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2019年2月28日 (木)

第6節 網野の夜

私の書いているノーベルは、昨年の五月五日のJapan Wolfで、掲載を中断したまま既に10ヶ月を経過している。
今回、ニュージのracing the pranetに参戦するに当たって、続編を掲載しようと思っている。
レースは、ニュージのクイーンズタウン、2000メートルの高地250kを走るもので、この間のネット環境は極めて劣悪。
レースは3月8日まで続くので、ノーベルの掲載はその間の繋ぎである。

第六節  網干の夜

 二月末のまだ寒さの残るその日、男は兵庫県の網干駅に降り立った。瀬戸内海に面した、いかにも漁師町の匂いが残る駅である。あの会津で出会った岩原から「ラン仲間が集まって、牡蠣パーティをやるから来ないか。」との便りがあって、遥々その田舎までやってきたのである。

 電車を降りて歩き始めると、後ろから男の名を呼ぶ控えめな声がした。「あぁ、やっぱりあなただった。人違いかと思って・・・。」振り返ると、そのベレー帽をかぶった女は、何と春本明枝だった。60を幾つか超えているのにかなり若々しく見える。「えぇ~ッ、栃木から遥々ここまで来たの? 驚いたなぁ。」「あの、牡蠣を食べに・・・だよね?」どうやら、主催者の岩原には人を引き付ける何かがあるようである。

 彼の経営するホテルは海岸の切り立った崖の上にあって、眼下には牡蠣の筏が無数に浮かんでいた。その牡蠣棚から牡蠣を選りすぐって腹いっぱい食べようという趣向である。50人ほどのランナーが集まっていたが、その中で男の顔見知りは明枝と岩原だけであった。岩原は、参加者の間をあちこち飛び回っている。だから明枝との会話が多くなって「まさか、この会であなたに会えるなんて思いもしなかった。でも、遠くからよく来たよね。」「岩原さんのホテルに泊まってみたかったし、それに何かしらねェ…それは、きっとあなたと同じだわよ。」「砂漠に行くって聞いたけど、準備は進んでいるの?色々と大変でしょう。」「そうなんだ。重いリュックに体を合わせるっていうか、実際に体験してみないと分からないことが多くってね、それで、ここに来たって訳さ。明枝さんは、今年もヨーロッパに行くって聞いたけど、何処に行くの?」「ツールドヨーロッパのコースを辿って、フランスからロシアまで歩こうと思っているの。」「エッ、じゃあ仕事はどうするの?」「仕事は3月一杯で辞めることにした。会社は引き留めてくれたけど、貴方が言っていたように、人生って結構短いかも知れないって思ってね。今なら多少の無茶もできるし、ほら、仲間もいるしね。」「そんなこんな、今日は岩原さんから何か吸収できるんじゃないかって思って、遥々来ちゃったって訳。」明枝は、聡明さの中に不思議ないたずらっぽさを漂わせた顔を輝かせながら、ヨーロッパの旅を語り始めていた。

 そこに篭一杯の牡蠣を持って岩原がやってきた。「牡蠣だけは山ほどあるからね。どんどん平らげてよ。それにお二人さんとは、下野街道以来だね。遠くまで来ていただいて、今日は感激だよ。」と鉄網の上に新しい牡蠣を乗せる。「それから・・・聞いたよ。今度行くんだって、砂漠に。なぁ~に、今は随分安全なコースになっているし、俺に出来たんだから、大丈夫さ。」と男の不安気な顔を見越して励ましている。

「それから、背負っていく荷物は揃ったかい? 何しろこのレースは、スタートラインに立つまでが一苦労だからな。装備品が揃っていないと、走らせてくれないしね。食料もあんまり減らすと、自分がひもじい思いをしちゃう。それに何より、リュックを体に馴染ませておかなきゃいけない。」「有難うございます。少しずつ荷物を増やして、いま特訓の最中ですよ。でも、背中にリュックの同じところが当たって、これが痛くって…」「あぁ~、それね。人間の知恵なんて、何ともたいしたことはないね。その良い例が、そのリュックさね。メーカーはもっともらしく、背中の部分に波型のクッションを入れて、これで暑さ対策が出来たって自満しているけど、だけど我々ランナーにとってはその結び目の部分に大苦労している。長いこと背負っていると、少しずつ背中が擦れてやがて赤裸になっちまう。何にもないノッペラボウなら、こんなに苦労することは無いんだけどね。そうだよね、人生と良く似ていてね、僅かな摩擦が時間の経過と共に大きなダメージになっていく。俺も、リュックを体に慣らすのには随分苦労したよ。」やはり岩原の言葉には、何時もの様に人生が混じっていた。男は、傍らに積み上げられた牡蠣殻を眺めながら、砂漠に向かう決意とも覚悟とも言える自らの心を見つめていた。

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