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2019年2月28日 (木)

第6節 網野の夜

私の書いているノーベルは、昨年の五月五日のJapan Wolfで、掲載を中断したまま既に10ヶ月を経過している。
今回、ニュージのracing the pranetに参戦するに当たって、続編を掲載しようと思っている。
レースは、ニュージのクイーンズタウン、2000メートルの高地250kを走るもので、この間のネット環境は極めて劣悪。
レースは3月8日まで続くので、ノーベルの掲載はその間の繋ぎである。

第六節  網干の夜

 二月末のまだ寒さの残るその日、男は兵庫県の網干駅に降り立った。瀬戸内海に面した、いかにも漁師町の匂いが残る駅である。あの会津で出会った岩原から「ラン仲間が集まって、牡蠣パーティをやるから来ないか。」との便りがあって、遥々その田舎までやってきたのである。

 電車を降りて歩き始めると、後ろから男の名を呼ぶ控えめな声がした。「あぁ、やっぱりあなただった。人違いかと思って・・・。」振り返ると、そのベレー帽をかぶった女は、何と春本明枝だった。60を幾つか超えているのにかなり若々しく見える。「えぇ~ッ、栃木から遥々ここまで来たの? 驚いたなぁ。」「あの、牡蠣を食べに・・・だよね?」どうやら、主催者の岩原には人を引き付ける何かがあるようである。

 彼の経営するホテルは海岸の切り立った崖の上にあって、眼下には牡蠣の筏が無数に浮かんでいた。その牡蠣棚から牡蠣を選りすぐって腹いっぱい食べようという趣向である。50人ほどのランナーが集まっていたが、その中で男の顔見知りは明枝と岩原だけであった。岩原は、参加者の間をあちこち飛び回っている。だから明枝との会話が多くなって「まさか、この会であなたに会えるなんて思いもしなかった。でも、遠くからよく来たよね。」「岩原さんのホテルに泊まってみたかったし、それに何かしらねェ…それは、きっとあなたと同じだわよ。」「砂漠に行くって聞いたけど、準備は進んでいるの?色々と大変でしょう。」「そうなんだ。重いリュックに体を合わせるっていうか、実際に体験してみないと分からないことが多くってね、それで、ここに来たって訳さ。明枝さんは、今年もヨーロッパに行くって聞いたけど、何処に行くの?」「ツールドヨーロッパのコースを辿って、フランスからロシアまで歩こうと思っているの。」「エッ、じゃあ仕事はどうするの?」「仕事は3月一杯で辞めることにした。会社は引き留めてくれたけど、貴方が言っていたように、人生って結構短いかも知れないって思ってね。今なら多少の無茶もできるし、ほら、仲間もいるしね。」「そんなこんな、今日は岩原さんから何か吸収できるんじゃないかって思って、遥々来ちゃったって訳。」明枝は、聡明さの中に不思議ないたずらっぽさを漂わせた顔を輝かせながら、ヨーロッパの旅を語り始めていた。

 そこに篭一杯の牡蠣を持って岩原がやってきた。「牡蠣だけは山ほどあるからね。どんどん平らげてよ。それにお二人さんとは、下野街道以来だね。遠くまで来ていただいて、今日は感激だよ。」と鉄網の上に新しい牡蠣を乗せる。「それから・・・聞いたよ。今度行くんだって、砂漠に。なぁ~に、今は随分安全なコースになっているし、俺に出来たんだから、大丈夫さ。」と男の不安気な顔を見越して励ましている。

「それから、背負っていく荷物は揃ったかい? 何しろこのレースは、スタートラインに立つまでが一苦労だからな。装備品が揃っていないと、走らせてくれないしね。食料もあんまり減らすと、自分がひもじい思いをしちゃう。それに何より、リュックを体に馴染ませておかなきゃいけない。」「有難うございます。少しずつ荷物を増やして、いま特訓の最中ですよ。でも、背中にリュックの同じところが当たって、これが痛くって…」「あぁ~、それね。人間の知恵なんて、何ともたいしたことはないね。その良い例が、そのリュックさね。メーカーはもっともらしく、背中の部分に波型のクッションを入れて、これで暑さ対策が出来たって自満しているけど、だけど我々ランナーにとってはその結び目の部分に大苦労している。長いこと背負っていると、少しずつ背中が擦れてやがて赤裸になっちまう。何にもないノッペラボウなら、こんなに苦労することは無いんだけどね。そうだよね、人生と良く似ていてね、僅かな摩擦が時間の経過と共に大きなダメージになっていく。俺も、リュックを体に慣らすのには随分苦労したよ。」やはり岩原の言葉には、何時もの様に人生が混じっていた。男は、傍らに積み上げられた牡蠣殻を眺めながら、砂漠に向かう決意とも覚悟とも言える自らの心を見つめていた。

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2019年2月27日 (水)

千古不易

そう・・・もう何十世代も世代交代を繰り返し、今現在の私達の存在がある。
そして、時代は移ろったにしても、考えることは愛しい人の事や自分の生活などあんまり変わっちゃいないだろう。

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仏教の世界観に、三千大千世界なるものがある。

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これを宇宙に例えると、太陽系が小世界であり、その小世界の千倍が中千世界、さらにその千倍が大千世界という希有壮大なものだ。

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天文学など無かった時代に、奇しくもこの大宇宙を言い当てているのだから、大変な想像力だと思う。

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その希有壮大な時間と空間の広がりからすれば、人間一個の一生なんて一瞬ですらない。

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時折出かける深山で、倒れた大きな古木に出会うことがある。

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千年も生きて老衰し何時しか倒れたのだろうが、倒れてなお遙かなる時の流れを伝えている。

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その朽ちかけて苔むした傍らには小さな子孫が芽を出していて、生物の逞しさを思わせるのだが、同時に私達は千古不易を思わざるを得ない。

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先日訪れた噴火を繰り返す普賢岳にしても、平成新山を産み出したり、島原大変を起こしたりしてはいるが、少し長い目で見ればちっとも変わっちゃいない。

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この二月末、近くの路側に植えられた一筋の河津桜が満開を迎えている。

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時は移ろい何もかもが動いているのだが、それを眺める私の眼は、今や春を愛でる心情だけではなくなっている。

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移ろう物だとて全て「千古不易」だと思うからだ。

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いよいよ明日からは、ニュージーランドである。

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ナビブ砂漠レースから9ヶ月、今回はクイーンズタウン郊外のWanakaから、標高2000mの高地を250k走るのである。

13kの荷物を背負って、野を越え山を越え、川を越えてのアドベンチャーレースだ。

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この古稀を過ぎた男が、未だ生きていることを実感してきたいと思っている。





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2019年2月26日 (火)

色即是空

私は仏教者でもないし、来世を信じないおよそ無信心な男だ。
人間は、その成否は別にして、精一杯生きて静に死んでゆけば良いと思っている。

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それでも、あの「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」で始まる経文には興味がある。

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般若心経は、鎌倉時代の禅僧道元の説いたもので、その修証義の最後の章に登場する。
その中の「色即是空 空即是色」も元より経文だから、理屈ではなく感性で受け止めるものだろう。

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ただ、空とは魂のことであり、色とは我々人間も含め形あるもののことだ。

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所詮人間の一生も、この宇宙というか、自然の風景の中に溶け込んでいるって思いだろうな。
そもそも仏教には「三千大千世界」なる概念があって、この銀河を何万倍にもした世界だ。

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想像を絶する広がりだが、宇宙科学の進歩した現代では、それは現実のものになっている。

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また仏教には劫(ごう)と言う世界観があって、信じられないほどの長い時間を表す。
永遠と言っても良いだろうが、その世界観の中では、人間の一生などは30で死のうが100歳まで生きようが、それはさしたる事ではない。

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人の一生は本人にとっては一大事だが、この大宇宙にとってはケシ粒ほどの意味も持たないって事だ。

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色即是空 空即是色、私も必死な思いで生きているのだけれど、達観してみればさしたる事でも無い。

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ともあれ、自分の死と共に全ては終わるのである。
さすれば、それこそ真剣に、必死で生きる他無かろう。

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2019年2月25日 (月)

人生の午後は、ながぁ~い

もう私も何時の間にか七十代、元気だとは言っても、同期や知人の訃報も絶え間ない。
間違いなく人生の後半、言うならば「人生の午後」を生きている。

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先日やむなく受診した健康診断の結果が届いて、その結果は全て問題なしであった。

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折角半日を費やしたのだから、何か注意点などを見つけて欲しいものだが、空振りに終わったようだ。
医者に掛かることの無い私の人生の特効薬は、人生を楽しむ気持なんだと思っている。

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それは若い人に比べれば、気力や体力、記憶力やパワーは減っているかも知れないけれど、その代わりに人生を楽しむ力がある。

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それは忍耐力だったり、思いやりや諦め、或いは人生の面白さを感じる能力かな。
確かに走力の衰えや白髪が一本一本増えていくのだが、それと引き換えに何かを得ている。

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息子もとっくに独り立ちしたし、諸々、もはや人生の責任から解放されている。

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そして残されているのが「人生の午後」を楽しむ力では無いか、と思うようになっている。
作物を育てたり、山を走ったり、時には楽しい仲間と飲んだり、言うならば日々の暮らしを愛おしむことだ。

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そして多分、この人生の午後は、かなりながぁ~いのではないかと感じている。

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何故かって、それはストレスが殆ど無いからである。
借金取りに追われることも無く、事業の行く末を気にするでも無く、せいぜいほうれん草や葡萄の出来が気になるくらいだ。

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悠々自適とはかくなる物かと、申し訳ないが自ら納得している次第だ。

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今時の人生には、年齢はさして意味を持たなくなっている。
定年など人生のイベントは有るにしても、要はその人間の生き様如何なのである。

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而して私も、この人生の午後の楽しみ方如何で、吾が生涯の成否が決まると思っている。

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2019年2月24日 (日)

心地よく走ったけど

今日は、晴れの静岡マラソンである。
例年雨に降られたりしていたが、今回は富士山が顔を出していた。

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Eスタートでスタートラインまで届くのに、6分ほどを要した。

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それでも、指宿の菜の花マラソン以来のフルだから、最初から飛ばしていくつもりでいた。

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五キロ毎のラップは、34分、28分、29分、30分、37分、25分、33分、34分、36分である。

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ネットトータルで4時間26分、5873/15000、70歳以上で33位だった。

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随分久しぶりに4時間半を切れたんだから、快調な走りと言って良いと思っている。

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しかし最後の10kは随分とへばっていた。

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今回は35kまでウッチャンを引き離していたのに、残り5kであっさりと先行されてしまったのが返す返すも残念である。

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それはともかく、今回はレース後の打ち上げ会が準備されていた。

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ナビブ砂漠で一緒になった二人と、そして兼ねてからのラン仲間6人である。

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砂漠の懐かしい話も含め、今回は女性二人がタイムアウトしたからその反省の弁も。
兎に角、とっても楽しい2時間を過ごすことが出来たのである。

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懸命に走るマラソンも大好きだけど、その後の仲間達の談笑こそが楽しいんだな。
 

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2019年2月23日 (土)

出会いの人々

人生は、どれだけの人間と出会い、或いは見聞きしてきたかで決まるのではないか。
勿論誰だって生まれてこの方無数の人達と会っているはずだが、仮に行きずりの人であったとしても、忘れられない人がいるはずである。

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それは初恋の人だったりするが、万屋の叔母さんや自転車屋の叔父さん、道ですれ違った変わった人であったりもする。

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それに、小説や歴史に登場する人物の生き方に共鳴するって事だってある。
そうした無数の出会いが、自分の抽斗(ひきだし)に収まって、その人に学びながら生きることになる。

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私の場合は歴史上の人物、中でも幕末に生きた人々に大きく影響されていると思う。

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先日訪れた熊本では、横井小楠、谷干城、加藤清正や細川藤孝らを思った。
小楠の学識は高かったが臆病だったし、谷は肝が据わっていた。清正は豪傑だっただけに政略に疎かったし、藤孝は戦国の際どい剣の刃の上を生ききった人だ。

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黒田官兵衛という知略の人もいたし、神様になった菅原道真は左遷が今日に名を残す元になった。

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もっともサラリーマン時代に触れ合った多くの人々、それに数々の級友にも影響されているだろう。

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つまり、自分と言ったって自分一人で出来た訳じゃ無く、とどのつまりは、どんな目線で出会った人々と接してきたかの結果なんだろう。

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旅に出ると、そうした人々の足跡と出会ったりして、あぁそうだったと思うことも多い。

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今回の熊本や福岡でも、訪ねる先々で何人かの知己と出会ったような気がした。

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そして、人の生き様は面白いなぁ~とつくづく思っていた。

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2019年2月22日 (金)

寺は歴史

タイを訪れてからもう一ヶ月を経過したが、あの絢爛たる寺院の様を思い出している。
日本の寺院も、或いは青に良し・・・の頃には、朱や青に染まった伽藍が続いていたのだろう。

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しかし今日、神社仏閣は詫びさびをもって良しとする風があって、中々豪華は受け入れがたいようだ。

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三島由紀夫の小説「暁の寺」は、チャオプラヤー川の畔にあるワット・アルンを舞台にしている。

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1767年、時のアユタヤ王朝がビルマに滅ぼされ、アユタヤから川を下ってこの寺に辿り着いたタークシン将軍がトンプリー王朝を創設する。

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将軍が辿り着いたのが「夜明け」だったから「夜明けの寺」と呼ばれ、やがて今日のチャクリー王朝の時代になって「ワット・アルン(暁の寺)」と呼ばれるようになったとされる。

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いずれにしてもタイでは、仏教が政治と密接に結びついている訳で、その豪華さは必要に迫られた物なんだと思う。

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つまり、現世において来世の存在を信じることが、政治の安定に繋がるのである。

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彼の国の政情は必ずしも安定していないが、それを辛うじて保っているのが仏教なんだろう。

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タクシン派が党首に王女を擁立しようとして失敗、これもタイ王国とすれば当然の流れなんだろう。

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その仏教は538年に日本に伝わったとされるが、確かに奈良時代新しい文化・学問として珍重された。

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仏教建築そのものが文化だったし、人々の人生観(来世を尊ぶ)を育てたのが仏教だった。

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やがて仏教も正統派の最澄に対して、大日如来を中心とした空海(弘法大師)の密教の時代へと変わっていく。

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宗教とはそれ自体不思議なものだが、日本では滅び、彼の国では未だ息づいているようだ。

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2019年2月21日 (木)

成趣園

熊本を訪れた折、私はマラソンのスタートを見送った後、一路水前寺成趣園に向かった。
この庭園は、細川三代目忠利が住んだ屋敷「花畑公園に由来し、本格的には孫の綱利が造営したものだ。

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細川累代を祀る出水神社があるだけで、東海道五十三次を模したとされるが、何の変哲も無い穏やかな庭園である。

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豊かな阿蘇の湧水を湛え、梅の花が咲き、神社の近くには新婚の姿も見えた。

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この元々は加藤清正が築城に際して住んだ屋敷とされるが、加藤氏改易の1932年、三代忠利はやはりこの湧水の地に住んだらしい。

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細川三代は、正に戦国の波瀾万丈を生き抜いた・・その生き残りである。
初代細川藤孝(幽斎)は室町幕府に仕え、流浪に近い境遇だったし、その子の忠興の奇行は知られるところだ。

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そして、その妻ガラシャ(明智光秀の娘)は、関ヶ原前に前夜石田三成の人質を拒否して焼け死んでいる。

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その忠興とガラシャの子供が忠利で、加藤家改易の後の熊本城(54万石)に入り、今日の城を作り上げたのである。

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忠利は入城に際し、「殊の外広き国にて候。城も江戸のほかには、これほど広きを見ず候。」と言っている。

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熊本名物の辛子レンコンは、禅僧玄沢が忠利に滋養のために蓮根を薦めたのが起源とされる。

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ともあれ、何の変哲も無い穏やかな水前寺成趣園は、細川の三代が生き死にを渡り歩いていたことを考えると、むべなるかなの感がするのである。

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平穏無事こそ、お家の第一と言うことであろうか。

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出水神社の傍らに古今伝授の間と称される東屋が建っている。

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かつて後陽成天皇の弟君に、初代細川藤孝(和歌の名手)が古今和歌集の講義をした折りに使われた建物で、大正元年に京から移築されたものらしい。

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その古今伝授の間の傍らでお結びを頂きながら、細川三代の辿った年月を思い、そして後代の願いがこの静けさなんのだと納得していた。

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2019年2月20日 (水)

飛梅

昨日の昼過ぎ、福岡に着く頃には雨がやみ、温かな「東風」が吹いていた。
向かったのは勿論天満宮の元締めとも言うべき社・太宰府天満宮で、菅原道真の墓の上に建てられている。
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天満宮の参道に入ると、もう一杯に梅の花の香りで満ちていて、飛梅の故事を思い出した。
道真は漢学者だが宇田天皇に重用されて、太政大臣にまで希に見る出世をした人だ。

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しかし藤原時平に疎まれて、太宰員外師として太宰府に左遷されてしまう。

いよいよ屋敷を出て太宰府に向かう際、屋敷の庭で愛でていた梅の木に向かって語りかけるように謡ったのが、あの有名な「東風吹くかば・・」だ。
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「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なくして 春な忘れそ」
菅原道真は太宰府に赴任して二年で亡くなってしまうのだが、あの都の梅は空を飛んで太宰府に降り立ち、花を咲かせたという。

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道真が亡くなると同時に、都では天変異が打ち続き、道真の祟りを鎮める天満信仰が始まることになる。

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その都から飛来したと伝わる梅を含め、満開の紅梅白梅を満喫して天満宮を後にした。

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そして、7世紀後半から奈良・平安時代を通じて、九州を治め併せて国の守りの拠点だった太宰府政庁跡を訪れた。

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その敷地は25万4000㎡と甲子園球場の6.4倍もあって、今はその礎石だけが残されている。

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かつて「遠の朝廷(とかしのみかど)と呼ばれ、やまと政権の一大拠点だったのである。
国中から徴用された防人(さきもり)達の拠点も太宰府だったろうし、近くには任那崩壊に伴う唐・新羅連合軍の襲来に備えた水城(みずき)の防塁が1.2kに渡って続いている。

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ともあれ、暫し巨大な政庁跡にたたずみ、往時の人々の行き来する様を想像していた。

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飛鳥や平安京がそうであるように、いにしえは常に偲ぶものになっていくのである。
だが今に生ける菅原道真公は、折からの受験期を控え、合格祈願者などで溢れ返っていた。

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今回も、良い旅をさせてもらった。

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2019年2月19日 (火)

島原大変肥後迷惑

雲仙の朝は、冷たい雨が降り続けていた。
今朝は雲仙の宿から下って、島原の街を訪れた。

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島原の語感には、1637年の島原の乱や1792年の島原大変、更には平成4年の普賢岳火砕流と、どこかに哀感が漂っている。
島原の中心部には、立派な石垣に五層の天主を備えた島原城が聳えている。

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この城郭の一帯が前二度の大変の舞台であって、島原の乱では2万とも3万とも言われる人達が皆殺しにされた。

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元はと言えば、鎖国によって海外貿易の利を失った領主の酷税が原因で、24か村を挙げての一揆が起こる。
その一揆が信仰(キリスト教)と結びつき、天草四郎(当時16歳)を頂点とした島原の乱となる。

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一揆軍は、幕府の大軍を二度に渡って大敗に追い込んだのだが、時の幕府の威信をかけた総攻撃で、島原の24ヶ村に人一人居なくなるまで殺されたと言われる。
戦後、租税をただにする措置を講じて人を集め、島原地域を復興に導いたと記されていた。

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その155年後、打ち続く地震と噴火で眉山が大崩落して城下を埋め尽くし、それが大津波となって対岸の肥後を襲い二万人余の死者を出す、この国が希に見る被害を記録している。

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正に島原大変、肥後迷惑だったのが、高い城塁の上に立つ城は無傷で残ったとされている。
平成4年の噴火は、島原大変と良く似ていて、前年から地震が続き、1年後にあの大火砕流が起こった。

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火砕流は水無川を下り、海まで流れ出たのは記憶に新しい。

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今その地点は道の駅になっていて、当時火砕流に埋め尽くされた集落が「災害記録」としてそのまま保存されている。
災害の記録は大切なことだが、しかし被害者の気持は如何なるものだろうと心配になった。

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さても雲仙の地獄は、キリシタンを拷問して殺した所とされているし、今も熱い蒸気を噴出する地獄エリアには、それぞれ責め殺された信者の名が付けられている。

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島原とは、かくも悲しい物語を秘めた土地なのである。

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2019年2月18日 (月)

普賢岳から妙見岳へ

雲仙は、クラシックホテルとして知られる有明(ユウメイ)ホテルに投宿している。

今日は、熊本港からフェリーで島原に渡り、普賢岳(1339m)、国見岳(1347m)、妙見岳(1333m)

に登ったのである。

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普賢岳は、平成3年に大噴火して平成新山を生み出した山で、27年前のことだけど、あの火砕流による大きな被害は記憶に新しい。

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仁田峠から歩きと始めるとハイキングかと思われる穏やかな山道で、あの荒々しい普賢岳のイメージとかなり違っていた。

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だがそれは間もなく急な登りに変わって、残雪が凍り付いてアイゼン装着を余儀なくされていた。

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景色は刻々と変わっていって、登ること2時間余り、目の前に出来たばかりの山が現れた。

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山はミヤマキリシマやビバの林になっていて、ここは霧氷でも知られるところだが、それはなかった。

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しかし溶岩ドームの足元から熱い蒸気が吹きあがる傍らを通り過ぎ、次に向かったのが国見岳である。

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とんでもなく急峻な山で、その名の様に眼下には雲仙が箱庭のように見下ろせた。

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その国見岳を下って今度は妙見岳、そこからはロープウエイで仁田峠に下った。

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五時間の登山は、アルペンさながらに変化にとんだ楽しいものだった。

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山を下って雲仙へ、先ずはビードロ博物館へ。

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ビードロとはポルトガル語でガラス、因みにギアマンはオランダ語である。

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この雲仙は古くからの温泉町で、あちこちから蒸気の噴き出る雲仙地獄など、箱根によく似ている。

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その地獄谷を散策して温泉卵を食べて、もうすっかり湯治客気分になっていた。

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しかもホテルは、150年の歴史を刻む老舗である。

雲仙を訪れたのは初めてだが、おもちゃ博物館など静かでゆったりした温泉場だ。

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明日は帰宅だが、熊本から長崎、そして福岡へと暫しの行楽をさせてもらった。

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2019年2月17日 (日)

隆盛を敗退させた城

肥後は加藤清正が築いたとされる、難攻不落の城を何よりも誇りにしてきたところだ。

清正自身は1611年50歳で倒れた後、家康に疎まれ、以後は細川幽斎の治世となる。

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その城下からは幕末の儒者・横井小楠を生んだし、宮本武蔵の最後の地でもあって、時代に大きな影響も与えた。

因みに、夏目漱石の育ったところでもある。

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さても、この茶臼山の地形を巧みに利用した城砦は、その武者返しの堅牢な石垣とも相まって実際に難攻不落だった。

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最大の攻防戦となったのは、明治10年、西郷隆盛が城を囲んだ西南戦争である。

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この年の1月、西郷軍が襲来する直前、どうした訳か原因不明の大火で、本丸や御殿など火薬の詰まっていた主な建物が全焼してしまった。

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やがて襲来した西郷軍は城下を全て焼き払い、裸になった城を取り囲んで攻めにかかった。

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西郷軍の参謀桐野などは「三日で落とす」と豪語していたらしいが、百将兵と揶揄された官軍は城を盾によく戦った。

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その城将は土佐出身の谷干城で、大久保利通にも期待されていた男らしく、三の丸の下には彼の銅像が建っていた。

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何度も何度も総攻撃を繰り返す西郷軍をその度に撃退したのだが、その決め手はあの聳える様な石垣ではなかったか。

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西郷が城を囲んだのは、丁度今頃(2月)の時期で、勇猛を誇った薩摩兵の被害が次第に膨らんでいく。

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今日は城の周りを二周走ったのだが、城の周囲は5,3kに及び、堀は深く石垣は流石に高い。

大砲を持てしても、簡単に崩れるような代物ではなかった。

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城を囲むこと三か月、やがて政府軍がヒタヒタと熊本に迫ってきて、田原坂の戦いへと移っていく。

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西郷軍が熊本城に拘わっている間に、すっかり政府軍に囲まれていたのである。

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そもそも西郷軍にとって熊本城は、戦略上さして意味を持たなかったはずだが、結果として政府軍の囮の役割を果たしたのである。

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結局西郷軍はこの熊本で反転し、あの鹿児島城下の城山での最後を迎えることになる。

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その天守閣などは昭和35年に再建されていたのだが、平成28年4月の震災によって甚大な被害を受けた。

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今日のマラソン大会は、その城の傍らをスタートし、ゴールは二の丸を登ったところだ。

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石垣は今も大きく崩れ、その石一つづつ元に戻す復興工事が行われていた。

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市役所の展望ロビーに登って城を見下ろすと、丁度ファンランの選手が城に攻め込むように登っていくところで、明治11年を再現するかのようでもあった。

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今日の熊本城は震災からの復興の象徴でもあって、大変な熱意をもって進められている。

今年から来年にかけて、城内に入られる予定だ。

城は歴史の遺産だが、今となっては或いは私達の心のどこかのルーツなんだろう。

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2019年2月16日 (土)

御坂の石段

3333段の、日本一の石段のことである。

あの久能山東照宮の石段が1153段だから、優にその三倍もの石段である。

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実は今日は熊本に来ていて、空港から一時間余りの美里町、そこの標高900mの大行寺山(釈迦院)に登る石段がそれだ。

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昭和55年から8年の歳月をかけて「日本一づくり運動」の一環として整備された。

登り始めの1000段くらいは熊本の石だが、それより上は中国や韓国、インド、ロシア、アメリカ、ブラジル、南アフリカなどから取り寄せた御影石などでできている。

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この石段を息を切らせながら約1時間で登り切って、(いやいや、なかなか登り甲斐があった)なおかつその奥の院にある釈迦院を訪れたのである。

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山頂には雪が解けずに残っていて、とても空気が寒かった。

かつては西の叡山と称されて、75坊が立ち並んでいたとされるが、小西行長の焼き討ちで焼失。

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その後に加藤清正の時代に再建されたと伝わり、山門は当時のものらしい。

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その山坊で茶を頂き、細やかな昼食を済ませたが、あまりの寒さに階段を走り下りたのだが、やはりこれに30分を要した。

熊本は金栗四三の故郷でもあって、そしてクマモンの活躍するところだ。

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クマモンのモンは、熊本の人ほどの意味だが、頑固もんの「もん」でもあって、そこで開かれる明日の熊本城マラソンに参加するのが目的だった。

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だが航空券を含めすべての手続きを終えていたのに、仲間の中で私だけが抽選に外れたのである。

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従って、明日のマラソンには出場できないが、その代わり私流にこの熊本の街を堪能したいと思っている。

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果てどうするかは思案中だが、清正の築いた熊本城について考えてみたいと思っている。

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城は修復が進んでいて、今年10月から一部が公開されるそうだ。

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2019年2月15日 (金)

腹擦り峠

昨日一日の出来事を書こうと思っている。
毎朝の立哨出子供達を見送ってから、鍬と槙鋏を持って小笠山に向かった。

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高御所(何か謂われがありそう)と呼ばれる所が、昨日の小笠山を愛する会の集合場所なのだった。
仕事は、随分荒れてしまった腹擦り峠への山道を整備(道普請)することだった。

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私がそこに着くと、何やら大声で揉めている。
私達の車が広場になっているその屋の敷地に入ったのが怪しからん、とその男は激高していた。

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やがて公御所の区長がやってきて、「屋台がターンしても苦情で・・・」と、まぁ世の中には色々な人(了見の狭い人も)が居る。
ともあれ、この公御所から法多山或いは大須賀に抜ける山道は、かつては貴重な街道だった。

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横須賀藩の殿様は、この道を辿って東海道に合流したと言うし、昭和の初め頃までは地元の子供達の遠足の道だったという。
しかし今は通る人とてなく、嵐(台風)の度に荒れ果てている。

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腹擦りとは、尾根道を開削して作った狭い道で、馬の腹を擦る程狭い峠ってことらしい。
その峠を登り切った所にお茶屋があったらしく、傍らに当時使っただろう葉蘭が生えている。

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野鳥の会や山の会など集まった12人は、黙々と土をかき、倒木を除去したり草を刈ったり。
半日で、麓の集落から腹擦峠まで、何とか道らしく甦ったのである。

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それから私は、近くのコンビニで昼食を済ませ、何時ものトレイルコースに向かったのである。
何時もの通り15kほどを走り終え、車に戻ると車が開かない。
何処か山の中にキーを落としてきたらしく、寒くもなってきた山の中で暫し茫然であった。

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やむなく山裾に向かって走り出し、7kほど離れた走友の家を訪ねることにした。
電話を借りて予備キーを持ってきてもらおう・・・しかし誰も居なかったら?、頼るのは自分の足しかないのである。
家までは20k近く走らねばならないし、帰りは恐らく夜になってしまう・・・とにかく行動するしか無い。

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が案ずるが易し、走友宅で借りた電話に細君が奇跡的に出て、30分後予備キーを届けてくれて難なきを得たのである。
まぁ~、いつ何時何があるのか分からないって事である。

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2019年2月14日 (木)

あの国この国

国内は既に何処に行っても、あまり変わり映えしないのだけれど、流石に異国は違う。
月末からのニュージ遠征の支度をしながら、未だ見ぬ自然や風物、色んな人との出会いに思いをはせながら、この一年色んな所に出かけたっけと思い出した。

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昨年五月にはアフリカはナムビアのナビブ砂漠、8月にはニューカレドニア、そして先月のタイである。

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それぞれ思い出深いし、そのそれぞれのギャップも随分と印象深い。
ナビブでは、ヒンバ族の様に原始さながらの生活を続ける人達もいたし、英語を話す黒人達も勿論いた。

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裸に毛布をまとっただけの若い母親が乳飲み子を抱き、稚拙な踊りを踊る。
僅かな観光収入で生きているのであって、この砂漠の民に教育をと言っても虚しく響くだけの様に思えた。

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マオリの文化を残すニューカレドニアは、もうすっかりリゾート観光地であった。

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先月訪れたタイでは毎日タイ料理を頂いたが、独特の甘さと酸っぱさ、それにしっかりとした辛さが特徴だ。

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私達が毎晩出かけたのは、きれいな洗練されたレストランではなく、歩道にはみ出してテーブルを並べている屋台店だ。

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路上には無数の屋台が並んでいて、それがフッとどんな味だろうと思わせるのである。

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雑踏と排気ガス、当然埃が舞い立っているけれど、暫くしたらそんなものはどうでも良くなった。

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その雑踏の屋台料理には、生きているって言う生々しさがあって、貧しいけれどタフに生きる生命力を感じさせる。

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タイ料理では、その土地にしか生えていない野菜や草を食べたが、実はそれが旅の味なんである。

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それに街の匂いや空気、雑踏の音や人の声、そうした全ての物が料理の背景にあって、それがみい~んな味と一緒になっていた。

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そう・・・所変われば品変わる、ニュージのクイーンズタウンはどんな所だろうか。

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その山中を、存分に楽しんでこようと思っている。

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2019年2月13日 (水)

「いのち」の活気

毎日忙しく、出来る限り忙しく過ごすように努めている。
老年の今日、何をしなければならないと言うことが無いだけに、逆に忙しさを求めている。

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かつて現役時代には、スケジュールに沿って動くロボットのような生活だった。
尚且つ、移り変わる状況に併せて判断を迫られるCPUでもあったのだ。

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それが一転して無風な世界に入り込んで、ご自由にどうぞッて言われてみると、如何にも自由に過ぎるのである。
ところで、かつては鼠色の服を好んで着ていたのに、近頃は朱に近い色を好むようになった。

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ランシャツもリュックもカーキ色だし、靴下は赤、帽子も赤にしようかと思うほどだ。
人生が巡ると、そんな色彩への感覚も変わるらしく、出来れば目立ちたいと思う様になった。

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多分それは、若さが体の外まで溢れていた頃は本能で生きていたのだろうが、だけどその命の活気が静まってくると、次第に心(気持)で生きるようになる。
心にとっては「今を生きる」ことが最も大切で、そう言う目線で世界を見るようになる。

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今日は是をして、明日は何が出来るのかと次の世界を希求するのだ。
常に次のスケジュールを待ちあぐねている訳で、頭の中はそれで一杯なのである。

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今度は誰に会えるとか何処に行けるとか、そう言う希望を追って生きるようになる。
最もそればかりでなく、何時葡萄の芽が出て花が咲くとか、老年のコースレコードなどもある。

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確かに一斉の芽生えは驚きだし、心沸き立つような春の気分にもなる。
衰えつつある体力の中で、これだけ頑張れたって実績は、思いの外の自信になるのだ。
今度挑戦するニュージーランド250kは、標高2000mの山中を走るグレイトレースだ。

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そのシチュエーションを思い浮かべながら、最終の準備をしているところだ。
恐らく私の海外遠征の最後のレースになるのだろうし、私の人生の意味ある印にしたいと思う。
いのちは、その輝くほどの自然のなかで躍動することを求めているのだ。

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2019年2月12日 (火)

楽しく遊ぼッ

齡70余歳、つらつら考えるのだが、随分年を取ったが若い頃に戻りたいとは思わない。
そりぁ~、16歳位に戻してくれるのなら、あれこれと挑戦して見たいことがあるにはあるが。

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若いってことは素晴らしいとは思うが、それはそれでかなりしんどかったのでは無いか。

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自分の考えや行動に何時も不安を感じていたし、何事にも性急でそれに先が見えなかった。
何時だって必死で走っていたし、そもそもこの人生ってものへのイメージが無かった。

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そのあの若かりし頃に比べると、確かに歳は取ったが今の方がずっと良いと思う。

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何故って、僅かな年金が頼りだとしても、それでも悠々自適な毎日だからだ。
取りたてて欲しい物も無いし、自分がやるべしと思うことは何でも出来る自由がある。

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それに、種を蒔いてその芽が出て花咲き稔るまで、ジッと待つことだって出来るのである。

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そして最大の特典は、思う気儘に遊ぶことが出来るってことさ。
人生とはなんぞやと色々考えるのだが、とどのつまり「人間の本当は、この世で楽しく遊ぶ為に生きる。」って事らしい。

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我が家の前のグランドでは、老人達が嬌声を上げてグランドゴルフに興じている。

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勿論私も負けじと、毎週のようにあちらこちにと楽しみに出かけている。
ホウレンソウや葡萄を「今年こそはもっと工夫を・・・」と、それこそ娯楽として栽培している。

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材料を育てて自家製キムチを作ったり、時には自分で料理したりもするんだ。

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山を走れば鳥が鳴き、春になればあれこれ花の香りも漂って、それを味わう自由がある。
心を悩ますことがない訳では無いが、若い頃に比べりゃ、それはちょろいもんさ。

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遊べや遊べ「この世は楽しく遊ぶためにある。」・・・こりぁ、長生きしちゃうなぁ。
みなさん、また遊ぼうね。

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2019年2月11日 (月)

行き交う年も又旅人

この毎日過ぎ去っていく歳月も、私達が歳を取るのと同じような、時の旅人なんだろう。
その私が70の峠を越えた時、かなりの衝撃を持って「あぁ、大きな節目を越えたなぁ」と思った。

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昨日は同年の走友(大久保)の死を知らされたし、堺屋太一さんも83才で天寿を全うした。

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つまりその峠は、生き死にが人事では無くなったなって事でもあって、些か生きる姿勢が変わったような気がしている。
セカセカとしなくなったし、言うならば年配者らしい根気強さを身に着けるようになった。

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マラソンだって、昔のようにスピードが出なくなったし、頼るのは根気しか無い。

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今日も半日、それこそ根気強くホウレンソウの種を蒔いた。
蒔き溝を切り、そこに根気よく一粒ずつの種を入れて蓋をしていく。

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是を休むことなく4時間である。(そこのあなた、これが出来ますか?  )

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この種が一週間で芽を出し、二ヶ月の時を経て収穫物になる。
今シーズンは既に三巡目の播種で、収穫は4月中旬まで続くのである。

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いや何、細やかな年金の足しにでもなれば良いのだが、この農作業の成果は、一日当たりアンパン四つほどにしかならない。

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それでも骨を折るのは、その農作業が細やかな私の生き甲斐になっているからである。
コツコツと耕し、種を蒔き水を掛け、やがて収穫の時を迎える歓びもある。

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私の育てたホウレンソウが、その一家団欒の細やかな彩りになるのかも知れないし、「我が家のホウレンソウしか食べられない子供が居る」と聞かされたりすると、もう小躍りしてしまう。

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「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く、旅に死せるあり。」

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芭蕉の奥の細道は、何もかもを見通しているかのようであり、心震えたりもする。
そう・・その人生は粛々と根気強く、自分の足で歩く他ないのである。

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旅人なればこそ、粛々と歩くのである。

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2019年2月10日 (日)

人生の密度

人生には、その人によって、そして又その時によって、間違いなく大きな密度の差がある。
時代に助けられて平々凡々と生きてしまった私などが、70を過ぎても未だ未だ人生を達観できないのは、密度薄く生きてしまったからじゃないかと思っている。

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それに幕末の志士たちが若死にしたからって、或いは人生50年時代の人達が短命だったからって、密度濃い生き方をしていれば、それは本望だったろうと思う。

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「人生の長さ=生きた時間×その密度」と始めから分かっていれば、もっとコンクな生き方をしたんじゃなかろうか。
だけど若い頃は、とかく自分の人生は永遠に続くと思っているものである。

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私もそんな手合いで、事に臨んで多くの場面で惰性に任せてきてしまったような気がする。

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「もし、あの時」などと考えても、一回性の人生なんだから詮無い話である。
過ぎ去ってしまった密度の薄さを、何とか挽回しようと努めている昨今だが、既に肝心のがたいが中古だ。

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今、その老骨に鞭打って、シンガポール250kレースへの準備(装備など)を進めている。

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今月末にクイーンズタウンに渡航し、3月3日がレース初日だ。
ナビブ砂漠に続くグレイトレースで、南極にほど近い山岳部を走破するコースである。

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年齢から言って、そろそろ限界に近づいているようで、或いは是が最後の挑戦かとも思っている。

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今回は砂漠の)脱水症で死ぬってことよりも、寒さ雨との闘いになりそうだが、精悍なレースになるようイメージしている。
密度から言えば実にコンクだが、7日間のレースも過ぎてしまえばアッと言う間でしか無い。

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自分と闘い、そして自分を鼓舞し、あのfull of natureを満喫してきたいと思っている。

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ともあれ密度を濃くしたいのは山々だが、日々の生活はあくまでも平坦であり、急いて飯を食うにも限度がある。
向後の残りの人生を密度濃くしたいのだが、生きるリズムは次第に緩慢になりそうだ。

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2019年2月 9日 (土)

人は何故書くのか

あなたは今日、どんな人生を生きたのか、それを何処かに記録したいと思いませんか? 
それは変わり映えしない日常かも知れないけど、でもそこに自分が生きた証を残したいと思いませんか?

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確かに一人の人間の生き様なんて無数にある訳だし、それがさして価値ある筈も無い。
だけど、価値など関係なく、今日も生きたぞって、証拠を残すのはそれなりに意味がある。

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人は何故書くのか・・その動機は様々さ。単なる自己満足かも知れないし、或いは切迫した命の発露かも知れない。
私の場合は、書くのが人生の一部だからとでも言うべきか、書くことによって前に進んできたのである。

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例えば2006年3月に書き始めたこのブログだが、もう4,646日になって、1万MBの容量の97.1%を使ってしまった。
この間に掲載した写真は38,942枚で、ブログには86万近いアクセスを頂いた。

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書き続けられたのは、毎日ご覧頂いている人が居るって事と、書くことが自分を鼓舞してくれるからだ。
ほら・・・、人間って本来が寂しいものでしょ、その孤独な人間が頑張れるのは、誰かが見ててくれるよなって気持だ。

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小説を書こうと思ったのも、古稀を過ぎた男の戸惑いと生き様を何とか表現したいと考えたからだ。
若々しい命も何時かは年老いて朽ち果てていくのだが、しかしそれは書くことによってかなり変わるのでは無いか。

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歳を取ったからって頭は中々老化するものじゃなく、場合によっては青年の気持のままでいたりする。

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私なぞはその類いで、歳不相応なことを何時も考えていて、その人生を謳歌しようと思っている。

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時に「悠々自適ですね」などと言われるが、本人は是でも必死で生きているのである。
今、40才の時に書くことを私のライフワークにしようと考えたことは、素晴らしい選択だったと思っている。

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2019年2月 8日 (金)

日々是好日

このところ、毎日が何気なく過ぎ去っていく。
今朝は少し寒かったが、毎朝の子供達の見送りの後、ホウレンソウの収穫を済ませた。

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フッと気が付くと、我が家の傍らに大きな鴨が仰向けになって死んでいた。
畑の隅にでも埋めようかと思ったが、トンコレラの連想で、鳥インフルエンザではと思った。

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市役所に連絡すると、「鳥は亡(?)くなって居るんですか?それによって所轄が違うんです。亡くなっていれば衛生課、生きていれば農林課です」と言う。
「死んでるでしょう」と答えたが、二時間後にやってきた業者(?)は「これは、内では扱えません」と帰ってしまった。

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改めて鴨を眺めると、確かに微かながら嘴が動いているのである。
確かに死んではいないが、それはほぼ死に体であることに間違いは無い。

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だけど帰っちゃって、再び市役所に「猫や犬が待ってるんだよ」と言ってやった。
その後所属はともかく、何処かの所属が処理してくれて一件落着したのだが、縄張りの何とキツいことかとため息をついた次第だ。

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午後は、警察関係の会長会議があって、県庁で研修の半日を過ごした。
人という物は、その自分を如何に表現するかを考えるもので、会長にもそれぞれ色合いがある。

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今日は、条例制定に関わったり、オレオレ詐欺の啓発ビデオを自主制作したりと、その活動報告があった。
私が会長を務めてきた2年近く、率直にあまり主体的なアクションは起こさなかった。

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警察と市民を結ぶコーディネーターとしての役割だが、是が中々に難しいのだ。
ともあれ、今日は公安委員の皆さんとも親しく話すことが出来たし、是も是好日なんだろう。

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人はこうやって、人生の日々を費やしていくのである。

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2019年2月 7日 (木)

人は時の旅人

近頃、私が歩いてきた道程を、それはさして変哲もないものだが、振り返ることがある。
貧しい農家に生まれて、人並みに学校を卒業し、就職結婚、二男一女を設け今に到る。

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離婚もせず家族のために営々と働いて、それはそれで時の流れというか、必然だったと思う。

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その道程を自ら切り開いてきたと言いたいが、多分それは半分は流されてきたのだと思う。
例え流されてきたとしても、その折々に触れ合った人との出会いは正にドラマだった。

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そう・・・ジッとしていれば出会うことの無い人達に、何と多くの人達に出会ってきたことか。

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人間は、人との出会いによって成長し、時にそれが素晴らしい転機になるものでもある。
私も既に70余年の時を旅してきた訳だが、何時だってその転機は人との出会いだった。

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学校の先生はあまり印象に無いが、級友との切磋琢磨は私を育ててくれたし、職場の先輩同僚は何時も学びの対象だった。

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走り始めたのも、きっと誰かの影響だったろうし、書くことを始めたのも同様だろう。
つまり人の海の中で育てられ、多くの人達にもまれながら生きてきたのである。

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そうして70余年、今はかなり外部からの刺激が少なくなって、これから何処に旅しようかと戸惑っている。

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出会いは何処にあるのか分からない、だから未知の世界へと一歩踏み出すことが肝心だろう。
恐らく人生は最後まで冒険であるべきだし、私はそうやって旅を続けたいと思っている。

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人は時の旅人なんだし、あたらこの時間を無駄にしたくは無い。

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狂おしいほどに旅をしたいし、そして心温まる人に出会いたい。
人生は自分なりの物語を創っていくことだし、そもそも人との出会いは物語でもある。

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私の書いているノーベルは、時を旅する男の物語だ。

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2019年2月 6日 (水)

人生の答え

何となくボーっと生きているから、チコちゃんに叱られそうな気がするが、人生に答えなんてあるんだろうか。
70年あまり生きてきて、未だに答えらしき物に辿り着かないんだから、或いは無いのかも知れない。

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ひょつとすると、棺桶に入る直前に「あぁ、俺の人生これで良かった。」と思えれば、それが答えかも知れないし、それだって半呆けで訳が分からないのかも知れない。

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いずれにしても、そんなことをフッと思う年頃になったのである。
大抵の人は「人生のテーマ」なんてことは考えず、当面の目標に向かって必死で生きている。

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それは営業のノルマだったり、マイホームや子供の進学、或いは蓄財だったりする。

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地位や名誉なんてのもありそうだが、古稀を過ぎた私はそれらを全て通り過ぎてしまった。
今はしがない年金生活者で、この期に及んでどんな答えを出せば良いのだろうかと戸惑っているのだ。

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今日は再三督促された挙げ句の特定健診で、4年ぶりに人間ドックを受診してきた。

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全ての項目が終わって渡されたペーバーが、「逝き方(自分らしい生き方を考える)」講演会の案内だった。
検診の結果ならいざ知らず、散々血を抜いておいて逝き方を学ばせるとはどういう魂胆か。

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まぁ短気は損気と気を静め、「ありがとね」と押し頂いてきた。

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それはともかく、人生の答えも出ないうちに、そうそうと逝く訳にはいかないと思った。

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そもそも人生の答えは創り出すものであって、「自分らしさ」と同じ事なんだろう。

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私のこれからのイメージは、可能な限り遊び狂うことだが、その果てに終末が待っていれば、それは望むところ(本望)である。

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してみると、その答えは案外近くにありそうで、まぁ~躊躇せずに我が道を行くってことかな。

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2019年2月 5日 (火)

抑止力

戦争や独裁、暴力や不正など、世の中には理不尽なことで満ちあふれている。
国家と国家の関係は最たる物で、多くの場合、力が正義になる歴史が続いてきた。

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私達の日常に関しては、盗難や事故、不正行為や口論など常にトラブルは付きもので、
社会的ルールが辛うじて私達の規範を維持し、平穏な生活が保たれている。

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その最前線にあって活動しているのが警察で、ともすれば忌避されがちなのだが、実は有り難い存在なのである。

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この国の警察は、明治の初めフランスのフーシェの治安維持に倣って創設されたから、当初は「オイこら警察」で、人々を支配する色合いがあった。
しかし今日の警察は、正に勧善懲悪、市民の安全安心を創り出す抑止力なのである。

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まぁ~前置きは兎も角、昨日エコパで行われた警察の綜合警備訓練を参観したのである。

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今年のラクビーWカップを始めとして、来年にはオリンピックを控え、その警備訓練をの色彩がある。
管区機動隊の部隊行動や爆発物処理、大規模競技場での規制訓練、暴徒の鎮圧、観客同士の暴力制止などの実演が行われた。

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その訓練を県公安委員長や検事正の後ろで見物したのである。

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多くの人が集まれば必ずトラブルが発生するし、近年は偏執的なテロ行為も心配されている。

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危険を承知でその場に立ち、適切な措置を執るのが彼ら警察官の役割なのである。

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不正をすれば必ず暴かれる・・・フーシェの圧政とは違って、今日の警察は正義の味方だ。

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それに警察の組織力は、今日の私達の生活を支える頼りがいのある抑止力なのである。

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2019年2月 4日 (月)

監的哨

伊勢湾入り口に位置する二つの島には、南側の小高い斜面に、それぞれ監的哨跡が残されている。
監的哨なんて物は過去の時代の遺物で、今では「それ何?」と大半の人が言うだろう。

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戦時中には敵艦艇の伊勢湾侵入を防ぐため、それぞれの半島部に砲台が築かれ、その砲台から初謝された砲弾が確実に敵艦に着弾するよう指示するのがその役割だった。
浜松は米軍の艦砲射撃によって徹底的に破壊されたが、湾の奥あった名古屋はどうだったか?

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少なくとも艦砲射撃は監的哨のお陰で、或いは免れたのかも知れない。

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既に朽ちかけているが、流石にその上に立つと、沖合遙かを見渡すことが出来る。
何とも武骨なコンクリのその跡が、映画「潮騒」では、青春ドラマのクライマックスシーンの場になっている。

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コンクリの壁の中で焚き火をし、向かい合って濡れた衣服を乾かそうとする二人、当然ながら二人は半裸である。

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「見るな」と言う初江の言葉が、やがて焚き火を「飛び越えてこい」に変わっていく。

それを演じたのがうら若き吉永小百合や百恵だから、当時の若者は誰だって嫉妬した。

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さしたる事も無い青春の日の一場面だし、或いは誰にもそんな経験があるのかも知れない。

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その古ぼけたコンクリートの塊は取り壊されることもなく、今では島の大切な観光資源になっている。
ここで小百合が百恵ちゃんがと思えばこそ、その空間は俄然輝きを増すのである。

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歴史遺産とは往々にしてそうしたもので、豊臣秀吉がここでとか、義経が・・などと言われると、たちまちにして私達はタイムマシンに乗ってしまうのである。

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菅島の灯台だって日本最古ってことだから、傍らにあった灯台守の官舎(今は明治村に移設)跡、そこには水仙が生い茂っていた。

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恐らく伊勢湾を行き来する船舶を見守ったであろう人達に、想像を膨らませてしまう。

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灯台、その灯台も今では(電波とGPSに変わって)時代の遺物になっているのである。

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そうやってドンドンと時は移ろい、齡70過ぎの我が輩なども、次第にその類いになっていくのであろう。

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2019年2月 3日 (日)

神島から菅島へ

今回は伊良子岬と鳥羽の間に、伊勢湾を睥睨するように鎮座する二つの島を訪れた。
神島は、伊良子岬のほど近くにあって、あの三島由紀夫の「潮騒」の舞台として知られる。Img_2232
島を一週しても4k程しか無い小さな島、「潮騒」はその島を舞台に描かれ、吉永小百合や山口百恵、堀ちえみなどをヒロインに5回も映画化されている。
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私は勿論吉永小百合世代だが、あの監的哨跡でのクライマックスは忘れられないシーンだ。

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そもそも都会育ちの三島が、あの離島での青春ドラマを何故描き得たのかが謎だったが、

神島を訪れてその謎は解けた

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神島の自然とエーゲ海の小島を素材にした、下地となるギリシャ小説があったのだ。

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それにしてもあの誰もが通過する甘酸っぱい青春を、あの映画を通じて私も味わったのである。

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神島にはその撮影の舞台がそれぞれ残されていて、結果として私達はその撮影場面を辿って回ることになった。

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島には11時頃到着したのだが、神島灯台でゆっくりお昼をとったのに、2時間出回ってしまった。
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菅島への船の時間には間があって、結果として私は島を二周してしまったのである。

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ともあれこの島特有のカルスト地形も含め、小さい島ならではの風情を味わうことが出来たのである。
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三時過ぎに菅島への船に乗って、島の民宿に入り、アワビなど海の幸一杯のご馳走を楽しんだ。

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しんごろ浜から白髭神社、日本最古の菅島灯台、そして藪漕ぎの道を経て山頂へ。

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標高の割に随分と苦労させられたが、紅ツゲ群生地を抜けるとあっさりと山頂が現れた。

 

 

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ともあれ、この島の山頂を極めたのである。

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島の裏側に回ると、そこは大規模な砂利採石場のパノラマだった。

島の山を削って、骨材の運び出しが行われているのだ。

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この大山は伊勢湾の島では最も高い山で、昭和58年に自衛隊機の衝突で12人が亡くなった山でもある。

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歩くこと4時間、この菅島を満喫し、今回の二日間の旅を終えたのである。

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2019年2月 2日 (土)

タイ・バンコクの自然

「まっかな太陽、燃えている。果てない南の大空に・・♪」と、あの怪傑ハリマオの主題歌を思いだした。
バンコク空港に到着したのは17時過ぎだったが、宿に向かう車中から西の空に大きく真っ赤な太陽が輝いていたからだ。

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以前訪れた時の太陽を覚えていないが、こんなに大きくなかったのではと思った。
当然ながらこの二十年近く、バンコクの街も近代都市へと大きく変貌してきている。

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だけど車の渋滞は日常的だし、車道はともかく歩道はその呈を為しておらず、露天商の占拠する場となっている。
街中には至る所に高架鉄道が走っていて、その下はスカイウオーク(中空回廊)になっている。

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私達が気持ち良く走られたのも、この中空回廊のお陰で、街を見下ろしながらのジョグが出来たのだ。

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つまり、歩道は空中に移っている訳だが、そもそもタイの人達は歩くのも走るのも嫌いらしい。

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最も快適なこの時期でも30度を上回るし、雨期には湿度も高くて深い極まりないから、むべなるかなである。
ところで何時昨日の新聞記事に、「バンコクPM2.5で休校」とあった。

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車の排ガスを主因としたスモックが著しく、市当局が学校の閉鎖を命じたとある。

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私達がバンコクを訪れた時期であり、私の見た「真っ赤な太陽」はPM2.5の成せる業だったのだ。

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滞在中それ程苦にはならなかったが、確かに何時も鮮明な空気とは言い難かったし、現地の人達は皆マスクをしていた。

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その乾期の埃の中に無数の露店が営業している訳で、活力と活気は汚染と共存していた。
パタヤ海岸の汚染もしかり、私達にとって大切なのは、何よりもその生活環境だと思う。

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