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2019年3月22日 (金)

この程度の私

かつて子供の頃、自分ってヤツが一体どうゆう代物なのか分からなくって、随分戸惑っていたような気がする。
自分に何が出来て、何が出来ないのか・・・、将来はどうなっちゃうのか、結婚なんて出来るだろうか・・・などと。Img_2696
それが「あぁ、こうすりゃ良いんだ」って、人生が少し楽しくなり出したのは、就職してからだったと思う。
それでも、自分に対する不安はちょくちょく顔を出してきて、夢中で生きることでそいつを振り払ってきた。Img_2694
それが40歳を過ぎる辺りから、少しずつ自分を肯定できるようになったのだと思う。
それで受動的に生きるのではなく、自分の出来る範囲で少しずつ自分の世界を広げるよう努力するようになった。Img_2692
それは、外むけに文章を書くこと、走ること、作物を育てること、そして新たな出会いの場を求めることなどだった。
そうした主体的な行動が私の体のシンコになって、何時の間にか心の落ち着き先になってきたのだろう。Img_2691
そうして、自分はこの程度で良いのではないかと思うようになっている。
既に70歳を越えてしまった訳だが、勿論のこと手放しで自分を肯定することなど出来やしない。Img_2684_1
だけど自分を殊更不幸だとも、えらく幸福だとも、或いはもう少し裕福ならなんてことは考えなくなった。Img_2685
当然諦めだって含まれているが、人生に対する達観というのか、頑張ってきた自分を自分で認めてやろうって気になっている。
私も、少しおとなになったって事かな。


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2019年3月21日 (木)

風は同じく

私の育てているブドウの、早生の一本が芽を出し始めている。
8品種を栽培しているのだが、芽の出る時期は勿論、葉の形、芽の伸び方、果実の形や色もみんなそれぞれ違う。Img_2722
個性と言うんだろうか、だからこそそれぞれの品種が可愛いし尊重されもする。
今日は雨だったが、やはり春がそこまでやってきていて、南風が吹いて温かな一日だった。Img_2724
昔(子供の頃)、もっと大きくて強かったらとか、もっと頭脳明晰に産まれたらと無い物ねだりをした時期があった。Img_2725
いじめられっ子で、多分端とか仕返しをしてやれない物かと夢想していたのかも知れない。
ともあれ人も人それぞれで、そしてこの人生の風も同じように吹いている。Img_2726
そうして70年、今ではすっかりあきらめて、否あきらめるとは止めることではなく、その風の吹き様を理解したって意味だ。Img_2727
そうして、常に自分なりの花を咲かせようと歩き続けている。
今日はお彼岸のお中日だから、例によって遠州三山(可睡斎、油山寺、法多山)を走ってきた。Img_2728
雨のためか参加者は少なかった(9人)が、このコースはアクセントもあるし、丁度手頃なのである。Img_2729
ニュージーランドの後遺症は実はまだ続いていて、それても明後日の房総ウルトラを控え、何とかならしをと思ったのである。
二十数キロを走り終え、ゆっくりと湯に浸かって我が足を労ったのである。Img_2730
あさっては、きっと上手くゆくに違いない。そう信じて・・・。

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2019年3月20日 (水)

ニュージランド余話

ニュージは、物価の高さを我慢できるなら、景色は良いし落ち着いた住み易いところだ。
その国であんなテロが起きるなんて・・・誰もが思うところだろう。Img_2686
その落ち着いたたたずまいは、国土が日本の本州位(37%)の所に、人口478万人(日本の3.8%)に過ぎなことからきている。
キャプテンクック上陸以来、広々とした土地に羊を飼ってゆったりと生活してきたと言える。Img_2688
しかし近世に入って羊(羊毛)はさっぱり売れなくなった訳で、国は総力を挙げて羊毛に代わる産業を育てている。Img_2690
それが富裕層の移民受け入れや観光業(主にアウトドアスポーツ)、そして日本向けの木材産業だったりする。Img_2693
観光に関しては、白人と羊が数百年に渡って造り上げた景観は(二次的自然であるにせよ)見事な物で、当然ながらその自然を舞台にしたアウトドアレジャーは無尽蔵とも言える。
私達の走ったコースも、堪能した自然もそのほんの一部だった訳である。Img_2694
それでレースの終わった翌日(ほんの一日だったが)、クイーンズランドで細やかな(IさんやOさんは、4,500mからのスカイダイビングなどを楽しんだようだが)観光気分を味わったのである。Img_2695
先ずはワカティプ湖に注ぐショットオーバー川に向かい、そこであのジェット・ボートに乗ったのである。Img_2700
何とこのボートは、巨岩のゴツゴツとむき出した川幅の狭い渓流を、時速85kものスピードで縫って走り、時に360度の回転スピンなどスリル満点なのである。Img_2702
心臓の弱い私などは、前のバーにしがみついたまま終わってしまったが、白人はどうもこのスリルが堪らないらしく、歓声を上げっぱなしだった。Img_2705
やれやれと街に帰って、名物だからと行列に並んで巨大ハンバーガーを買って、湖畔に座ってこれを完食。
次は、君子危うきに近寄らずとばかりに、今度は自転車を借りてワカティプ湖畔をサイクリングすることにした。Img_2706
ぐるっと回れば77kだが、その1/3程を巡ってこのクイーズタウンの全貌を眺めようとの試みだ。Img_2707
そして、空気は爽やかで、対岸から眺める観光の街も全体が見渡せ、これは結果として良かった。Img_2708
前日のでの筋肉疲労を幾分ほぐすことも出来たしね。Img_2710
夕方になって街のあちこちをブラつきながら、生のライブ演奏をしているオープンガーデンに入った。Img_2711
音楽を聴きながら、この土地のご馳走を頂こうということだが、そのビーフやチキンが何と巨大だったことか。
午後7時、まだ陽が高くて西日に照らされながら、この一週間あまりの余韻に浸っていた。Img_2713
私の、今回の非日常は、このレストランで終わることになった。


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2019年3月19日 (火)

春の日差し

ニュージーランドで非日常を堪能している間に、こちらではもうすっかり春の日差しが満ちていた。
そして春は旅立ちの時でもあって、卒業・入学、そして就職と新たな生活へのスタートの時期でもある。Img_2714
毎年臨席させてもらっているのだが、今日は地元の中学校の卒業式であった。
ヒヨコが若鶏になって飛び立とうとしているって風景かな、中学三年とは言ってもまだまだ子供でしかない。Img_2715Img_2714
旅だった先に何が待っているのか、不安が大部分でほんの少しの期待と言ったところだと思う。
私のあの頃を思うに、何も考えられなかったし、卒業式だってそれ事態が目一杯(100%)だったと思う。Img_2716
そうやって彼らも、一枚一枚脱皮しながら大人になっていくのである。
そう・・・彼らには、様々な不安の分だけ未来があるのだ。
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それに引き換え、もうすっかり脱皮することも無くなった我が身には、何が残されているだろうか。
確かに体力の衰えは否定できないが、精神は益々成熟しているし、物を思うことだって鋭敏になっている。Img_2718
今日転任で挨拶に訪れた某署長が、「71歳の老いぼれが、外国の高山を250k走った」と聞いて目を丸くしていた。
誰もが1年ごとに年を重ねていくのだが、その積み重ねは決して無駄な物では無いと思っている。Img_2719
いや漫然と年月を費やすのは無駄かも知れないが、「まだ、これなら自分に出来る」ことを追い求めていくなら、それは結構良い老いに繋がるのではないか。
この中学生達に「老い」なんて言葉は無縁だが、若さに関係なく、人は誰も一年一年と老いていくのである。Img_2720
そして肝心なのは、それぞれのやり方で自負を持って生きることだと思う。

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2019年3月18日 (月)

ファイナルステージ

物事の終わりという物は、何時も素っ気ない顔をしてやってくる。
今朝も何時もと同じようにブリーフィングが始まって、距離は15k、近くの景色の良い「丘」を一回りして、出発地点に戻ってくると説明された。

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最後の15kであって、もう誰もが気負い込んでダッシュしていく。

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荷物は軽くなっているし、何よりも「これで終わり」と思う気持がそうさせている。

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コースは、ニュージには珍しい原生林を抜け、やはり沼地や牧草地を越えていく。

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やがて登りに入って、どんどん標高を上げていくと、眼下にWanaka湖が広がり始める。

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これが「丘」かと思いきや、さらに278mまで登って、そのピークを越えて驚いた。

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山の向こう側は、ワナカ湖に流れ込む川に向かって、真っ逆さまに落ち込む急斜面だった。

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踏ん張りどころのないズルズル滑る斜面で、うかうかすると200mも滑落して川に飛び込みそうである。

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何が丘なもんか、立派な急斜面の山じゃないか・・・やはりコース設計者は、最後だからと手を抜くことは無かったのである。

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結局、二時間で走り抜こうと考えていたのに、三時間近くを要してゴールゲートを駆け抜けた。

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ゴールの景色は、それはもう敢えて触れる必要も無いが、困難を乗り越えた者達だけに通じる共感に溢れていた。

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一週間振りに口にしたアルコールは、スウーッと体中に染み込んでいった。

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バスに乗り込んで(車内は異臭で溢れていたが)二時間、クイーンズ・タウンのHに入った。

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先ずは真っ白な髭を剃り、一週間振りのシャワーを使った。

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レース後のレセプションは、街の中心部にあるホテルで開かれて、ビデオが放映され、各部門の表彰があった。

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その中で私の名が呼ばれ、年代別トップ(二位を5時間以上引き離していた)のトロフィーを頂いた。

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今回のレースも、全て終わってしまったのである。

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帰国してRacing The Planet New Zealand websiteを開くと、その片隅に私の姿があって、「71歳でもこのコースは十分走ることが出来る」云々とコメントされている。

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十分なのかどうかは別にして、死にそうになりながらも精一杯走り抜いたことは事実である。

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2019年3月17日 (日)

くつろぎの時

目が覚めてまず最初に思ったのは、今日の天気だった。
リチャードが寝袋から這い出して、テントの外を見ながらIt's cloudy.But it's a fine day.と言った。

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起き出して空を見上げると、一面に雲が広がっていたが、どうやら好天に向かっているようだ。

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テントサイトの真ん中では、三々五々、何時もと違ってゆったりとした朝食が始まっていた。
昨夜は、冷たい風と雨で低体温症が続出したし、コースを急遽変更したりした影響で、一部のランナーは朝になって帰ってきた。

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しかし、その全員が薄日の差し始めたテントサイトに、元気な姿を見せていた。

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レース途中の唯一の寛ぎの一日、36カ国のその国籍を超えて、笑い語り合っている。
この何日かの間に、生死を考えることすらあったのに、もうそんなことは打ち忘れているのである。

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ぐしょぐしょに濡れた衣服や寝袋を干したりの他は、何もすることのない一日なのだ。

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ハッピー(26名のグループ)は、「ダルマさんが転んだ」をやり始めていたし、川辺に椅子を持ち出して語り合うカップルなど、本当にくつろぐとはこんなシーンを言うのだろう。

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しかしなから、1万メートルを超える総標高差を走る今回のレースは、racing the planet史上最も過酷な大会になったようで、既に34%がリタイアしていたし、当初のルール通りなら半数は失格の筈であった。

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それに昨夜の結果はどうなるって心配だが、何しろ人によって走った距離が違っているし、カウントもされていないのだから。

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結局、それまでのラップタイムを逆算して順位を決めるらしい、つまりCP5~CP7はノーカウントって事だ。

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ともあれ、色々とあって長かったこのレースも、明日の15kを残すだけになった。

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過ぎ去ってみれば、日々の人生同様に束の間の出来事になっていくのである。

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しかし、少なくともこのレースが、非日常の最たるものであることは間違いない。

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2019年3月16日 (土)

第五ステージ(The Long March)

今日は、このレース最大のクライマックスとなるはずのオールナイト76kである。
問題は天候だが、予報ではどうやら午後から雨になるらしい。

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肌寒い風の中、雲の多い空を見上げて気をもんでいると、今日はタートが9時とアナウンスがされた。昨夜遅くなってゴールした参加者への配慮らしい。
ともあれ、明日の夜明けまでタップリの時間があるんだから(何が起こるか分からないが)、今日こそはレース終盤をゆっくりと楽しもうと思っていた。
枯れ草を踏み分けて走って行くと、そこには一本の遙かなる道が出来ていく。
その道が、縫うように山裾を辿りながら登っていく。やはり今日も、山登りから始まったのである。

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しかし山頂に登り切ることなく下り始め、今度は湿原に踏み込んでいく。
幾つもの羊の群れを囲うゲートを越え、やがてWanaka湖の畔りへ出た。
この国では山と山の間には、氷河が造った大きなカール湖があって、その独特な景観を成している。
しかし今日は、その湖の水が海のように波立って、大きな波音と共に岸に打ち寄せていた。

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私達はその湖を眼下に、湖畔の道を上下しながら回り込んでいく。
昼近くなってCP2に着いて空を見上げると、湖の向こうは真っ黒な雲で覆われ始めていた。
そこから標高861mの山越えをしなければならないのだが、その登りが始まる頃から雨と風になった。
慌ててポンチョを被ったが、強風にあおられて何の役にも立たなかった。

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防水の上下を装備するよう義務づけられていたのに、どうも甘く見ていたようだ。
やむなく持っていた紐でポンチョぐるみ帯のように縛って、何とか急場をしのいでいた。
濡れながらも先を急がねばならず、どんどん標高を上げていったが、雨は強くなる一方だった。
やがて道はドロドロと泥濘んで、途中の川渡りも冷たさを除けば苦にならなくなった。

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もう何てもありである。この刹那を何とか切り抜けるしかない。
CP5(53k地点)では19時を回っていたが、雨の中で軽く食事を済ませ、ヘッドライトを装着して先を急いだ。
残りの距離は25k、何とか午前二時過ぎにはゴールしたいと考えていた。
風と雨は益々強まっていて、手が凍えて寒かったが、何とか耐えられるだろうと自分を叱咤していた。

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すると真っ暗な中で、男が大声で怒鳴っている。しかし、何と言っているのか分からない。
この寒さの中で大声で激励しているんだと理解して、ひたすら先を目指していた。
7~8k行った辺りだろうか、反対方向から先行していたランナーが次々と戻ってくる。

コースが折り返しに変更されたんだろうか・・・それにしても変だ。

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事情を聞こうにも、真っ暗だし言葉の壁もある。不安なままだが先を急ぐことにした。
大会のトラックが止まっていて、男が「誰かが指示するから、それまで先へ進め」と言っている。

更に2kほど進むと、男が立っていてCPでもないのに「ストップ!! ゴーバック」と叫んでいた。

何が何やら訳が分からなくなっていると、傍らから「ヤッチャン」と呼ぶ声がした。

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テントメイトのリチャードだった。彼によると、このままのレース続行は無理と判断され、レースは中断された。5kほどバックして、テントサイトに収容するらしい。
どうやら先行するランナーは、腰まで水に浸かって川を渡ったらしいが、今はもう増水でそれも出来ないらしい。

通ってきたCP5では、低体温症のランナーが続々と出ているとも言っていた。

再び「ヤッチャン。ゴー、バック」リチャードは力を込めて言った。

それから一時間あまり、私達は23時過ぎ、テントサイトの光を目にしていた。

ドロップバック(緊急時のために準備していた)が渡され、直ぐに着替えろという。

流石に寒く、しかし暗闇で自分のテントを探したが分からない。すると「ヤッチャン、こっちだ!!」とリチャードがテントの口を開けて叫んでいた。

テントを強い雨が打ち付けている。「終わった!」と思いつつ、興奮と安堵が代わる代わる
去来していた。

先行していたはずのイカリは、まだ帰ってきていなかった。

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2019年3月15日 (金)

第四ステージ(Be Persistent)

Difficultが二つ並んでいて、今日は確かに最も大変なPersistent(拘り)の一日になった。
昨夜は雨が降った。テントを打つ雨音で目覚めると、遠くから轟音が響いてきていた。

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どうやら、沢山の牛が一斉に鳴きだして、それが轟音の様に響いてくるらしい。

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雨の少ないこの時期、あるいは牛にとって、草を育む雨は天恵なのかも知れない。

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その雨も一時で止んだ様だが、明日の天気を気にしながらの眠りとなった。

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6;00ヘッドライトの光で身支度をし、テントの外に出ると、そこには一面の星が降っていた。

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今日のレースの始まりは、雨で濡れた牧草地を抜けて、草原から山に登ることから始まった。

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先ずは461mから幾つもの川を越え、1518mまで一気に登るのである。

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次第に標高が上がってくると、眼下にWanakaの湖が少しずつ広がって見えてくる。

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しかし山は延々と登っていて、遙か彼方のピークに着くには、4時間と少しを要しただろうか。

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そのピークを過ぎてやれやれと思った時、目の前の景色は突然一変した。

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ピークの先は、奈落の底を覗き込むかのような断崖絶壁で、1000mも下の谷底が真下に見えた。

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コースは、何とその断崖絶壁の縁をぶら下がるように続いているのである。

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一瞬息を飲んだがここで引き返す訳にはいかない。それに、みんな渡って行ったのだろう。

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しかし、降りるにも横に行くにしても足場がないのである。下は、目もくらむような絶壁であった。

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これが日本ならロープや鎖が渡してあって、こんな所を人が通る何で決して許されないはずだ。

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しかしながら、ここは須く自己責任の国、落ちて死のうが誰の責任でもないのである。

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確かチェックインの時、「仮に事故があっても、全て自分の責任とする」にサインさせられていたことを思い出した。
それにしても、こんなにデンジャラスな登山以上の登山があるとは、知る由もなかった。

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それに足を置く岩は5cmもない微かなもので、しがみつく岩とて無いのである。
足を滑らせれば間違いなく絶命たが、それを何とか(15分程要して)切り抜けた。

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一安心の筈だが、その後もズルズルと滑り落ちる足場が続いて、生きた心地がしなかった。

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やがて尾根の登りになって、その尾根を登り切ると、何という凄い景色だろうか、そこにはWanakaの全景をを見渡す絶景が広がっていた。

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コース設計者は、これを見せたい為に敢えてこの危険なコースを設定したのだろう。

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それにしても、山と谷がコバルト色の湖を抱きかかえ、この地の創造主が思いのままに造り上げたとでも言っているような。

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それはどんなに美しい絵画であっても、こんな景色の前には破り捨てられてしまうだろう。

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そこにはWanakaからだろうか、ピクニックの男女が何組も登ってきていて、そこは最大のビューポイントだった。

しかし、景色を眺めるのもそこそこに、この山を下らなければならない。

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遙かな眼下(8.5k先)にCP3が見えたのだが、そこに辿り着くのには1時間余かかっていた。
さてもこの日は、16:10枯れ草が生い茂る絶景のベースキャンプに入った。

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今回のレースは、死にそうに怖い目に遭ったが、これで半ばを消化したのである。

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2019年3月14日 (木)

第3ステージ(Be Steadfast !!)

心配していた雨にこそならなかったが、依然として冷たい風が吹き付けている。
昨日の過酷なコースには私自身もかなり参ったが、我がテントの2名を含め、最初の二日間で既に61名(30%)もがリタイアしてしまっていた。

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確かに昨日の山や谷は、想像を超えたスケールだった。

とてものこと、ある程度の経験が無ければ決まった時間までにキュンプサイトに到着するのは難しかっただろう。

そのリタイアのあまりの多さに、主催者は朝になって、今日のコースを42kから34kに短縮すると発表した。

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昨日の疲れも残っているせいか、誰も文句を言う人はいなかったが、それでもCP2からはDifficultと標記され、標高1,903mまで登らねばならないのだ。
ともあれ、ランナーは120数名に減ったが、クロスカントリーコースに沿って、山に分け入っていく。

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CP1を過ぎた辺りから更に急勾配になって、道などはないから、フラッグを追ってひたすら登っていく。
標高が上がってくると、昨夜来の雲が霧となって、下から吹き上がって来るようになった。

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やがてその霧が山全体を覆い、行き先を示すフラッグも見えなくなって、先行者の影を必死で追いかけていた。
風と霧は猛烈な突風となって吹きつけ、バックパックごと吹き飛ばされそうになる。

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それにタイツを履いてきたのに猛烈に寒く、正に冬山登山状態になってしまっていた。
とにかく防寒対策をしなければと大きな岩の陰に隠れ、ズボンとブレイカーを着込んだが、それすら吹き飛ばされそうである。

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これが何処まで続くのか・・・・「遭難」と言う言葉が去来し始めた頃、やっとコースは下りに入った。
下りに入って暫くするとようやく霧ははれ、遙か彼方へと続く山並みが眼下に広がっていた。

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そのうねって続く山肌の道を、ランナーが点々と縫うように続いていた。
やがてコースが左側の谷方向に折れると、俄にパノラマの視界が広がった。

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それは遙か1000mも下に広がるカールの底で、牧場や植林地、そして幾つかの別荘地が見える。
その谷底の一点に、小さく今日のテントサイトが見えるではないか。

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あそこまで降りれば今日のレースは終わるのだ。
しかしその急な下り坂は延々として続き、見えているテントサイトは一向に大きくはなっていかない。

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実はランナーにとっては、登りよりも急な下りの方が足への負担がより大きくなるのだ。
それでも下り始めて一時間半、氷河の削った底に広がる牧草地のサイトに入った。

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距離を短縮したお陰で、今日こそは陽のある内にみんなゴール出来そうである。

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それに嬉しいことに近くに小川が流れていて、川に入って体を洗ったり、暫しの寛ぎとなった。

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しかし、私達のテントには3人しか帰ってこなかった。(この日、米国のラッセルがリタイアしたのだ)
テントメイトは、三日目にして三人になってしまった。果たしてこの日が、Steadfast(着実な)日だったかどうか?

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2019年3月13日 (水)

第二ステージ(Be Willing ??)

Difficultを含むこの日のコースは、そう・・・確かに凄い一日になった。
最初の10kは、ブドウやサクランボの畑を横目に、Kawarau川に沿って登っていく。

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早朝の澄んだ空気とも相俟って、独特の河岸段丘の景色が美しく、昨日とは様変わりの快適さだった。
それが11kのチェックポイントを過ぎると一変し、何処までも限りなく続く登りになった。
ハゲ山だから遙か彼方を登っていく仲間の姿が、その峰沿いに点々と見える。Img_2564

「あそこまで行けば、きっとピークだろう。」何度そう思ったことだろうか。

しかしピークと思ったその曲り角に辿り着くと、遙か彼方の向こうに次のピークが続いていた。Img_2565

この日の最高地点は標高1,342mだから、約1,000m登れば良いのだが、それが限りなく遠いのだ。
思えばこの国には、1,000mから2,000mの山は無数にあって、それがみんな連なっているんだから、トレイルコースなど幾らでも出来るのである。Img_2566
それでも二時間ほど登って、やっとCPに到着し谷に向かってコースは続いていた。
やれやれこれで山は終わりとホットしたのも束の間、谷底に降りてみると、コースフラッグは別の山に向かって続いていた。
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その山をかなり登って、今度は中腹の道なき道を進んでいく。
ススキの様な草の株が行く手を塞ぎ、棘のある草もあちこちから突き出している。
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左側は深い崖になっていて、誰も居ない山中をたった一人で進むだけでも心細い。
「アッ」と叫んだかどうか、草の株に足を取られたのか足首を捻って転んだ。
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その瞬間、バックパックの重さに引きずられて、崖にズリ落ちしてしまった。
無意識に枯れ草をつかんでいて、辛うじて体は谷底に滑り落ちずに済んでいた。Img_2570
右足首に猛烈な痛みがあって、草にぶら下がって暫く痛みの引くのを待っていた。
やがてソロリと体を引き上げ、足のかかる岩を探していた。Img_2571

どうやら足は大丈夫で動くようだ。少しずつ這い上って、復帰できたのである。
このコースは設計者の思いのまま、かなりトリッキーに造られているようだ。
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いや設計者が意地悪と言うよりも、このありのままの二次的な自然が、設計者をして面白くさせようとするらしい。
コースフラッグを見通して自分の道筋を見極めないと、たちまち行く手を棘の木で遮られたり、湿地に入り込んでしまったりもする。Img_2573

このトリッキーな山のコースは、何時果てるのだろうかと、正に根比べである。
山を下りて湿地帯の端に沿っ進みて、やがて谷に降りた。
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道は途中で途切れ、どうやら川を渡る他なさそうである。
氷河の溶け出した冷たい水に靴を濡らして渡りきると、そこには次の山が立ち塞がるように待っていた。
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「もう、堪忍してくれよ」と呟きながら、黙々と登る他に選択肢はなかった。

18時近く、山頂のクロカンロッジ近くに設けられたテントサイトに着いた。

ひどく冷たい風が吹いていた。
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空は雲で覆われ、夜には雨になるかも知れないという。

着られるもの全てを着て、早々に寝袋に潜り込んだ。

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大会事務局は、この日もゴールリミットを21時まで繰り延べした。凄いコースだった。

テントの外では、寒さに震えながらゴールしてくるランナーを出迎えの歓声が続いていた。

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目をつぶっても眠れないし、それに、暑いのか寒いのかそれさえも定かでなくなった。

この日、テントメイトのリン(オーストラリア)とリー(中国)がリタイアした。

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2019年3月12日 (火)

第一ステージ(Moderate?)

昨夜のテントサイトは、ワナカの街から700m程登った山(標高1,072m)に設けられていた。
枯れ草の上は羊の糞が一杯で、この一夏を羊達が過ごした所だと容易に知ることが出来る。

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ニュージの山々にはほとんど樹がないが、それはキュプテンクック上陸以降の数百年で、白人と羊があらかたハゲ山にしてしまったからである。

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而して野や山に残されているのは、羊の食べない棘の有る木や草だけだ。
ともあれ私達は、その無数にある羊たちが作り上げた山や谷を走るのである。

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この日の最も高い山は1,214mだったが、大会のコースノートには丘(hills)と表現されていた。 

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寒い夜が明けて8時(明るくなり始めたばかり)、180人余が枯れ草を踏み分けながらスタートしていく。
直ぐに次の山の登りに入って、その急な登り下りが幾つも続いている。

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ハーハーと息は上がり、これは大変な山岳レースだと気付くのに時間は掛からなかった。

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最初の10kで二時間半も費やしてしまったが、やがてwater raceと呼ばれる水路沿いの道を進む。
道と言っても道など有るはずも無く、先に通ったランナーの足跡を辿るだけで、それも草が邪魔するし泥濘みも多い。

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水路は、その昔ゴールドラッシュを起因として造られたようで、20kにも渡って続いている。

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その山の中腹を等高線上に沿って流れる川を時に跨ぎ、ジャブジャブと入ったりしながら、「もう堪忍してくれ」と言う頃になって、今度は深い谷底に降りていく。
とにかく給水ポイントまでの10k余が、とてつもなく遠いのである。

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しかも背中の10kg余の荷物は肩や腰に食い込むし、この山岳42kは半端ではない。

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「これは、砂漠レースよりも、はるかに大変だ」と思い始めていた。

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それでも18時近くなって、かなり疲れて麓のキャンプサイトに入ることが出来た。
傍らを流れる小さな疎水で体を洗い、ついでに来ている物もザブザブと汗を流した。

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羊の糞尿が一杯なんだろうが、そんなことに構っては居られなかったのである。

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この日、門限の20時を過ぎてもかなり多くのランナーが帰ってきていなかった。
やがて大会事務局は、(かつて無いことだが)門限を一時間延長すると発表した。

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20時前後にゴールしたチーム参加の日本人(ハッピー)は、最初の一日にして目に涙を浮かべていた。

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今日のコースはModerete(ほどほど)と表現されていて、明日のDifficultは一体どうなるのかみんなで心配し合っていた。過酷なレースになるのは間違いなさそうだ。

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2019年3月11日 (月)

出会いの時

リゾートホテルでの一夜が明け、午前9時、湖畔のホールに集まってミーティング。
それぞれrecing planetと国旗のバッヂを腕に付けて、続々と40カ国近い国からやってきている。

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4デザーツなど幾つかの大会に出ている人も多く、あちこちで再会を喜び合っている。

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メディカルスタッフの紹介など一通りの説明が終わると、18歳の最年少選手、そして私を含め70歳以上4名の紹介がされた。
幾分誇らしくもあり、改めて今回の完走を期していた。

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続いて、メディカルチェック、装備品チェック、エネルギー確認が行われて、ようやくゼッケンとパスポートが渡された。

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と言うのも、今回は雨と寒さ対策が肝心と言うことで、ウオーム帽子2+1、手袋2+1、防水ズボンに上着、それからいざという時の場合のドロップバッグの装備が必要になったのだ。

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背負う荷物はそれだけ重くなるのだが、皆さんそれぞれに工夫を凝らしている様子である。
そうした40種類に及ぶ装備品のチェックは午後にまで及んだ。

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ともあれ二時過ぎには、三台のバスに分乗し、この日のテントサイトまで二時間ほどで移動。

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テントサイトは、ワナカ湖を見下ろす丘の上に設営されていて、眼下に湖を囲むように別荘地が散らばっている。

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私は22番テントで、これから寝起きを共にするテントメイトと顔を合わせたのである。

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それはオーストラリアのリン(女)、ニュージメランドのリチャード、日本のイカリ、アメリカのルシール、中国のりー(女)、そして私の6人だった。

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テントの中に丸くなって座ったがみんな表情が硬く、気難しそうなルシール、無口なリチャード、それにリンは意地悪そうにも見えた。

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そんな中、北京から来たリーが、流暢な英語で「それぞれ、自分のことを紹介し合いましょうよ」とりードし、すかさずイカリが応じた。

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過去のグレイトレースの経験やら家族のこと、仕事のこと、少子化に待て話は広がって、そこはやはり同じ走る仲間なのである。

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それにしても中国のリー(45歳?)は如才がなく、人あしらいも中々上手かった。

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この六人の仲間と7日間苦楽をともにするものと思ったのだが・・・事態は意外な方向に展開していくことになるのだが・・・

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2019年3月10日 (日)

ニュー・ジーランドへ

さて、まだクイーンズ・タウンを満喫しているのだが、今回の挑戦について縷々書いていこうと思っている。

先月末日、期待と不安をない交ぜした気持ちで、雨の中の成田を旅立った。

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最大の不安は、現地についてからバックパックに荷物を詰めなければならないことだった。

何しろ南半球のこの地域は、植物検疫が厳格で、内容不明なものは持ち込めないのだ、

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従って、食料品はすべて包装ぐるみ持ち込み、現地でコンパクトにせざるを得ない。

それにニュージ到着はレースチェックインの前日晩方だから、買い足しの時間はない。

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NZ90便は、ジャンボ機なのに悪天候のため、一時間遅れでオークランドに到着した。

4時間の時差があるから、実質9時間のフライトだった。

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オークランドでの入国となったが、案の定バックは全て開けられ、小さなハチミツを全て没収されてしまった。

オークラントで乗り継いで、南島のクイーンズ・タウンに向かう。

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機の窓からは、氷河によって削られた荒々しい山々が連なっている。

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やがて飛行機は、その氷河の造った谷に向かって、山と山の間を回りこむように降り立った。

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空気はからりと澄んで、目の前にはコバルト色の湖が広がっている。

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その傍らには、上空から目にした急斜面の山がそそりだっていた。

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大会の集合場所は、クイーンズ・タウンからバスで更に二時間行った所にあるリゾート地WANAKAである。

WANAKAはワナカ湖を囲む世界屈指の景勝地で、午後20時過ぎ(21時までは明るい)、そこのホテルに入った。

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大急ぎで、明日のレースへのチェックインへの準備(バックパックへの荷物詰め)を済ませた。

重さは約11k、こいつを背負って250k走るのである。・・・ワナカは美しいところだ。

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2019年3月 9日 (土)

アグレッシブな羊達

7日間のレースを終えて、クイーンズランドのホテルに帰ってきたところだ。

一言で表現すると「何と過酷なレースを走り抜いたものだ」と言うことで、昨年のあの砂漠レースを遥かに上回るレースを、ホテルへのバスの中で思い返していた。

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ホテル巣を走り切ったのだから、に入って、一週間ぶりにシャワーを浴び、羊の毛のように白く伸びたひげをそった。

その白さは、レースの疲れなのか、それとも寄る年波なのか?それにしても、この過酷なレースを走り切ったのだから、この体と生命力を褒めてやるべきだと思っている。

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実を言うと、ニュージに入るまでは、羊の群れが草を食む長閑な草原を走るくらいに、甘く考えていたのである。

それがレース初日から大変な山岳レースだと、気持ちを切り替えざるを得なくなった。Img_2547

コースはすべて山また山、そして谷や川を越えて、息継ぐ暇もない真に激しいものだった。

さて、話は羊である。Img_2582

私達は、その苛烈な山と谷に向かって、Go!の合図と共に重い荷物(バックパック)を背負って、毎日40km余を走るトレイル(山岳レース)に駆り立てられていく。

誰一人文句を言う訳でもなく、ひたすら黙々と山に向かって行くのである。Img_2600

それは真に従順で、何時果てるとも知れない急登の連続、奈落の底に落ち込むかのような深い谷への下り、冷たい川を何度も踏み越えていく。

その山や谷、湖の織りなすパノラマは、レースの苛烈さと裏腹に、絵にも言えない美しさである。Img_2611

レースの厳しさは、7日間のレースなのに、最初の二日間で61人(33%)ものリタイア者を出したことでも明らかだ。(最終段階では50%近くがリタイア)

しかしレースを終わった今、それは限りなく長閑な安堵と、一抹の寂寥感に変わっている。Img_2621

生死を分けかねない場面にも遭遇しながら、その割には随分と清々しいのである。

どうやら人間と言うものは、苦しいことは忘れ、楽しいことのみを記憶するように出来ているものらしい。Img_2647

今回は延べ一万km余の山を登り、谷に降り、沼地を辿り走り続けた。

走りながら気を紛らせようと、羊の群れに向かって「おーい、何考えてんだぁ」と言ってみた。Img_2654

すると返事は「ウメエェ~」としか返ってこず、相変わらず黙々と草を食んでいる。

草が美味いというのである。そう・・・羊達は食べるために生きているのである。Img_2669

だが人間は、生きている限り何事かを為す為に食べているのである。

今回のレースにしても、私達は決して追い立てられる羊ではなかった。Img_2672

私達は、自分の意思で想像を絶する過酷なレースに立ち向かったのだから。

レース前に新調した靴は一気にぼろ靴に変わり果てたが、それすら誇らしく思えるのである。

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とにかく、この7日間の激しいレースが終わったのである。

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2019年3月 8日 (金)

第十四節 共にゴールへ

第十四節 共にゴールへ

 6日間の砂との戦いのレースは、やがて終わりを迎えようとしていた。この日はウイニングランとでも言うべきコースで、大西洋に沿った10kを走ってゴールを迎えるのである。何時果てるとも知れなかった250kなのに、そのレースも終わりだ。ただ一人、海岸沿いを走っていると、朝日に照らされて鈍く光るものを見つけた。それは白っぽい小指の先ほどの石であった。男は、それをダイヤモンドの原石だと直感したのである。石をポケットに入れ、時恵への土産にしようと思った。

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 250kの砂漠レース、そのゴールは目の前にあった。重かった荷物は既に軽く、この6日間に気ままに伸びた髭に加えて、全身砂まみれでむさくるしかったが、心も体も軽快だった。砂の上にぽつんと建てられたそのゴールゲートはあっけないほどに小さかった。午前10時、そのゴールに飛び込んでWe were done. Everyone.と大きく叫び、隣を併走していた澄江を強く抱きしめた。このレースを共にしてきた澄江は、ボロボロと涙を流して歓喜していた。いや、殊更澄江を抱きしめた訳ではなく、周りのみんなと抱き合っていたのだ。

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 砂漠からスワッコップムントのホテルに帰ると、直ぐにレース終了のセレモニーが始まった。優勝はフランス人、そして若月は三位だった。続いて、男の名がコールされた。70歳代の優勝者として紹介されたのである。ステージに登ったその無精ひげの男は、トロフィーを高く掲げて絶叫して いた。

We were challenging and enjoyed being on the sand road. And, We were done, everyone. I’m going on my seventy. But I don’t never get old.  Thank you.I’m old runner and almost ・・・

 

第十節 別れ 

 セレモニーを終えて部屋に戻り、幾分のアルコールのためか大きなため息をついた。「終わったんだ」そう言い聞かせながら、スマホの電源を入れていた。幾つかの着信音が鳴って、その中に時恵からのメールがあった。時恵のメールは、「砂漠レースお疲れ様。ブログとユーチューブで観ていました。あなたのことだから、必ず完走すると思っていました。おめでとう。」と書き出してあった。だが続いて「それでこの際だから、思い切って長いメールを書きます。」とあって「あれから色々と考えたの。あなたとのこと、それから私のこれからのこと。あなたといると、父の様に感じることがあって、だから何時も甘えちゃっている。やっぱり貴方のおっしゃる通り、歳を取ればそれなりに自立しないとね。それで、これまでのあなたとのことを私の宝物の思い出にしたいの。実は、何時か話した短編小説のこと。あれが同人誌に掲載されたら、思いがけず好評でね。私、同人誌を手伝うことにしました。それでかなり忙しくなって、・・」と続いていた。どうやら鬱病は克服しつつあるらしい。事故の後遺症もかなり回復しているようだ。

要するに、二人の関係を清算したいというのであった。男はそのメールに、薄ぼんやりと誰か他の男の影を感じた。しかしもう、そんなことはどうでも良いと思った。それよりも、時恵にはこれから20年近い豊かな時間があるだろう。だが自分にはこの先一体何年の猶予があるだろうか。どう頑張ったって、時恵と対等に付き合えるのはせいぜい5年か、或はどう虚勢を張っても10年だろう。時恵の後を追うのは、それは未練と言うもので、彼女の未来を縛ることなんて俺にはできやしないだろう。男は、時恵の心身が快方に向かいつつあること、そして新たな生き甲斐を見いだしていることで満足しようと思った。

 「お早うございます。」「行ってらっしゃい。」男の大きな声が響いて、それに続いて「行ってきます。」と子供達の声が唱和する。男が街頭に立っ旗を振るようになってから、もう既に13年になる。この間に、小学校に入学した子供が高校生になる訳だから、それは実に大きな時間の流れである。男の平均寿命は80歳を越えたとされている。しかしそれは必ずしも健康寿命ではない。生きるとは、あくまでも自立して生きる事であって、やはり人の生きられる時間には限りがある。そして、生きている限り何時かは死ななければならない訳だから、生きている内に、悔いの無いように生きることが肝心だ。それで自分の物語を十分に生きられたのなら、何の悔いが残ろうか。所詮人間は、一人で産れ出て一人で死んでゆく。それまでの間を懸命に生きられれば、人生はそれで十分だろう。

砂漠は、男の残りの命に新たな生命を与えたようである。男は次の挑戦に向けて準備を始めていた。それはニュージーランドのクック山の険しい裾野、250kを走るグレイトレースであった。

仏教では、長遠な時間の単位を「劫」という言葉で表す。この遙かなる時間と距離の概念からすれば、人間の一生など瞬時のものでしかない。その瞬きの間に、その人間に何が出来るのかが問われている。男は、時恵との別れの代償に、その時のしるしを悟ったのである。

 


 

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2019年3月 7日 (木)

第十三節 砂嵐

13節 砂嵐

 翌日の第4ステージは、夜を徹して84kを走る最大の難所であった。この日は内陸へ内陸へと向かって進むのだが、内陸に進むほど海からの風は、岩や砂に熱せられて熱くなる。それが、やがて40度を超える熱風となって吹き付けるのだ。東に向かって走り始めて暫くすると、正面から真っ赤な太陽が登ってくる。幾つもの竜巻が巻き上がり、その間を突き進んでいく。熱い。だが汗は瞬時に乾いて、全く感じない。

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 雲一つ無い青空と乾燥した砂の大地だけが、何処までもどこまでも広がっている。その風紋に影がさす砂の山を眺めると、自分がここに存在していることが不思議に思えてくる。いや不思議と言うよりも、自分がその砂粒の一つであるかの様にさえ思ったりする。そこは地平線の彼方までが無機質な砂の山なのだ。高さ300mほどの砂の丘陵がどこまでも、どこまでも波打って続いている。

一人自分だけが、その砂粒の中で生きている訳じゃない。地球が一つの生き物だとすれば、この沙漠だってこの何千年、生きて変化を続けてきたのに違いない。今、自分はその沙漠の腹の中に抱かれているに過ぎない。男はフッと、ここで死んでも良いと思った。

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遙か彼方の砂丘の向こうに、ランナー達の点々とした歩みが、アリンコの歩みの様に小さく見渡せる。青い空と傾きかけた太陽の光。それが大地を鮮やかなオレンジ色に染めている。更にその光は、くっきりと濃い影をつくり、地上のディティール全てを克明に描き出している。何も考えてはいない。その渇いた大地を忽然として進んでいく。大自然のその強烈なコントラストに、体の細胞の一つ一つが空や大地に向かって解放されていく。まさに融けていくような感覚であった。

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 地平線が、どこまでも一直線に続いて空と大地を分かっている。幾つもの丘陵が続いて脈打つ砂の海、その砂の波が刻々と色合いを変えていく。沙漠の地平線から顔を出す黄金色の太陽、それは正に命の輝きでなくて何としようか。沙漠の風景はそれは無機質なはずなのに、その一瞬一瞬がドラマチックに美しく変わっていき、殊に夕暮れ時は地球と言う惑星を意識せざるを得なくなる。この地球が誕生してからこの方の、その気の遠くなるような長い時間を私達に想起させるのだ。そう、何のことは無い。実は私達の体も星のかけらで出来ているのだ。

俺は、今その沙漠に立って、その沙漠に抱かれている。大きな宇宙と一粒の砂は何のかかわりもない筈だが、実は同じ宇宙であって、それは私達の体そのものでもあるってことだろう。

いつしか、夜が迫っていた。日が西に沈みかけると、給水ポイントで夜間用装備のチュックを受け、いよいよ夜(月)の砂漠へと旅立ちである。砂丘の上に一番星が光ったと思っていると、やがて空一杯に隙間なく星が広がって、宇宙全体を明るく照らしていた。何という世界なのか。その宇宙の下に、沙漠の砂粒ほどに小さな自分がいる。いやそれは、広漠たる砂漠が地の果てまで続くその砂の一粒にしがみつくアリンコなのかも知れない。夜の砂漠には風も音もない。ただ自分の足音が聞こえるだけだ。ヘッドライトで行き先を示す100m毎のフラッグを探しながら先を目指す。このフラッグを見失えば、それは信じられない闇の世界だ。生きると言うことは、この道標を辿ることでしかない。

午前二時を回っていた。給水テントの下で、微かなうめき声と共に何かが動いた。見るとそこには、ドリフトウッドの宿で一緒になったジャッキーだった。休んでいたらしいが、「アィム カムバック」と小さく言って寝袋から這い出した。その足を見ると、グルグルと巻いた包帯が真っ赤になっていた。片方の足の裏が全て裸になっちゃつたと言いながら、その足を靴に入れようとしていた。やがて、ジャッキーは足を幾分引きずりながら、闇の中に消えていった。

男達もゆっくりしている訳にはいかない。闇の中に踏み込みながら、ジュリアと四人で歌を歌うことにした。日本人の三人は月の沙漠を、そしてジュリアはイエスタディーを歌った。暫く進むと、突然闇の中から先に行ったはずのジャッキーが現れた。「フラッグがない。道を間違えてる。」男達は、揃って今来た道を引き返すことにした。それにしても、若いジャッキーは気丈である。

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第十二節 ジュリア

12節 ジュリア

 第三ステージのこの日は42k、その前半は大西洋岸を北に向かって進むのである。海岸沿いの湿った重い砂は、男達の足を一層重くし、歩幅を狭めていく。走るどころか歩くのも大変である。それに幾ら歩けど距離は思うほど伸びないのである。

 そんな重い砂に苦しんでいると、その傍らに同じような一人の女がいた。背の高い一見地味な女であった。男がどこから来たのかと尋ねると、イングランドのジュリアと名乗った。ついでにどんな仕事をしているかと聞くと「ルアー」と答えが返ってきた。よくよく聞きただすと、ケンブリッジ大学の法科を卒業して、弁護士をしているらしい。男は、彼女が何故こんな過酷なレースに挑戦したのか知りたかった。すると彼女は「頭が、可笑しいのかもね」と自分の頭を突いて見せた。

 スケルトン・コースト(骸骨海岸)と呼ばれるその海岸にはアザラシが幾つも群れを作っていて、何体かの死骸も転がっていた。その傍らをジュリアと並んで進んでいくと、何十年前なのかこの海岸で沈んだ舟の残骸が現れた。するとジュリアはそこでパタリと停まり、腰に巻き付けていたスカーフを広げて、写真を撮てくれと言う。良く見るとそのスカーフには、祖父がこの地で難波して沈んだことが記され、その隣に若かりし祖父の写真が印刷されていた。何とジュリアは、80年も前に亡くなった祖父の難破の地を訪ねるために、このレースに参加していたのである。写真を撮りおわると、ジュニアはニコッと笑って「これで、もう気が済んだわ。」と言った。

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 かつての大航海時代、この沖で難破した舟が度々この地に流れ着いた。しかし、その船員達はついにこの砂漠を脱出できずに、全て骸骨になったとされる。体を鍛えて臨んだ砂漠レースは、ジュリアにとって先祖の足跡を訪ねる大切な旅だったのである。

 やがてコースは、東に向きを変え内陸方向に向かう。男はジュリアと離れて一人だった。男の周りはぐるり360度、飛ぶ鳥どころか草木とて何も無い真っ平らな砂漠が続いていた。男が1時間進めば、地平線がその分前に進む。気が狂うほどの同じ景色で、どこかに地平の終わりがあるとしたら、それは人生の終わりの日ではないかと思った。人は誰でも、眠りから覚めれば朝が来ると思って生きている。この砂漠だって、きっとどこかに果てがあるに違いない。

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 この日は、もう日が沈んで薄暗くなりかけた頃、テントに辿り着いた。強い風が吹き付けていた。

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2019年3月 6日 (水)

第十一節 8人の日本人

11節 8人の日本人

 翌日、夜はまだ続いていたが、外では焚き火がたかれ、その日を囲んでの談笑が始まっていた。国は違ってもそれぞれがランナーだから、話題に事欠くことは無い。だが、日本人は総じて英語が下手だ。韓国のランナー達は闊達に会話の輪の中にいるが、日本人は彼らの英語のスピードについて行けないのである。

 この第二ステージの40kは、干上がった塩の原、ゴツゴツと尖った石の平原、やがて柔らかな砂の山をうちえ北に向かって進んでいく。砂漠に幾分慣れたのか、この日はまだ明るい内にゴールとなった。

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 この日、夕食のテーブルを囲んだのは8人の日本人だった。話題は何故このレースに参加したかだったが、やがて人生論へと広がっていった。何もない砂漠の地平線がそうし向けたかのようである。

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 その輪の中に、プロランナーの若月がいた。彼は幾つもの過酷なレースを走っているにも関わらず未だに優勝がなく、前年のサハラレースでも三位に終わっている。この二日間もヨーロッパ勢の二人に先行され、やはり三位に甘んじていた。彼は、サラリーマンを止めて以来支援者を募り、その支援でレースを渡り歩いていた。その若月が、「彼らが、早すぎるんだ。」と語り始めていた。「僕は、このナビブに来ると、走っていてあのキソウテンガイを見つけると、とっても愛おしく思うんですよ。砂漠に深く根を下ろして、千年も生きるって言われる植物ですよ。花も咲かずに砂にへばり着いて、それでも辛抱強く生きている。私の場合、プロと言ったって、オリンピックの選手のように注目される訳じゃ無い。それで大学の同窓会に出たりすると、お前大丈夫かって言われたりする。彼らからすりゃ、俺なんてドロップアウトしたと思われているんだ。そりゃあ、将来に不安はあるけど、人生って、やりたいことをやって生きるのが肝心だと思っているんです。」若月は、結果を出してこそ評価されるプロの厳しい世界を生きているのだ。

 男は、自分の歩いてきたサラリーマン時代を振り返っていた。確かに、生活はそれなりに安定していた。だがあの四十年近くの自分は、組織のために働いていたし、それは退職した今となっては無縁のものでしかなくなっている。自分が何を残したのかと考えても、それが人並みだとしても何故か虚しくも思えるのだった。七十を過ぎてやり残したことを追い求めている自分と比べれば、若月には遙かに勇気があると言える。とどのつまり、人生は何を為し得たかで決まるのである。

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 その傍らにいた孫が「僕は、自分にしか出来ない生き方をしてみたいと思っている」と口を出した。「今回も日本と韓国のバッチを付けているし、自分の置かれた境遇を生かしながら、思いっきり自分を生きたいんだ。だからこのレースにも挑戦したし、人生って、結局何をやって何をやらなかったかが、その人の人生なんじゃないかって思うんだ。」孫は、六本木で働く仲間三人でチームを組んでこのレースに参加していた。

 もう一人が、日本人の中では28歳と最も若い田口だった。田口は、既に足の指を紫色に腫らしていたが、その痛みを表に出さずに走り続けていた。

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2019年3月 5日 (火)

第十節 砂漠のただ中へ

10節 砂漠のただ中へ

 午前3時、テントの外では現地人スタッフが、湯を沸かし始めていた。その物音で目を覚まし、懐中電灯の光で身支度を調えた。とは言っても、衣服はランシャツ一枚だから、レース中はこの同じシャツを着たままで過ごすのである。まだ夜が続いていたがテントから出ると、幾つもの焚き火が燃やされている。辺りは濃い霧に包まれ、肌寒い。この海からの朝霧が、砂漠の僅かな緑を支えているらしい。

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 朝食を済ませスタートの合図を待っていると、原住民のヒンバ族の男女が現れ、全裸で踊り始めた。全身に褐色の土を塗っているとは言え、毛布一枚を羽織っているだけである。一人の女は、乳飲み子を背中に負っていた。彼らは未開の昔と変わらない生活を続けているらしく、公用語の英語も通じない。毎日を時間に追われて暮らす現代人とは異質な生き方だが、果たして彼らにとっての時間とは生きることそのものなのかも知れない。或いは、彼らは明日ではなく「いま」を生きているのだと、男はそう感じていた。

 ともあれ、第一ステージの43kが始まったのである。

 砂漠をどう走るかはかねてからの課題だったが、背中の荷物は流石に重たいが、砂に足を取られることも無く順調に進んでいく。やがて1時間ほど進むと、大きなドクロマークが二つ並んで行く手を遮るようなゲートが現れた。ナビブ砂漠国立公園の入り口であった。砂漠はこのスワッコップムントからアンゴラ国境まで千キロほど続いているのである。遠くに幾つかの青っぽい或いは赤い丘が見える他は、どこまでも荒涼・広漠と地平線が果てまで連なっている。その地平線近くには泉があるかのような蜃気楼がゆらゆらと光っていた。時に真っ白な地面が現れて、それは塩湖が干上がって出来た塩の原なのであった。その何処までも続く砂漠の原に、蟻のように点々とランナーが続いている。男は、コースを見失うまいと、それには一人にならないことだと言い聞かせていた。苦しくても仲間についていくんだと。

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 永遠に続くかと思われた緊張の一日が、案外あっけなく終わった。ゴールゲートをくぐり抜けると、真っ先に韓国のDong君が駆け寄ってきて、「よく頑張りましたねぇ」と手を差し出した。どうもこの若い男は、義理堅いだけでなく好感の持てる人物のようである。

 この日のレースが終わり、夕食を済ませると、さっきまで湯を沸かしていた現地の黒人達が歌い始めた。女性達の歌声に男達の声が追い重なるように続いて、その懐かしいジャズ風の民謡が、黄昏の砂漠に広がって消えていく。砂漠の一日が終わったのである。

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2019年3月 4日 (月)

第九節 チェックイン

第九節 チェックイン

翌朝8時、選手達が講堂に集まって、大会を前にしたブリーフィングが始まった。説明の多くがメディカルスタッフの紹介、そして生命維持のための注意事項だ。水は常に2リットルを背負うこと、過去に二名の死者を出しているのは、コースを見失って水が無くなったからだ。毎朝、靴を履く際には中にサソリが入っていないかを、必ず確認することなどと続いた。

ひとしきりの説明が終わって、最年少参加者の紹介があった。韓国の兵役を終えたばかりだというDond君22歳であった。続いて、「今回の最年長挑戦者は70歳・・・」と一呼吸置いて男の名前が告げられ、男が立ち上がると一斉に拍手が沸き起こった。すると次の瞬間、フッと目の前にスマートフォンか差し出され、見るとそこには日本文字で「尊敬」と表示されていた。隣に座っていた韓国の男であった。

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参加者の多くが30から40歳代だから、流石にここでは70歳は価値ある年齢なのである。そもそも人は、長寿そのものに価値があるのではなく、何をするかにこそ価値を見いだし得るものではないか。ブリーフィングが終わると、最年少のDong君が親しげに握手を求めてきた。母親が日本語教師をしているらしいが、流石に儒教の国の男である。

メディカルチェック、装備品チェック、カロリーチェックが済むと、レースのパスポートとゼッケンが渡された。午後にはその重さ13kのバックパックを背負ってバスに乗り、砂漠の道をスタート地点まで200k近く北上するのである。

やがて荒涼とした砂漠の一角にテント村が現れ、そのうちの一つのテントに7人が割り振られた。スイスのロバート、イタリアの本屋マルコ、ホテルのプールでビキニ姿だったカナダ人二人、それに高田と澄江だった。

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テントは、猛烈な風と砂塵が吹き付けてバタバタと揺れ動き、中には厚く砂が積もっていた。それは野戦陣地もかくやと思わせる光景で、もはや笑って観念する他無いと覚悟を決めた。それでも夕方が近づくに従って風が収まり、テントの外に置かれた丸太を打ち付けただけのテーブルで、防災用食に湯を注いで腹を満たした。ナビブの黒人達が、ドラム缶で火を焚き湯を沸かしてくれるのであった。

いよいよ、レースが始まろうとしていた。

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2019年3月 3日 (日)

オアシス2

ナビブ砂漠は世界最古の砂漠とされ、アプリコット色の砂丘群が5万㎢にも渡って延々と連なっている。その砂漠には、世界最大の水晶岩やウラン、更にはダイヤモンドなど、まだまだ未開発の地下資源が眠っているらしい。 

夕方になって宿に帰ると「今夜、荷物を届ける。」と空港から電話があったとキュートな黒人娘が言う。「やった。」男は思わず娘をハグして歓声を上げた。その旅行鞄には、レースに必要な全ての装備品が詰まっているのである。

だが歓びは束の間、やがて届いた荷物は澄江のバックだけで、男の荷物は不明だと言う。明朝にはこのコテージを出て、大会の準備したオアシスのホテルに移らなければならない。それに、このウォルビスベイ空港への便は、一日に1便だけだ。明日届かなければ、装備品チェックに対応できないことになる。

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翌日、世話になったコテージを出て、オアシスの中央に位置するスワコップムントホテルに移った。ホテルはドイツ占領時代からの歴史ある施設らしく、19世紀末にこの地で起こった様々な出来事を彷彿とさせるような気がした。その豪奢なホテルには、世界各地からの競技者が次々と到着し、こもごもに挨拶を交わしている。中庭のプールサイドでは、強い太陽光線の下でカナダ人女性二人がビキニ姿で日光浴をしている。白人は、常に太陽を求めるものらしい。

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その晩、フロントから「荷物が届いた」と連絡があった。この地に着いてから真ん丸三日、遂に必要な資材が整ったのである。

 

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2019年3月 2日 (土)

オアシス

第八節 オアシス

砂漠のただ中を走ること2時間、やがて車は大西洋岸に面したコテージ風の宿「ドリフト・ウッド」の前で止まった。静かな波の音が響く、材木の木目が小粋な宿であった。長旅の疲れが重なっていたから、少しホッとして中に入ると、小柄でキュートな黒人娘がカウンターの向こうで出迎えていた。チェックインもそこそこに「荷物が、無いんだ」と言うと、娘は手慣れた様子で空港に電話し、「ここに泊まっている」などと連絡を取ってくれた。

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その夜、男は三日ぶりにベットに体を横たえた。だが、随分と疲れているはずなのに、眠るどころか何時までも興奮が続いていた。多少のリスクは承知で敢えて挑んだ筈だが、そもそも70歳の自分には無茶だったんじゃないかと言うことである。もう、後戻りは出来ない。男はコテージの天井を睨み付けながら、覚悟を決めていた。翌朝食堂に降りていくと、顔立ちのくっきりとした娘が微笑みかけてきた。25歳くらいの屈託のない娘で、オーストラリア人のジャッキーと名乗った。袖に縫い付けたバッヂを見て、今回のレースの仲間だと分かったようだ。

オアシスの朝は、昨日の熱波とは打って変わって爽やかで、男は元気を幾分甦らせていた。男は、澄江と高岡と連れだって海岸に沿って走り、スワップムントの街まで20k近くを往復することにした。海岸には遊歩道が続いていて、スプリンクラーの水の下には多肉植物や小さな花々が咲き乱れている。その帯のように続く花のアプローチの先に、ドイツ植民地時代に造られたオアシスの街があるのだ。街に近づくとフェニックスの並木が現れ、その先に緑やレンガ色の建物が林立している。そして街の向こうには、赤茶けた砂漠が何処までも広がっているのである。その海と砂漠、地中海の何処かのようなオアシスの街の景色が、何時しか男の体と心を和ませいた。

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「荷物さえ届けば、走れる。」男はそう思い始めていた。

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2019年3月 1日 (金)

第7節 スワコップムント

 レースまでの二か月は、気の急くまま瞬く間に過ぎ去った。そして四月中旬、いよいよレースの拠点となるナビブ共和国のスワコップムントに向かう日になった。その日、時枝に電話をしたが繋がらず、「君の代わりに、砂漠を走ってくる。」とメールをした。だが、そのメールにも何故か返信はなかった。

 成田に着いて南アフリカ航空のカウンター近くにいくと、澄江が男を見つけてホッとしたような眼差しで、大きく手を振っていた。近寄ってハグしようとすると「大変なのよ。飛行機が遅れてる。」とそれを押しのけるように困惑顔で言った。

 ナビブ共和国には、香港で乗り継いで、南アフリカのヨハネスブルクを経由して入ることになっている。だが、電光掲示板を見ると、搭乗予定のSA1437便は1時間50分遅れと表示されていた。香港でヨハネスブルクに向かう航空機に50分で乗り換える(トランジット)のは既に困難になっていた。予定は最初から狂ってしまっていたのだ。カウンターで相談すると、直ぐにシンガポール便に乗って、そこでヨハネス行きに乗り継げば何とかなるという。早く早くと急かされるままに、二人は駆け足で機上の人となった。その飛行機は、午前2時シンガポール空港に着いた。そこでの乗り継ぎは30分しかなく心配していたが、飛行機を降りるとそこにはカートが待っていて、二人を乗せると深夜のシンガポール空港ロビーを猛スピードで移動し、ヨハネスブルク便に何とか間に合った。

 シンガポールからヨハネスブルクまでは10時間余だが、男はこの先のウォルビスベイへの乗り継ぎの心配をしていた。うつらうつらしながら、相棒が澄江ではなく時枝だったらと夢想していた。語学に堪能な時枝なら、どんなにか心強いだろうし「とうとう砂漠に行けるんだもの、こんなの何てことないわよ。」などと強気の言葉が聞けたのではないかと。

やがて飛行機は、夜が白み始めたばかりのヨハネスブルク空港に着陸した。男にとって、初めてのアフリカ大陸である。香港で合流する予定だった高田が現れて「やぁ、香港で乗ってこないんで、ホント心配していましたよ。あぁ、良かった。」と、舞浜で顔を合わせて以来の再会である。三人は、マンデラの彫像の隣でコーヒーを飲みながら、アフリカ大陸の南端に来ている事を、信じられない思いで実感し始めていた。

 6時間後、ナムビアのウォルビスベイ空港に向かう小型機が飛び立った。BLICSの一角とされて、目覚ましい経済発展を続けていたこの国の経済もこのところ頓挫しているようだ。しかし、南アフリカの大地は平坦で穏やかに広がっていた。だが飛行機が北に行くに従って次第に緑が薄くなっていく。やがて赤茶けた裸の地面が広がるようになると、そこは既にナムビアだ。その面積は日本の2.2倍だが、実はその大部分が砂漠である。男達は、かつて幾つもの骸骨が散乱していたという、その砂漠を走るのである。

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やがて飛行機は、砂漠のただ中にポツンある小さな小屋の傍らに、大きくゆられながら着陸した。小さな小屋で入国審査を済ませて荷物の出てくるのを待った。乗客は次々と荷物をピックアップして立ち去っていくのだが、とうとう澄江と男だけが残された。預けたはずの荷物が、何時まで待っても出てこないのである。その旅行鞄には、レース参加に必要な装備品が入っていて、その装備が無いとスタート地点にすら立てないのである。二人は空港の片隅で、拙い英語を総動員して係員に説明する。そう言えばシンガポールであんなに急いだんだから、荷物がついてこなかったのも当然かもしれないなどと想像していた。ともあれ1時間あまり、宿泊先の住所を記載したりして、待たせていた車に乗り込んだ。

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車が砂漠の真ん中を切り裂く様に走り始めると、そこには幾筋もの小さな竜巻が巻き上がり、強い熱風が砂粒と共に吹きつけていた。それに乾いた強烈なオゾンの臭いに満ちていた。男は「これが砂漠なのか・・」と茫然として怖じけていた。既に40時間以上横になっていなかったし、緊張と疲れのなかで微かな死の恐怖を感じていた。男はドン・キホーテの姿を思い浮かべた。ロバにまたがり、鎧甲冑に鑓を担いで、あの風車に突進する老いぼれた騎士である。あの砂の山を幾つも越えていく。強い風と砂の嵐、夜中も道なき道を進まなきゃならない。道を誤れば、間違いなく死に直結するだろう。俺は、あのドン・キホーテなのかと。

 

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