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2019年2月19日 (火)

島原大変肥後迷惑

雲仙の朝は、冷たい雨が降り続けていた。
今朝は雲仙の宿から下って、島原の街を訪れた。

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島原の語感には、1637年の島原の乱や1792年の島原大変、更には平成4年の普賢岳火砕流と、どこかに哀感が漂っている。
島原の中心部には、立派な石垣に五層の天主を備えた島原城が聳えている。

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この城郭の一帯が前二度の大変の舞台であって、島原の乱では2万とも3万とも言われる人達が皆殺しにされた。

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元はと言えば、鎖国によって海外貿易の利を失った領主の酷税が原因で、24か村を挙げての一揆が起こる。
その一揆が信仰(キリスト教)と結びつき、天草四郎(当時16歳)を頂点とした島原の乱となる。

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一揆軍は、幕府の大軍を二度に渡って大敗に追い込んだのだが、時の幕府の威信をかけた総攻撃で、島原の24ヶ村に人一人居なくなるまで殺されたと言われる。
戦後、租税をただにする措置を講じて人を集め、島原地域を復興に導いたと記されていた。

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その155年後、打ち続く地震と噴火で眉山が大崩落して城下を埋め尽くし、それが大津波となって対岸の肥後を襲い二万人余の死者を出す、この国が希に見る被害を記録している。

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正に島原大変、肥後迷惑だったのが、高い城塁の上に立つ城は無傷で残ったとされている。
平成4年の噴火は、島原大変と良く似ていて、前年から地震が続き、1年後にあの大火砕流が起こった。

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火砕流は水無川を下り、海まで流れ出たのは記憶に新しい。

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今その地点は道の駅になっていて、当時火砕流に埋め尽くされた集落が「災害記録」としてそのまま保存されている。
災害の記録は大切なことだが、しかし被害者の気持は如何なるものだろうと心配になった。

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さても雲仙の地獄は、キリシタンを拷問して殺した所とされているし、今も熱い蒸気を噴出する地獄エリアには、それぞれ責め殺された信者の名が付けられている。

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島原とは、かくも悲しい物語を秘めた土地なのである。

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