらない。

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私も正月早々から走り始めるつもりで、この一月から一気に拍車が掛かりそうである。
ともあれ、この元日はまれに見る穏やかな好天に恵まれ、今日だけはと書斎にこもって過ごした。
ニュージ250k参戦の諸々の手続きやら、我がノーベルの続きやらである。
そうこうする内に孫達がやってきて、やっと正月らしい気分がこみ上げてきたのである。

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